一八七八年七月。
 わたしは日本公使館へと向かった。エリックの屋敷に居候させてもらわなければもっと早く訪れていたところだっただろう。
 しかし、冷静に考えれば、ここはわたしにとっては百三十年前の世界だ。わたしの身元を証明できるようなものも、人も、ありはしない。捕まったりはしないだろうが、奇異なものを見るような目で見られて追い返されるのがオチだっただろう。
 だから、行かなくて正解だったのだと思う。
 それからは日々の生活があったので、自然と公使館のことは忘れてしまっていた。公使たちに会わなければきっと思い出しもしなかっただろう。だが勢いのついていたその時ならばともかく、この時代における自分の立場を自覚している今では「おいでください」といわれても、「はいそうですか」とはいかない。わたしの素性は怪しすぎるのだ。
 だが会ってしまった以上、逃げるのも具合が悪い。幸いエリックは外国を放浪した経験が豊富で、東アジアにもいたことがあるという。彼の知識とわたしのあやふやな近代史の記憶を駆使して、偽の経歴を作りあげることにした。
 もちろん偽の経歴なので、いくら探してもわたしの「父」などいないだろう。しかしこう言っては無責任かもしれないけれど、後は野となれ山となれ、である。
 そしてわたしたちはわたしの同胞のいるところへ、敵陣に乗り込むような気持ちで向かったのだった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 会見が終了し、馬車に戻った。
 公使館が見えなくなると、わたしは抑えていた興奮が爆発し、身悶えた。
 エリックがぎょっとしたようにわたしを見たが、構ってはいられない。もう頭の中はぐるぐるになっているのだ。
 あんなにびくびくしていたのが嘘のよう。会見はものすごく面白かったのだ。
 話がどうのというよりも、この時代の日本の状況が、だ。
 映画や小説の世界に入り込んだわけではないのだし、この先、流れ流れてわたしの暮らしていた時代につながることを考えれば、面白がるのは不謹慎といえるだろうが。
 しかし、ミーハーといわれようと、楽しいものは楽しいものだ。
 そんなことをべらべらと思いつくままにしゃべると、エリックは言葉少なに返事した。「ああ」とか「そうか」とか、「ふうん」とか、そればっかり。
 スクリブ通りの入り口前で馬車を降り、ベルナールさんと別れてからはむっつりと黙り込んだ。
 辺りが暗くなり、階段を降りる靴音しか聞こえなくなると、さすがのわたしの興奮も収まった。彼が黙ったままなので、うるさくしすぎたと反省する。ちらりと見上げれば、口をへの字にしてまっすぐ前を見ている彼の横顔があった。
 いつぞやのようにわたしが転げ落ちないようにと、一緒に出かけるときには手をつなぐのだが、その手を握る力が随分強い。心なしか歩くスピードも早くなっているようだ。
「ごめんね、ちょっとしゃべりすぎたね」
 彼がぴりぴりしていると感じて口を閉じた。わたしは楽しかったが、彼にしてみれば会う必要のなかった人たちと会わなければならなくなったのだ。色々と気疲れをしているところにわたしがはしゃぎまくったので、不機嫌になったのだと思った。
 エリックはなにも答えてくれない。ただ、手を握る力がもっと強くなっただけだった。
 ……潰れてしまいます、エリック。
 抗議をしようかと再び顔を上げる。ふと、気付いた。エリックはさっきから全然わたしを見てくれない。
(……もしかして、怒ってるのかしら)
 こんなことぐらいで、とも思ったが、きっとなにか気付かないうちに彼の逆鱗に触れてしまったのだろう。何に怒っているのか言ってくれればよいのに、こういうとき、彼は黙って抱え込んでしまうのだ。
「エリック、怒ってるでしょ?」
 とりあえず、確認した。ここでむっつりしたまま『怒っていない』という返事が返ってきたのならば、彼は大抵怒っているのだ。
「怒っていない」
 予想通りの答えが返ってきたが、そのわたしを見下ろす眼差しには冷たい炎を宿していた。
 ……これは予想以上に怒っているということだ。一瞬、恐ろしさに襲われて、思わず足を止めてしまった。
「行くぞ」
 エリックは立ち止まるのを許さないというように、ぐいと手を引っ張った。
「エリック、ねえ、何を怒っているの?」
