ランプの明かりだけを頼りに、暗く曲がりくねった、時々ひどく狭くなる階段を降りてゆく。
 最下層にたどり着くまでにはエリックの仕掛けた罠が待ち構えているのだ。それを慎重に解除して地下湖の岸辺へたどり着かなくてはならない。
 地下に満々とたたえられた水はセーヌの地下支流なのだから、本来ならば透明なのだろう。だが、日の差さないここでは黒く翳っており、ランプのほのかな輝きを受けて黒光りをしているように見えた。その様子はペルシアで見かけたことのある、地下からわきだす黒い油のようでもあった。
 私は明かりを掲げて対岸を見据えた。まだ彼は出てきていないようである。
「やれやれ…」
 私はランプを床に置いた。

 今日は週に一度のエリックとの面会日だ。
 彼が新しく建てられたオペラ座に出没する幽霊の正体だと知ったときから、私の彼に対する追跡が始まった。
 ここまで来れるようになるまで、ずいぶんかかった。罠があちこちに仕掛けられているし、私に見張られていると気付いた彼は、出入りをする時にはどうやって解除しているかわからないようにしたからだ。そんなことをしなくとも、エリックほど夜目の利かない私には何をどう動かしているか、さっぱり見えなかったのだが。
 それでも不断なる努力を続けた結果、こうして湖まで来れるようになった。船さえあれば湖を渡ることもできるのだが、生憎そこまでは至っていない。
 とにかく、私にここまでの道順を知られたエリックは、週に一度私と会うことを承諾したのだ。
 私にとってこの面会は、半分は彼が悪どいことをやらないように戒めるためなのだが、もう半分は古い友人と会うのが楽しみだからでもある。ペルシアを追われた私には、もうほかに親しい人間がいないのだ。もっとも彼の方はどんな気持ちで私と会っているのかはわからないが。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 キイ、とわずかに軋む音がして、対岸の扉が開いた。
 室内の明かりが隙間からこぼれて、細長い男のシルエットが浮かび上がる。扉が閉ざされると、フロック・コートは闇の色と同化し、仮面とシャツの白さだけが目に焼きついた。
 小舟に乗って徐に櫂を手に取ると、彼は滑るようにこちらへ向かってきた。
 岸辺へ踏み出した途端、
「いつものことながら、随分早いのだな。他にすることはないのかね、ナーディル」
 開口一番に憎まれ口を叩いた。
「いつものことながら、君は全然時間を守らないんだな、エリック。私は定めた通りに到着しているんだぞ」
 と、私は返す。実際、私は時間を厳守しているのだ。
 エリックは肩をすくめる。私はやつの動作の一つ一つをしっかりと観察した。彼の仕草の中に、重大な犯罪の予兆が現れていないかを見定めるために。
 今週のエリックはどちらかといえば機嫌が良いようだ。顔の半分が仮面で覆われているし、表情の判別もつかないほど暗いので、普通の人間ならば彼の喜怒哀楽など読みとることはできないだろう。とはいえ、明るいところで会ったところで、彼はいつでも不機嫌そうに見えるのだが。
 しかし彼の声は表情の乏しさを補って余りあるほどの情報を私に伝えてくれる。今まではあまりにも彼が浮かれているようなときは、即座にオペラ座に対する何らかの企みを持っているのだろうと解していたのだが、最近ではそうでないことの方が多いとわかるようになっていた。
「ご機嫌だな。なにがあった?」
「そう見えるかい?」
「ああ」
 間髪いれずに答える。
「我が家の小鳥が羽の色を変えたんだよ。より鮮やかに、軽やかになったんだ。とても美しい。きっとそのせいだろう」
「ほう?」
 小鳥とはもちろん嬢のことだろう。エリックとの同棲ができる凄まじく根性の据わった娘さんである。
 羽の色が変わったというのはどういう意味だろう。新しいドレスの出来がよほど気に入ったのだろうか。
