ドレスを着るまでに必要なものを下から順に挙げてみよう。
 まずはシュミーズ。袖のない、膝丈の肌着だ。
 その次に、ドロワーズをはく。分類としてはショーツになるのか、股引みたいなものになるか、微妙なしろものだ。なにしろ、とてもゆったりとした作りになっているので、ショーツの役目を果たしているといえるかどうか……。ちなみに、シュミーズはドロワーズの中にいれるのだ。これが膝下くらいまでの長さがある。
 さて、その上に肝心のコルセットをつける。これで胸からお尻の中ほどまで覆われる。ちなみに、あの見た目だけは優雅な曲線を描いていられるのは、中に張り骨が入っているからだ。素材にはいくつかあるが、わたしのものはエリックに聞いたところ、鯨の鬚であるという。ううむ、日本人としてはちょーっと問題ありと言えるだろう。これは彼がまとめて注文したものなので、次回は鉄製にしてもらうつもりだ。……錆びるらしいので、手入れが大変みたいだが。
 ああ、それにしても形状記憶合金って、いつ発明されるんだろう。毎日のように着用していれば嫌でも慣れるとはいうものの、付けずに済むのならばぜひともそうしたい、と二十世紀末生まれの人間としては切実に思う。
 その上に付けるものは、ドレスの形によって様々だ。
 バッスルが必要なものはまずそれをつけ、そのうえにペチコート。
 そして最後にドレスを着る。
 そのドレスにしても、日常的に着るものはすべて長袖だ。腕を出していいドレスは夜会用で、暑いからといって散歩に着ていけるものではないのである。

 そう、七月ともなると、パリも日本並みとはいえないまでも、しっかり暑くなるのだ。
 湿気が少ないので、日陰に入ればだいぶ楽なのだが、長袖を着ていても平気だといえるほどではない。
 だから暑さに弱いわたしにとって、エリックの地下の屋敷は夏場はとても過ごしやすい環境であるはずなのだが、いかんせん、風が入ってこないので、だんだんと熱気が篭ってきたのだ。
 おまけに、とうとうあせもができてしまった。わたしは毎年暑い時期には一度は出るのだ。服の下に隠れるとはいえ、気持ちの良いものではない。
 こうなったらとれる手段は一つしか思いつかない。当分の間、ドレスを着るのをやめるのだ。となれば、居間にいるわけにもいかないが、暑さには勝てない。
 そこでわたしは、朝食の用意をするために着替えをし、それが終わったら自室に戻ってドレスを脱ぎ、ナイトガウンに着替えた。シュミーズ姿でいるのはさすがにだらしがなさすぎるように思えたので、このあたりが限界だろう。
 そして昼食と夕食をやり過ごすためにそれぞれ二回ずつ着替えをする。都合、一日六回も着替えをすることになる。以前のわたしならば信じられない行動だ。
 ところがこれが大失敗。
 この『エリックに会う時間だけはちゃんとした格好をしよう作戦』は彼の乱入によってストップしてしまった。
 エリックは、わたしが部屋に篭りきりになってしまったので、自分との婚約が嫌になったのではないかと、悩んでいたらしい。……悪いことをしてしまったと思う。
 だけど、それを言うのならば、エリックだって作曲だの発明だのに熱中すると、何日もの間、わたしのことを一人で放っておくのだが……。まあ、言わぬが花というものだろうか。
 だけど災い転じてなんとやら、エリックの方からわたしがここに来た時に来ていた服を着てもよいというお達しがあり、わたしは久々に軽くて涼しい格好になることができた。
