何気ない振りを装いつつ、いつものように私は先生の隠し郵便箱に向かいました。先生からの指示が届いていないか確認するためです。
 いつものことですが、これは朝夕の二回行うことで、今は本日二度目の確認です。


 頑丈な金属で出来ている箱を開けましたが、中には何も入っていませんでした。
 これで今日の仕事は終わった……とほっと息を吐いたとき、私は背後に人の気配を感じました。
 ここから先は、先生とお嬢さまがお住まいになっているオペラ座の地下にしか通じていません。それに、途中には鍵のかかっている鉄格子があります。ですから、無関係の者に入れるようなところではないのです。
 それで私は先生が私に何か直接指示したい用事があって、待ち伏せしていたのだと咄嗟に思いました。
 こういったことは頻繁ではないにしろ、何度かあったことなのです。


 私が振り返ると、予想通り、暗がりにいる人影がそっとあたりの様子を窺っていました。
 その人影はしゃがみこんでいたようで、郵便箱の前にいたのが私だと確認すると、衣擦れの音を立てて立ち上がりました。
「こんにちは、ベルナールさん」
「……これは、お嬢さま」
 私を待ち伏せていたのは、先生ではなく、お嬢さまでした。
 お嬢さまは顔だけ外に出すと、こちらにくるように手招きをします。
 ここだけの話ですが、この方の行動は先生によく似てきたと思います。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「何かご用事が?」
 私は単刀直入に訊ねました。
 今までにもお嬢さまの用事を務めたことはありますが、それらは先生の指示という形をとっておりましたので、お嬢さま直々に御用を承るのは初めてのことです。
「ええ、そうなんです。これを……」
 彼女はいたずらを企んでいるような子供のように笑うと、私の手に本を押し付けてきました。
「観光ガイドブック?」
 それはパリの観光ガイドブックでした。
 片手ほどの大きさでガイドブックとしては小型のものですが、通りの名前が全て描いてあるような詳しいものでした。地図の他にもおすすめの店や劇場案内なども書かれています。
 万博ガイドも一緒に載っていましたから、先生が持っていたものを借りてきたのではなく、お嬢さまが最近お買い求めになったに違いありません。
「どこかへお出かけですか?」
 御者としての私にお呼びがかかったのでしょうか。
 しかしお嬢さまは首を振って、
「ベルナールさんはエリックの代わりに買い物にいってらっしゃるんでしょう? どこのお店で何を買っているのか、これに書き込んでほしいんです。あ、一度しか行っていないようなお店は省いて構いませんので」
 と妙なことを仰いました。
 私は一瞬、先生は私をクビにして、代わりにお嬢さまに私の仕事をさせることにしたのかと思いましたが、しかしあの先生がお嬢様を女中代わりにするとも思えません。
「どのようなお考えでそのようなことを申し付けるのか、お聞きしてもよろしいですか?」
 お嬢さまは先生ほど秘密主義でも偏屈でもないので、お伺いを立てる必要もないかとも思いましたが、しかし私はまずもって先生の使用人ですので、あの方に接するようにお嬢さまにも接した方が安全であると考えました。
 お嬢さまは私の質問に一瞬眉を寄せましたが、すぐに肩をすくめて微笑みます。
「エリックへのプレゼントを探しているんです。だけどあの人、なんだか色々とコダワリが強いじゃないですか。だから最低限のラインは押さえておこうと思って。それに、男の人へのプレゼントなんて、何をあげたらいいのかわからないんですもの。色々見て回らないと」
 先生へのプレゼント!
 そういうことなら、あの方に聞けないのもわかります。
 私は破顔して承諾しました。
 携帯用のペンを取り出し、通行人にじろじろ見られない位置に場所を移してちょこちょこと書き進めていきます。
 しかし始めてすぐにはたと困りました。
 店が集中している大通りの載っているページは、数が多すぎて書き込みきれないのです。
 それに全部書き終わるには、一時間や二時間では足りません。
 私がそういうとお嬢さまは、明後日くらいまでには終わりますかと優しい声で訪ねてきました。ええ、もちろん、それだけ時間をいただければ十分ですとも。
 私はお嬢さまからガイドブックを預かり、直接この方にお返しするために二日後の夕方にまた会う約束をしました。
「それから、お聞きしたいことがあるんですけど……」
「なんでしょうか」
 ガイドブックを大切にしまった私に、お嬢さまは畏まって尋ねてきました。
 お嬢さまは身体の前で両手を組んで、もじもじしてます。どうも、聞くの恥ずかしいことのようです。
「お嬢さま?」
「こんな事を聞いて、さぞもの知らずだと思うでしょうけど……」
 と口を濁します。
「なんなりと仰ってください。お嬢さまがパリに来てまだ日が浅い事は承知しております」
 私はお嬢さまの不安を軽くするために特に人が良さそうに見える笑みを浮かべました。
 ……先生の使用人をやっておりますと、こういうことも自然と身につくものです。
 とはいえ、私はお嬢さまのお気持ちを和らげようとしただけで、決してこの方を軽んじているわけではないのです。
 お嬢さまは私の微笑みに安堵したようで、ようやく口を開きました。
「フランスの人って、誕生日には何か特定の料理やお菓子を食べるものなのかしら? もしそうだとしたら、何を食べるんですか?」
 私は自分の顔が凍りついたように感じました。
 先ほどの話と合わせれば、お嬢さまが探しているのは……。
 しかし私は内心の動揺を抑えて、まずはお嬢さまの質問に答える事にしました。
「地域や家庭によってはそういうものもあるのかもしれませんが、私の知る限りでは何か決まったものというのはないはずです。いつもより豪華な食事を用意し、友人を招いて盛大に飲み食いする、と。こんなものでしょう」
「誕生日専用のケーキとかはないんですね?」
 お嬢さまは真剣な表情で重ねて問います。
「そうですね。決まったものはないでしょう。例えば私などは冬の生まれですので、母親は私の誕生日には必ずリンゴのパイを作ってくれましたが、もし春の生まれだったらイチゴのタルトかなにかになってたと思います。その程度のものですよ」
「なるほど」
 お嬢さまは手帳を取り出して、書きとめていきます。
 ちらっと見えたのですが、『ケーキの本』と書かれていました。
 自分で作られるつもりなのでしょうか?
 思わず訊ねると、そうだという答えが返ってきました。
「先生がお嬢さまに準備を任せられたのですか?」
「え? 別にそういうわけではないけど、あそこにはわたしとエリックしかいないのだから、わたししか準備できる人はいないじゃないですか」
「それは、まあ、プレゼントはそうですが……」
「?」
 お嬢さまは不思議そうに首を傾げました。
 この方はこちらの習慣をわかっていないのだと確信し、私は失礼にならないように言葉を選びました。
「フランスでは、誕生日パーティは、誕生日を迎える本人が準備するものなのです。私の場合ですと、自分で料理ができるわけではありませんし、料理人がおりますもので、実際に何か作るというわけではありませんが……。しかし招待状を書いたりですとか、どういった料理を出すのかを選ぶのは自分でやってます。まあ、もっともお嬢さま方はお二人で暮らしていらっしゃるのですから、どのみち準備を手伝う事になるのでしょうが……」
「ええっ!?」
 お嬢さまはそれはそれは目を丸くして、口をあんぐりと開けました。
「そうなんですか!?」
「はい」
 私はしっかりと頷いて、今言った事が真実であることを強調します。
「もーエリックってば、何にも言わないんだもん!」
 お嬢さまは誰にともなく叫びます。
 しかし、私はここでふと気付いてしまいました。
 先生は言わなかったのではなく、言えなかったのではないかと。