 だが丁度いい。嬢のことならば、私もぜひ確かめなければならないことがあるのだ。
「その君のところの小鳥なんだがね、最近ちっとも姿を見せないようなんだが。放し飼いにするのはやめたのかい?」
 エリックはなんでもないという口調で答えた。
「彼女はパリの暑さにすっかり参ってしまって、しばらく外には出たくないのだそうだ」
「それは、本当に彼女の意思なのかい?」
 重ねて訊ねると、彼はうるさそうに首を振った。
 私だって信じられるものならば信じたい。しかしペルシアでそう短くもない間彼という人間を見てきた者としては、簡単に警戒を解くわけにはいかないのだ。
「私はいつだって、彼女の意思を尊重しているよ」
 疑われたことを心外だと思っているような声で返す。
「それなら、秋になるまで外出はしないと?」
 試すように私は訊ねる。これで少しでも動揺や言い淀みがあるようなら、嬢は彼によって自由を奪われたのだと解釈せざるを得ない。
 ここは彼の領域だから、力で劣る少女なら如何様にでも閉じ込めることができるだろう。実際にその姿を見ないと安心はできない。その時はどんな手を使ってでも解放するのが私の務めだ。
「外には連れ出している」
 むっとしたように彼は答えた。
「夜に、屋上へね。信じられなければ九時頃にオペラ大通りから見上げてみたまえ。君にも見えるように端まで寄ってみせよう」
「わかった」
 きっぱり断言したので、私は引き下がった。そしてフロック・コートの内側のポケットから手帳を取り出す。
 これには怪人に関する噂話や、見聞きできた限りのエリックとその関係者にかんする動向を逐一記している。今回は特に気にかかることがあった。
 ここ数週間、『オペラ座の怪人』はほとんど行動をしていないのだ。このまま恐喝もやめて、真人間として一から出直してくれれば良いのだが……などと思いながらそのことについて聞いてみる。すると彼はさも私が馬鹿だとでもいうように、目をすがめた。
「恐喝というのは、恐喝されるべき相手がいなければどうしようもないものじゃないか。ルフェーブルは三週間前からヴァカンスに行っている」
「いないのか? 万博目当ての客が大勢見込めるのに、余裕だな」
「仕事というのは替えが利くものだよ。絶対にそいつでなければならないというようなものなどないさ」
「それがフランス人の発想かい?」
 納得のいかない私に、
「いいや、全世界共通の真理だよ」
 エリックは澄まして答えた。
「心配せずとも、支配人が戻ってきたらちゃんと怪人業は再開するさ。給料も二ヶ月分、まとめてもらわねばならないしね」
「私が気にしているのはそのことではないよ」
 効果など全くないと知りながらも私は釘を刺す。
「ふふん」
 だが彼は鼻で笑うばかりだった。
「ああそうだ、ナーディル」
 幾ばくかの沈黙のあと、彼はいかにも今思い出したとでもいうように、軽く手を打った。小舟に戻るとなにやら抱えてくる。
「さあ、あんたが『借りたがっていた』ものだよ。持って行きたまえ。そしてそのまま私から『借りた』ことは忘れてくれ」
 言いながらエリックはずっしりとしたものを私に押し付けた。
「何だ、一体……」
 それなりに重量があったので、私は落としてしまわないように慌てて両手で受け取った。
 感触から書物であることはすぐにわかったが、私は彼から何かを借りるような約束などしてはいない。怪訝に思いながらランプで背表紙を照らす。麻縄に括られた数冊の本、それはどれも小説の類だった。
「……これをどうしろっていうんだ?」
 訳がわからず、私は首を傾げた。
 すると彼は額に指をあて、いかにも苦悩しているように重いため息をつく。
「……は結構な読書家なんだ」
「いいことじゃないか。もっとも、ロマンス本ばかり読んでいるのならそうともいえないが」
「読まないこともないが、さほどの数でもないな。まあ、とにかく昨日気付いたのだが、彼女は今度ゾラを読み出してね……」
