「じゃあ、行って来まーす!」
「ああ、楽しんでおいで」
珍しく、エリックはわたしが外出するのを快く見送ってくれた。
小舟を向こう岸まで漕いでくれさえしたのである。
こんな事は初めてのことで、わたしは顔が笑わないようにするのが大変だった。
わたしの今日の外出の目的をエリックは知っている。
それが原因である事は、間違いない。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
足取りも軽く階段を昇りきる。外は良く晴れていて気持ちが良かった。
秘密の出入り口を出て、大通りの人の波に紛れて少し歩くと、すぐに目的のものが見つかった。
エリックの馬車だ。
今日はベルナールさんに付き添ってもらって、エリックへのプレゼントを探しに行くのだ。
「こんにちは、ベルナールさん。今日はよろしくお願いしますね」
「こちらこそ、お嬢さま。どちらから参りますか?」
ベルナールさんは愛想よく笑うと、帽子を取って会釈をする。
この人、本当にいい人そうな見かけをしてるのよね。
元々そういう気質だったのか、エリックのために動いているうちにそうなったのかは、ちょっと気になるところだわ。
「ええとですね、まずはこの紳士用小物店に行ってみたいんですけど」
わたしはガイドブックを開いて指を指す。
「承知いたしました。ではどうぞ、中へ」
ベルナールさんは馬車の扉を開け、エスコートしてくれる。
うーむ、至れり尽くせり。
揺れる馬車の中で考えるのは、やっぱりエリックの誕生日の事。
当日のお料理は、彼と話あって二人で一緒に作ることになったのだ。
本当なら、フランスでの習慣がどうだろうと、わたしが全部作りたかった。
とはいえ、ようやくレンジの扱い方になれたところで、作れるのは簡単な料理ばかり。
当日までに現在のスキル以上のものを二つも三つも習得できるか、はっきりいって心もとなかったのだ。
慣れていない料理はただでさえ失敗する可能性が高いもの。ブリジット・ジョーンズみたいに青いスープを作ってしまったら、笑い事じゃすまない。やっぱり、ちゃんとしたものを出したいというのが人情じゃない。
と、いうわけで、スープとサラダ、メイン料理の付け合せの野菜はわたしが、メイン料理とデザートはエリックが作るということになった。
スープは、もちろん青いスープなんかじゃなく、緑のスープだ。グリーンピースを裏ごししたポタージュよ。とはいえ、これに使うブイヨンは、あらかじめエリックが作っておくことになっている……。
うーん、一番大変なところは全部エリックがやるっていうのは、やっぱりよろしくないように思える。
でも、当日のデザートは桃とカスタードのパイって決まったのよねー。
エリックの作るカスタードはとてもおいしいのだ。
ああ、楽しみ。
……わたしが一番この事態を楽しんでいるみたいだわ。
いけない、いけない。エリックを喜ばせるのが目的のはずだったのに。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
目的の店に着いた。
中に入ると、先客が数人いる。
いずれも男性ばかりだ。やっぱりベルナールさんに付いてきてもらって良かった。
そのベルナールさんは店員らしい人と挨拶を交わしている。この店ではエリックはステッキを何本か注文したことがあるのだそうだ。
それに、ベルナールさんも、自分のものを買ったことがあるそうで。だからお店の人にも覚えられているのだろう。
ベルナールさんが話をしている間にも、わたしは店内をぐるりと見渡す。こういうとところに来たのは初めてだけど、結構色々なものがあるのだと感心した。
エリックも注文したというステッキや喫煙道具。それにネクタイ。
これはわたしの時代の男性陣がつけてるようなタイプのクラヴァットというものもあるし、もっと幅広の、スカーフみたいなアスコットという種類もあった。
それに夜会用の蝶ネクタイ。
蝶ネクタイは白か黒しかないようだけど、アスコットやクラヴァットなんて、色も柄も豊富だ。
うん、ネクタイなら贈り物としては定番よね。
わたしの時代の日本では、の話だけど。
だけどこういうのって、好みとかその人に似合う色とか柄とかがあるはず。うちの父はまったくおしゃれじゃないで、着るものは奥さん任せの典型的なタイプだったけどエリックには、ね。そういうわけにもいかないでしょう。
わたしがネクタイコーナーの前で立っていると、ベルナールさんが近づいてきた。
「ネクタイになさいますか?」
「そうしたいようにも思うんですけど、ちょっと、危険な気もして……」
「危険、ですか?」
「好みの問題があるでしょう?」
わたしが言うと、ベルナールさんは乾いた笑いを浮かべた。
「そうですね。さすがにクラヴァットもアスコットも先生はご自分で選ばれますから、私にもどのようなものが特にお好みかまでは……。ですが、お嬢さまが選ばれたものでしたら、先生は喜んで身につけると思いますよ」
いや、そういう問題では……。
好みじゃないものを贈られのって、本当に困るもの。相手が親しい場合は尚更よ。捨てるのだって難しいのだから。
「……やっぱり、止めておきます」
わたしはネクタイコーナーの前を通り過ぎた。
他にはなにがあるだろう。
えーと、これはハンカチーフね。
白いのがほとんどだわ。
刺繍がしてあるのもある。
「白いハンカチーフにイニシアルを刺繍して贈る、というのもありですよ」
とはベルナールさんの弁。
うん、ひと手間かけるっていうのは悪くない。
でも、ハンカチーフだけっていうのではインパクトが弱いように思えた。
したがって、これは保留。
次は、と。
何だろ、これ。
ああ、サスペンダーだわ。
ズボン吊りってやつ。
……エリックって、使ってたっけ?
