「意外に普通。というか、まとも?」
 案内人がいなくなると、応接室を見渡して、彼女は開口一番にそう言った。
「趣味は悪くないな。凡庸だが」
 私たちは日本公使館に来ている。
 二階の応接室に通されて公使が訪れるのを待っているところだ。
「日本の小物とかごちゃごちゃ置いてあるのかと思った。外国人にはウケるだろうけど、ああいうのってわたし、個人的に好きじゃないのよね」
 は緊張からか口数が多くなっているが、それにしても言いたい放題だな。


 あの日から一週間後、私は公使館宛に本日訪れる旨を書いた手紙を送った。の出生証明書に関して調書を作るためだ。
 このようなところへ来るのは私の本意ではないのだが、以前ベルナールに訪ねさせたときに、奴の住所を知られてしまったため、やはり一度は顔を出さないわけにはゆかなくなったのだ。
 痛くない腹とは言えないが、向こうから探られるよりも先にこちらから打って出た方が良い。存在しない彼女の父を調べるなど茶番でしかないが、安全のために、ここは虎穴に入っておこう。
 日本公使館というのは、ジョゼフィーヌ通りに面したなかなか立派な建物だった。見栄もあるのか、開国して間もない国の公使館としてはずいぶんと奮発したものである。
 だが、ここは何かおかしい。
 応接室まで行く間は誰にも行き逢っていないのだが、建物内には大勢の人間がいる気配がする。そこにいるのが全部日本人だとするのなら、十人や二十人では済まないだろう。
 時々、何を言っているのかは聞き取れないのだが、早口で話をしているのが聞こえる。興奮しているらしい雄叫びのようなものも混じっていた。それに、殺気も……。
 私の素性がすでに知られているとは思えないが、どう考えても尋常ではない。
 最悪の場合、彼女を守りながら脱出せねばなるまい。
 どこをどう逃げるか、建物の外観から間取りを想像し、逃げ道を確保すべくシミュレーションを開始した。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 どれだけ待たされるのだろうかと構えていたのだが、実際には五分もかからなかったのではないだろうか。
 規則正しいノックがされると、音もなく扉が開く。
 応接室に入ってきた公使らしい男は私を見るなり動きを止めた。
 しかし、すぐに気を取り直し、ゆっくりと扉を閉める。
 私を見た人間の反応としては悪い方ではない。先ほど、ここへ我々を案内した若造があからさまに気味悪そうにしていたのだから、尚更だった。
 彼は動揺を出さないようにしているのか、大きく息を吸ってから近付いてきた。私とはソファから立ち上がる。
「お待たせして申しわけありませんでした。少々本国で事件があったものですから、対応に追われておりましたもので……。改めまして、ようこそ、ムッシュウ・エリック。私が駐仏特命全権公使の鮫島尚信です」
 事件があったのか。ならば私のこととは関係ないか……。
 さすがに外交官としてそれなりに修練を積んできたのだろう。嫌味ではない微笑を浮かべて手を差し出し、握手を求めてくる様子は堂に入っている。何となくキモノ姿のサムライが出てくるのではないかと思っていたのだが、そのようなことはなく、髪を綺麗になでつけ、小柄な身体に合うフロック・コートを瀟洒に着こなしていた。
「はじめまして、公使」
 警戒をしていないわけではないのだが、ここで突っ張っても仕方がない。今日はのためにここへ来たのだから。
 私も手を出して礼を返す。互いに手袋を嵌めているのだが、革越しでも彼がひどく緊張しているのが伝わってきた。
 観察してわかったのだが、彼は体調が悪いようだ。肌がくすんでおり、目が少し落ち窪んでいる。公使というのは、激職らしい。
 公使はに向き直った。
「お久しぶりです、マドモアゼル・。お越しをお待ちしておりましたよ」
 はぺこりと頭を下げた。
「ええ。気後れしていたのですけど、やはり一度はきちんとお話をした方が良いと思いまして……。本日はよろしくお願いいたします」
 彼女が言い終わると、公使も軽く頭を下げ、こちらこそ、と言った。
 それで終わりである。あっさりしたものだ。
 どうやら、日本人同士ではあまり握手もしなければキスもしないらしい。
