ショー・ウインドウに映るのは、情けない表情をした小娘と後ろを通り過ぎる人の波。
 そっと目を逸らし、ふっと息を吐いた。
 ガラス窓の奥にかかった時計が示す時刻は四時半。
 もうそろそろ、帰らなくてはいけない。
 だが……。
(帰りたくないよ〜〜!!)
 わたしは心の中で絶叫した。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 エリックと気まずくなって五日が経つ。
 喧嘩ではない。一方的に、わたしが彼を避けているのだ。
 あの日、エリックが本気で歌うのを聞いて、わたしはこれまでにないほど下腹部がうずくのを感じた。
 以前からそういうことは何度かあるにはあった。
 彼の声は深く響いて耳朶をくすぐる甘やかなもので、もともと声フェチの気があったわたしは初めて会った日のうちにノックアウトされてしまったほどだ。
 だけどそれと恋愛感情とは違う。
 わたしはエリックが好きだけど、恋しているかどうかは自信がない。
 だというのに、エリックの本気の歌に、わたしは彼と全てを分かち合いたいという思いが本能の如くわきあがったのだ。
 この感情は発作のようなものだと叫ぶなけなしの理性が、彼の前に身を投げ出すのをぎりぎりのところで防いだ。
 そのかわり、歌い終わった彼に、一言も感想も言わず、碌な弁明もせず、逃げるように走り去るという最悪の行動を取らせたが。
 さらには部屋に閂をかけるということまでやってしまった。
 わたしにあてがわれた部屋には閂がついていたのだが、わたしはそれを今まで使ったことがなかった。
 エリックは何度か閂をかけるよう注意をしてきたのだけど、二十一世紀にいた時の自室には鍵はなかったし、泥棒や訪問販売の恐れもないあの地下の屋敷ではなかなか使う気になれなかったのだ。
 とはいえ、彼の考えていたであろう『危険』は、わたしにだってわからないわけじゃない。
 だけど、一体全体、自分より半分以下の年の小娘、それも美人でも特別スタイルがいいわけでもないわたしに、エリックがその気になるわけもないだろう。閂をかけるなんて、自意識過剰にもほどがある、そう思ってた。
 そしてそれは、彼に対する信頼の証でもあったのだ。
 エリックもそのことを知っていただけに、わたしの行動は彼をひどく傷つけただろう。翌朝、顔を合わせたときにも彼はひどく悲しげな顔をしていた。
 わたしは彼を意識してしまって、いつもの朝のキスをすることもできなかった。そしてエリックの方からキスすることもなかった。
 わたしは前日の非礼を詫びたのだけど、どうしてもその理由を言うことができなかった。
『あなたの歌に興奮してしまった』だなんて、恥ずかしすぎる。


 そして気まずい日々が始まったのだ。
 あれほど気安く話していたのが嘘のよう。
 エリックと同じ部屋にいると緊張した空気が流れる。
 その緊張ぶりときたら、わたしたちが一緒に暮らし始めた頃よりもひどいのだ。
 仲直りをしようにも、問題は『わたしがエリックを意識してしまう』ということなので、解決のしようがない。
 時間が経てばどうにかなるのだろうか……?
