屋上へ昇るのは、いつだってスリリングだ。
 エリックの秘密の通路がないところでは、誰にも見つからないように息を潜めてこっそりと走り抜ける。
 廊下に誰もいなくても気は抜けない。扉こそ閉まっていても、中に誰かいるかもしれないのだ。音がしたときなんて心臓が止まりそうになるほどドキドキする。
 見つかったら大変。なにしろエリックは仮面をつけた怪しげな風体をしているし、わたしはパリには場違いな、インドの民族衣装を着ているのだから。
 だが誰にも会わないように、ドキドキ冷や冷やしながら駆け抜けるのはものすごく怖くて、でもそれ以上に面白かったりする。
「こういう遊びを子供の頃にしたことがあったわ」
 囁くように言うと、エリックが振り向いた。
「どんな遊び?」
「どろけいって言うの。泥棒と警察の略。泥棒役は警察役に見つからないように逃げるのよ。隠れ場所は多いほうがいいからって、もっぱら学校とか団地……アパルトマンなんかでやってたわ」
「なるほど、では今の私たちが泥棒役ということだね。もっとも、私に関していえば役ではなくて本物なのだが」
 皮肉気にエリックは笑う。
「あら、わたしも同罪でしょう。あなたがどうやって生活しているか、知っていて誰にも言わないんだから」
 言い返してから、こんな話題を出したのは失敗だったと悔やんだ。
 わたしが何不自由なく生活できるのは、エリックが助けてくれているからだ。そして彼の生活費はオペラ座の支配人を脅迫することから得ている。住んでいるとこだって無断侵入をして得たようなものだし、世間に顔向けできるようなところはまったくない。
 とはいえ、オペラ座の地下のような、通常住むのにまったく不適当なところなら、たとえ家賃を取られたところで微々たるものだろうし、住み心地よくしたのはエリック自身なのだからまだ罪としては可愛いものだろう。なによりもあそこは、地上で山ほど傷つき苦しんだ彼がようやく見出した安息の聖域なのだ。そこを出て地上で暮せだなんて、わたしにはとてもではないが、言えない。これで生活費を恐喝で得ていなければ誰にもとやかく言わせたりしないのだけど……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆




 薄暗い通路が終わり屋上へ出ると、昼間の残りの黄金と、たそがれ時が近付いたことを表すオレンジの輝きが交錯していた。
 ここ数日でさらに気温があがったのだろう。屋根から照り返される熱が半端ではない。
 石造りの建物だから、すっかり熱を吸収して熱くなっているのだ。四方の壁に触ろうものなら、火傷してしまいそうになる。
 ……こういうのって、あれよね。卵が焼けるかどうか、試してみたくなるよね。
 だがそんなことができるわけもなく、わたしは壁に触らないように気をつけて、オペラ大通りに面した一角に向かった。まだ太陽はすっかり隠れていないので、日傘も開く。
「カーンさん、来てるのかな」
「さあ、どうだろうね」
 エリックもすぐ隣を歩いていた。
 眼下を見下ろすと、大通りを豪華な馬車が何台も止まっている。今日はオペラ座の公演があるのだ。わたしたちは舞台が始まり、人気が少なくなった時間帯を狙ってここまで来ている。戻るのは舞台が終わり、関係者がほとんど帰ってからになるだろう。
「まだいないみたいね」
「来ないのかもしれないがな」
 通常よりも観光客が多いとはいえ、縁なし帽子をかぶっている人はそんなにいない。カーンさんの姿を探すも、それらしい人は見当たらなかった。
 やっぱり来ないのかな、と思っていると、エリックがやおら手を握ってきた。
「……嫌かな?」
 わたしが無言のまま彼を見上げたので、エリックは自信なさそうに尋ねてきた。普段はよく通る声が掠れている。
「ううん」
 頭をふると、エリックは嬉しそうに擦り寄ってくる。
「少し端から離れよう。ずっとここにいると、地上を歩いている連中に変わり者たちが屋上にいると気付かれてしまうからね」
 繰り返すが、エリックは仮面、わたしはインドの民族衣装着用だ。変わっているといえば、この上なく変わっている二人組みに違いない。
「そうね」
 少し間を置いてからもう一度カーンさんを探そうと、わたしは彼に引かれるまま歩き出した。生ぬるい風が吹き付けてきて、パンジャビ・ドレスの裾が翻る。
 エリックはわたしの手を引いたまま、わたしに寄り添ってきた。なんだか落ち着きがなく、握っていた手を放したかと思うと、長い指を絡めるようにしてきたり、手の甲を包み込むようにしてきたり……。かと思うと、空いているほうの手を腰に回したり、背をかがめて額にキスしてきたりする。