見覚えは、ないわね。うん。
エリック、普段はきっちり着込んでるし、楽な格好をする時でも、シャツの上にガウンを着てるもの。ガウンだと前が肌蹴ていたりする時もあるけど、ベルトを締めているのを見た記憶はないから、やっぱりサスペンダー使ってるってことかしら。
商品の中にもベルトってないみたいだし。
多分そうだ。
うーむ、迷う。
サスペンダーって、カラフルだしお値段も手ごろ。
外からは見えないのだから、わたしが選んだのがエリックの好みに合わなかったとしてもネクタイほど困る事もないように思える。
何しろ、外からはわからないんだもん。
しかし。
しかしだ。
これは贈り物としては、ネクタイ以上に危険ではないだろうか。
何しろ、シャツのすぐ上に身に付けるものだ。
こういうのは家族とか恋人くらいの相手じゃないとまずいんじゃ……。
居候が大家に贈るには、いささか色っぽ過ぎるように思える。
どうしようかなぁ。
やっぱりここの店のものはやめようかしら。
先日、一人でも入れそうなお店で幾つかピックアップしておいたものから選んだ方がいいのかも。
そのピックアップしておいたものというのは、手帳とか、皮製のファイル、変わった形のペーパーナイフだ。
これなら実用的だし、問題もなさそうである。
そっちの方がいいのかなあ……。
悩みながら店内を一周した。
最後に見たのは中央付近にあったガラスケース。
そこを覗くと、なんだかキラキラしたものがあった。
なんだろう、これ。
ボタンみたいだけど、二つ一組になってて、チェーンで繋がってる。それがビロードのケースに二つずつ並んでる。
「これは何ですか?」
「カフリンクスです。袖口を飾るためのものですよ」
そう言ってベルナールさんはフロックコートの袖を少し折り返してみせた。
するとシャツの袖口が見えて、そこには銀色のシンプルなボタンが、それぞれ両側についていた。
ああ、これならエリックも付けてたっけ。てっきりシャツに元々付いていたボタンだと思ってたけど、取り外しができるものだったんだ。
あ、そうか!
これって日本じゃカフス、とかカフスボタンって呼ばれてるものなんだわ。こうやって使うんだ。
そっか〜。
これ、いいかもしれない。
わたしはガラスケースに視線を戻した。
並んでいるカフリンクスは、銀や金のシンプルなものから宝石やエナメルで飾られているものまで様々だ。だけど、あんまり種類はない。そのせいか、綺麗だけど、どうにもピンと来るものはなかった。
もうちょっと、色々見たいな……。
たしかカフリンクスってガイドブックに書き込みがあったはず。宝飾品店のとこに。
その時はカフリンクスが何か知らなかったし、エリックと宝飾品店のつながりが良くわからなかったから、時間があったら行ってみようとだけ考えていたけど、こうなったらそこに行ってみようっと。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
というわけで、場所を変えて宝飾品店に移動をした。
紳士用小物店に比べて、敷居が高そう度が数倍アップしている。
そもそも、こういう店にもやっぱりランクがあって、エリックはその中でも特に高級店を利用してるから……。
うわ、わたし、思いっきり場違いだわ。
と、びくびくしていたらお店の人が近づいてきた。
「ようこそ、ベルナールさま。本日は何をお探しでしょうか?」
「カフリンクスを見せてほしい。こちらのお嬢さまが贈り物を探していらっしゃる」
さすが、ベルナールさんは慣れたものだ。
店員さんはわたしの方をちらっと見ると、すぐに慇懃に、「これは、ようこそいらっしゃいませ。いつもありがとうございます。では、こちらへどうぞ」と挨拶をしてくれたのだ。
え? え? と思っていたら、どうやらわたしが身につけていたイヤリングとブローチは、エリックがこの店にベルナールさんを通じて頼んだものだということだ。
それもデザインしたものを注文したというものだから、それで覚えられていたのだろう。
今更ながら、わたしの保護者たるエリックのすごさに感じ入る。
外国人の小娘が、いきなりVIP待遇にされてしまいましたよ。
わたしとベルナールさんは店の奥に通された。
ふかふかのソファーに座って待っていると、何種類ものケースを持って店員さんが入ってくる。
次々と見せられて頭がくらくらしそうになった。
今度は種類が多いのだ。
金や銀、プラチナのシンプルなもの。
大きな宝石をどどんと使ったもの。
動物やコイン、植物のモチーフなんかをあしらったもの。
カメオもある。
それに、こちらの注文に応じて、オリジナルの一点物を作るということもできるということだ。
しかしちょっと待って。
少し落ち着いて考えさせて!
