違和感を、覚えた。
 これは、これは……。
 やってしまったかもしれない。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 朝の洗顔をしていて、どうも肌の調子がいつもと違うと感じた。
 ニキビとかそういうのじゃなく、もっと細かいのがたくさん出てる様な感じ。
 特にTゾーンから瞼のあたりがひどい。
 この感覚には覚えがあったものだから、できるだけそっとタオルで水気を拭って、化粧台に足早に向かった。
 部屋の中にある蝋燭とランプを総動員する。
 なにしろ外からの光がないものだから、どうしたって暗いのだ。
 そうやってじっと観察してみたら、ああ……。
 やっぱし、なんかブツブツしたのが一杯出て赤くなってる〜!
「あ〜あ」
 わたしはがっかりして大げさに仰け反った。
 椅子がなかったらひっくり返ってるくらいにね。
「……何もここで出ることないでしょうが」
 十九世紀のフランスで、アレルギー系の皮膚疾患を見てもらえるとはとても……。
 まあ、一応、原因には思い当たることはあるから、それを止めて二、三日様子を見れば大丈夫だろうけど。
 今までも、よっぽど症状がひどくなければそれで治まってたし。
 でも、
「みっともなーい」
 思わず、ぼやく。
 この顔で二、三日過ごせと?
 そりゃ、ここにいるのはわたしとエリックとアイシャだけで、アイシャはわたしの顔なんて気にしないからいいけど、エリックに見せるには滅茶苦茶抵抗が……。
 しかし、症状が出たのが顔ってのも問題で、これ、ほっとけば多分治ると思うから、その程度のことで騒ぐのって、エリックの前ではし辛いというか……。
 しかし、だからといって、気にならないというわけでも。
 あああ、意識したら、なんだか痛痒くなってきたみたい。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 エリックが起きてませんように。できれば、昨夜は徹夜かなにかして、今頃はぐっすりと眠っていますように。そしてさらにさらにできるなら、それが三日くらい続きますように……。そしたらもう少しまともな顔で会えるもの。
 そんな、都合のよい願望を抱いて部屋の扉を開けてみたら……。
 居間にはすでに彼の姿があった。

 扉が開いた時に少し音がしてしまい、エリックが顔を上げる。
 昨夜、別れたときと同じガウン姿。
 これは、徹夜してたな……。もう少し待っとけば良かった。
「おはよう。もう朝になっていたのだね」
 エリックは立ち上がると裾裁きも優雅にこちらに歩み寄ってくる。
「お……おはよう」
 うわ、こっちに来る!
 いや、来ないわけはないのだけど。それでも、やっぱりヤじゃない。
 こんな顔で会うの。
 エリックの歩みが止まる。
、どうしたんだ!?」
「ひゃあ!」
 彼はわたしの腕を掴むと、額にかかる髪をあげて食い入るように観察してきた。
 おかげでわたしのおでこは丸出しで、見せたくない部分をしっかり見られてしまっている。
「どうして急に……」
 エリックはこの世の終わりでも来たかのような声で嘆く。
「ああ、お前の肌が台無しだ」
 徹夜明けの血走った目でそう呟く。
 うわあ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさ……!
 ただでさえ自分の容貌に強烈なコンプレックスを持っている彼のことだ、わたしまでこんな風になってはたまらないだろう。
「ごめんなさい」
 わたしに言えるのは、これだけだ。
「どうして謝るのだ?」
「だって……」
 エリックは髪の際を指でなぞる。
 かすかに触れる指先が恥ずかしいやら照れくさいやら。
「炎症を起こしているようだな。原因さえわかれば……」
「えっと、原因は多分わかってると思うんだけど」
「そうなのか?」
 エリックの動きがピタリと止まった。
「うん。多分化粧水にかぶれたんだと思う。今までにも何度かあったの」
「化粧水? そんなものを付けていたのか?」
 そんなものって……女なら普通よー?
 とはいえ、どうもこの時代ってノーメイクかせいぜいナチュラルメイクが基本で、外を歩いていてもお化粧してる人って、ほとんど見かけない。だから、わたしもせいぜい化粧水くらいしか買っていないのだ。
「ここにいる分には必要ないけど、外を歩く時はさすがに化粧水くらい使わないと……。パリって、日本より乾燥してるんだもの」
 エリックのこの地下の館は、そのままでは湿度がひどくて生活していけないと、彼の手による対策がしっかり施されている。
 とはいえ、やはり地下は地下。
 外よりは遙かに湿度は高く、そのため化粧水もなにもなくとも肌の調子はベストな状態を保つ事ができたわけで……。
「わたし、もともと肌って強くないみたいで……。日に当たっても黒くならないで赤くなるだけだし、今は治まったけど、軽度のアトピー持ちだったし、日光アレルギー持ちだったし」
「アトピー? それに、なんだその、日光アレルギーというのは」
 さすがのエリックのこれは知らないか。
「皮膚病の一種。どっちも、症状としては炎症とか発疹が出るのは同じよ。日光アレルギーっていうのは、日光のなかに紫外線っていう、目には見えないけどそういう光線があるんだって。それが当たったところだけに発疹とか炎症とか起こるの。初めて出たときはビックリしたわよ。いきなりだったんだもん」
「それは……驚くだろうな」
「まあ、今は治ったから。それに、今回のは化粧品かぶれだろうし。一応ね、わたしの時代でも、いくらいい化粧品でも外国製のは日本人の肌には合わない可能性が高いから、使うなら気をつけたほうがいいと言われていたのよ。だけど、気をつけようにも日本人向けのものなんてこの時代のパリにあるわけがないし……」
「なるほどね」
 少々呆れたようにエリックはため息をついた。
 うーむ、彼はよっぽど化粧が嫌いなのだろうか……?
「その、問題のものを持ってきてもらえるかな?」
「……はい」
 彼が背筋を伸ばすと、ほとんど頭の上から話しかけられるようなものだ。
 どんなに柔らかい調子でいわれても、どこか威圧感がある。
 彼がこうしなさいといったら、大人しく従うしかないと思わせられるのだ。