 聞こえていないはずはないのに、エリックは答えない。その後も何度か聞いたし、わけがわからないながらも謝ったが、彼は怒りを解いてくれなかった。小舟に乗って屋敷に到着し、中に入ると乱暴に玄関を閉める。
 金属の鍵が回される音がやけに大きく聞こえた。
 振り返ったエリックは、怒りのあまりか顔がどす黒くなっている。
 さすがのわたしも身の危険を感じ、彼から離れようと後じさった。だが彼はそれよりも早く長い腕を伸ばして二の腕をつかんでくる。
「舌の根も乾かぬうちに……。お前という女は……!」
 ぞっとするほど低い声。思わずその場に縫いとめられてしまった。
「行かせるものか……」
「え……?」
 エリックはぐいっと引っ張るとわたしの部屋に向かった。そのまま放り投げられるようにして入れられる。
「しばらくここにいろ。大人しくしていられないならば縛っておくが。どうする?」
「ちょ……待ってよ!」
「待たん」
 エリックはそうはき捨てると扉の前で仁王立ちになった。
「お前はここにいるのだ。ここに。私とな」
 激情を堪えるように肩を震わせる。わたしはようやく己が失言したことを理解した。
「本気にとらないでよ、わたしが今の日本に戻ってどうするっていうのよ!?」
「だが、会いたい奴がいるんだろう。……男か?」
 そ、そりゃ斉藤一は男だけど、あの人に会いたいと言うのは多分にミーハーな動機からだ。
 芸能人に対してきゃあきゃあ言うのと同じレベル。幕末から明治初期を舞台にしたマンガや小説は結構ある。子供のころに少年誌で連載されてた、明治初期が舞台のサムライマンガなんか結構好きだったし。それから昨年の大河ドラマは新撰組が題材だったのだ。どれもこれも全部史実だと思わないが、そこはそれとして興味をそそられたというだけのことである。
「エリック、お願いだから落ち着いて。さっきのはただの軽口よ。わたしはどこにも行かないわ!」
 彼が反論するよりも早く、わたしは斉藤なる人物がどのような人であるかを説明し「日本に行ってみたい」発言は混じりけなくミーハー気分から発したものだと強調するはめになった。
「……だが、動機が不純だとしても、一度郷愁を覚えてしまえば関係ないだろう。お前の時代でないとはいえ、故郷は故郷だ。私のようなものとここに暮すよりは遙かに過ごしやすいはずだ」
 説明を聞き終わったエリックはぼそっと呟いた。まだ目が据わっている。その強情ぶりにさすがに呆れてしまった。
 しかしそれだけ、わたしがいなくなることを恐れているということだろう。とはいえ、そこで話し合いをしようとせず、わたしを閉じ込めるという発想が出てくるあたりは褒められたものではないが。
「……わたしはどこへも行かないわ」
 まっすぐにエリックの目をみつめて噛んで含めるように言う。普段は泰然としているように見える彼だけど、根っこのところには孤独に泣いている子供がいるのだ。その子がいなくならない限り、彼には本当の意味でのやすらぎは訪れないのだろう。だけどわたしには、どうすればその子が笑ってくれるのか、わからない。
……」
 エリックは泣きそうな顔になった。
 わたしは彼に近付くと、腕を広げて抱きしめた。
「どこへも行かない。……少なくとも、わたしの意志ではね」
 絶対に、と言えないのがもどかしい。だが、わたしがこの世界に来てしまったときのように、いつの日かあっさりと現代に戻されてしまうかもしれないのだ。そればかりはわたしにもどうすることもできない。でも、その時までは……。
「そうか」
 エリックもそのことに思い当たったのだろう。諦めと安堵が混ざった表情でうな垂れた。
「どうしてお前は未来の人間なんだ」
 すがるように抱きしめてくる。
「……ごめん」
 そうとしか言えなくて、手の届くようになった首の後ろに腕をまわした。引き寄せられたエリックはわたしの肩に額を乗せる。その頭が小さく振られた。
「それでも出会えなかったままでいるよりは、ましなのだろうな」


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 なんだかんだで仲直りしたわたしたちは、一息いれるためにお茶を飲むことにした。
 エリックは疲れたように少々だらしなくソファに腰掛ける。
「お疲れ様……。本当に、ありがとう」
 一緒に来てくれたことに感謝の意を表しながら、カップを渡すと、彼は気だるげに受け取った。と、なんだかいぶかしむような眼差しでこちらを見る……。
