早朝四時半。
身支度を済ませて居間へ向かう。
はまだ起きてこない。
ベルナールには六時に来るように伝えているが、こちらが丁度に出ていかなければいけないわけでもなく、遅くとも六時半には起きてくればそれで充分だろうと計算した。
湯が沸くまでの間、私は買い求めたばかりの大きなバスケットにフライパンと小さめのボウル、ナイフにスプーン、フォークやら皿やらを放り込んでいった。
もう一つの蓋付きのバスケットにはバゲットに卵とバター壷、チーズや適当に残っていたマカロンなどを放り込んだ。
今日はを連れて郊外へ出かけるのだ。
事の起こりは数日前、が顔を赤くして出てきたことに発する。
赤くなっていたといっても、照れていたとかそういうわけではなく、額から目のあたりにかけて炎症を起こしていたのだ。
彼女曰く、化粧水かぶれだとのことだったので皮膚のかぶれや炎症にも効くラベンダーの精油を渡したのだ。もっとも、私としては火傷の治療薬として用意していたものだったので、よもやこのような使い方をすることになろうとは予想だにしていなかったのだが。
なにはともあれ、それは効果を発揮し、数日で痕も残らずに治った。
さらには精油を蒸留水で薄め、蜂蜜を加えた特製の化粧水も用意してやる。
はあまりドレスにも宝石にも興味を示さない娘で、あまりの淡白加減に私も面食らう事が度々だったが、さすがに顔のことになると気にしないわけにもいかないのだろう。
こういうところは、さすがに女なのだとひそかに安心した。
しかし化粧水を作るためには精油がたくさん必要だ。
もともと現在あるラベンダーは精油にしろ乾燥させたものにしろ、昨年のうちに用意したもので、あの頃はまさか二人暮らしをするようになるとは想像もせずにいたものだから、ストックしていたものがもうほとんどないのだ。
だがおりしも季節は六月の末。
ラベンダーの季節でもある。
時期もよいのでを連れてハーブ摘みに行こうというのだ。
郊外の人気のあまりない野原ならば、私が行っても騒ぎにはなるまい……。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
「いーい天気」
長い階段を昇り終え、地上に出た彼女は両腕を広げて空を見上げた。
時刻は七時に近い。
太陽はまだ建物の影に隠れているので、石畳には長い影が伸びている。
しかし今日は暑くなるだろう。
空は申し分ないほど濃い青色をしていた。
スクリブ通りの入り口から少し離れたところで馬車が待機しているのを見つけ、そちらへ向かう。ベルナールは私たちに気がつくと御者席から降りて帽子を取った。
「おはようございます、ベルナールさん」
「おはようございます、お嬢さま、先生」
上機嫌で声をかけるに、ベルナールも嬉しげに頭を下げた。
私は鷹揚な支配者のように頷く。
ベルナールは慌てて畏まった。
しかしストローハットを被っていては、いくら傲然としても様にはならんものだ。
かといって、郊外の野原などで黒絹のトップハットは場違いすぎるからな……。
馬車に揺られて三時間もすると、パリはすでに彼方へと消え去り、なだらかに連なる丘と埃っぽい馬車道以外、目に映るものは何もなくなる。
時折荷馬車にすれ違うことがある他は、人の姿もない。
ここが頃合と思い、馬車を止める。
少し先に、林と言えるほどでもないが、ぶなの木が幾本か立ち並んでいたので、そこへ向かう事にした。
バスケットはベルナールに持たせ、私はラグを持つ。
は自分が手ぶらなことに不満そうな顔をしたが、礼儀作法云々という以前に彼女に荷物を持たせるのは私の本意ではないのだ。
道のない道を、草を踏みしめて歩く。
石の床を歩くのがほとんどとなった身に、弾力のある土の感触が心地よかった。
隣を歩くがきょろきょろと視線を廻らすのが愛らしい。
彼女の楽しげな内情を映しているかのように日傘がくるくると回っていた。
丈の短い雑草に混じってのぞく濃い紫の花はセージ。
それに小さな白い可憐な花を咲かせているタイムもある。
適当に決めただけだったのだが、ハーブは充分取れそうだ。
ラベンダーの淡い紫も、見える。
木陰にラグを敷いてバスケットを下ろす。風は強くはないが、こうしておけば飛んで行ってしまうことはないだろう。
「ベルナール、お前は馬車で待機しているように」
「えー。ベルナールさんも一緒じゃなかったの!?」
当人が返答するより先にが叫ぶ。
「せっかくこんないいお天気なのに。そりゃ、御者席は外についてるけど、そこから動けないんじゃ、つまらないでしょう?」
と彼女は小首を傾げる。
……。一応ハーブ摘みという目的があるとはいえ、実質これはデートだろう?
