目覚めた瞬間、こんなに満ち足りて幸せだと思ったことはこれまで一度としてなかった。
 快い陶酔感と、深い安堵感。
 誰かに愛されていると感じられるこの胸が震えるほどの感動は、中々味わえるものではない。
 心なしか、地下の空気も芳しく感じられる。
 時計を見れば七時を過ぎたところだった。そろそろ彼女も起きてくるだろう。私と違って、規則正しい生活をしているのだから。
 ああ、早く身支度を整えてしまおう。
 そうしてに会ったのなら、抱きしめてキスをするのだ。
 今日ばかりは朝の挨拶が大げさになったとて、彼女も許してくれるだろう。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



(こない……な)
 コーヒーを入れるための湯を沸かしながら、もうすでに何度も見た懐中時計に再び視線を落とす。
 もうすぐ八時になるが、はまだ起きてこなかった。
 ふと、昨日の事も、という女がここに住んでいることも、何もかもが夢だったのではないかという恐ろしい思いに駆られ、私は思わず袖口に目を向けた。そこには昨日、彼女から贈られたカフリンクスがしっかりと存在している。
 夢であるはずなどない。
 わかっていても、不安になるのだ。
 自分の不規則な生活を棚に上げて、彼女が少しばかり目覚めるのが遅いと責めるなど馬鹿げている。
 だが……。
 こうして、彼女がいるはずの時間に彼女の姿が見えないととても不安になった。
(重症だな……)
 私は額に手を当てて、頭を冷やせと言い聞かせた。
 そして、それほど不安ならば確かめればいいではないかと、自らに命じた。
 私は心の声に従って、彼女の部屋の扉をノックする。
「は、はい!?」
 慌てたようなの声。
 やっぱり寝ていただけなのだ。
 たったこれだけのことで、私の不安は見る間に消えていった。
 私は睡眠の邪魔をしてしまったことを詫び、すぐに引き返そうとした。
 あまりここにいては、ノブを回してしまいたい欲求を抑えておくことができなくなりそうだったからだ。
 いくら恋人の部屋だとはいえ、早急に事を運ぶのは宜しくないように思えるし、私にもそれなりに望むシチュエーションというものがあるのだ。
 寝起きを襲うのは、よくない。うん。
 しかし彼女はどうやら寝過ごしたことですっかり慌てているらしく、中からガタガタ音がした。
 ああ、そんなにしていたら、どこかにぶつかってしまうのではないか?
「ごめんなさい、すぐ用意するから……!」
 中から彼女が叫ぶ。
「いや、いいんだ。特に用事があるわけではないから。ただ……その、君の顔が見たくなってね」
 言ってからはっと口を押さえた。
 何を言い出すのだ、私は。
「……は?」
 彼女もひどく驚いたような声をあげる。
 まったく、こんな台詞をいうなんて……。
 私という男は、一晩でどれだけ変わってしまったというのだろう。
 このような傾向は私にはなかったはずだ。
「昨日は忙しかったから疲れているだろう。ゆっくり休むと良い。ああ、朝食の仕度はしなくてもいいよ。昨夜の残りがずいぶんあるからね。……じゃあ、お休み」
 誤魔化すようにそういうと、そそくさとその場を離れた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「お、おはよう、エリック」
 彼女はそれからすぐ着替えたのだろう、三十分と経たずに居間にやってきた。
 急いでいたらしく、最近はこの時代の娘のように結っていた髪も、今日はリボンで一つにまとめただけだった。
 後れ毛が頬にかかって、いつもより稚く見える。
「おはよう、
 しかしは挨拶をしたきり動こうとしない。ほのかに頬を染め、潤んだような瞳でじっと私を見つめていた。
 私は思わずゴクリと喉を鳴らしてしまった。
 私が昨日までの私から変わってしまったように、彼女も昨日までの彼女とは違っていたのだ。