 悪意からでも、お嬢さまをからかっているわけでもなく、つまり、先生は……ご自身の誕生日を祝ってもらったことがなかったのかもしれません。
 もう目を背けるのはやめましょう。
 私たちは、先生の誕生日について、こうして話をしているのです。
 念のため、お嬢さまに確認すると、あの方は案の定驚いたように目を丸くしました。
「え? ええ、そうですよ。……ベルナールさんも知らなかったんですか?」
 そして「そうかー。わたしだけじゃなかったんだー」と呟きます。
 先生の誕生日……。
 そんなこと、考えたこともありませんでした。
 いえ、先生だって岩から生まれたわけではないのですから、誕生日だってあるに決まっているのですが、このような祝い事をする先生というのが、想像できないことも事実で……。
「いつ、ですか?」
 おそるおそる訊ねてみます。
 返ってきた答えに、思わず頭の中で計算が働きました。
 プレゼントを探すには時間は充分ある。
 しかし私は先生の使用人であって、友人ではない。
 この場合、私も先生にプレゼントを用意したほうがいいのだろうか……。
 奉公先によっては、主人の誕生日にプレゼントを渡す使用人もいるということだが……。
 しかし、私の方から先生に何かをするというのもおこがましい気がします。
 それに、気に入らないものを選んでしまった場合、恐ろしいことになってしまいそうでもあります。
 渡すべきか、渡さざるべきか。
 それが問題だ。
「ベルナールさん?」
 お嬢さまは考え込んだ私を心配そうに覗き込みます。
「いいんですよ? 気が重いんでしたら、知らなかったことにしても。エリックだって、わたしが無理やり聞きださなかったら、自分からは言わなかったでしょうし……」
 何もかも見透かしたように言われて、私は自分が恥ずかしくなりました。
 ああ、本当に、なんて素晴らしい方を先生はお選びになったのでしょうか……。
 そしてそんなお嬢さまが先生を選んでくださった奇跡を、私は再び神に感謝しました。
 しかしお嬢さまは、
「でも、誕生日を祝ってもらって怒り出すほどエリックだってひねくれてるわけでもないんですから、あまり思いつめる事はないと思いますよ」
 と続けたのです。
 ああ、お嬢さまは私にもプレゼントを用意してほしいと思っていらっしゃるのだろうなあ。
 こんな風に言われては、私に選択の余地などあるはずがないではないですか。
 ガイドブックを返す時に、お嬢さまともう少しお話をする必要があると感じて、私は複雑なため息をついた。
 なんのためかって?
 もちろん、プレゼントが重複しないようにですよ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 スクリブ通りを、散歩ともう一つの目的で歩いていたところ、ショー・ウインドウを熱心に眺めているご婦人に気がついた。
 こちらからは背中しか見えないので、普通だったら顔の造作などわからない。
 しかし、私がその女性に気がついたのは、その人が知っている相手だったからだ。顔など見えなくとも、そういう相手は気がつくものだろう?
「こんにちは、さん」
 近づいてきた人の気配に気がついて顔を上げたところで私は挨拶をした。
「あら、こんにちは、カーンさん」
 彼女――さん――はにっこり笑って挨拶してくれた。
 そんな彼女の様子に安堵する。
 前回会った時もこんな風にショー・ウインドウの前に立っていて、そして声をかけたらひどく落ち込んだ様子だったからだ。
 この様子なら、エリックとのいざこざは解消されたのだろう。といっても彼女の様子を見るまでもなくわかっていたことだが。 それというのもこの間の会見の時に、エリックはどうにも緩んでしまいそうな顔を引き締めようと必死だったのだ。声も心なしか弾んでいたし。
 そのいざこざの原因や解決にいたった要因などは聞き出すことができなかったが……どうせさんが勇気を出してなにかをしたんだろう。こう言ってはなんだが、エリックに若い女の子の機嫌が取れるとは思えないのだ。
「お元気そうで安心しました。彼とは仲直りができたんですね?」
 そういうとさんは、喧嘩してたわけではないんですけど、と前置きしつつも、そうですと認めた。
「ご旅行でも?」
 仲直りついでにどこかへ出かけてさらに絆を深めようとでもしているのだろうか?
 私がそう思ったのも、彼女が熱心に見ていた店というのが、旅行用トランクの専門店だったからだ。
「いえ、そういうわけじゃ……。トランクの店だというのはわかってましたけど、他にもなにか気の利いた小物みたいなものがあるんじゃないかと思ったんです」
「ほう?」
 なぜまた、と目で問うと、彼女は口元に手を当ててくすくす笑い出した。
「わたし、エリックに聞いてみたんです」
「何をです?」
「色々ですよ。この間、カーンさんにお聞きしたようなことです。故郷がどこだとか、誕生日はいつだ、とか……。ペルシャでのことも聞きました」
 私ははっとして彼女を見下ろした。
 彼女はくすくす笑いを引っ込めて、どこか気の毒そうな、悲しそうな目で私を見上げていた。
「もっとも、わたしには聞かせられないようなことは、全部除外されていたみたいですけど」
 そう聞いて、胸の中で安堵の息をついた。
 ペルシャでのエリックは、己の才能をあらん限り出すことができたという意味では、また、それを評価されたという点では、決して悪い思い出にはなっていないと思う。しかしそれ以上に彼の声望は血に塗れすぎていた。彼の『発明品』でどれだけの者が殺されただろうか……。ペルシャでは、ただシャーや太后が退屈だというだけでも人が殺されるのだ。
 しかし、さんのこの目は……。
 私のことを、妻も息子も亡くし、国を追放された男だと聞かされたのだろうか。
 そうなのだろうな。
 人が他人に対して慰めを言いたそうにしている時の目をしているのだから。
 だが、それもこれも昔のことで、今更悔やみを言われても苦笑いを返すしかできない。
 すべては、過去のことなのだ……。
 私が肩をすくめてみせると、さんも引きつったように口の端をあげて首を傾けた。
 それで、この話は終わりになった。
「それでですね、エリックの誕生日が今月だってわかったので、お祝いをしようということになったんです」
 さんは努めて明るい声を出して、話を元に戻しにかかった。
「ああ、なるほど」
 彼女はエリックへのプレゼントを探しているのだ。
 それと同時に、あの時のエリックの態度にも納得がいった。
「招待客はいないんですか?」
 期待を込めて私は尋ねる。
 さんがねだれば、あいつだって特に『親しい』相手くらいは呼んでもいいと思う気になるのではないかと思ったのだ。そうすればずっと謎だったエリックの地下屋敷の姿をいくらか明らかにできるというもの。
 別に私はあいつがオペラ座の地下に住もうが天井裏に住もうが気にはしないが、そこでなにかの犯罪行為が行われているかもしれないということだけはいつだって気にかけているのだ。
 その中でも現在最重要項目は、さんの身の安全だ。
 エリックが女性と子供……社会的な弱者に対しては寛大であることは承知しているが、しかし地下には彼とこの目の前の女性しかいない。
 何かの弾みであいつがさんに非道なことをしないとも限らないのだ。
 異常を感じたらすぐにでも対応できる人間が必要だと私は思っている。
 そしてその役目ができる人間は、私をおいて他にはいないとも思っている。
「わたしもそう言ったんですけど……」
 さんは肩をすくめた。
 駄目だったということだ。
「やっぱりあそこは隠れ家だから、人を呼ぶのに抵抗があるみたいで」
 それはそうだろう。
 しかしその隠れ家の秘密を知っている彼女を自由にさせているということには、やはり驚きを隠しえないのだ。
 彼女は絶対に秘密を漏らしたりしない、裏切ったりしないと信用しているのだろう。
 それもまた、驚きだ。