なぜそこに余計な者までいれなければならないのだ。
「いいえ、お嬢さま。どうかお気遣いなく。無人の馬車を道端に置きっぱなしにすることなどできませんからね」
ベルナールは私の声に出さない不満に気付いてにこやかにを宥めにかかった。
「でも……。あ、じゃあお昼には来てくれるんでしょう?」
……。お前は私と二人きりになるのが嫌なのか?
一日の大半を私と彼女しかいない地下の館で過ごしている以上、そのようなことがあるはずないのだが、彼女が再度ベルナールを引き止めにかかったので、いささか嫉妬の混ざった不満がもたげてきた。
「いえ。女房が昼を持たせてくれましたので」
「そっかあ」
が心の底から残念そうに言うので、『早く行け』という気持ちを込めて彼女に気付かれないよう睨みつけると、ベルナールは心得ているとでもいうように軽く頭を下げ、「では」と言って去っていった。
「少し休憩してから取り掛かろうか。ずっと馬車に揺られていて疲れただろう?」
「そうね」
は頷くとおもむろにラグに腰を下ろし、編み上げのブーツを脱ごうとしだした。
「……どうしたんだ、一体」
呆然とした私に、はぱちくりと瞬きをする。
「何って……」
彼女の顔にはしっかりと『何を訳の分からない事を聞いてるのだ』と書いてあるのだが、それはこちらが聞きたい。
何をしようとしているのだ、お前は。
数秒の間、見つめあったまま黙っていると、は「あっ!」と叫んだ。
「ねえエリック」
「ああ」
「もしかして、この敷物にはブーツを履いたまま座るものなのかしら」
真顔で訊ねる。
「脱がなければいけない理由がわからないよ。日本ではそうなのか?」
はこっくりと頷いた。
なるほど、そういうことか。
そういえば日本の家屋は、室内に入る前に玄関で靴を脱ぐと言っていたな。敷物もその延長に入るのだろう。
しかし敷物の前に靴だのブーツだのが置かれてる様は間抜けだとしか思えないが。
「修行が足りないわね……」
は明後日の方を向いて呟く。
「修行って、お前ね」
は改めて立ち上がると、用心深くスカートのひだを直しながら腰を下ろした。
それからもぞもぞ動いているが、おそらくバッスルがあるので上手く座れないのだろう。クッションでも持ってくれば良かった。
私はバスケットから瓶入りのディアボロとグラスを取り出し、中身を注いでに渡した。
「ありがとう。えっと、何か食べる? お昼にはまだ早いから……ん〜と、マカロンとか、アプリコットとか?」
彼女はグラスを受け取り、片手で蓋付きバスケットの中身を探る。
「いや、まだいいよ」
「そう?」
はディアボロを一口含む。
「わたしは何か食べようっと。朝は軽くしか食べてないからお腹へっちゃった」
が菓子を摘んでいる間、私は彼女と彼女の背景にある緑の風景を堪能した。
柔らかく揺れる草は一際色濃く、温まった土と交じり合った青臭い臭いが陽炎のようにあたりに漂っている。頭上の梢は風が吹くたびにさやさやと眠気を誘う音楽を奏でた。また枝の間で、草の間で小鳥たちが歌う。
葉と葉の間から零れる光がちらちらと波のように踊ると、の肌やドレスが一際冴えた色身を帯びて見えた。
こうして日の光の下でじっくりと彼女を見たのは初めてだったかもしれない。
黒髪に黒い瞳だと思っていたが、実際は彼女の髪は焦げ茶がかった黒だし、瞳の色はもう少し明るいようだ。
ふっくらした頬は内側から光を放っているかのように瑞々しい。そこがどれだけ滑らかなのかは私もよく知っていることだが、蝋燭の明かりだけではそういったことまではわからないのだと痛感した。
「あの、ねえ、エリック。こっちばかり見てないで別のところも見てみたら……? せっかくこんなに綺麗なところなのに」