 間違いなくは、目の前にいるのが変わり者の大家ではなく、彼女を欲している男だと理解している。
 そして自分が獣の巣の中にいるのを、どうすることもできないで戸惑っているようだった。
 しかし、私もこれで色々と学習を積んだのだ。
 彼女の反応を怖がって、じっとしているのはもっとも馬鹿げた行動だということを。
 恐れることはない。彼女は私の恋人なのだ。そうでなくて、どうして自分からも口付けをするだろうか。あれは、彼女からの返答なのだ。
 長年の間に染み付いてしまった女性に対する劣等感を振り払うため、心の内で己を叱咤し、私は彼女に近づいた。
 は、動かない。
 彼女の腕を掴み、口付けをしようと背を屈めると、は不安そうに目を泳がせた。
 そのまま唇を奪う。
 の身体は緊張でひどく強張っていた。しかし、この二の腕の柔らかさときたらどうだ。布越しでもはっきりとわかる体温、それに弾力。ほのかに香るラベンダーの香りは、香水ではなくサッシュの香りが移ったのだろう。彼女はめったに香水を付けようとはしないのだ。
 そっと顔を離すと、は真っ赤な顔になり、目を大きく見開いて私を見上げていた。
 昨日の大胆さが嘘のように思えるほど、今日の彼女はしおらしい。
 何も言わない彼女に焦れったさを覚えるものの、とて昨日まで大家だった男が今日恋人になったからといっても、急に甘えてきたりするような振る舞いはできないのだろうと考えた。それよりも、私の方で恥らう彼女をリードしなければ。いくら女性と付き合った経験がないとはいえ、私はの倍の年月を生きているのだ。
 優しく、穏やかに、急がせず、徐々に距離を縮めるよう務めるのが私の役目だろう。そうすればそのうち彼女も私のそばにいても不必要に緊張しなくなるはず。
 それに、私も彼女がこれまで以上に側にいることに慣れなければいけない。こうしていても、私の心臓はうるさいほど脈打ち、持ち主たる私をどうしようもないほど苦しめているのだ。今の段階でこうならば、それ以上の関係に進むにはずいぶんと時間を要すのではないかと、いささかうんざりした。
 恋人同士らしい振る舞いをもっとしなければなるまい。
 たとえば、ソファには向かい合わせではなく隣同士に座るとか。
 肩に腕を回してみるとか。
 膝の上に乗せてみるのも悪くはない。
 そして最後には私たちの間には、すべての隔たりも秘密もなくなるのだ。
「食事にしようか?」
 甘美な想像に浸っていた私は我に返るとの頬にかけていた手をそっと下ろす。
 彼女はこくりと頷いた。
 赤い頬がひどく愛らしかった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 食事が終わると居間に場所を移した。
 私は何もいれていないカフェを、彼女はミルクをたっぷり入れたカフェ・クレームをそれぞれの前に置いて。
 もちろん、向かい合わせではなく、隣同士に座った。
 彼女はちょっと驚いたような表情になったが、特に何もいわなかった。そして会話はぽつりぽつりとしかできなかったが、沈黙は気にならない。むしろ彼女を眺めるのに好都合である。
 朝食の間もそうだったが、彼女はちらちらと私の様子を窺っていた。
 恥らうような、何か聞きたげな、とても意味深な表情で。
 何を考えているのだろうか。
 恥ずかしいのだろうか。
 もっと近づいてもいいのだろうか。
「ねえ、エリック」
 そのとき彼女がしばらくぶりに口を開いた。
「何だい?」
 嫌が応にも期待は膨らむ。
「その……なんでもないの」
 彼女はふいっと視線をそらしたが、耳まで赤くなっている。
 ああ……っ。これはもしや恋人同士が行うという、「呼んでみただけ」というやつか!
 これは私もお返しをしなければと思い、「」と呼んでみた。
 途端、彼女は思い切りびくっと身体を揺らした。
 ……おや?