「ふ……ん」
 エリックは瓶の中身を矯めつ眇めつし、わたしが念のために取っておいたパッケージも読むと忌々しげに腕を組んだ。
「美辞麗句を書き連ねているが、何が入っているのか碌にわからん代物だ。こんなものに手を出すものじゃない。肌が弱いとわかっているのなら尚更だ」
「それはそうなんだけど……。乾燥肌には切実な問題なのよ」
 この時代じゃ、現代以上に添加物の害とか知られてなかったりするだろうからなあ。
 こんなことになるかもしれないとは思って買ったけど、本当にそうなるとは……。
 エリックは長い足を組んだままソファの肘かけに肘を当てて重心を預け……うーむ、絵に、なるなあ。
 本人はきっと、微塵も思っていないだろうけど。
「こんなものを使うくらいなら、ラベンダー水の方がよほどマシだ。これは捨てるぞ、いいな?」
「うん」
 いつになく厳しい。
 しかし、肌に合わないと分かった以上、もう使えないのは確かだ。
「ラベンダー水って、どういうの?」
「知らないのか? 化粧水としても売ってると思ったが」
「うん、わたしがそれを買ったところにも置いてあった。でも他のと何が違うのかわからなかったから」
「ラベンダーは昔から薬効が多いことで知られていてね。薬としても、香料としても食料としても使われていたのだよ。お前の部屋にもサッシュがあるだろう? もしかしたら気付いていなかったかもしれないが、あれは虫除けなんだ」
「そうだったんだ……」
 てっきり、エリックの趣味かと。
 わたしが新たな事実に驚きを禁じえないでいると、彼がふと呟いた。
「ああそうだ。ラベンダーの精油があるから、それを少し水に落として顔を洗ってみるといいだろう。あれは炎症にも効くからね」
 あるんだ、そういうのが。
 もしかして自分で作ったのかな……?
 エリックはわたしの返事も待たずに立ち上がり、実験室にさっさと行ってしまった。


 戻ってきたエリックに小さな瓶に入れられたラベンダーオイルを握らされ、わたしは自室に送り戻される。
 入り際、
「今日も出かけるのかい?」
 と問われたが……こうなってまで外に出る気などさらさらない。
「さすがにね。しばらくはやめておくわ」
 そう答えて扉を閉めた。
 表情はよく見えなかったが、エリックの肩が緊張から解放されたように僅かに落ちたのをわたしは見逃さなかった。
 しかし。
(エリックも素直じゃないなあ……)
 と思ってしまう。
 行ってほしくないならそう言えばいいのに。
 だけど、言いたくても言えないのだということも、今のわたしには理解できるから……口には出さない。
 彼は人に対して多くを望むことを諦めているのだ。
 それが当たり前になってしまっていて、恋人たるわたしに対してもあれこれしてほしいと言えないでいる。
 彼がわたしに強気に出るとしたら、自分の生活を守るために何かを禁止するときと、今日みたく激昂したときくらいのものなのだ。
 そういうことばかりじゃなくても、もうちょっとこう、なんというか、甘えてくれてもいいんじゃないかと思うんだけど、ね。
(しかし、二十も年上の人に甘えてくださいというのも……。言い辛い。言い辛いよ)


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 そうしてラベンダーオイルを使って一日経ち。

 お?

 二日経ち。

 おお?

 三日経ち。

 おおおっ!

 治った!
 まだちょっとだけ痕が残っているけど、これもすぐになくなるだろう。
 こういうの使うの、初めてだったけど、すごいわ〜。
「見て見て、エリック」
 やはり朝早くから居間にいた――今度は徹夜ではなかったようだ。ちゃんと着替えてるから――エリックに駆け寄ると、彼はまたわたしの額にかかっている髪をかきあげて状態を確かめる。
「うん、綺麗になったな」
「そうなの。エリックのお陰ね。ありがとう」
 にっこり笑うと、彼は一瞬動きを止めてわたしをじっと見つめた。どうしたんだろう。
「いや、ラベンダーの効能のおかげだよ。私は……」
「あら、あなたがそのことを知っていたおかげだもの。それに、オイルも持っていたでしょう? だから、エリックのお陰なの」
 わたしは感謝の気持ちを込めてぎゅっと彼の両手を握りしめると、エリックははにかむような笑みを浮かべて目を伏せた。
「……そうか」
 わたし、今すっごくエリックを抱きしめたい衝動にかられてるんですけど、抱きしめてもいいですか?

 ……やってしまえ、えい!





うわああ!
へたれだ!ここのエリックはやっぱりヘタレだ!
もうどうしようも…(涙)




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