 括られた本の一番上は、件の作家によって昨年出版されたものだった。大した反響があったのだが、その多くは非難の類だったと記憶している。だがそれも話題となって、ベストセラーになったのだ。
「それが? ゾラが嫌いなのか、君は」
 その割にはどの本もきちんと革で装丁している。嫌いだったら彼のことだ、さっさと処分しているだろう。
 エリックは頭を振った。
「ゾラは観察力のある良い作家だと思うよ。その本に書かれたことよりひどいこともあれば、さほどでもないこともあるが。労働者階級、それもとくに貧しい部類に属しているものは、生きることに余裕がないので、多かれ少なかれ利己的で醜悪なところを現しやすい。だが……」
「だが?」
「こんな世界のことは、は知らなくていいんだ」
「……」
 その声には哀しみが潜んでいた。
 彼がオペラ座で隠れ住むようになる前にどんな暮らしをしていたか私は知らないが、ペルシアにいたときのようにはいかなかっただろう。かの地での彼の権勢は皇帝や太后の後ろ盾があってのことだ。彼の隠しても隠し切れない外見のおぞましさ、それすらも絶好の退屈しのぎになっていたのだから。
 しかしパリでは……この美しくも冷ややかな都は、彼のような人間をいとも間単に削除しようとしただろう。
「だから、君に貸す約束をしたからといって取り上げたんだよ。似たような傾向のもので、思い出せる限りのものも取り除いた。他にもまだあると思うから一度書庫を点検しないと」
 彼は悲惨を知っている。知っているからこそ、大事な女性を近づけまいとしているのだ。
 小説如きで大げさな、と一笑に付すこともできるだろう。だが、私には笑えなかった。
 彼女は彼の救いなのだ。この世のあらゆる汚濁から守りたい、神聖な存在。
「そういうことなら受け取っておこう。まだ読んだことのないものもあるし、この機会に読んでみるか。で、返さなくていいんだな?」
「ああ。煮るなり焼くなり売るなり、好きにしてくれ」
「わかった」
 ほっとしたように彼は肩から力を抜いた。
 思いがけずエリックのいじらしいところを見せつけられた反動で、どうにもからかいたい衝動が沸き起こってくる。
 何気ないフリをして、私は簡単な罠を張ってみた。
「しかしエリック、こんなものよりもっと読まれて困る本があるだろう。『ファニー・ヒル』の類はどうしたんだ?」
「それならとっくに……」
 エリックは言いかけた後、憮然とした様子で口を閉じた。
 やっぱり持っていたのか。それにしても、まさか本当にひっかかるとは。幸福に酔うあまり、警戒心が緩んできているんじゃないか?
「とっくに?」
 私は笑いをこらえて続きを促す。自棄になったように、彼は吐き捨てた。
「とっくに焚き付け代わりにして燃やしたさ。あの子はここに来た当初からフランス語はだいたいわかっていたからね。見つかりでもしたら……」
「なんだ、だったらこの本も燃やしてしまえば良かったじゃないか」
 いいながら私は本の束を持ち上げる。
「仮綴じ本と一緒にしないでくれ。革で装丁している本など燃やせるものか。臭いがひどくて窒息しそうになる」
「それもそうか」
 私が笑うと、彼はそっぽをむいて腕を組んだ。


「もう、行くよ」
 話に区切りがついたところで、エリックはいつものように切り出した。
「ああ、ではまた来週に」
 少しばかりの寂然とした思いを抱えて、私はきびすを返す。数歩歩いたところで妙な音が聞こえた。どこか緊張感を孕んだ、甲高い音。ただし、それはエリックの家の中でしているためか、くぐもっていた。
「なんだ……?」
「ああ、くそっ!」
 背後でエリックがののしる。船に乗り込んだばかりの彼は肩を怒らせて櫂を投げ捨てた。
「警報音か?」
「違う、連絡用のベルだ。ベルナールが来た」
「ほう。では一緒に上に行くかい?」
 そう言うと、エリックは実に実に嫌そうな顔をしたのだ。なんて失礼な奴!