 いいや、それよりもわたしに嫌気をさしたエリックが、わたしを追い出す方が早いかもしれない。
 わたしは時計に目をやって、またため息をついた。
 これから家に戻ったら、気まずい夕食とその後の時間が待っているのだ。その時間は拷問のように過ぎるのが遅い。
 本当に。
 本当に。
 帰らずに済んだら、どれだけ気が楽だろうか。
 しかし、あの地下の家に戻る以外、わたしには戻る場所などないのだ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 ショー・ウインドウに映る人影が動きを止めた。何だか見覚えがあるような気がすると思っていたら、その人は当然のように近づいてくる。
「ごきげんよう、マドモアゼル」
 その人はひょいと帽子を取って挨拶をしてきた。
 褐色の肌に縁なし帽子のその人は、わたしのことを知っている数少ない人――。
「カーンさん」
 そして、エリックの過去を知っていて、彼のことを見張っている人だった。
「お久しぶりです、カーンさん」
「あまり元気がないようですね。エリックと何かありましたか?」
 笑顔で挨拶を返したつもりだったけど、誤魔化しきれなかったようだ。
 わたしは「ちょっと……」と濁らせると、彼は眉を寄せて隣に並んできた。そしてわたしにショー・ウインドウの方を見るよう合図する。
 これなら道行く人々には陳列している商品を眺めているように見えるだろう。だがわたしはカーンさんが人には聞かれたくないことを話そうとしているのだとわかった。エリックのことは、あまり大っぴらに話したくないのだろう。
「私的なことを詮索するつもりはありませんが、もし何かエリック絡みで困っていらっしゃることがあるのでしたら……。話してください。彼が色々な意味で人並みではないことを私はよく知っているのですから、力になります」
 至って真面目な顔つきでカーンさんは言った。
「いえ、そんな、お話しするほどのことでは……」
さん」
 わたしが遠まわしに拒絶すると、カーンさんは声を低くした。
 ガラスに反射する彼の眼差しはわたしに注がれ、揺らがない。
「彼が幸せになることは、私にとっても喜ばしいことなのですよ。彼は本当に、人間関係には苦労していましたから。あなたがエリックとご自身の意思で同居していることも、今では疑っていません。ですが彼はまだ世間に、特にオペラ座に対して牙を剥くことをやめていない。オペラ座は未だにエリックの搾取に遭っています。私の気付いていないことだって起きているかもしれない。さん、いいですか。彼を想うのなら彼の犯罪行為に目をつぶるのはいけないことです。わかりますか?」
「待ってください。確かにわたしたち、今ちょっとうまくいっていないですけど、エリックが悪いんじゃないんですよ! 何でもかんでもエリックが悪いみたいに言わないでください」
 カーンさんの言い様にいささか腹が立ったので声を荒げると、彼は驚いたように目を見開いた。
「そう……なんですか?」
「ええ。エリックは悪くありません」
 断言すると、カーンさんは困惑したように頭に手をやった。
「では、何が……?」
「……」
 改めて聞かれたものの、答えられるわけでなし。
 わたしが黙り込むと、カーンさんも黙った。
 気まずい沈黙が流れる。
 どうしてあっちこっちでこうなるのだろう。わたしは頭を抱えたい思いでいっぱいになった。


 しばらくして、カーンさんはわざとらしく咳払いをした。
 目だけ動かして、ガラスに映る隣人の様子を探る。
さん、一度確かめたいと思っていたことがあるのですが、窺ってもよろしいでしょうか」
 カーンさんはひどく言い辛そうだった。
 わたしは軽く首を傾げ、
「わたしに答えられることでしたら」
 とだけ答える。
 よほど聞き辛い事なのか、カーンさんはそれからまた間を置いてから訊ねてきた。
「私がエリックを見張っているのはご存知ですね? そしてその理由も。彼がオペラ座に住み着いたことに関しては……もう今更ですからうるさく言う気はありません。支配人たちを脅迫していることに関しては、できれば早くやめてもらいたい。彼はちゃんとした仕事だってできるはずなんです。だが多くの人間と接しなければならない苦痛から、易きに流れているんでしょう。だが、それもまだいいんです」
 カーンさんはきっと眦を決してわたしの方に向き直った。
「と、おっしゃいますと?」
 彼にとって何かとても大切な事を言おうとしているのだと感じて、わたしも身体の向きを変えた。
