が部屋から出てこなくなった。
 はじめは、少し体調を崩しただけなのだと思っていた。彼女は女性特有の問題で、大抵、月に一度は部屋に篭りがちになることがあったからだ。
 だがそれが三日経っても四日経っても、一向に出てこないとなると、どうしたって悪い考えが浮かんでしまう。
 また自分で気がつかないうちに何か彼女を怒らせたり悲しませたりしたのか、それとも……可能性はこちらの方が大きいと思うのだが、私との婚約が嫌になったのか。
 そうでなければ、婚約二日目から姿を現さなくなった理由の説明がつかないではないか。
 いくら恋人同士になったとはいえ、結婚するとなると好き嫌いだけでは乗り越えられない問題も出てくるのだろう。結婚などしたことがないので、どのような問題が出てくるのか具体的なところは実はよくわからないのだが。
 だが、少なくとも私は、どんな女にとっても理想の夫になれない。
 連れ立って歩いているだけで、薄気味悪そうな顔や蔑みの目で見られるのだ。いくら彼女が芯の強い女だとしても、それが毎回となると耐えられなくなってもおかしくはなかろう。
 おまけに、数え切れないほどの罪を犯している私だ。まっとうな人間ならば、関わりを持とうとすること自体、忌避するはずである。
 これまでのことが奇跡に奇跡を積み重ねたようなことだったのだ。
 ここで彼女が暗い夢から覚めて、現実に向き直ったところで、私に責める資格があるだろうか?


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 正確にいえば、彼女は完全に引きこもってしまったわけではないのだ。
 朝食はこれまでどおり彼女が用意しているし、その時間が極端に変わったりもしていない。
 昼食と夕食は用事がない限りは私が担当していが、その時にも遅れずに着席する。
 ただ、食は細くなったとは思う。おっくうそうにこれまでの半分ちょっとの量しか食べなくなった。その分、顔色も優れない。
 食後は、手分けして後片付けをしたあと、同居人の義理は果たしたとでもいわんばかりにまた部屋へ戻ってしまうのだ。
 ろくに会話もない。寂しいなどという生易しいものではなく、私はもういつ彼女に見放されてしまうのかと戦々恐々となっていた。
 ああ、来週の頭には婚約指輪もできあがるというのに……。
 一度もはめられることなく、つき返されることになるのだろうか。
 頭では理解している。
 愛情が冷えてしまったなら、よほどのことでもない限り元通りになりはしないだろうということは。
 だが、私にを手放すことなど出来るわけがない。この闇の世界に一人残されるくらいならば、向けられる感情が憎しみだけになろうとも、 を閉じこめ、二度と地上の光に触れさせたりはしない……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 どれだけの間、そうしていただろう。
 の部屋の前に立ち尽くし、ノックしようと腕を持ち上げては、おろすことを繰り返している。
 情けない。
 ファントムともあろうものが、一人の女にこうも振り回されるとは。
 だが、万が一彼女に詰め寄り、嫌いだとはっきり言われてしまったらと思うと、行動することが恐ろしく思えるのだ。
 しかしこんな生殺しの状況がいつまでも続くのは耐えられない。
 私は意を決し、扉を叩いた。
「…エリック?」
 扉越しにいぶかしげな答えが返る。
「ああ。入っていいか?」
「だめ!」
 あまりの即断に、面食らってしまった。足音がこちらに向かっている。もしや、閂を閉めるつもりなのか?
 私はとっさに扉を押し開いた。
「きゃ……!」
 鈍い音とともに悲鳴があがる。この感触……どうやら勢い余って扉にぶち当ててまったようだ。
「大丈夫か!」
 慌てて引くと、は顔を抑えてうずくまっていた。黒髪がカーテンのように覆っているので表情は窺えない。
「顔に当たったのか?」
 なんてことをしてしまったのだ。もしも傷が残ったりしたら!