私があまりじっと見つめていたので居心地が悪くなったのか、困ったようには眉を寄せる。
「どうして?」
悪戯心を起こして切り返す。
「どうしてって、ものを食べてるところをずっと見られてるのは恥ずかしいんだけど……」
ますます困ったようには眉間のしわを深くした。
「スケッチブックを持ってくるのだったよ」
「?」
は首をかしげる。
「せっかく美しい題材があるというのに、残さないなんてもったいないと思ってね」
「ちょ……それって……!」
は赤くなると、動揺を誤魔化すようにぐいっとディアボロを飲み干した。
「もう! からかわないで。それよりもう休憩はいいでしょ。早く始めましょう。ね?」
がばりと立ち上がり、大げさなほどスカートを叩いて埃を払う真似をする。
「からかってなどいないが……? まあいい、始めようか」
くっくと喉の奥で笑うと、は頬を膨らませた。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
白い麻のナプキンを広げ、そこに摘んだハーブを置くように広げる。
「ラベンダーはわかるだろうね?」
聞くと、は腰に手を当てて、
「もちろんよ」と笑う。
「他には?」
重ねて訊ねる。
「名前を知ってるのはいくつかあるけど、どれがそうなのかはわかんない」
途端、自信のなさそうな声になった。
「ではラベンダーと……セージとタイムを頼もうか。どれも花が咲いているからわかりやすいだろう」
私はというと、花が目立ちにくかったり、葉しかないものを選んで摘むことにした。ゆっくりと下を向きながら歩いていると、春の終わりのハーブと夏の初めのハーブが混在していることに気付く。
レモンバーム、タイムにセルフィーユ、フェンネルなどを無造作に茎を折ってナプキンに放り込む。
花や葉を取るのはどのみち帰ってからになるので、種類をわけることはしない。
薬効が目的ではないが、チャイブとロケットも摘んでおいた。
これは昼食に使うつもりなので、これだけは選り分ける。
はセージが群生しているところに膝をついて一本一本丁寧に茎を折っていた。
空は濃い青。ドレスは水色で、小花の模様が散っている。
片手に花束のように濃淡の違う紫の花を持ち、緑の草地に座る彼女は本当に一幅の絵のように美しい。
ふっと彼女が摘んだ花を顔に寄せた。
香りを嗅いでいるのだろう。目は半分伏せられてどこか陶然とした表情だ。
このようなのどかでありながらも優美な光景を間近に見られるとは……。
信じられないほどの穏やかさに、瞼の裏が熱くなった。
小一時間もすると二人で使うには充分の量が取れた。
そろそろ昼食の用意をしようと、摘み取ったハーブを持って荷物のあるところまで戻る。
包みを置いて再び立ちあがり、ぶなの木陰の間をゆっくりと歩く。
注意深く下を見ると、旺盛に繁殖した草の間に枯れた小枝があった。
湿ったものは取り除き、乾いたものを集める。
それから枯れ草も少し集めて焚き火を作った。
煙が上がるころ、が一抱えもあるセージとラベンダーとタイムの花束を持って戻ってくる。
「お昼ご飯?」
「ああ。仕事を頼んでも?」
は花束を置いてにっこりと笑った。
「もちろんよ」
ああ、この顔。この笑み。
かけがえのない私の宝物……。
「サンドウィッチを作ってくれないか? このロケットも挟めば丁度いいだろう」
炎が安定した焚き火の前を離れ、念のために持ってきた水筒を取る。
火から離れたところでロケットをボウルに入れ、水を注いだ。
これで埃や汚れは大体落ちるだろう。
「頼んだよ」
「ええ」
同じようにチャイブの汚れも落とすと、ボウルの水気を拭って卵を割りいれた。