「もしも、エリックがまた大いなる罪を犯そうとしていたら……。きっとあなたは気付くでしょう? その時には、彼を止めてください。お願いします」
 カーンさんは頭を下げる。
「大いなる罪といいますと……」
「……殺人です」
 口だけ動かしているように見えるほど小さな声でカーンさんは答えた。
 それで、きっとこの人は、エリックが人を殺したところを見たことがあるのだろうとぼんやりと考えた。そして心の底から、そんなことをしてほしくないと願っている事も。
「エリックはわたしには、彼なりにわたしにとって害にならないと判断したことしか話してくれないんです。だから、実際に気付けるかどうかはわかりませんけど、頑張ってみます。わたしだって、エリックに罪を犯してほしくはないんですもの」
 自分にできる精一杯の約束をすると、カーンさんは明らかに安心したようだった。
「いや、それで充分です。エリックも、あなたがいればあえて罪を重ねる真似はしないでしょうから。あなたが彼と暮らすようになってからは、そのようなことはないのでしょう?」
 わたしはちょっと考えて、
「そうだと思います。侵入者対策の罠があるのはカーンさんもご存知でしょうけど、まだ使われたことはないと言っていましたから」
 言うと、カーンさんは変な顔になった。
「侵入者用の罠なら、私がひっかかったことがありましたが……。例の湖に仕掛けているやつでしょう?」
「いいえ、スクリブ通り側ではなくて、劇場側からの侵入者用です。居間の奥に扉があって、その中にあるんです」
 カーンさんは天を仰いで叫んだ。
「まだ他にもあったんですか!?」
 と、自分の口を手で押さえ、あたりを見回した。
 そして声を潜めてくる。
「どんな罠です?」
「え? えーと……」
 エリックに断りもなく答えてもいいものかと思ったけど、いくらカーンさんでもわざわざ罠に引っかかりに来る事はないだろうと思って、正直に答えることにした。
「鏡張りの六角形の部屋なんです。鏡と鏡が合わさっているところに鉄でできた木があったり石があったりで……」
「拷問部屋ですか!?」
 言い終わる前にカーンさんはわたしの肩を掴んできた。
「……ご存知なんですか?」
 訊ねると喉の奥で呻き、
「あれがあるんですって!? なんてことだ! ああ、さん。あれは彼の悪魔的な発明の中でも最たるものですよ!」
 そして腕組みをしてうろうろと歩き回った。
さん、あれは使われたことはないのですね? そうなのですね?」
 それだけが救いだと言うように、カーンさんはわたしに詰め寄ってくる。
「いえ、しょっちゅう使っていますけど……」
「なんですって!? だってさっきあなたは使っていないと……!」
「あ、ええ、侵入者には使われたことはないんです」
「では何に!?」
「洗濯物を乾かすのに、です」
 カーンさんはぽかんと口を開ける。
「洗濯物?」
「ええ、あの家は水には不自由しないんですけど、お日様にはとても不自由していますから。あの部屋で強制的に乾かさないと、洗濯物が変な臭いになって駄目なんです」
 カーンさんは呆然としたかと思うと、肩を震わせ、うつろな目で乾いた笑いを浮かべる。
「洗濯物……。洗濯物ですか……」
「はい。……あの、大丈夫ですか?」
 心配になって尋ねると、カーンさんは片手をあげて頭を振った。
「ええ、大丈夫です。いやはや、あれが乾燥室代わりですか。できるなら、今後もそのためだけに使われることを願っておりますよ」
 カーンさんの口ぶりから、『拷問部屋』は一人ならず犠牲者が出ていたのだということを察する。エリックもそれらしいことは言っていたけれど、本人以外の口から聞かされるのはまた別の衝撃だ。
 そして、思う――。
 わたしが知っているエリックは、ほんの少しでしかないのだと。
 彼はわたしよりずっと年上なのだから知識も経験もわたしよりずっと豊富で、だけどそれだけではなく、彼は数多くの才能を持ち、そして……、辛い記憶もたくさん抱えている。
 もしも、わたしがエリックとの関係を元に戻したいのなら、今のままでは駄目なのだと思った。
 表面的な付き合いでは、今回の件が解決してもまた似たようなことが起こることを防げない。歩み寄りをしなければ、遠くないうちにわたしたちの関係は破綻してしまうだろう。わたしが居た堪れずに出て行くか、彼が出て行けというか、どちらかの形で。
 だけど、どう聞けばいいというのだ?
 彼の記憶はどれも辛い思い出と結びついていそうで、聞くのに抵抗がある。
 それに、彼も聞いてほしくなさそうな素振りをするし。
 そんなあの人に近づくには、どうすればいい?
