こんな経験はないだろうか。

 寝る前に頭がぐるぐるするほど、何だか色々考えてしまって、で、翌朝起きた瞬間、その事を思い出して身悶える事を。

 今日がまさにそういう日だった。
 目が覚めた瞬間、こう思ったのだ。

(やってしまった―――!!!)

 と。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 あああああっ。
 どうしようどうしよう。
 キスしちゃったよ、わたし。
 あのエリックと!

 ばたばたとベッドの中で頭を抱えてもんどりうっていると、それに合わせて羽毛布団がわさわさと動いた。
 誤解のないように先に言っておくが、ここはわたしの部屋の私のベッドで、昨夜も今までと同じく、一人で寝たのだ。
 隣に誰かがいるというようなことはない。
 アイシャは誘ってもこないし。
 って、誰に向かって弁解しているのだろうか、わたしは……。

 それにしても、本当に、何がどうしてこうなったのだろう。
 一晩明けた今も、彼の真意がわからない上に、わたしがとても恥ずかしい。
 ああ、心臓がばくばくいってる……。


 時計を見ると、六時ちょっと前。
 いつも起きる時間よりは少しだけ早いが、昨夜は中々寝付けなかった上に眠りが浅かったのだ。
 夜中に何度も目が覚めちゃって。
 寝付けなかった原因は明白だ。
 エリックにキスされたからだ。
 いや。
 正確に言えば、キスしてきたエリックに、わたしの方からもキスしてしまったことだ。

 あの時。
 エリックの唇が触れてきた時、わたしはとても緊張したし、少し怖くもあったし、ここからさらに何かされてしまうのかと、ものすごくドキドキしていた。
 だけど、いつまで経っても、優しく唇を合わせるだけでそれ以上は動かない。
 若干、抱きしめてくる力が強くなったようにも思えるだけで、それだって、わたしの思い違いかもしれないと思える程度だった。
 たかが一分。
 されど一分。
 しかしドキドキしていたのは最初の三十秒くらいではないだろうか。
 なにしろ、こういうときの三十秒は意外に長く感じるものだから。
 正直に言って、彼にわたしの時間を一分間ほしいと言われたとき、艶めいた期待をしなかったとはいえない。
 何をしても動くなと言われたのだから尚更だ。
 また、もしくはまったく逆で、エリックは腹立ちのあまり、普段はわたしには向けないようにしている癇癪をわたし相手にぶつけたいと思ったのかもしれないと考えた。
 怒鳴られるとか、平手打ちされるとか。あの人、結構短気だしね。
 そういうのは御免被りたかったけれど、だけど一分間なんて、カップラーメンを作ることすらできないのに、なにをするつもりだろうという興味もあった。
 それでOKしたら、この、ただ唇を合わせるだけのキスをしてきたのだ。

 三十秒を過ぎた時、もうわたしは訳がわからなくて、焦れてしまった。
 エリックはどういうつもりでキスしてきたのだろうか。
 わたしが好きなのだろうか。
 それとも……彼の素顔やこの地下に暮らしていることを考えれば、彼は今までキスしたことがなくて、相手は誰でも良かったのだろうか。ただ、キスができればそれで良かったのだろうか。
 前者である自信はまったくない。
 わたしはエリックに好意を告げられたことは一度もないのだ。
 それなのに、愛されているだなんてどうして思えよう。
 だけど後者だとしたら、とても悲しい。
 こんな風にしかできないエリックが。
 そして、わたしも。
 こんな風にしかされないということは、エリックはわたしを特別好きだというわけではないということだから……。
 ううん。
 もともと、そんな期待を持つのが間違っているのだ。
 わたしは彼の生活に無断で踏み込んだ居候だ。
 放り出されたって文句は言えないのに、エリックは今までとてもよくしてくれたもの。
 だから、わたしもエリックの良き同居者でいるべきなのだ。
 わたしの気持ちを押し付けては、それこそ彼は困るだけだろう。
 こんなところだ、気まずくなっても逃げ場はない。
 そうなったときの居心地の悪さはすでに経験済みではないか。
 だけど……わたしはエリックが好き。
 エリックがわたしを愛していなくてもいい。
 今だけ、今日だけ、恋人だと思わせてほしい。


 今考えると状況に酔ったとしか言いようがなくて恥ずかしいことこの上ないけど(実際にシェリー酒とワインをグラスで一杯ずつ飲んでたので、本当に酔ってたというのもあるけど)、そうしてわたしは爪先立ちになって彼の背中に腕を回した。
 愛してる。
 そんな気持ちを込めて。