 そして改めて着ると、現代の服の身軽さと機能性は、この時代のドレスとは比べ物にならない。ああ、この感覚を忘れていたわ……。慣れって怖い。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「さ、これをお飲み」
 キッチンでなにかしていたかと思うと、エリックが湯気の立つティーカップを持ってきた。
 この色は紅茶ではないな。それに、匂いがとても清涼だ。
 ただし、わたしはあまり好きではないのだが。
「もしかしてミントティー?」
「そう。夏バテならば胃が疲れているのだろうし、それならミントがいいと思ってね。……もしかして嫌いだったか?」
 躊躇するわたしに、エリックは気遣う表情になった。
「うーん、スースーするのが、ちょっと苦手なの。でも飲むよ。せっかく入れてくれたんだし」
「そう。まあ、薬だと思えばたいしたことはないだろうしね。ああ、ミントが苦手ならば甘くしようか?」
「……そうしようかな」
 蜂蜜を一匙いれたミントティーはほのかに甘く、そしてそれ以上に強烈な香りで身体にたまった疲労が吹き飛ばされるようだった。
「ところであせものことだが、あれにもラベンダーが利くはずなのだが……」
 わたしは化粧水としてラベンダー水を使っている。材料はこの間のピクニックで取ってきたものだ。
「あ、うん。そうだと思ってつけてみたわ。もう赤みは引いてるから大丈夫よ」
「そう、なら良かった。それとね、
「なに?」
「夏バテならば、部屋でじっとしているのはかえって身体によくないのだよ。夕食後にすこし風に当たりにでかけよう。日が落ちてからならあまり負担にならないはずだ」
「……お誘いは嬉しいんだけど」
 そのためにはまたドレスを着なくてはいけないからな……。そんなわたしの考えを読んだのだろう、エリックは小さく頭を振った。
「着替える必要はない。出かけるのはオペラ座の屋上だ」
「屋上!」
 わたしは素っ頓狂な声で叫んでしまった。オペラ座の屋上だなんて初めて行く。地上から見上げたことは何度もあるけどそこへ登れるとは思わなかった。子供っぽいが、わくわくしてきた。
「行くかね?」
「もちろん!」
 わたしは即答した。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 屋上までのルートは、なかなかスリリングだった。舞台や楽屋付近ならば、彼お得意の秘密の通路が縦横に走っているのだが、そこを過ぎるとほとんどなくなってしまう。
 そのため、通常の通路を使うのだ。もちろん人気がないことを確かめてから渡るのだが。
「今日は公演がない日なんだ。だから誰かに出くわすことはそうそうないと思うが、念のため、気をつけておくれ」
 前を歩くエリックが振り返りつつ注意してくる。
 彼の格好は、オペラ座へ出かけるときの定番であるテイル・コートだ。暑くないのだろうか。
 狭い通路には、時折舞台の道具らしきものが落ちており――置いているのかもしれないが――雑然とした印象がある。あの華やかな外観や舞台に比べるとみすぼらしいとしか言えないくらいだ。
 天へと続くかのような長い長い階段を昇り、息が切れそうになったところで、ようやく屋上に到着した。
 エリックが鉄製の扉を開けると、外からの光が差し込んできた。
(……光?)
 妙な気がして首を傾げつつも、わたしは屋上へ足を踏み入れる。
 すると、西に大きく傾いた太陽が建物の間から覗いていた。
(あれ、なんで……?)
 エリックは、夕涼みをするために夕食後の外出を提案してくれたはず。実際、家を出たのは八時少し前だ。なのになんでこんなに外が明るいのだ。
 家中の時計がそろいもそろって狂ったのか?
