ようやく起きてもおかしくない時間になったので、私はおもむろに寝台から身を起こした。
 これほど朝が来るのが待ち遠しいと思ったことはない。
 今日は私の誕生日なのだ……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 これまでの人生で誕生日を祝ってもらった事は一度もなかった。
 いや、正確に言えば五歳になった時に母はお祝いをしようとしてくれたことはある。しかし、実際にはそれは行われなかったのだ。
 それというのも、私には誕生日というのがまったく理解できなくて――それまで祝ってもらったこともなかったし、世間に隔絶されていたので、知る術がなかったからだ――しかしプレゼントをあげると言われたので、幼かった私は自らの望むところを述べた。
 期待と、困惑と、拒絶されるかもしれないという恐れと共に。
 おずおずと。
 その後のことは思い出したくない。
 あの日以来、誕生日というものが嫌いになったと言えば、大方察しはつくだろう。
 だがそれから長い年月が経ち、私はと出会えた。
 私のことを恐れたりしない人。私に向かって、笑いかけてくれる人が。
 その彼女が誕生日を祝ってくれると言う。
 こんなに幸せなことはない……。


 着替えを済ませて居間へ行くと、すでに彼女は朝食の仕度を始めていた。今日は特別の日とはいえ、朝食はいつもと同じである。
「おはよう、
「おはようエリック。誕生日おめでとう」
 振り返った彼女は作業の手を止めてにっこりと笑った。
 そしてスカートの裾を翻させて近づいて来たので、私は少しかがんでやった。頬に彼女の柔らかい唇が触れる。一旦は途切れたものの、また再開したこの朝の挨拶だが、今日は一段と心に染み入った。
「ありがとう……」
 お返しにと、私も彼女の頬に口付ける。
 幸福に満たされるというのはこういうことなのか。
 眩暈にも似た快い衝動に陶然となった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「エリック、上へ行くの?」
 食後の片づけが終わったので、いつものようにスクリブ通りの入り口に届けられたものを引き取りに出かけようとしたところをに呼び止められた。
「ああ」
 今日は誕生日のご馳走を作るための食材をベルナールに頼んでいたのだ。
「わたしも上に行くの。少し待ってて。一緒に行きましょう」
「出かけるのか?」
 私は思わず咎めるような口調になってしまった。
 私が「上に行く」と言う時は、入り口まで出かけることであって、外まで出るわけではない。しかし彼女の言う「上へ行く」は、外出の意味なのだ。
 散歩にしろ、買い物にしろ、今日という日くらい、私とずっといてくれてもいいではないか。そう不満に思っていると、
「ええ。お花屋さんに」
 当然のように彼女は答える。
「そんなことはベルナールに頼めば……」
「わたしが選びたいんだもの」
 とは一向に譲らない。こうなると、折れるのはいつも私の方なのだ。
「わかった。待っているから、仕度をしてきなさい」
 納得したわけではないが、出かける用事は私のためなのだからと自分に言い聞かせて、私はため息をついた。


 遅い。
 はもう一時間近く部屋に篭っている。
 女の仕度には時間がかかるというが、これではいつまで経っても荷物を取りに行けないではないか。
 私の用事など、往復三十分もあれば済むようなことなのだぞ。
 まったく……。
、まだなのか?」
 何度目かもわからない呼びかけに、「もうちょっとー」というこれまた代わり映えのしない返答が戻る。
 もうさっさと一人で行ってしまおうかとも思ったが、そんなことをしたら彼女がどれだけがっかりするだろうかと考えを改める。今日は一日を楽しく過ごすつもりなのに、悲しませてはいけないと、ぐっと堪えた。
 結局、彼女がようやく出てきたのは、一時間半も待たされた十時過ぎのことだった……。
 その後のことは簡単に記しておこう。
 小舟で対岸に渡った私たちの前に思いがけない人が現れたのだ。
 いや、思いがけなかったのは私だけで、彼女は承知していたのだ。
 そいつのために、彼女は私を一時間半も待たせたのだということも、その時知った。
「そいつ」とは、ナーディル・カーン。
 私の知人で観察者で、時には敵対する、腐れ縁だ。
 奴はから今日が私の誕生日だと聞いたと告げ、贈り物を二つ、私に押し付けてきた。
 一つはナーディルからで、もう一つはマダム・ジリーからだという。
 マダムはこの時間、レッスンがあるので来られず、また私ことファントムはオペラ座には来ないだろうと踏んで彼に預けたのだそうだ。
 この奇襲にはさすがの私も驚きを禁じえなかった。
 はしてやったりとばかりにニコニコしている。
 なんて小憎たらしい。
 だが、贈り物に関しては、正直、嬉しいと認めざるをえなかった。