「な、何……?」
 恥らっているというよりも、怯えているような表情をしている気がする。
 そのことに引っかかりを覚えたが、しかし彼女が私を愛しているのは間違いないはずで……だからこれは事を急ぎすぎたのかもしれないと考えた。
「いいや、何でもないよ」
 私はできるだけ陽気にそう答えたのだが、の顔は気のせいではないとはっきりわかるほど曇ったのだ。
 これは……もしかしたら……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「えっとね、いつもの散歩に行きたいんだけど……」
 昼食が終わると、彼女はソワソワしだし、隣に座る私を困惑したように見上げてきた。
 その顔にはもはや困惑と不安の色しか見えない。
「なぜ? 一緒にいてくれないのか?」
「え……? えと、でも……」
 は答えにならない答えをごにょごにょと呟く。
 両手はひどく緊張していることを示すようにスカートをぎゅっと握っていた。
 午前中に覚えた懸念はもはや否定のしようがなかった。
 彼女は私に、このような行動を取られている事を苦痛に感じているのだ。
 しかしどうして……?
 彼女は私を愛してくれているはずだと思っていたが、実際は違ったのだろうか。
 だが、彼女は私にキスをしてくれたのだ。
 の性格からいって、好きでもない男にそのようなことができるはずがない。
 しかし、それすらも私の思い込みだとしたら?
 あのキスは彼女にとってはたいしたことはないことだとしたら?
 誕生日プレゼントにキスをねだるような男を哀れんでいただけだとしたら?
「と、とにかく、行って来るね!」
 彼女は私を避けるようにぱっと立ち上がった。
「駄目だ!」
 反射的に、私は彼女を引っ張り、自分の元へ引き寄せた。
 行かせるものか……!
「きゃ……」
 小さく悲鳴をあげては私の腕の中に収まる。
 おかしい。
 こんな風に脅かすつもりなどないのに。
 だが、このもどかしさを、不安を、空虚さを、一体どう説明したらよいのだろう……。
「なぜだ……?」
「エリック……?」
 は戸惑ったような目で私を見上げた。
「お前がわからない。一体お前は私を愛しているのか? いないのか?」
「……え?」
 の眉がぴくりと持ち上がった。
「恩があるから逆らわないだけなのか? 心が通じ合ったと思っていたのは、私一人だけなのか!?」
「……」
 は紅を塗っていない唇をかすかに開き、驚愕したように私を見つめる。
 それが無言の肯定のように思えて、私はどんどん追い詰められた。
「……っは。やっぱりそうなのか。とんだ道化だったな!」
「エリック!」
 吐き捨てるように言った最後の言葉が重なるように、彼女は叫ぶ。
 ぽろぽろと零れた涙は頬を伝い、顎の先まで来ると、震えながら落ちていった。
 しかし彼女の表情は悲しみではない。眉が吊りあがっている、怒り表情をしていたのだ。
……?」
 彼女の反応の意味がわからない。
 は何かを言おうと口を開けたが、そのまま震えるように息を吐いた。
 そしてもう一度、嗚咽を堪えているために小刻みに揺れる上半身を宥めるために深呼吸をした。
「エリック……。あなた、わたしを好きでいてくれるの? 少しでも、愛してくれてるの?」
「……何?」
 まさかそのような質問をされると思っていなかった私は、思わず目を見開き、まじまじと彼女を見つめた。
 しかしの眉はしかめられ、切なげに私を見上げている。こんな表情を見るのは初めてだ……。
 驚きのあまり、返事をすることができなかったのだが、彼女はそれを誤解したようで、ふいっと顔を背けた。
 我に返った私は、彼女の肩を掴み、こちらを向かせてる。
「当たり前ではないか! なぜ今更……そのようなことを」
 聞くのだ、と続けようとしたのだが、その前にが叫ぶ。
「だって、あなた一度もそんなこと言ってくれなかったじゃない!」
 さらにどっと涙があふれ、彼女はイヤイヤをするように身を捩った。
「確かに……言ったことはなかったが……」
 しかし、わかってくれているものと思っていた。そう言うとは、
「わたしにわかったのは、あなたには嫌われていないということだけよ」
 と自嘲気味に返された。
「あなたが求めていたのは、『側にいてくれる女性』なのか、『わたし個人』なのかまでは、わからなかった」
 俯いたの顎から水滴が落ち、すでに色の変わってしまったドレスの胸元に吸い込まれていった。
「……」
 なんてことだ。
 つまり……彼女は私の愛人にされてしまったのではないか、愛情ではなく金銭で結ばれた関係ではないかと、悩んでいたのだ。
「すまない」
 私は再びをぎゅうと抱きしめた。
 今度は拘束のためではなく、自分の愚かしさを謝るために。
 言わずとも通じると、態度でわかってくれているだろうと思い込んでいただけなのだが、不安にさせてしまったのならば私のミスだ。
「愛している」
 背をかがめ、聞こえなかったなどと絶対に言われぬよう耳元で囁く。
 途端にの身体がひどく強張った。
「私を見てくれ、。愛しているよ」
 まだ顔を上げてくれないが、額まで赤くなっているのがわかった。
 そういえば彼女は私の声が特に気に入りなのだった。
「私の思い違いでなければ、お前も私のことを……」
 そこから先を言うのにはひどく勇気がいった。
「愛しているのだろう……?」
 ごくりと唾を飲み込み、彼女の返答を待つ。
 誰かに愛されていることを確認することほど、私に縁のなかったものはない。
 はゆっくりと顔を上げ、すっかり赤くなった目を瞬かせ、
「ええ」
 と、しっかり頷いた。
 ああ……!