 しかし儀礼とはいえ、彼女が他の男に触れられているのを見なければならないのかという私の懸念はこれで解消したのだが、反面、どこまで心が狭いのだろうかと情けない想いにも駆られた。
 そんな私の思いに気付くようなことはなく、公使は私とを見比べるように交互に視線を向けると、納得したように一人で頷いていた。
「以前お会いした時も思ったのですが、マドモアゼルはずいぶんと背が高いですね。やはり食べ物や風土の違いがこうして現れるのでしょうか。我々もあやかりたいものです」
「そう、ですか? 自分ではよくわからないんですけど、そんなに大きいですか?」
 は首をかしげたので公使は頷く。
 たしかに、こうして見比べてみると、は公使とほとんど背丈が変わらない。踵の高い靴を履いているので、並んでいれば彼女の方が高いように見えるほどだ。
 公使の背丈が日本人男子の平均だとすれば、確かに彼女は女性としては大柄だということになろう。しかし、そうなるとこの時代の日本の女性は小人並みだということになるのではないか?
「母君は越南国人だということだそうですが、違いありませんか?」
「ええ……」
 は怪訝そうに答える。私もこのような展開はまったく予想だにしていなかったので、警戒を強くした。世間話のような口調で身長の話をしだすなど妙ではないか。これは何か鎌かけでもするつもりなのかもしれない。
 しかし公使は至極真面目な表情で、
「その母君は、純粋な越南人だったのでしょうか」
 と聞いてきた。はすっかり困惑している。
 なんなのだ、一体。いきなり素性を疑われているようではここへ来た意味はない。もともと茶番なのだから、さっさと話を切り上げて帰らなくては……!
「わたしはそうだと思っていましたが、よくわかりません。母方の親類ともあまり付き合いがなかったものですから」
 偽の経歴を作ったものの、細部まで作りこむことは不可能だった。覚えきれないだろうし、齟齬も生じよう。だから細かい部分は『わかりません』で押し通せと指示したのだが、彼女はそれをさっそく実行した。
「ですが、それが何か?」
 眉を寄せ、咎められているのだろうかと不安げになる。
 公使は失礼、と表情を和らげた。
「お気を悪くされたのでしたら、申し訳ない。実は、マドモアゼルには亜米利加か欧羅巴の血が混ざっているのかと思ったのです。越南国に立ち寄る船は多いですし、国から派遣されたり商売をするために、かの地に移り住んでいる方もずいぶんいらっしゃいますからね。あの辺りは特に仏蘭西の勢力が強いところですし」
「……そうですか」
 腑に落ちないといった様子で彼女は一応、頷いた。
 どういう意味だろう。というよりも、どういう答えを期待しているのだろう。
 彼女をそこの生まれにしたのがまずかったのだろうか。あまり日本から遠い国を出生国にするのも不自然と思い、私が訪れたことのある国で最も日本に近いところを選んだのだが。
 その国は日本ではエツナン。フランスではヴェトナムと呼ばれているところだ。
 皮肉なことに、この『設定』は彼女がフランス語を流暢に話せる背景も上手く説明できるのだ。なぜならばかの地はフランスが喉から手が出るほどほしがっている国で、この二十年の間に着実に勢力を拡大しているのだ。
 それで、彼女が働けるほどの年になってから、フランス人商人の家に現地採用の使用人として奉公していたと、こういう設定にしたのだ。
 公使は苦笑を浮かべる。
「私が始めて外国へ行ったのは、もう十年以上前のことです。はじめは英吉利。次に亜米利加。外務省に入ってからは独逸と仏蘭西。どの国にも得意とする分野があり、多くのことを学びました。いや、学びましたというのは言いすぎですね。日本はまだまだ欧米には追いついてはいないのですから。ただ、技術や習俗ならどうにかして取り入れることはできるでしょう。ですが、人知ではどうすることもできないこともあるのだと思い知りました」
「ほう、たとえばどのような?」
 意味深な発言に興味をそそられ、つい訊ねてしまった。
 公使は役者のように両腕を開く。
「ご覧の通りですよ。一目瞭然ではありませんか。欧米人に比べて日本人は、あまりに貧弱です。もちろん、身長や体格は個人差もありますから大柄な日本人だっていることはいます。しかし、それはごく一部の者だけです。体格や能力の差。こればかりはどうしようもありません。それはひいては国力の差にも通じると、私は考えています」