「カーンさん」
 エリックに聞かずにすむ手段はこれしかない。
「エリックのことでお伺いしたいことがあるのですけど、エリックには言わないでもらえますか?」
 カーンさんは表情を変えずに二、三度瞬いてあなたがそう望むのでしたら、と答えてくれた。
 思わず安堵の息がもれる。
「どんなことです?」
 カーンさんは興味深げに聞いてきた。
 えーと、何から聞こうか。最初は……。
「エリックはどこの生まれなんですか?」
 基本的プロフィールの確認。わたしは彼の誕生日だって知らないのだ。
「生まれは……確かルアンの近くです。詳しい場所は忘れましたが」
「じゃあ、誕生日は?」
「それは知りません。あなたもご存知ではなかったんですね」
 わたしは頷く。
「ええ。それじゃあ、家族構成はどうなってますか? 身内やご親戚で連絡が付きそうな方っているのかしら?」
 エリックの家族のことも聞いたことはない。
 ご両親はさすがにお亡くなりになっているとしても、兄弟や親戚がいるかもしれないではないか。エリックのことで話が聞けたらいいなと思ったのだ。住所がわかれば手紙が書けるのだし。
「私の知る限りでは身内は一人もいないはずです。しかし、さん……」
 カーンさんは困ったような表情になる。
「そういったことはエリックに直接聞いたほうがいいと思いますよ」
 そして身体の前で手を組んで、優しく諭した。
「わかってます。でも、聞きにくくて。過去を詮索するなんて、わたしにはまだ許されていないことだと思うんですもの」
「そんなことは……。彼はあなたになら理解されたいと思っているでしょうよ」
「手間のかかる居候相手に、そんなことを思うなんて思えません」
 きっぱりと断言すると、カーンさんは驚いたように目を見開いた。
「しかし、あなたはエリックの恋人ではないのですか?」
「違いますよ。……まあ、ベルナールさんはそうだと思っているようですけど」
「本当に?」
 頷くと、カーンさんは額に手をあて、天を仰いだ。
 そしてあまりお上品ではない言葉を幾つか口にすると、同情するようにわたしを見る。
「エリックはカーンさんに、その……わたしがエリックの恋人だと……?」
「いえ、そうは言ってません。だけど私が誤解したところで責められないと思いますよ。エリックがあなたのことを話すのを一度聞いて御覧なさい。ただの惚気にしか聞こえないんですから」
 そうまで言われたら、気になるではないか。
 とはいえ、エリックは鋭いからこっそり様子を窺うのは難しそうだ。
 しかし、一体何を話してるんだろう、エリック……。
 ふと、カーンさんは真面目な顔になっていた。
「カーンさん?」
さん、もしかして元気がないのは、そのせいで……?」
「え?」
「彼に無理強いを……?」
 この場合、言わなかった目的語は『望まない夜の相手』とかだろうなーということに思い当たらないほどわたしは鈍感ではない。
「いえ、そんなことは……。エリックは紳士ですよ」
 カーンさんは悲しげな顔になる。
「ええ、彼は女性と子供にはとても寛大なんです。それでも……彼も男なのですよ。わかりますか?」
「……」
「彼はあなたが好きなのですよ。今はそうでも、我慢が限界に来ることだってあるわけです」
「カーンさんがそう思っているだけではないのですか? エリックはそんなこと、一言だって言ってくれませんよ」
 わたしはカーンさんから顔をそらした。
 きっとわたしの顔は、泣きそうになっているに違いない。
 こんなことを聞いてしまっては、期待してしまうではないか。
 だけどそれを確認して、間違いだとわかってしまうことが怖い。
 もしもエリックがわたしを本当に好きなのなら、このもやもやした気持ちにも決着がつけるのに……。
(あ……そうか)
 そう、つまりはそういうことなのだ。
 わたしはエリックが好きで、恋したいのだ。
 だけど彼の気持ちがわからないので、言い訳をして見ない振りをしていた。
 自分の気持ちを自覚して、だけど相手が少しもこちらを見てくれないのなら、それはただ辛いだけ。わたしは、そこから目を背けていたのだ。
 いままでがとても居心地が良かったから。
「このままじゃ、駄目なのね」
 わたしはもう一度自分に言い聞かせる。
 終わりにしないためには、彼と向き合う勇気を持たなければ。
 そうするのは難しい。
 彼を怒らせてしまうかもしれない。
 それとも居候の分際で、何を勘違いしているのかと言われてしまうかもしれない。
 怖い。
 だけど、何もしなければ行き着く先はBAD END。
 それがいやなら――行動するしかない。


 カーンさんと別れる時には、すでに時計が五時半を過ぎていた。
 今朝までの状況なら、遅くなったところで小言は言われないだろう。それでもあの人が心配していないわけではないのだ。
 暗い階段を下り、小船を操って湖を渡る。
 玄関を開けると、入ってすぐの居間にあの人がいるのが見えた。
 ソファーに座ってお酒を飲んでいるようだ。
「ただいま、エリック」
 わたしは努めて明るい声を出す。
 彼は「ああ……」とかいいながら、浮かない表情で答えた。
 それで一瞬気が重くなったのだけど、心の中で自分を叱咤して、エリックのそばまで歩いていった。
 エリックの隣に腰を下ろし、ひたと彼を見据える。
 わたしの行動にエリックは面食らっているようだ。
……? どうかしたのか?」
 おずおずと尋ねてくるエリックの腕に手をかける。
 彼の身体がびくりと強張るのが分かった。


 わたしはすうっと息を吸って高ぶる気持ちを抑えようとした。
 もう後には引けない。
 さあ、行動開始よ、覚悟はいいわね!?






やっぱ、オペラ座はヒロインの方が攻だなぁ…。





前へ   目次  次へ