「そういえば、実はお前は日本人としては大柄だったのだな」
 何を言うのかと思えば……。
 わたしは拍子抜けしてかっくりとうな垂れた。
「それもある意味誤解よ。わたしはわたしの時代では全然大きくないんだもん。この時代ではそうかもしれないけどね」
「そういうものなのか?」
 不思議そうにエリックは首をかしげる。
「みたいよ。この時代から比べて、どれくらい大きくなったのかまではわからないけど。そういえば、万博会場で会った人たちもそんなに大きくなかったなぁ。あれくらいがこの時代の日本人男性の平均だとすると、たしかに女の人はもっと小さいことになるわよね」
「そうだろうな。そうか、ではお前がこの時代の女でないことはかえって……」
「なに?」
 ぶつぶつ呟いていたエリックだったが、わたしが問うと我に帰って言葉を飲み込んだ。
「わたしが何ですって?」
 最後まで言い終わらなかったので、意味がよくわからない。聞き返すがふっとあらぬ方に目をやるだけだった。
「気になるじゃない。わたしがどうかしたの?」
 腕を掴んで揺さぶると、渋々といった様子でエリックは答えた。
「いや……。お前がお前で良かったと思ったのだよ。この時代の女だったら、もっと小さかった可能性があったのだろう?」
「まあ、そうね」
 わたしは頷く。
「そうなると、色々と大変になるだろうと思ってな」
「大変?」
 わけがわからず、首をかしげた。ちなみにわたしの身長は、エリックの肩より少し下くらいだ。抱きしめられるには丁度よいと思っている。
「キスをするときに思い切りかがまないといけなくなるだろう? 他にも、まあ、色々だ」
「あ〜……」
 多分、えっちいことを考えてるんだろう。
 これ以上は深く追求すまい。いきなり押し倒されるのはさすがに困る。
 ということで話題を変えよう。
「でも、わたしもそのことでちょっと思い出したことがあるのよね。ほら、公使が日本人の体格が貧弱でうんぬんってしゃべった後、わたし、ちょっと挙動不審だったでしょ?」
「ああ」
「わたしがこの時代に来る結構前に読んだ本のことを思い出してたの。歴史雑学に関する軽い読み物だったんだけど」
 ああ、あの時の感覚をどう説明すればよいだろう。切ないというか居たたまれないというか、顔から火が出るというか。とにかく本人が大真面目なので、口を挟むに挟めないもどかしさがあった。口に出したらなんでそんなこと知ってるのかと聞かれるので挟む気はなかったのだが。
「細かいところは忘れちゃったんだけど、人種……改良論だか改造論ていうのが、昔あったんだって。日本人が欧米人に比べて体格が貧弱だから、外国人とどんどん結婚して体質改善を図ろうっていう……」
「なんだ、それは」
 エリックが呆れたような顔になった。
「あ、一応言っておくけど、これは別にそういうのが実行されたって話じゃなくて、昔はこんな奇天烈なことを言ってた人がいたよっていうふうに書かれてたのよ。いつの時代のことだったかも覚えてないけど、公使のあの様子じゃ、日本国内ではもう出ているかもしれないわね。でも、ちょっとその気持ちもわかるなぁ」
 わたしは苦笑した。
「そうかね?」
「そうよ。わたしは別になにか使命があってパリに住んでるわけじゃないから気楽なものだけど、公使みたいに四六時中、日本の将来がとか外国に張り合わなければとか気負ってると、こういうことでもコンプレックスを抱いてしまうんでしょうね」
 エリックは顎に指をかけてなにやら考え込む。
「それは、やはりこちらの理屈に飲み込まれてしまっているのだろうな。ヨーロッパでは植民地の獲得に血道を上げている。日本がそれに追従するかどうかは彼らが決めるべきことで、強制されるようなことではないが、強くなければ潰されると感じているとしたら、ヒステリックになるのも無理はない」
「う……」
 鋭い。この先日本はたくさんの戦争に関わるということをわたしは知っている。だからといって何ができるわけでもないのだが、責められているような気がして罪悪感を覚えた。
「強くなければ生きていくことは難しい。だからといって、他者を踏みつけにして許されるというわけでもない……。もどかしいものだよ、実際」
 彼は遠くを見るような目になると、深く息を吐いた。
 なんのことを言っているのだろう。日本のことか。フランスのことか。まさか未来が見えたなんて言わないでしょうね……?