えーと、まず、予算ってものがあるから、それより高いものは却下。
それから、わたしはエリックに使ってほしいわけで、そうなるとあまりごてごてとした派手なものは避けた方がよさそうである。飾るにはいいけどね。
というわけで、大きな石やらなにやらのものも却下。
モチーフものもこれまた色々ある。
モチーフっていっても、金や銀の土台を彫刻したようなものもあるから、シンプルといえばシンプルなものもあるし。
あ、ネコが彫ってあるのがあった。ネコ好きエリックにはいいかもしれない。アイシャみたいなシャム猫があったらもっといいんだけど……。
(あれ、なんかこれ、変……)
わたしはモチーフもののなかに、片方しか模様のないものを見つけた。
それを手にとって眺めたので、すかさず店員さんが説明をしてくる。
「そちらの品は片側にイニシアルをいれられるようになっております」
「ああ、それで……。こういう、イニシアルをいれられるもので、ネコが彫られているものはあります?」
「ネコ……でございますか。申しわけございません。ネコはただいま、こちらのものだけでございます」
と、さっきわたしが見ていたネコモチーフのカフリンクスを渡される。
うーむ、だけどこのネコ、長毛種なのよね。
アイシャはシャム猫なんだから、せめて短毛の方がいい。
どうしようかな……。
でも、記念の品にしたいし、イニシアルを入れるという案は捨て難い。
そこでわたしはイニシアルを入れられるカフリンクスを全部持ってきてもらった。それでもまだ結構な種類がある。この中でいいのがあったらそれで、なかったらお値段しだいだけど、オーダーメイドにしてみようと決めた。
お花、鳥、馬、トランプなどの模様がある。
面白いのが、馬は馬でも競馬のモチーフもあるのだ。
それに形も、丸や四角だけではなく、ひし形や楕円もある。
宝石ではあるけれど、色が黒なのでオニキスのものだけは残してもらったが、これもまたシンプルでよい。石が嵌っている台の部分に彫刻がしてあって、それで変化をつけているといった具合だ。
それにしてもきらきらした物を眺めるのは楽しいものだ。自分で身に着けたいとはあまり思わないけれど。だって、自分が身に着けているものは、自分自身ではあまり見えなかったりするんだもの。
なんてことを考えながら、じっくりと一つ一つ眺める。
「これ、いいかも」
わたしの目に留まったのは、丸いカフリンクスだ。
白蝶貝とオニキスで市松模様になっている。
形も色もシンプルだ。
だけど地味ではない。
あとはお値段しだいだけど……OK、これなら大丈夫。
店員さんにこれをお願いしたいと言うと、慇懃な笑みを浮かべて礼を言われる。それからは購入に関するちょっとした手続きにはいった。
なにしろイニシアルを彫らなくてはいけないので、今日中に持ち帰る事はできないのだ。また改めてこの店に行かなくてはならない。支払いはその時でも良いということだそうだ。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
「お嬢さま、ありがとうございます」
「何がですか?」
店を出た途端、ベルナールさんにお礼を言われ、わたしは面食らった。
しかしベルナールさんはにこにこ笑って、
「お嬢さまがカフリンクスをお選びになったことから、私も先生へのプレゼントを思いついたのですよ。本当に助かりました」
大げさだなあと思ったけれど、エリックへのプレゼントというのは、ベルナールさんにはよほど荷が重かったようで、しきりに良かった、良かったと繰り返している。
「それで、何にするんですか?」
「当日までの秘密、ではいけませんか?」
とベルナールさんはにっこり。
そこまで興味を煽っておいて、それはないんじゃありません?
とは思ったけど、それもまた良し。
ここは聞かずに済ませましょうか。
舞台のファントムは丸い銀のカフリンクスをつけてるみたいです。
映画はわからん。袖がしっかり映るシーン、ないみたいですし。
最後のドン・ファン衣装の時にはつけてないけど、あれは舞台衣装だしな〜。
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