 あの、あんまりびったりとくっつかれると、暑いんですけど……。
 エリックがこんなに甘えてくるのは珍しい。何かあったのだろうかと困惑して見上げると、彼の首の辺りから頬にかけて太陽が当たっていた。白い仮面が日差しを受けてますます白くなり、地下にいるのが長いせいで不健康なほど青白い肌が痛々しかった。
 腕をあげて日傘がエリックにかぶさるようにすると、彼は驚いたように見下ろしてきた。
「そんな風にしたら、お前に日が当たってしまうじゃないか。私は構わないからちゃんと差しておきなさい」
「エリック、暑いんでしょう? 一緒に日傘に入りましょう」
 ところがエリックは複雑な顔になり、ややあって小さくため息をついた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 最初にここに来たときに気付いていたのだが、屋上はいくら広くても楽しい遊び場というには限度がある。屋上遊園地などがあるわけではないし、歩ける範囲もたかがしれているのだから、話の種も尽きてしまいがちだ。
 そこでエリックは三度目からは地図を持ってきて、歴史的な建造物や有名な事件が起きた場所なんかを話して聞かせてくれるようになった。ここからなら高い建物の多いパリではあってもかなり遠くまで見渡せる。耳に快い響きのエリックの声がわたしは大好きだ。聞いているだけでうっとりしてくる。そのせいで、肝心の内容が頭に入らないときもあるのだけど。
「ね、カーンさんが来ているか、もう一回確かめましょう」
 区切りがついたのを見計らって、わたしはエリックに提案した。彼は意外そうに眉を寄せたが、特に反対はしなかった。きっと、来ないものだと決めてかかっていたのだろう。
 まだ手すりは熱かったので、極力触らないようにして眼下を見下ろす。まだ人通りは多かった。
 やっぱりいないのかなと思いつつ、目を左右に巡らせて、見落としなどないように眺める。と、見覚えのある縁なし帽をかぶった男の人がいた。さりげなくだが、オペラ座の屋上を見上げているので、遠目にも顔がわかった。
「あ、いたいた!」
 わたしが反射的に両手を振ると、すぐにカーンさんは気付いたようで、帽子を脱いで片手をあげた。
「わざわざ来たのか」
 エリックは呆れた様子で呟く。
「もう、約束を守ってくれた友達に、そういう言い方はないでしょう」
「……別に友人では」
「素直じゃないのね。でも、わたしにはそう見えるわよ」
 そう言うと、エリックは無言でそっぽを向いた。わたしは彼の手を取って、持ち上げる。
「ほら、せっかくだから、あなたも手を振ったら?」
、放すんだ。下手に目立てば見つかってしまう」
 困惑しているものの、エリックはわたしの手を振り払ったりはしなかった。カーンさんは噴出すのを堪えるように、拳を口に当てている。
「笑われたじゃないか」
「いいじゃない、馬鹿にされてるわけじゃないんだから」
「しかし……!」
「あ……!」
 わたしたちは咄嗟にしゃがみこんだ。カーンさんの挙動が不審だったせいか、近くにいた人たちもこっちを見上げてきたようなのだ。
「見られたかしら」
「かもしれんな。だから目立つなと言ったのに」
「うーん、確かめてみる」
!」
 たしなめるエリックを制して、わたしは頭だけ出してもう一度こっそり下を見た。
 通行人たちは相変わらず波のように街路を流れている。こちらを見上げた人たちも、とうに興味を失ったようで、その場にはいなかった。
 ただ一人、カーンさんだけが同じ場所に立っていて、わたしに気付いてステッキを軽くあげた。そして踵をかえす。
「カーンさん、帰っちゃった」
「そうか、まあ賢明な判断だな」
 エリックはやれやれというように立ち上がる。それと同時に腰に手が伸びてきた。本当に、今日はやけに甘えてくるな……。

 空いている方の手をわたしの頬にそってゆっくりと滑らせる。触れるか触れないかというぎりぎりの動きに、背中は粟立ち、胃が縮む感じがした。
「エ、エリック……?」
「ナーディルのことはいいから……これからは私のことだけを考えてくれ」
 いつもより五割増ししているんじゃないかという艶っぽい声に、総毛立つ。
「え、ええ……? どうしちゃったの、ちょっと……。ねえ……」
 頭をかき乱す美しい声と、全身からほとばしる殺気にも似た気配。喰われる、と咄嗟に思った。
 反射的に後じさると、いつ掴まれたのかもわからないほどの早業で、わたしの両腕は彼に抑えられていた。
「怖がることはない」
 にいっと彼の唇が持ち上がる。もしかしてにっこり笑いたかったのかもしれないが、わたしには獲物を捕まえた肉食動物にしか見えなかった。
 怖がるな、なんて無茶だ……!