「……なるほど」
 頷いたものの、さほど共感できる考えではなかった。むしろ役人らしい発想だと思える。
  が日本人女性として大柄だったというのはわたしにも意外だったが――比べる対象がないので当然ではあるのだが――しかし、体格など国民全てが兵隊になることでもない限り、それほど重要であるとは思えない。むしろ、そのようなことで悩めることがいっそ羨ましかった。
 この目の前の男だって容貌は悪くない。もし神が私の身長と彼の顔を交換できるというのであれば、喜んで応じるだろう。
 ふと、が動いたのが目の端に映った。彼女ははっとしたように口を開けたのだが、慌ててそれを片手で覆った。そしてふるふると身体を振るわせる。
 どう、したのだろうか。
「マドモアゼル?」
 公使も不審に思ったのだろう、に声をかけた。
 だが彼女は複雑な笑みを浮かべて、空いている方の手を左右に振った。
「何でもないんです。あ、だけど、私にはフランス人やイギリス人の血は入っていませんから。第一、そんな風には見えないでしょう?」
 言いながら、自分を指さす。彼女は思い切り東洋顔なのだ。
「そうですね。詰まらない話をしてしまいました。ああ、失礼。椅子も勧めずに……。どうぞ、お座りください」
 公使は苦笑いを浮かべながらようやく本来の目的に話を移した。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 私たちの向かいのソファに座った公使は、ノートとペンを用意した。
 しおりを挟んだページを開くと、ちらりとに目を向けた。
「ええと、ベルナール氏からの話によりますと、マドモアゼルの生まれはトンキン地方のハイフォンだということですが、間違いありませんか?」
 は小さく息を飲んだ。いよいよ彼女は本格的に偽りを述べなくてはならない。
 私も手伝ってやりたいが――口八丁なら得意分野だ――私と出会う前の彼女のことについて、私の方が詳しいというのはどう考えても変だ。だから、しばらくは口を慎んでいるしかない。どうか、上手くいきますように……。
「多分そうだ、ということ以上のことは言えません。もしかしてうんと小さい頃に引っ越したかもしれませんし。ただ、わたしの一番古い記憶がハイフォンだったんです。いつも海を見ていた記憶があるものですから」
 公使はペンの軸を額に当てると、軽く眉を寄せた。
「もしかして、まだ警戒していらっしゃいますか?」
「え、と。そんなことは……」
 がぎくりとすると、公使はペンを置いて両手を組み合わせた。
「前にも申し上げましたが、あなたが漂流民の娘だということで、なんらかの処罰を受けるようなことは決してありません。もしもそうなら、私はここにはおりませんよ」
「え?」
 はきょとんとなった。公使は軽く微笑む。
「私は密出国をしたことがあります。まだ幕府が健在で、海外渡航が国禁だった時代に英吉利へ渡りました。知られたら捕縛どころの騒ぎではなかったでしょう。なにしろ、私個人の問題ではなく、藩が関わっていましたから」
「そうだったんですか……。それで、どうなったんですか?」
 彼女は驚きよりも興味が勝ったように、軽く前のめりになる。
「はじめは英吉利にいたのですが、途中で亜米利加に渡り、そこで新政府が設立するという知らせを聞きました。師の進めもあって帰国し、密航についてなんら咎められることはなく新政府に登用されたのです。今では海外の様子に詳しい人間は貴重なくらいなのですよ。女性であってもそれは同じです。マドモアゼル、もしも帰国の意思がおありなら、女学生にフランス語を教える仕事くらいでしたら、私にも紹介できると思います。日本語もお出来になるようですしね」
 その時、私の中で何かが弾けた。
「必要ない。はこのままパリで暮してゆくのだ」
 つき返すような私の返答に、公使もも呆気にとられた。
 さすがにこの反応はまずかったかと冷静になるも、もう遅い。私が彼女を束縛しているのだと彼は考えてしまったかもしれない。違うとは言い切れないが、外交官相手にこれは失策だった。たしか駐在の外交官というのは、自国民が危険にある場合は保護をするものではなかったか?