 まあ、そういうことは置いておいても、長年の『友人』が誕生日だというのであれば、知らぬ振りをする理由もないだろう。
さん、彼の誕生日の当日の午前中に、あいつを部屋の外へ出すことはできますか?」
「部屋の外、ですか?」
 ぱちくりと彼女は瞬きをする。
「ええ、玄関を出てすぐの、船を止めているところです」
 そこまでの道のりなら、なんだかんだといって私は知っているのだ。
 彼と会見するのはその地下湖を挟んでのことだった。
「ああ、はい……。大丈夫だと思いますけど……どうしてですか?」
「その日はエリックと会う日ではないので。せっかくです、直接プレゼントを渡そうと思いましてね」
 そういうと、さんは顔を輝かせて、本当に心から嬉しそうに笑ったのだ。
「本当ですか? ああ、良かった! 絶対絶対、エリックを外に出しますから、あ、内緒の方がいいですよね? 絶対絶対、来てくださいね! ああ、良かった。ありがとうございます」
 もうじき誕生日を迎える子供でもこうは喜ばないだろうというほどの喜びぶりに、どれだけ彼のことを気にかけているか、これだけでもわかるというものだ。
 彼女にとってエリックは、贅沢をさせてくれるだけの相手ではないのだ。
 彼の女性に対する屈折を知る身であるだけに、我が事のように嬉しく思える。