「エリック、あの、ね、落ち着いて」
「落ち着いているよ」
「いやでも、はっきり言って、笑顔が怖いの!」
 お願い、離してと叫ぶと、彼は喉の奥を鳴らして笑う。
「ああ、少し緊張しているから……」
 少しなんてもんじゃないでしょ、絶対……。
 一体なにをされてしまうのだろうと、戦々恐々となったとき、エリックは鋭く舌打ちをしてわたしの腕を強く引っ張った。
「エリッ……」
「しっ、誰か来た」
 わたしは彼の手に口をふさがれて、屋上出入り口の影になるところへ引っ張られた。エリックの耳は確かで、入れ替わるように一組の男女が姿を現す。
 一人は品の良い顔立ちの、三十がらみの男性だ。高そうな夜会服を着ているところから察すると、観劇に来た観客の一人だろう。女の方は、まだ若い。フランス人の年齢はわたしにはぱっと見では判断できないのだけど、多分十代の後半くらいではないだろうか。くたびれたブラウスに、毛羽立ったスカートをはいているところを見ると、観客ではなく、オペラ座の関係者だと思う。さすがにこんな格好で観劇に来る人はいないもの。
 女は得意げに『やっぱりここの方が涼しいわ』といいながら、男にしなだれかかっている。ブラウスの胸元は広くあけており、あだっぽい笑みを浮かべていた。
 やっぱりこれ、逢引シーンって、やつなんでしょうね。
 エリックの気を逸らせたのはいいけど、これはこれで気まずい。
「ルイゼットか……」
 苦々しくエリックが呟く。
「オペラ座の子?」
 彼は頷くと、彼らに見つからないようにするためか、立ち位置を変えた。後ろからわたしを抱きすくめるように腕を回す。彼の黒い夜会服にわたしのオレンジ色のドレスが隠れた。
「コリフェをしているが、稽古嫌いでしょっちゅう遅刻するとマダム・ジリーがぼやいていた。その地位も実力で取ったわけではないだけに、尚更腹立たしいようでね」
「コリフェって何?」
「群舞のリーダーのことだ」
「じゃ、メグちゃんみたいに踊るのが専門の人なのね」
「まあ、そういうことだ」
 実力でとったわけじゃない、ということはお金か色仕掛けかという辺りだろうか。一緒にいる男の人が案外その手助けをしたのかも。それにしても、
「もっと熱心なのかと思っていたわ」
「何のことだ?」
「ルイゼットって子のことよ。実力以上の地位にいるんでしょ? もっと練習しろとか、改善されないようなら支配人に言って降格させるとか、ファントム氏はそういうことしているのかと思ってたの」
 エリックは肩をすくめた。
「ダンスは専門外だ。マダムがどうしてもというのならば、日頃世話になっている手前、要望に応えてもいいのだがな。まだそこまで至っていない」
「そっか、エリックにも苦手分野はあるんだね」
 どうやらこれがカチンときたらしく、エリックはぎゅうとわたしの胴を締めながら、不機嫌そうな声で囁いた。
「無論、私とて練習から本番まで、バレエは何度も見たことがあるのだから個々の上手い下手はわかっている。だがオペラ座に来ている連中には、舞台などろくに見もしない奴らも多いのだ。金のかかった衣装や宝石を見せびらかしたり、自分に有利に働く人物と挨拶をしたり……。だからバレエが、それも群舞辺りが多少まずくとも大きな問題にはならないが、やつらも耳までは防げまい。歌の方がより重要なんだ」
 淡々とした調子で続けられると、怒鳴られるよりも怖いと思うのはなぜだろうか。
「ごめん、わたしが悪かった。バレエのことはマダム・ジリーに任せてるってことなのね」
 今日は失言が多いと思いつつ、謝る。
 エリックは重々しく頷いた。
「マダム・ジリーは自身が優秀なダンサーだったし、指導者としても甘いところはない。バレエのことは彼女に任せておけばいいんだ。それに、よりわがままを言うのは、エトワールよりもプリマ・ドンナだからな」
「ところで、バレリーナの彼女がいるってことは、舞台が終わったのかしら」
 何だか早いような気はするが。
 エリックは身じろぎをしてポケットに手を伸ばす。懐中時計を取り出したようだ。
「いや、群舞の出番が終わっただけだろう。幕が降りるまではまだ少しかかる」