 プレゼントは小舟に残して地上に出た私たちは、スクリブ通りの入り口で別れた。
 は花屋へ。ナーディルは自宅へ戻り、私は荷物を持って地下へ帰る。
 今日の届け物は、新鮮な野菜や果物、それに肉類と牛乳の予定だったが、他にも大きい包みが残されていた。
 箱の形からして衣料品だろう。何か頼んでいただろうか……? それともからの依頼品か? しかし、この箱に記されている店名は、私が利用しているものだ。何かの間違いか?
 腑に落ちなかったので中身を確かめようと箱を開ける。
 そこで思いもかけないものを発見した。
 カードだ。
 そこには、
『Bon anniversaire!』
 と書かれている。

 しまった、これもプレゼントか!
 どうしてそうとわかるようにしておかなかったんだ、あの男は……。最初に開けるのは、からの贈り物だと決めていたのに……!
 忌々しい思いで、箱の中に手を突っ込む。悔しいがもう開けてしまったのだ。これで妙なものでも贈ってきたならば、少々恐ろしい目に合わせてやろうと、私は腹の中で毒づいた。
 だが、中身は上等の夜会服用の麻のドレスシャツが半ダースだった。
 これは私がいつも注文している品なので、ストックしている分がなくなったら使う事になるだろう。普段用のシャツでないあたりは、奴なりに考えた末の決断といったところか。もらって困るものでもなし、仕方なく私は不問に処すことにした。


 荷物を抱えて戻り、プレゼントは私の目の届かないところに追いやってから料理を始めた。そうでないと、つい開けてしまいたくなるからだ。
 なるほど、世の少年少女というものはこういう誘惑を我慢していたのかと、今更ながらに感心した。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 が戻ってきたのは、子羊の鞍下肉に添えるマッシュルームソースを作っていたときだった。それから彼女は大急ぎで花を花器に活け、外出着から部屋着に着替えてキッチンに入った。
 そして私たちは一緒に料理をする。
 私が冷肉のジュレ寄せを作っている隣で、彼女が真剣な表情でグリーンピースを裏ごししている。
 また、彼女がミモザサラダを拵えている一方、私が前菜用の小型のパイと、デザート用の桃のパイを焼いている、といった塩梅だった。
 たわいないおしゃべりをしながらの作業だ。楽しくないわけがない。
 こんな時間がずっと続いてくれたらいいのにと願わずにはいられなかった。


 すべての料理ができあがったのは正午過ぎ。
 私のほうが先に終わったのでテーブル・セッティングをしようと食堂に向かった。
 しかしそこはすでにの手によって飾り付けられ、料理が来るのを待っている状態になっていた。
 真っ白なテーブルクロスのかけられているそこには、中央に薔薇をメインにまとめられた花が生けられた花瓶が置かれ、その脇には火を灯すだけになっている燭台、それぞれの席の前にはナプキンとカトラリーが揃えられているといった具合だ。
 ナプキンはリボンで束ねて、皿の上に置かれている。
 その温かく愛情に満ちた光景に不意に涙が滲んだ。
 ここは、本当に私の地下の館なのだろうか。
 寂しく惨めな暗闇の世界はどこへ行ってしまったのだろうか。
 本当に、この席に座るのは私なのか?
 本当に……?
「エリックー、こっちも終わったわよー」
 キッチンからが叫んできたので、私は慌てて濡れた頬を拭う。
「ああ、それじゃ、着替えておいで。私も準備をしよう」
「わかったわ」
「ただし、今度は遅くなりすぎないように、だ」
 声が震えそうになるのを堪えて、ことさら冗談めかす。
「もちろん、今度は十五分もあれば終わるわよ」
 エプロンを外しながらキッチンから出てきたは快活に笑った。