 くるめくような高揚感が全身を包み、眩暈を覚えた。
「愛しています」
 Ouiと答えるだけでは足りないとばかりに、彼女は改めて私への愛を告げてくれた。
 この時の感動はとても言葉では言い表せない。
 愛しているなどと言われたのは初めてだった。
 恐怖か憎悪といった感情しか向けられた事のない私にとって、初めて得た愛情は、どんな宝にも変えがたい。
 やはり、彼女は私のためにこの時代へ降り立ってきたのだ。私の唯一の光となるために……。
「愛している」
 幸福で幸福で、このような幸せが己が身に起こったことが信じられない。
「愛している。、愛しているよ」
 私はひたすらうわごとのように彼女への愛の言葉を繰り返した。
 を抱える腕には自然と力がこもり、ようやく、名実共に掴んだ我が女神を逃がしてはなるまいと必死だった。
「お前がいなければ、生きてはいけない」
 愛している、と何度も繰り返した。
 そうすればするほど、彼女への愛が増してゆくように思える。
 ずっしりと心に響くその言葉は、なんと心地よいのだろう。
 私たちは一本の木のようにしっかり抱き合っていた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「エリック。エリック。もういい、もういいの!」
 二十度目だか三十度目だかの「愛している」を言うと、彼女はふいに叫びだした。
「もういい、とは?」
 は私の胸に手をおいて、私から距離を取ろうとぐいと押した。
 細い指が布越しに伝わってくすぐったい。
「ほどほどでいいの! 連呼されたら……は、恥ずかしいじゃない
 さっきからずっと火照っていた額にはうっすらと汗をかいている。
 まったく、可愛いことだ。
「言わなければ言わないと泣くし、言えば言ったと怒る。一体どうすればいいのかね?」
 困らせるつもりはなかったのだが、真実そう思ったので彼女に疑問をぶつけてみる。
「だ、だから、ほどほどで……」
「私はまだまだ言い足りないのだが?」
「う……」
 彼女は黙り、私は笑った。

 もしも私を愛してくれる女性が現れたら、きっとその人を大切にしよう、誰よりも幸福にしてやろうと思っていたのに、最初の最初からこれだ。
 しかし、こんなやりとりも、これからたくさんやるのだろう。
 ちょっとした諍いや相手を困らせてしまうことが。

「すまない、。こんなひねくれた恋人で。だが大切にするから、誰よりも大切にするから、どうか見捨てないでほしい」
「そんなこと、しないもん」
 頬に触れると、拗ねたように彼女は唇を尖らせた。
 私はそれを誘っていると解釈して、盗み取るようにさっと口付けた。






サッシュ…いわゆる「香り袋」と思ってください。
ちなみに、これは彼女がカントリー趣味の持ち主だというわけではなく、防虫剤としてラベンダーを使用しているというだけのことです。
そして彼女はラベンダーが防虫剤だと気付いておらず、「エリックは女の子はこういうのが好きだと思ってる」と思ってます。





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