 再び時計を戻した。
 ……あれ、時計って左のポケットに入ってたんだ。じゃあこの、右のポケットに入ってるのはなんだろう。てっきり時計だと思ってたんだけど。さっきから背中に硬いものが当たっていたのだ。
 わたしたちが話している間にも、ルイゼット嬢と男性は、フランス人の本領を発揮したようないちゃつきぶりを見せてくれた。思いがけなく出歯亀をするハメになってしまったが、当てられるというよりも、感心してしまった。こういうのは、わたしには出来ない。さすが愛の国の人たちだ。
 話し声も聞こえてくるのだが、どうやら彼女は自分をスジェというものにしてくれと男性に頼んでいるようだった。コリフェがバレエの地位なら、スジェもそうなのだろう。
「スジェはコリフェの上の階級だ。ソロを踊る。あの娘には不相応だ。さすがにこればかりはな……」
 エリックが小声で解説する。
「ファントムが出動するの?」
 冗談めかして言うと、エリックはにやりと笑った。
「必要ならば」
 そんなやりとりをしている間にも、ルイゼットと男性は激しく口付けを交わしながらお互いの身体をまさぐっていた。
「いい加減、邪魔だ」
 苛ついたエリックが音もなくわたしのそばから離れようとする。だが。
「…………」
 彼は動きかけたまま固まった。なんとなれば、ルイゼットはブラウスを脱いでコルセットを緩めにかかったからだ。
 これは、気まずいなんてもんじゃない!

 エリックはあっという間にわたしをくるりと回して、ルイゼットたちが見えない方を向かせる。
「目を閉じて」
 はい、見ザル。言われるままにわたしは目を閉じた。
「耳も塞いでおけ」
 はいはい、聞カザル…。エリックの気配が遠ざかる。
 しばしの空白……そしてつぶされたカエルがあげるような悲鳴が響き渡り、バタバタと慌しい足音と共に壊れてしまいそうな勢いで扉が開閉された。
 一体何をしたんだろう、エリック……。
「もういいよ」
 エリックがわたしの手をつかんで耳から離す。振り返ると、もうルイゼットたちはいなかった。
「何をしたの?」
 率直に疑問をぶつけてみる。
「二人の間に、目に見えない人物が現れたようでね」
 何でもないというように、エリックは肩をすくめた。
 なるほど、お得意の腹話術を使ったのか。また幽霊騒動が起きるんだろうなあ。
「あの二人が騒ぎを大きくするかもしれないわ。今日はもう戻りましょう」
「いや、もう幕が降りる。戻るには遅すぎるな」
「そんな、他の人を呼んできたらどうするの?」
 さすがのエリックも、屋上から誰にも見咎められずに脱出することはできないだろう。心配するも、彼は少しも慌てていないようだった。
「そのときにはなんとかするさ。お前が案じることはないよ」
「本当に?」
「ああ」
「なら、いいんだけど」


 しばらく様子をうかがっていると、オペラ座の下の方がにぎやかになってきた。公演が終わったのだろう、馬車が何台も走り出す音や、感想を言い合う人びとのざわめきがする。
 もうあたりは真っ暗で、街灯が点線のように通りの形を浮かび上がらせていた。まだ営業中のレストランの明かりは、誘蛾灯のようにお腹をすかせた帰り客を引き寄せている。
 天を仰ぐと、数多の星が輝いていた。細い月が建物の影に半分隠れている。
 どれほどその場に立ち尽くしていたのだろう。気がつくとエリックの手がまた腰に伸びていた。
「ねえ、今日はどうしたの? いつもと違うわ」
 言い訳などさせないと、わたしは胸をそらして問い詰めた。
「別に、何でも……」
「ない、なんて言わないでよね。絶対、そんな訳ないんだから」
 エリックは苦いものでも噛んだように、口をへの字にした。そして額に手を当てる。
「今日は本当に間の悪い日だ。大切な用件があるのに、次から次へと邪魔が入る」
「ルイゼットたちのこと?」
 エリックは疲れたように首を振った。
「ナーディルもそうだしルイゼットもそうだし、お前もそうだ」
「わたし、何かあなたの邪魔をしたの?」
 心当たりがないのだが、エリックが言うのならそうなのだろう。それなら悪いことをしてしまった。