 夜会服に着替えた私が食堂に戻ると、案の定はまだだった。
 その間に料理を運んできてしまおうとキッチンに向かう。
 なにしろ二人きりの生活なので、給仕をされながら食事をすることができないのだ。
 何度目かの往復の後、軽い靴音に振り返る。するとそこには匂うように艶やかな若い娘がいたのだ。黒髪をレースのリボンで結い上げて、濃いピンクのアザレアのコサージュで飾っている。ドレスは、念のために作ったものの今まで出番がなかった淡い緑のローブ・デコルテだ。
 彼女の民族的な特徴として、私の目には実年齢よりもずっと若く見えるのだが、浮かべる表情や眼差しが子供のそれとは明らかに違い、一種の神秘性を覚える。
 そして開いた胸元には真珠のネックレスが飾られているが、それよりも尚美しいのは、健康そうな肌の色だった。
 はっきりと言って、普段の彼女は色気というものは感じられない。
 可愛らしくはあるが、そういうこととはまた別なのだ。
 しかし今のの様子はどうだ……!
 ボテ・デュ・ディアーブル!
 悪魔の誘惑の如き美しさとはまさにこのことだ……!

 すっと彼女が近づいてきたが、私は阿呆のように突っ立って、身じろぎする事もできないでいた。
 目の前まで来たは、はにかんだような笑顔を浮かべ、私の手を取った。
「改めて、お誕生日おめでとう。エリック」
 そして小さな包みを握らせれる。
「わたしからのプレゼントよ。気に入ってもらえるといいのだけど」
「ありがとう……。嬉しいよ」
 そして包みと一緒にの手も握りしめようとしたが、それより早く彼女はするりと身をかわしてしまった。
 ……頼むから少しは感動する時間を取ってくれないだろうか。
 私の嘆きも知らぬ風に、彼女は花瓶から開き始めた赤い薔薇を手に取り、キッチンへ行ってしまった。
 すぐに戻ってきた彼女の手には、とげを取り払い、茎を短く切った件の薔薇がある。
「ちょっと失礼」
 は上目遣いでいたずらっぽく笑うと、夜会服の襟にあるボタンホールにその薔薇を挿しこんだ。
「これでいいわ。素敵よ、エリック」
 さらりと言われた言葉に、私は反応する事ができなかった。
 そして気の利いた台詞を返せなかったことに気付いたのはずっと後のことだった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 料理が冷め切ってしまわないうちにと、私たちはそろってテーブルについた。
 はどれもおいしいと喜んでくれたが、私は胸が一杯で味がよくわからなかった。
 一通り食べ終えた後には、プレゼントのご開帳となる。
 まずはからの包みを手に取った。
「なんだか、照れるわね」
 ふと、彼女が呟く。
「どうしてお前が照れる事があるのだ?」
「いや、だって……」
 は言葉を濁らせる。
 その間にも私の手はリボンを取り払っていた。
「ほう……」
 ビロードのケースを開けると、カフリンクスが行儀よく並んでいた。
 素材は銀で、片方のフェイス部分は白と黒のダミエになっていた。色の組み合わせはシンプルだが、大ぶりの模様が遊び心を感じる品である。
 そしてもう片面には……私のイニシアルが刻まれていた。
「……
「な、何?」
 こちらを窺うような彼女の眼差し。
 私は付けていたカフリンクスを手早く外してしまうと、脇に追いやった。
「良かったら、つけてくれないかな?」
「え、ええ。いいわよ」
 ケースを渡すと、はふっと肩にいれていた力を抜き、柔らかい表情になった。
 彼女が選んだカフリンクスが私の袖口で蝋燭の光を反射し、煌く。
「とても素敵だ。ありがとう。これからは毎日つけるとしよう」
「毎日でなくてもいいんだけど……。他にもあるんでしょう?」
「そんなものはどうでもいい」
「どうでもって……」
 今の私の顔は緩んでいるだろう。しかし、だからどうした。これを選んでいた時、彼女の心の中には紛れもなく私がいたのだ。
 他の誰でもない、この私が。
 この甘美な現実が、私を酔わせるのだ。
 感激が去ると、他のプレゼントも開けてみようということになり、まずはマダム・ジリーからの包みを開けてみた。
 リボンを解いて取り出すと、丸いクッションが出てくる。
「うわあ、綺麗!」
 が歓声をあげた。
「ああ、そうだね」
 それには刺繍がふんだんに施されていたのだ。
 丸いクッションを縁取るように、花と葉が丸く絡まりあって花綱を作りあげ、中央には枝に止まった小鳥が二羽、仲睦まじげにくちばしを寄せ合っている。
 片方は黒い鳥、もう片方は褐色だ。
「マダムのお手製かしら?」
「多分ね」
「すっごーい」
 は素直に感心した。
 たしかに素晴らしく手の込んだ刺繍で、これほどのものを私のために作ってくれたことには感謝の念も覚える。しかし、私はどこか居たたまれなかった。これにはマダム・ジリーの含みが、もしくは忠告が込められているように感じたのだ。
 この中央の鳥たちは、色は違うがつがいなのだ。メルル・ノワールという種で春の初めから夏の初めまでの間に美しい声で鳴く事で知られている。ノワール(黒)という名だが、真っ黒なのはオスだけで、メスの方は褐色なのだ。
 だが鳴き声が美しいこの鳥も、色合いは単調だ。好んで刺繍の題材にされることはほとんどない。
 マダムは、この鳥をつがいで描くことで、私とに重ね合わせ、「彼女と仲良くしなさい、大事にしなさい」と無言で語りかけてきているのではないだろうか。
 ああ、マダム……嬉しいが、嬉しいが少しやりすぎだ。私がを大事にしないわけがないではないか。私はマダムにそれほど理性のない極悪人だと思われているのだろうか。なんだか悲しくなってきた……。