 私は自分の短慮を呪った。
「見せてご覧。上を向いて……?」
 ふと、彼女の格好に目が向く。はドレスではなく、ナイトガウンを着ていたのだ。
「具合が悪かったのか?」
 いささか安堵して訊ねた。
 それならば、ここ数日彼女が部屋に篭っていた理由も納得がゆく。だが、体調が悪かったのならば、そう伝えてほしかった。
 そうすれば長い間一人で苦しませることなど、絶対にしなかったのに……。
  はどれほど心細い想いをしていたのだろう。ああ、もっと早く気付いていれば……。
 いや、気がついてはいたのだ。だが私は自分の恐れにばかりかまけて、彼女のことを思いやる余裕をなくしていたのだ。
 がようやく顔をあげる。目の端に涙が浮かんでいた。それを指でぬぐうと泣き笑いの表情になる。
「いたたた……」
 私が彼女の様子を見ようと、そっと手を外すと、は大人しく上を向いた。
「こぶになってる?」
「いや、少し赤くなっているだけだ。冷やしておけばすぐに治まるだろう」
 彼女の手首をつかんだまま、私は立ち上がった。もつられて腰をあげる。
「横になっていなさい。タオルを冷やしてくるから。それから……どこが悪いんだ?」
「え?」
 きょとんとしたように、彼女は私を見つめ返す。
「体調を崩したのだろう? 腹か? 頭か? 熱はないようだが、どこか痛むのか?」
「……病気じゃないと思うけど」
「病気ではない? では、その……婦人特有の何かかね」
 重ねて問うと、は落ち着きなく目を泳がせる。
?」
「いえ、その……暑くてドレスを着る気がしなくって……」
 ばつが悪そうに呟いた。
「暑い?」
 はこっくりと頷く。
「わたし、暑いのって苦手なのよ。それでもパリって日本より湿気が少ないから、現代の服を着てれば平気だと思うんだけど、そんな格好で外出はできないし。なら涼しくなるまで散歩はやめようと思ったんだけど、ここ数日で家の中の温度まで上がってきちゃったじゃない。いくら夏用の生地を使っているっていっても、ドレスを着るのに必要な枚数が変わるわけじゃないし」
 ふう、と彼女はため息をついた。
「おまけにこの間、公使館から帰った後、なんだかむず痒いなって思ってたら、あせもができてたのよ。もう当面はコルセット、つけたくないわ。だけどコルセット抜きで着れるドレスってないし……」
「それで、ずっと部屋に篭っていたわけか」
「そうなの。やることがあんまりないからすごく退屈だったわ。だけど、寝巻きで居間をうろつくわけにもいかないし。動かないものだから食欲なくなるし。もしかして夏バテになりかけているのかも」
 は淡々と説明する。
 つまり、彼女はドレスを着ていたくないばかりに、食事の時間以外、部屋に閉じこもっていたのだろう。
 確かに、以前自室以外で寝巻き姿でうろつくなと言ったのは私だ。彼女自身はそのことになんら羞恥心を覚えていなかったのだから。
 だがそうなると、今回私が死にそうになるほど気を揉んだのは、自業自得ということか? しかし、こんなことになると、一体誰が予想できただろう。
「それならそうと言ってくれれば……」
「いくらエリックでも、涼しくするのは無理だと思って。だって、暖炉も入れてないのに地下のここがこれだけ暖かくなっているってことは、地表が熱くなってるってことでしょう」
「それはそうだが、どんなことにも何らかの対策というものができるのだよ。それよりもお前は自分が部屋に篭ることで私がどんな思いをするか、少しも考えてはくれなかったのかね?」
「え?」
 きょとんとしては首をかしげる。
「何の説明もなく、婚約者に避けられていたのだぞ。それも、婚約二日目から」
「あ……!」
 ようやく思い当たったようで、彼女は急にしおらしくなった。
「ごめんなさい。エリック」
 しゅんと肩を落とす彼女に、私はふと仕返しをしたい衝動にかられた。