「エリック、今何時? わたし、時計を持ってこなかったの」
「ん? ええと、八時三十分になるところだ」
 懐中時計を取り出して教えてくれる。てことは、別に時計がおかしくなったわけでは……ああ、そうだ! パリは日本より緯度が高いんだっけ。そうか、それで昼間が長くなってるのね。
、どうしたんだ?」
 その場に固まっていたわたしに、エリックが近付いてくる。ほとんど真横からの太陽に照らされているため、影が長く長く伸びていた。
「ううん、なんでもないの。ちょっとびっくりしただけ。日本だと、夏でもこの時間はもう真っ暗になっているから」
「ああ、そうだろうね。こちらの方が緯度が高いから。夏至の時期だと九時ごろまで太陽が出ているのだ。その分、冬の夜が長いのだがね」
「そうなのよね。考えて見ればわかることだけど、実感したのは今日が始めてよ」
 なにしろ門限があるものだから、六時までには戻らなければならないのだ。日が長いかどうかなんて、わかりようがない。
「まだ残照が強いね。日陰に入ろう。こちらへおいで」
 エリックに手を取られて大きな彫像の影に避難した。風はずいぶん熱いが、現代服を着ている今は気持ちが良いくらいだった。
 天を見上げると、東の空は藍を帯び始めている。刷いたような雲が、下から夕陽に照らされて、オレンジ色になっていた。
 わたしたちは無言のまま、刻々と色あいを変える空を眺めていた。
 太陽が沈んでも、しばらくは残滓が残っているものだ。明るいのにまぶしくないという、奇妙な時間。
 ふと物寂しさに襲われて、エリックの腕にしがみつく。彼は苦笑しながら目元をくしゃくしゃにして、頭をなでてくれた。
 空のオレンジ色が徐々に薄くなり、代わって地上にぽつんぽつんと灯りがともる。
 どちらからともなく歩き出し、手すりの近くまで近寄った。
 眼下にはまっすぐに伸びるオペラ大通り。
 人も馬車もまだたくさんいる。すでに酔っ払っているのだろうか、ふらふらと歩く人影があった。仲睦まじそうに腕を組んで歩く恋人たち。家路へ急いでいるのだろうか、せかせかした足取りの人。広い街路を猛スピードで駆け抜ける馬車。
 視線を右に転じると、遠くにトロカデロ宮が見えた。パリ万博は今日も絶賛開催中である。
 何かするというわけでもない、気が向いたときに他愛もない会話をしたり、屋上をぶらぶらと歩き回ったり。
 文字通りの夕涼み。だけどこんな夏のすごし方をしたのは、何年ぶりだろう。
 なんだか懐かしい。子供の頃に戻ったような気分だ。
 石造りの町は日本とは少しも似ていないけれど、ここにスイカと風鈴があってもおかしくはあるまい。
 そんな風に思った。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 次の日、エリックは買い物に出かけ――そしてわたしはお留守番……。いいんだけどね、別に――山ほど布地を買ってきた。
 柔らかな少し薄めのインド更紗。
 赤にオレンジ、緑に青、紫なんてものもある。無地のものと、お花やなんかの模様があるのと色々あって、虹のように鮮やかだ。
「どうするの、これ」
「パンジャビドレスを作ろうと思って。これならコルセットは必要ないから、お前も気軽に過ごせるだろう。もちろん、寝巻き用ではないよ。それと、外出用でもない」
 つまりは室内着で、夏の間はこれを着ていろということなのだろう。それならそうと言えば良いのに、持ってまわった言い方がなんだかおかしかった。思わず噴出してしまうと、彼は憮然とした表情になった。
「なんだね?」
「いいえ。ありがとう、すっごく嬉しい」
「……そうかね」
 納得いかないように、首をかしげるエリック。
「うん」
 だがわたしが断言すると、ちょっと嬉しそうな顔になった。
「どの色がいい?それから仕立てよう」
「あ、わたしも手伝いたい。着るのはわたしだもの」
「構わんよ、どのみち着替えの分が必要だからね」



 それから一週間も経つころには、わたしはすっかりそのインドの民族衣装のトリコになってしまった。軽くて身体を締め付けることもなく、涼しい。
 だけど冷静に考えてみれば、パリにいる日本人がインドの衣装を着てるって…何かがひどく間違っているような、気が、する。







最初アオザイ(ヴェトナムの民族衣装)にしようかと思ったのですが、まだこの時期には存在していなかったようなので。
パンジャビドレスは半そでワンピースにパンツの組み合わせです。




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