 マダムのクッションは丁寧にソファに置き、次の贈り物に取り掛かった。
 ナーディルからのものだ。包みを開けようとすると、またもやがそわそわしだした。どうしたというのだろう。
「スクラップ・ブックか」
 出てきたのは皮装丁の立派なスクラップ・ブックだった。
 スクラップの名の通り、雑誌やチラシの切抜きから、押し花でも写真でもカードでも、なんでも貼り付けてしまえという、ごった煮的な自家製本の一種だ。
 私にはスクラップをする趣味はないが……、とやや拍子抜けしながらもページをめくった。
 新しいスクラップ・ブックには、まだ何も張られていないので、白いページが続くだけ、と思われたがそうではなかった。
 中ほどに、封筒が挟まれていたのだ。
 ナーディルからのカードかと思い、取り出してみる。
「……っ、なんだ、これは!?」
「一応言っておくけど、嫌だっていったんだからね!」
 私が言うより早くは叫び返した。
 封筒の中身はの写真だったのだ。
「本当はアルバムにしたかったんだけど、エリックはそうそう写真を撮りに行ったりしないだろうからって、スクラップ・ブックにしたんですって。でも、最初の一枚は切り抜きなんかじゃない方がいいだろうって、ナーディルさんが〜」
「……っ!」
 写真の中のは椅子に座り、手を膝の上に大人しやかに乗せ、まぶしそうに微笑んでいる。ドレスは数日前に出かけた時に着ていたものと同じだ。では……その時に。
 もやもやとしたものが心の中に溢れる。
 アルバムだって?
 まったく、どいつもこいつも私に何か一言言わねば気がすまないようだな!
 あいつの真意はきっとこうだ。
 エリック、お前はこれまで楽しいと思い、振り返りたいと思った思い出はほとんどないだろう? しかしならどうやらお前の相手をしてくれるようだから、これを思い出で満たすがいい、とな。
 ああ、あいつが悪意ではなく同情から、もしくは本当に私のことを考えてこれを選んだということはわかる。しかし、余計なお世話だと言わせてもらおう。そのようなこと、周りからやいやい言われなくたって、私が一番承知しているのだ。
 思春期の小僧扱いをされたことに腹が立つ。
 それにこの写真、が自分で撮りに行こうと思い立つわけはないのだから、ナーディルが写真館に連れ込んだに違いない。
 だ。はっきり断ればいいものの、こんな写真を撮られて……。
 しかし写真を握りつぶすことはできなかった。
 そうするにはあまりにも魅力的だったのだ。
 ナーディルが私の観察者だと言ったが、それは伊達ではない。こうして見事、私の弱点をついてきたではないか。
 奴の行動は忌々しいが、私が今考えているのは、この写真は写真立てを用意して寝室に飾ろうということだった。スクラップ・ブックに糊でべったりと貼り付けるだなんて冗談ではないからな。
 ここで私はもう一つの事に気がついて愕然となった。
 ベルナールからのプレゼント!
 あの夜会服用のシャツは、単純に実用的な消耗品などではなかったのだ。
 あいつがの買い物に付き添っていったことは私も知っている。彼女のプレゼントがわかったので、それに合わせたのだろう。
 夜会服用のシャツは、私がそう分類しているだけであって、日常的に着ても悪いということではない。しかし袖口が硬く糊付けされているので、作曲をしたり手紙を書いたり、図面を引いたりするにはいささか邪魔なのだ。それで普段は片側にボタンがついている、バレル・カフスのシャツを着ている。
 しかし、そう、先ほど、私が自分で言ったようにからのカフリンクスをつけるためには夜会服用のドレスシャツでないといけないのだ。あいつはそれを見越して……。
 胸の中は急激に湧き上がった黒い想いで塗りつぶされた。
「エリック。どうしたの?」
 が心配そうに覗き込んでくる。
「いや、何でも」
「やっぱり、私の写真つきだなんて、おこがましいよね。ごめんね、余計なオマケをつけちゃって……」
 は私の手から写真を取ろうとした。
「そんなことはない!」
 私は奪われてはたまらんと、素早く手を引っ込める。
「でも……」
「これは余計なオマケなどではない」
 ナーディルの手の上で転がされているようで腹立たしいが、これはすでに私の物だ。宝物なのだ。
「でも、不機嫌そうな顔しているじゃない」
「……していない」
「してるわ」
「していないと言っているだろう」
「嘘」
 私たちは睨みあったまま、沈黙した。
 こんなことで喧嘩をするなんて馬鹿馬鹿しいと思ったが、一度起きた嫉妬は消えてはくれない。
 そうだ、私は嫉妬しているのだ。
 ナーディルに、ベルナールに。
 地上を歩く彼女の心には、私がいたことは疑わない。しかし彼女の隣には別の男がいたのだ。私が世間並みの容貌でさえあったならば、その隣にいた男も私だったはずだろう。やはりどうあっても、私は異形なのだ。光の中で、彼女と時を分かち合うことなどできない。
 それが情けなくて惨めで……悔しかった。
「エリック。今日の主役さん。どうしたら機嫌を直してくれるの?」
 は小さくため息をつくと、わがままな子供をあやすように私を見上げた。
 機嫌など直るものかと言い捨て、部屋に戻ってしまいたかったが、それはただの八つ当たりだ。だが、この気持ちを押さえ込むことは難しい。それに、私のことを子ども扱いするにも腹が立っていた。
 こうなったら彼女にはとことん、私の機嫌をとってもらおうではないか。
 なにしろ、今日は私が主役なのだろう?