 どう言い繕うかと焦っていると、が突然噴出し、肩を揺らして笑い出したではないか。
 戸惑う私の手を取り、自身の指を絡めてきた。
「そう。そうね。わたし、あなたと一緒にいるって言いましたものね。あなたを置いてどこかに行ったりしないから、安心してね。エリック」
 満面の笑みを浮かべて額を私の肩に預けてくる。髪から立ち上ってくる石鹸の香りに胸が高鳴った。
……」
 二人きりのときならば何でもないが、光の注ぐ部屋で見物人もいる状況となると、どうしてよいのかわからなくなる。いい年をした怪しげな仮面をつけた男が年若い娘に翻弄されている様はさぞかし見ものだろう。我々が帰った後には他の日本人どもにすっかり広まるに違いない。
「これは、とんだ野暮を申し上げてしまったようですね」
 公使は微笑んだ。
 ……そんな暖かい目で私を見るんじゃない。

 意図したことではなかったが、その後はスムーズに事が進んだ。
 は父や父親の友人の名を告げ、私が教え込んだとおりに『設定』を述べる。
 その父の名すら本当のものではないのだが、彼女の実父の名は、まったく漁師らしくないということで、変えざるをえなかったのだ。年もはっきりとわからないほうが良いと、前後二年ほどぼかしている。
 彼女が公使に告げたことで本当のことは、ただ自分の名のみなのだ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 話は順調に進んでいたが、私は徐々に室外の空気が気に障ってきだした。
 オペラ座の建設に関わる以前に、いくつか普通の家を設計したことがあるのだが、その経験から考えれば、この規模の屋敷ならば職員用の部屋の他にも応接室が三室か四室はあるのだと思う。
 役所の一種であることからして、通常の屋敷よりも人の気配が多いのは仕方がないとしても、このせわしなさは何事だろう。蚊や蝿にうるさく周囲を飛び回られているような苛立ちを覚えるほどだ。早くここから離れてしまいたい。
 そんなことを考えていると、馬車が二台、立て続けに入ってきた。
 馬車から降りる音も、玄関を開ける音もずいぶんと乱暴だ。そうかと思うと、階下から何事か私には聞き取れない言葉で叫びだす。
 ふいに公使が顔をしかめた。
「呼ばれてますよ、公使」
 が扉を指さす。どうやら来訪者は彼に用事があるようだ。
 サメシマ氏はちらと扉に目を向けたが、小さく頭を振った。
「用件はわかっております。昨日届いた事件の詳細を聞きに来たのでしょう。代理のものが控えておりますので、ご心配なく」
「本国であった事件とかいうものですか?」
「ええ。それで、続々とフランス国内にいる同胞が集まってきておりまして。普段はもっと静かなのですが……」
 話している間にも、来訪者はこことは別の応接室に案内されているようで、慌しく足音が遠ざかっていった。
「そうだったんですか。それで、どんな事件があったんですか?」
 聞いてからはぱっと口を押さえて上目遣いになる。子供がいたずらを咎められたようだ。
「ごめんなさい。簡単に教えられることではないですよね」
「いえ。別に機密でもありません。本国の者ならば誰でも知っていることですし。……実は暗殺事件があったのです」

 暗殺。

 その忌まわしい単語は忘れ去りたいと願っていた古い記憶を呼び覚ました。
 旅から旅への生活をしている間、いくつかの国の有力者、特に王族などに召抱えられたことが何度かあった。そこで彼らが望むままに、珍しい発明や変わった趣向を備えた建物を生み出したのだ。