ほぐしたところに小さくちぎったチャイブを加える。
フライパンを火の上に水平になるようにかざし、熱くなったところにバターを落とす。
バターが溶けたところに卵液を注ぎ…。
と数分もしないうちにオムレツが出来た。
皿に取り分けて戻ると、こちらでもすっかり用意ができていた。
バゲットを五等分にして、ロケットとチーズを挟んだサンドウィッチが皿の上に置かれ、別の皿にはアプリコット、並べられたグラスの横にはワインのボトル。
彼女が悪戯したのだろうか。ボトルの首には花が一輪括りつけられていた。
コルクを抜いてグラスに注ぐ。
普段はしないのだが、いつもと違う場所での食事に私も彼女も浮かれていたのだろう、どちらからともなくグラスをカチリと合わせた。
「おいしい。ピクニックなんて久しぶりだわ。もう何年もしてないもの」
オムレツをつつきながらは幸せそうに微笑む。
「そう、なのか?」
「ええ。わたし、どちらかというと室内派だから。キャンプとかピクニックってほとんどやったことがないのよね。お花見は別だけど」
花見というのは、桜を見るという日本独特の行事だったな……。
花を見るだけではなく、ものも食べるのか。
「その場で料理したものを食べれるっていうのも贅沢よね。お弁当だとどうしても冷めているんだもの」
「大げさだな。ただのオムレツじゃないか」
「大げさじゃないわよ。本当においしいんだもの」
と、もう一口。
こんな些細なやり取りも、半年前の私にはありえないことだ。
半年前の私は、たとえ自分のためであっても放浪時代のようにハーブを摘みに外に出ようとは思わなかっただろうし、ましてや誰かと食事を共にすることなどありえなかった。
それが、どうだ!?
風薫る初夏の昼日中に郊外でのピクニックときたものだ。
隣には偉大な勇気と愛情を備えた恋人がいる。
波乱万丈といえる私の人生だが、このような変化はついぞ起こりうるとは思っていなかった。
だが、これをどれだけ望んだことか。
彼女といると、私は私の内に存在する悪魔の牙も爪も消え去ってしまうような錯覚を覚える。
そのようなことはただの幻で、地下の館へ戻ればまた『ファントム』としてオペラ座の人間を脅かす日々が待っているのだとしても。
今だけは……。
このひと時の間だけは、忘れさせてほしい。
「エリック、どうしたの?」
が皿を置いて手を伸ばしてきた。
「どうした、とは……?」
「だって、涙が……」
彼女の指が左の目の下に触れる。そこで私はようやく、涙ぐんでいたことに気がついた。
「なんでもないよ、」
ただ、幸福すぎるだけなのだから。
言葉にできないほどに。
「でも……」
それでも心配そうな彼女の手をとり、その指の上に口付けを落とした。
「ただ日差しが眩しいだけだ」
は何か感じるところがあったようで、ふと真顔になる。
ついっと膝立ちになり、私の肩に手をついて左の頬に口付けをしてくれた。
「また、やりましょうね。ピクニック」
そっと離れた彼女は、口元に柔らかい笑みを浮かべる。
「……そうだな」
腕を伸ばして抱き寄せると暖かな彼女の体温とともに清涼な香りがした。
それから、太陽の匂いも。
春日はハーブ類には詳しくないので、作中に出てきたものが同じ場所に生えてくるかまではわかりません(汗)
一応、6〜7月頃に取れるというものを選んではいますけど…。
(しかし、おそらく参考にした本にしろネット情報にしろ、日本の気候を基準に考えてるのだろうし、フランスとはまた変わるんだろうな…)
うーむ、なんて適当な。
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