 しかしこうも不機嫌になっているということは、私に知られたくないことがあるに違いない。
 と、堅く閉ざされていた扉が開き、暖かそうな明かりを背にした少女がひょっこりと顔を覗かせた。
「お話中にごめんなさい。エリック、ベルナールさんが来たみたいなんだけど……」
 遠くまで聞こえるように、口元に手を当てて嬢は叫んだ。
「ああ、聞こえたよ。ベルを消しておいてくれないか、やり方はわかるだろう?」
「うん。……こんにちは、カーンさん」
 少女はぺこりと頭を下げた。柔らかくゆれる鮮やかな衣装は、冥府のようなこの場でいっそう華やかに見える。
「やあ、さん。驚いた、とても似合いますよ」
「ありがとう。エリックが用意してくれたの」
「ほほう」
 嬢はにこっと笑う。特に憔悴している様子はない。これなら彼の主張を疑う理由はなさそうだ。
「中へ戻りなさい、
 エリックは苛立たしげに言った。嬢はちょっと肩をすくめただけで、また私に向かって軽く一礼すると、笑みを浮かべたまま中へ戻ってゆく。本当に肝の据わった女の子だ。
「で、私は帰るけど、君はどうするんだい?」
 嬢がいなくなってから、私はおもむろに訊ねた。むろん、ベルナールには駄目でもともと、話を聞くつもりである。
「私と一緒に地上へ行くんだ、ナーディル。そして留まることなく家に帰れ」
「君がベルナールに与えた……それともこれから与えるのかな、どちらでもいいけど、その用件次第だよ。私は君が悪事を為していないか見張っているんだ。そのことを忘れないでほしい」
「……後ろ暗いところなんかないさ」
「なら、私がいても構わないだろう?」
「構うよ。私にだってささやかで害のない秘密くらいあるんだ」
「本当に、ささやかで害がないのか?」
「それ以上言うのなら本気で怒るぞ、ナーディル」
 こめかみに青筋を浮かべて、エリックは答えた。夜のように深く、静かな響きは恐ろしいほど冷え冷えとしている。
 私は謝る代わりに、先に立って歩いた。すぐ後ろにエリックが、靴音もさせずについてくる。振り返らずとも、彼が腹を空かせたトラのように、ぴりぴりしているのが感じ取れた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「これは、カーンの旦那」
 階段から姿を現した私を、ジュール・ベルナールは驚いたようにみつめた。その背後に己が主人を見つけて、帽子を取って頭を下げる。
 エリックは傲慢に腕を組み、私を睨みながらさっさと行けと顔だけで示した。
「それじゃ」
 私は本を抱え直すと、スクリブ通りをオペラ大通りに向かって歩き出した。
 秘密の入り口から見えなくなるところまで進むと、全力で走り出す。本が結構な重しとなったが、構わなかった。息を切らせながらオペラ座をぐるりと一周して、再びスクリブ通りに戻る。
 二人に見つからないように建物や人の影に隠れながら徐々に近付いていった。丁度良いことに、通りの反対側に荷運び用の馬車が留まっていたので、そっと移動する。
 例の入り口にはエリックしかいなかった。ベルナールの用件はずいぶん簡単なことだったらしい。
 彼は手の中にある小さな箱のようなものを熱心に眺めていた。何が入っているのだろう。
 そっと立ち位置を変えてみるが、距離もあってなかなか見えない。
 と、エリックは愛しげな表情を浮かべて箱の中身に触れた。あいつでもあんなに優しい顔ができるのかと、驚いたほどだ。
 彼が動くと一瞬箱の中身が光を反射した。刺すようにまばゆく、清浄な輝き。
 エリックはそれを胸ポケットにしまうと、再び暗闇が支配する彼の世界へと戻っていった。
 その全体に漂う甘やかな雰囲気は気恥ずかしいほどで、私はなんだか見てはいけないものを見てしまったように感じた。
 自分がとてつもない野暮をしているように思える。
 いや、多分野暮だったんだろう。
 エリックはきっと、彼の一番大切な少女のために、美しいものを用意したのだ。
 ただ、それだけのこと。








補足
エリックがナーディルに渡したのは、エミール・ゾラの「ルーゴン・マッカール叢書」の既刊分です。この時点での最新作は…「居酒屋」か「愛の一ページ」か…(78年に出たのは「愛の〜」だが、何月に出たのかがわかんない)。ちなみに、「ナナ」は「愛の〜」の次。きっとここのエリックなら、「居酒屋」とは別の意味でカノジョに読ませたくないに違いない(笑)

「ファニー・ヒル」は18世紀中頃に英国で地下出版されたエロ小説のことです。この手の本は、絶対フランスにもあっただろうけど、正規の書店に置けなかったという都合上、どんなのがあったのかは詳しくはわからないのです(てことで、英国産ので間に合わせ…)。

それと、仮綴じと革装丁、というのがありましたが、フランスでは伝統的に本というのは革とか布で装丁するものなんだそうです。で、それがあたり前だから、出版された時にはちゃんとした表紙がついてない、仮綴じの状態で売られてるの。で、装丁するときに自分のこだわりとかいれられるようになってます。庶民向けはその限りではありませんが。




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