 待遇は、普通の人間ならば悪いとは思わなかっただろう。
 だが私にとっては見世物小屋の檻と何も変わらなかった。鉄格子の中に閉じこめられるか、見えない鎖に繋がれているかの違いだった。そして最後には彼らの勝手な思惑で消されそうになるのである。
 どこの国でも同じだった。思い返してみれば、よく生き残れたものだと思う。
「オリエントは相変わらず秘密裏に人命を奪うのが得意だと見える」
 皮肉な調子に、公使は咎めるような眼差しを向けた。
「秘密裏など、とんでもありません。午前中の往来での出来事ですよ! 彼らは自分たちの不満主張を世間に知らしめたかったのです。……六対二が正々堂々であるとは言えませんがね」
 最後は苦々しい表情で吐き捨てる。犯人に対する憤慨もさりながら、被害者に対する思い入れが強いのだろう。そこまで嘆かれる相手に少しばかり興味を覚えた。
「誰が狙われたんだ?」
 問うと公使は沈痛な表情になり、激情を堪えるように拳を握りしめた。
「内務卿の大久保利通様です」
「え……!?」
 は素っ頓狂な声をあげて腰を浮かしかけた。知っている人物なのだろう。それにしてもその反応はまずいぞ。
 案の定公使は不思議そうな顔になり、
「大久保卿をご存知なのですか?」
「え、いえ、その……。え、偉い人でしょう、内務卿といったら……。それで、ちょっとびっくりしちゃって」
 上手い言い逃れとも思えなかったが、サメシマ氏はそれ以上深く追求することはなかった。
 多分、普段の彼はもっと鋭敏なのだろうが、かかる事件に心を捕らわれてしまい、多少不自然なことがあっても気づけないでいるのだろう。ああそうか。調子が悪そうに見えたのは、この件で忙殺されていたからなのだろう。ろくに寝てもいないのではなかろうか。
「内務卿暗殺とは、たしかに大事件だ。なれば我々は間の悪い時に来てしまったようですな」
 私が言うと彼女もそうね、とすまなそうに目を伏せる。
 だがその目の奥に、もっと聞きたくてうずうずしているものがあることを私は見逃さなかった。
「いいえ。身元の照会なども私の仕事ですから」
 公使はすっかり落ち着きを取り戻したようで、前のように穏やかな笑みを浮かべた。
「帰国なさったりしないのですか? お葬式……はさすがに終わっているでしょうけど」
 は哀悼を示すように、両手を膝の上で組み合わせる。
「そういう方もなかにはおりますが、私は無理です。内務卿が変わっても政策に変化がないのであれば職務は続けなければなりません。特に英仏独米の公使には速やかに解決しなければならない問題がありますから。帰国は、それが解決してからになりましょう」
「時間がかかりそうなんですか?」
「おそらくは。……ところでムッシュウ。参考までにお聞きしたいことがあるのですが」
 探るような目つきの公使に、ふと警戒心が呼び起こされた。
「なにかね」
 返事をするものの、嫌な予感がしてならない。
「外相のワダントン氏をご存知ですか?」
「面識があるかという意味だったら、Nonだ」
「でしたら、氏と親しい方にお知り合いは?」
「それもNonだ。このような姿なのでね、社交はしていない」
 案の上だ。 が読んだとおり、私から利益を引き出そうとし始めたな。しかし外相とは……。
「そうですか。もしかしたら、と思ったのですが……」
 公使は気の毒そうな表情を浮かべながらも、残念そうな口ぶりを隠しもしない。
 だがなかなか大した度胸の持ち主であるといえる。という緩和剤があるとはいえ、見るからに恐ろしげな私に関わろうとしたのだから。
「君は外交官だ。氏とはすでに面識があるだろう?」