 嫉妬は怒りに形を変え哀れな少女に襲い掛かった。
 自分の愚かさに気がついてはいたが、止める事ができない。
「もう一つ、プレゼントをくれたら直そう」
「プレゼント?」
 は眉を寄せて首を傾げた。
「これから用意する時間はないのだけど……」
「用意する必要などはない。品物ではないからな」
 私がそういうと、はますます怪訝そうな顔をした。
「何か特別に欲しい物があるの?」
 彼女の答えに背中がぞくりとする。
 ああ、あの五歳の誕生日の母の台詞と同じだ。
「あ、ああ。そうだ」
 なんとか頷いたが、怒りは不安に変わっていた。
 私は急にその頃の自分に戻ったように、落ち着きをなくす。
「一体、何が欲しいの?」
 また、同じだ……。
 彼女の無意識的な反撃に、私はすっかり混乱してしまった。
 がテーブルに突っ伏して泣き出す幻が見える。
 しかしそれは過去に起こったことで、泣き伏していたのは母だった。
 だが彼女もまた同じことをしたら?
 私は当初の目的を投げ捨て、何か適当な、当たり障りのなさそうなことで誤魔化そうかとも考えた。
 だが、と思い直す。
 は私を嫌い、恐れていた母ではない。
 私は五歳の子供ではないし、は私を好いているはず。
「エリック?」
 答えを催促するように、は語尾を上げる。
「あ? ああ……。お前の時間を一分間だけ私にくれないか?」
 正直に言おう。
 私は逃げた。
 あけすけに告げて、彼女から拒絶されたくなかったばかりに、あやふやな物言いをしたのだ。
「どういうこと?」
 まったく理解していないに――当たり前だ、わからないように言ったのだから――本当に当たり障りのなさそうなことを言おうかとも思ったが、期待と希望がそれを押し止めた。
「一分の間、私が何をしても動かないでくれ」
 告げた。
 彼女は目を見開いて私を凝視してくる。
 幼かった私が望んだのは、母からの親愛のキスだった。
 だがそれはによってすでに与えられている。それも毎日だ。
 それだけでも良しとしなければならないだろうが、私とて男だ。恋人のキスだって欲しい。
 だがは私の恋人ではない。好意はあっても愛していない男に口付けてくれだなんて可哀想で言えなかった。
 だから、私からキスをしようと思った。
 触れるだけでいい。
 今だけ、振りでいいから、受け入れてほしいのだ。
「一分間だけ?」
 しばらく経ってから、はおもむろに確認してきた。戸惑ってはいるが、話を中断させる様子はない。
「そう、一分間だけ」
「どうやって計るの?」
 は私の真意を読み取ろうと、黒い瞳をまっすぐ向ける。
「キッチンに一分で砂が落ちきる砂時計があるだろう? それを使おう」
「……わかった。いいよ」
 妥協したのはの方だった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 砂時計をキッチンから持ってきて、テーブルに置いた。
 コトリという小さな音すらも、今の私には大砲の砲撃に聞こえる。心臓は激しく打ち、口から飛び出してきそうだった。
「では、はじめようか」
 私が言うと、は無言で頷いた。
 これから自分を襲う禍に、恐れ戦いているようでもある。
 しかし、いまさら引けないのだ。
 くるりと砂時計をひっくり返す。白い砂粒がさらさらと落ちていった。
 私は両腕を広げてを抱きしめた。力は入れていない。逃げないように抑える程度だ。だがそれだけでもの身体は可哀想なほど強張っていた。
 この子は一分だけなら我慢できると思ったのだろう。
 何をされるにしても、一分だけならたいしたことはされないと思って……。
 顔を近付けるとはアーモンド形の目を見開いたまま、私の行動を待っていた。
 片手を持ち上げて、彼女のおとがいをあげる。はずみで彼女の唇がわずかに開いた。
 そこへ私は唇を落とす。
 ただ合わせただけだったが、眩暈がするほど甘く感じた。