「あの、わたしのほうからもお願いがあるんですが……」
 さんは星でも浮いていそうな目を期待に輝かせて私を見上げた。祈るように両手を組んで。
「なんです?」
「マダム・ジリーにもこのことを伝えてほしいんです。できればオペラ座の外で。わたしが行動すると、エリックに知られそうで……」
 もちろん、プレゼントは強要ではないんですけど。しれっと言う彼女に、私は思わず噴出した。
 まったくこの小悪魔ときたら!
 最初からそれが狙いだったんだな。
 私はまんまと彼女の張る罠に引っかかったわけだ。
 そして、エリックの事も嵌めようとしているのだ。
 エリックが私に自分の誕生日を言わなかったということは、あいつは私には関わってほしくないと思っているのだろう。そうでなければ、関わってくれるわけがないと思っているかだ。
 そんなあいつに、プレゼント攻撃を仕掛ける。
 きっと、目を白黒させて、どうしていいかわからなくなるのだろう。表面上は取り繕うかもしれないが。
 考えただけでも愉快じゃないか。


 私はにやっと笑って片目をつぶる。
「そういう罠なら、いくらでも協力しましょう」
 そういうと、彼女もにっこりと笑った。








彼女が見てた旅行用トランク専門店というのは…「ルイ・ヴィトン」のことです。
この当時はスクリブ街にあったんだってー。





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