「もちろん。ですが、私は氏を懐柔できる人材を探しています。今後の日本国の発展には条約改正は絶対必要なのですから」
 彼は決然とした表情で前を見据える。静かに燃える情熱が見えるようであった。
「条約改正、ね。すまんが政治の話には興味がないな」
 肩をすくめると、公使も苦笑した。
「そうですか……。そうそう、都合の良い話が落ちているはずもありませんね」


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 話している間にも新たな馬車が到着し、公使館はますますにぎやかになっていった。
 こちらの用件は済んだので、帰ろうと腰をあげる。
 車寄せまで見送りにきた公使とまずまず和やかなうちに別れた。
 彼女はにこやかに、調査をお願いしますと頭を下げる。
 見つかるわけもないが、強く撤回するのもおかしいので、そのままにせざるをえない。
 数ヵ月後には不首尾の回答が届くだろうが、それでなし崩し的に終わりにするつもりだ。
 ここへ来ることも二度とないだろう。
 公使館が見えなくなると、は顔を両手で押さえてじたばたと足を踏み鳴らしだした。
「ど、どうしたんだ!?」
 顔を上げると、彼女の目は興奮で輝き、頬は薔薇色に染まっていた。
「や、なんかこう、くう〜〜ってなっちゃって。あのね、いまがどんな時代かだいたいわかったのよ! 明治十一年って言われても、それまではピンとこなかったんだけど、ようやくわかった!」
「そうか」
 あまりの興奮ぶりにどう言葉をかけてやればよいのかわからない。
 一緒になって喜ぶには日本の知識が足りなすぎるし、不愉快な様子を見せるのも大人気ない。
「もうね、一つ思い出したら連鎖的にどんどん出てきてね。さっきからしゃべりたくてしゃべりたくて。でも公使相手にそんなことしたら怪しまれるに決まってるものね。わたし、一度も日本に住んだことがないってことになってるんだもん」
「まあな。とりあえず話は屋敷に戻ってからいくらでも聞いてやるから、落ち着いてくれないか」
 馬車の中で暴れられては道行く者に奇異の目で見られてしまう。
 しかしは聞いていない様子で夢見るように両手を胸の前で組んだ。
「斉藤一とか、まだ生きてるのよね……。今なら、日本に行けば会えなくもないし。うわぁ、ちょっと行ってみたくなっちゃった……!」


 ……なんだと?







日常その4で日本公使館はティボリ街、と書いてしまいましたが、そこは一番最初の場所で一度引越したみたいです。で、そこがジョゼフィーヌ通りらしい…。
一応、同じ名前だと思われる通りが現在の12区にあるのですが、そこなのかなぁ…。

紀尾井坂の変は1878年5月14日です。一応、この話は7月の下旬くらいと思っていますので、手紙が届く頃だろうかと…。
ただ、この当時すでに電報があれば(や、あるのはわかってるのですが、日本―フランス間があるのかということ)この話は成り立たなくなるだろうなぁ…。


09/04/15追記:「明治人のお葬式」という本を読んでいたら、大久保利通暗殺の知らせは事件翌日のロンドンタイムズ(もちろん、英国のですよ)に載っていたのだそうです。ということは、どういう経路(大陸経由なのか太平洋経由なのか)かはわからないけど、やっぱり電報はあったみたいです。が、この話を書いたのはだいぶ前ですし、今更書き直すことも難しいのでそのままにしておきます(汗)




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