「謝って済む問題ではない」
 わざと厳しく言うと、ますますは縮こまる。
「ええ。本当に悪かったわ」
「そう思うのならば、誠意を見せてくれないか? 私は疑い深いのでね、口で言われただけでは納得できない」
「誠意っていわれても……」
 途方に暮れたように私を見上げる。
 私は一歩踏み出して顔を寄せた。
。傷心しているお前の婚約者を慰めておくれ」
 ささやくと彼女はようやく自分がからかわれていることを理解したようで、一瞬咎めるような眼差しを向けてきた。
「……甘えっこ」
「なんとでも言え」
 傲然と言い返すと、は肩をすくめた。
「でも、好きよ」
 彼女はそっと私の両頬を優しく包み込み、引き寄せた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 さて、原因がわかったものの、どうやって解消しようか。
 彼女の指摘どおり、涼しくするのは暖かくするよりも難しい。
 これが普通の家ならば、窓を開けることもできるだろうが、生憎地下では風を入れることもできないのだ。
 正直に言えば、が散歩を止める気になったのは嬉しい。これまで以上に一緒に過ごせるのだから。
 だが、あの顔色の悪さは外の空気に触れていないことにも原因がありそうな気がする。毎日、とはいわなくとも、二、三日に一度くらいは外へ出した方が……。
 しかし、暑くてドレスを着る気がしないとなると、それも難しいか。人気のない時間帯であれば、現代服を着るという手もあるにはあるが、この界隈では朝早くから夜遅くまで人通りが絶えることはないのだ。
 どうすれば……。
 ふと、私はあることを思い出して自室に戻った。
 オペラ座のスケジュールを取り出し、確認をする。
 ああ、やはり今夜は休演日だ。それならば……。
、現代の服を着ても良いから、居間にいておくれ。お前の姿が見えないと寂しくてしかたがないよ」
 再び彼女の部屋へ行き、タオルで顔を冷やしている彼女に告げた。
 は一瞬意外そうな面持ちになるが、すぐに破顔する。
「本当に?」
「ああ」
 すぐに椅子から立ち上がり、クロゼットを開ける。今にも脱ぎだしそうなので、名残惜しいと思いながらも部屋の外へ出た。
 それから十分もしないうちに、が出てくる。
 久しぶりにみる彼女のズボン姿だ。足元はスニーカーとやらではなく、サンダルだ。丸いかかとが見えてとても嬉しい。
「ねえ、エリック。ベルトってない?」
 腰の辺りを押さえながら、が近付いてくる。
「ベルト?」
「コルセットの威力って、すごいわね。体重が変わった気はしないのに、そこだけ緩くなってるのよ、ほら」
 と、彼女は肌とズボンの間に手を差し込んでみせた。
 もともと股上が浅いため、滑らかな肌が隙間から見え隠れしている。情けなくも反射的にのどが鳴った。
「エリック?」
 いぶかしげに声をかけられて、私は我に返った。
「ああ、ベルトね……。持ってはいるが、私のでは大きすぎるだろう。ズボン吊りを持ってくるから使ってごらん」
「ん」
 そそくさとその場から離れると、私は頭を抱える。
 危なかった、みっともないところをさらすところだった。
 それよりも彼女がなんのつもりであんな……。
 まあ、どんなつもりもないことは、火を見るよりも明らかだがな。
 自嘲しながら、私はクロゼットを漁る。
 彼女ともっと親密な関係になりたい。その願いはずっと以前からあって、日を増すごとに募ってゆく。
 だが、不意打ちのように自ら無防備な姿をさらけ出すような娘に、どうしてそんな真似ができよう。
 据え膳を喰らわぬは男の恥というが、自分が据え膳になっていると気付いていないのだからな、まったく……!
 私は一つため息をつくと、妙に疲れた身体を引きずり、彼女の元へ戻っていった。






なんて進展のない二人だろう…



目次  次へ