 だがエリックは苦笑いを浮かべた。
「邪魔というかな……。お前があんまり鈍いから、さすがの私も泣きたくなったよ」
「鈍いって……」
「こっちにおいで、
 優しく手首を捕まれて、エリックに引かれる。暗がりから出て屋上の端につれて行かれた。ここにはガス灯はないが、地上の明かりが反射してうっすら明るくなっている。
「本当は、もっと早く渡したかったんだ。ここでも随分暗いから、よく見えないかもしれない」
「何が?」
 エリックはわたしの問いには答えずに、右のポケットに手を入れた。
 その手が戻されたかと思うと、すでに口を開いた小箱がわたしの目の前に差し出された。中にはきらりと光るものが入っている。
 わたしはぱちくりと瞬きをした。
 あまりにも信じられないものがあったのだから、目が認識するまで時間がかかってしまったのだ。
「私たちの婚約の証に……これを受け取ってくれるね、
 硬い声でエリックが告げる。
「……婚約指輪?」
 自分に言い聞かせるように呟くと、エリックが真顔で頷いた。
 婚約指輪……。
 じゃあ、外から戻ってきてから彼がずっと挙動不審だったのは、わたしにこれを渡そうとして……?
 わ、わたしってば、全然気付かないで、熱中症になったんだろうかとか、暑いんだろうかとか、見当違いなことばっかり考えて……。それに、こういうときは女のほうでもちゃんとした格好をしていた方がいいだろうということはわたしにだってわかる。なのに、インドの民族衣装……。なんていうかもう、本当にごめんなさいとしか言えなかった。
「ごめんなさい、まさか指輪を用意していたなんて、思ってもいなかったから……」
「半分くらい、そうじゃないかと思っていたよ。これを受け取ってくれるなら、もうそのことは気にしないことにするんだが、どうするのかね?」
 口調こそ茶化しているようだが、目は真剣だ。
 改めて指輪を見る。ダイヤモンドと真珠が仲良く並んだ、綺麗な指輪だ。石が大きいので一瞬ぎょっとしたが、ごつい印象はない。
「ありがとうエリック……。嬉しい」
 月並みなせりふしかいえないのが悔しい。ものの値段で愛情が計れるとは思わないが、エリックがわたしのことを考えてこれを用意してくれたのかと思うと、それだけで心が震えるような喜びが沸き起こった。
 エリックは長い指で指輪を取ると、わたしの左手をそっと握ってゆっくりと指輪をはめた。金属特有のひやりとした感触はすぐに失せて、わたしの体温が移る。彼は手の甲を包むように両手で覆い、仮面のついていない、左の頬に押し当てた。愛しむ様に何度も、何度もさする。
「お前は私のものだよ。私だけのものだよ」
 繰り返しながら段々と涙声になってゆく。わたしは彼の胸に額を預けた。早鐘のように打つ心臓の響きが、服越しに伝わってくる……。
 腰に腕が回る。もう今日だけで何度目だろう。数える気などなくなってしまった。
 わたしは背伸びをして、彼の頬に口付ける。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 嵐のような感情の奔流が収まると、わたしたちは互いに寄り添うように立った。
 わたしは彼の胸によりかかり、彼はわたしの肩に頭を預ける。
「ようやく思っていた通りになったな」
 エリックがなにやら呟いたが、あまりに小さかったので聞き逃してしまった。
「なあに?」
 身じろいで彼と視線を合わせるも、エリックは顔を上げないまま「なんでもないよ」と答えた。吐息が当たってくすぐったくて、わたしは彼の胸に顔を埋めたまま笑った。






オペラ座バレエ団のメンバーは、毎年一回の試験を受けてクラスがあがる、ということになってるらしいが(創立の頃からかどうかはわからんが、だいぶ昔からそう決まってるみたい)、この当時のダンサーも地位は高くないからな…。
身分とか金とかでごり押ししてくるパトロンもやっぱいたと思うの…。




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