 彼女の胸は激しい緊張で大きく上下している。
 目をつぶることにも思い当たらないでいるようで、見開いたままだった。
 そっと横目で砂時計を見やると、まだ砂は半分以上残っていた。
 しかし、もう充分だろうと、これ以上口付けたままでいたら、自分を抑えいれないだろうと、ぼんやりとした頭で考える。
 だが、まだ時間はある、もう少しだけ、と言い訳をしているうちに、瞬く間に残りは四分の一より少なくなった。

 もう限界だと感じた時、の腕が私の背におずおずと回されてきた。
 まぶたも閉じられて瞳が見えなくなっている。
 さらには爪先立ったのか、唇が下から軽く押し付けられてきた。
 彼女は私のキスを受けるだけではなく、彼女の方からもキスしてきているのだ!

 信じられなかった。
 だが夢ではない。
 そっと舌で彼女の唇を割ると、わずかな抵抗の後にゆっくりと開いた。
 私は歓喜のあまり、胴に手を回して強く掻き抱いたが、彼女は甘い吐息を僅かに漏らしただけだった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 思いがけない事だが、私は誕生日に恋人すらも手に入れてしまったようだ。
 これを奇跡と呼ばずに、なんと呼ぼう。





あれ?くっついちゃったよ。
そんなつもりはなかったんだけど…。
あ、それと、説明はいらんと思いますが、「Bon anniversaire」はフランス語で「誕生日おめでとう」って意味です。




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