(…で、そこから先のエリックの行動の真意がよくわからないのよね)
 わたしはしみじみとその後のことを思い返す。
 わたしの行動の結果、どうなったかというと、つい、と彼の舌が入ってきて、思い切り強く抱きしめられた挙句に濃厚なものをされてしまったのだ。
 終わった時には息も絶え絶えでまともに立っていられず、しばらく彼の胸に抱えられたままだった。
 ようやく、約束は一分間だけだったはずだと思い出すも、砂時計はいつ砂が落ちきったのかもわからない有り様で。
 わたしがもう大丈夫だからと言ってもエリックは離してくれず、ソファに座らせて、自分はわたしの肩に顔を押し付けてきてそのまま動かなかった。
 むき出しの肩にエリックの仮面は冷たかった。
 だけど、両の目があるあたりがすぐにじんわりと濡れてきて、彼が泣いているのだと察した。
 そうとなれば、抱きしめてやらねばなるまい。
 わたしは腕を精一杯広げ、エリックの背に回す。
 彼はびくりと身体を強張らせたが、次の瞬間には先ほどにも勝るとも劣らないほどの力でわたしが抱きしめられていた。

 ここでわたしは再び悩む。

 エリックはわたしが好きだからこうしているのか?
 ただ単に、縋れる相手がいたからそうしていたのか?

 一言で良い。
 わたしの期待を肯定してくれる言葉。
 あるいは、よけいな希望を持たせない言葉。
 どちらでもいい、何か言ってくれたら、こんなに心が千々に乱れることはなかったのに。
 だけどわたしの願いも空しく、彼は何も言ってはくれず、しばらくして離れた後も少し照れくさそうにしていただけだった。
 いつものように、おやすみなさいと挨拶をして自室に戻っても、今日のできごとをどう捉えれば良いのかわからなかった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 布団にもぐりこんだまま、つらつらと昨日の出来事を思い返していると、ふいに扉がノックされた。
「は、はい!?」
 瞬間、わたしの心臓は飛び出るんじゃないかと思うほど激しく動き出した。
 エリックがこうしてノックしてくるなんて珍しい。
 今までは何か用事があっても、わたしが出てくるまで待っていたのに。
 というか、エリックは自分が不規則ぎみな生活をしているから、わたしが遅く起きてこようとどうしようと文句を言う筋合いはないと思っているようなのだ。
「ああ、起きているのか。すまない、邪魔をしてしまって」
「ちょ、ちょっと待ってね。すぐ着替えるから」
 わたしはベッドから抜け出すと、慌ててマッチを擦った。
 橙色の光がぼんやりと室内を照らす。
 燭台の下にある懐中時計に目をやると、なんと時刻は八時近かった。
 鬱々と考えているうちにそんなに経ってしまったのかと、わたしは蒼白になった。
 まっずい。朝食の仕度をやってないわ!
「ごめんなさい、すぐ用意するから……!」
「いや、いいんだ。特に用事があるわけではないから。ただ……その、君の顔が見たくなってね」
「……は?」
 わたしの顔は多分とても面白いことになっていただろう。
 馬鹿みたいにあんぐりと口を開けてしまったのだから。
 き、君の顔が見たかった!? 何、その少女マンガにでも出てきそうな台詞は……!
 あの扉の向こうにいるのは、本当にわたしの知っているエリックなのだろうか。
「昨日は忙しかったから疲れているだろう。ゆっくり休むと良い。ああ、朝食の仕度はしなくてもいいよ。昨夜の残りがずいぶんあるからね。……じゃあ、お休み」
 驚きを通り越して硬直していると、言うだけ言ってエリックは行ってしまった。


 ……わたしって、エリックの中でどういう位置づけになったのかしら?
 どう考えても定位置だった『居候』という場所から変わってる。

 愛人なのか恋人なのか。
 たぶんそのどっちかだろうが。

 もちろん、恋人としてみてくれているなら嬉しい。
 だけど「好き」の一言もないのに、そう断じることはリスクが高すぎる。
 それよりも、昨日のわたしの振る舞いから考えて、『都合のいい女』にされてしまった可能性の方が……。
 だって、わたし、自分の方からキスしちゃったし、その前も後も抗議しなかったし。
 何しても構わないと思われたとしても不思議じゃない。
 どうしよう。
 考えれば考えるほど、不安になってきたわ。
 胃も痛くなってきた。
 いや、それはお腹がすいてきたせいもあるだろうけど。
 だけど今出て行ったら間違いなくエリックと顔を合わせることになるし……。

 うわあ、どうしよう。
 ものすごく気が重い……。







前回の話に祝福のお言葉をくださった皆様には申し訳ない…。
しかし、「好きだ」の一言もなかったのは春日的にどうしても納得いかなかったので…。
や、入れられなかったのは私の力不足なのですが。






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