 わたしの疑問は顔に出ていたらしく、エリックは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「今のは私のことだよ」
 ああ、こんな風に言うのはズルイ。彼はまるで自分の求めている許しをわたしが与えられるとでも言うように感じさせるのだ。だけどそんな力はわたしにはない。わたしは、エリックが好きなだけのただの女なのだから。
「誰だって幸せにはなりたいものだわ」
 どうせ過去の世界に戻るのなら、そして彼に出会うのなら、もっと前に出会えればよかった。彼が罪を犯す前に。ナンセンスなことを言っているのはわかっている。だけど、彼の苦しみを少しでも小さくできる方法など、これくらいしか思いつかない。
「本当にそう思うか?」
「もちろんよ」
 エリックの強い眼差しが心もとなげに揺れる。
「私のような人間でも、幸せになっていいと思うか?」
「当たり前じゃない!」
 叫ぶような声でわたしは断言した。誰がなんと言おうと、こればかりは譲れない。
 幸せになる資格は、誰にでもあるのだ。
「なら、そのための手伝いをしてくれるか?」
「わたしにできることなら」
 わたしは力強く頷いた。
「私たちの関係を明確にしたい。婚約してくれるか?」
 婚約。
 つまり、【結婚を約束すること。】
 ……えーと、それって。
「もしかして、プロポーズ?」
 決心がつくまで待つと言ったのに。あれからまだ一週間しか経っていないのだが。
「いや、その前段階というところか。求婚は別にするよ。ちゃんとお前の心が決まるまで待つさ。だが、それはそれとして約束だけでもと思ったのだ。他の男が出てこないとも限らないからな」
 エリックは至極真面目な顔で言った。どうやら洒落や冗談ではないようである。
「他の男って、そんな物好きはいないと思うけど」
「絶対ないとは言い切れまい」
 反論は明確だった。
 どうしよう。すごく期待に満ちた目で見てる……。
「ま、まあ……婚約なら」
 構わないだろうかと思い、わたしは承諾した。
「そうか……。良かった」
 ほっとしたように表情を和らげると、エリックははにかんだような笑みを浮かべた。
 どうしよう。

 可愛いんですけど。

 状況に流された気がしないでもないが、流されずにしてどうやって進展するのだ。
 ええい、ここはこのまま乗ってしまえ!
「で、婚約って、具体的になにかすることがあるの?」
 結納とはまた違うのだろうと思い聞いてみると――結納というのも具体的になにをするのかはよく知らないのだが――、
「……」
 エリックは動きを止めて沈黙した。
「……知らないんだね」
「……縁がなかったからな」
「わたし、明日本屋さんにでも行って参考になりそうなの、買ってくるよ」
「……すまん」







*「人種…改良論だか改造論ていうのが…」 1884年(明治17年)に高橋義雄という人が著した「日本人種改良論」のこと。かの諭吉先生も応援していた奇説。なお、本人(高橋氏)の名誉のために付け加えさせてもらうと、後になってから自分でも突飛な論説だったと言っているようです。

*昨年の大河ドラマは…   彼女の中では2005年で時間が止まってますので。ええ。



前へ   目次