寒い。
 外に出た瞬間、わたしはうっすらと後悔した。
 今日はずいぶんと冷え込んでいるようで、肌に刺すような冷気が吹き付けてくる。
 十二月ともなると、さすがに毎日散歩を続けるのも厳しいようだ。
 気分転換を兼ねたダイエットという理由がなければ、わざわざ暖かい家から出ることもなかっただろう。まあ、わたしとしては暑いよりはいいんだけどね。
(レッグウォーマーでも編もうかなぁ……)
 マントに包まれたドレスの下で、こっそり片足をあげてもう片方の脹脛をこする。天を見上げるとどんよりと重たげな灰色の空が広がっていた。
「雪、降るのかなぁ」
 春になるまでは散歩を二日か三日に一度にしようか。寒いだけなら別に構わないけれど、びしゃびしゃだったりつるつるだったりする道はあまり歩きたくはない。
「寒……」
 腰から上はぴったりした胴着やコルセット、マントなどが重なっているので寒いということはないのだが、下半身はかなり冷え冷えとする。石畳から昇ってくる冷気はスカートやペチコートの間を縫って足全体を凍えさせるのだ。ドロワーズ程度では防寒の役に立たない。
(毛糸、買って帰ろうっと……)
 思い立ったが吉日と、わたしは店を目指して歩き出した。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「た、ただいまー!」
 手袋をしていてもさすがに寒くて、すっかり手がかじかんでしまった。荷物もあったので苦労して玄関を開けると、香ばしいコーヒーの匂いが鼻をくすぐってくる。
「お帰り、買い物をしたのかい」
 キッチンからカップを手にエリックが出てくる。いつものように家で仕事をするときのガウン姿だ。この様子なら話をする時間はありそうね。
「コーヒー、わたしの分もある? すっかり冷えちゃったの」
「あるとも。入れてくるからお前は着替えてきなさい」
「うん、ありがとう」
 踵を返すエリックを見やってから、わたしは部屋へ荷物を置きにいった。毛糸が三玉と棒針一組。毛糸はもっと必要かと思ったけれど、まだ考えもまとまっていないし、今日は自分の分だけにしたのだ。
 マントや手袋を外し、ぺしぺしと頬を叩く。すっかり冷えてしまっていた。きっとりんごみたいに赤くなっているんだろうなぁ……。
 居間に戻るとちょうどエリックがコーヒーを持ってきてくれたところで、わたしたちは暖炉に向かって並べた椅子に腰を下ろした。
 ああ、生き返る……。
「あのね……」
 湯気の立つカップを吹きながら、わたしは彼をちらりと見上げる。エリックは片肘をつきながらこちらを見おろしてきた。
「エリックはクリスマス……じゃなくてノエルのお祝いはどうしていたの?」
「ノエル……? ああ、そうかもうそんな時期か」
 眉をあげて彼は呟いた。
 毛糸を買いに商店の並ぶ通りを何気なく歩いていると、ショー・ウインドウの飾りつけががらりと変わっていたのだ。
 キリストの生誕場面を模した飾りや赤い蝋燭を立てたリースがそこここで見られ、プレゼント商戦も始まっているのだろう、いつも以上にきらきらと飾り付けられた品物が綺麗に並べられていた。
 地下暮らしをするようになって季節のイベントからすっかり遠ざかっていたわたしだが、こればかりは見逃せなかった。
「特に何もしていないよ。……一緒に祝ってくれる人もいなかったからね」
 彼はすっと真顔になってカップに口をつけた。
 ……わたし、もしかして地雷を踏んじゃったかしら。
 これ以上浮かれ調子で話を続けて良いものかと考え込んでいると、エリックが小さな音を立ててソーサーをテーブルに置き、ゆったりと椅子に背を預けた。そして両手を組み、何気ない口調で、
「準備をしようか?」
「でも……いいの?」
「やりたいのだろう? 顔にそう書いてある」
 喉の奥で笑いながら、エリックはわたしの頬をつついてくる。どうやら気を悪くしたわけではないようだけど、この落差にはいつもながらドキドキさせられるわ。
「もちろん、やりたいわ」
 妙に気恥ずかしくてエリックの手が届かないところまで離れると、彼は苦笑しながら手をひらひらとさせた。
「さて、そういうことなら買出しを頼まないとな。ここにはノエルを祝うためのものは何もないから……」
「ところで、フランスのノエルって、どういうことをするの?」
 わたしが聞くと、
「知らずに祝いたいと言っていたのかい?」
 おかしそうにエリックは笑った。
「日本人にとっては友達や恋人同士で騒ぐお祭り、くらいにしか認識されていないもの。だから宗教行事としてのノエルは、わたしは知らないわ。でも、せっかくパリに住んでいるのだし、ちゃんとしたお祝いをしたいなと思って」
「そういえば、日本では特定の宗教を熱心に信仰する者の方が少数派だそうだな。おおらかというか……」
 感心しているのか呆れているのか、肩をすくめるエリックにわたしは苦笑する。
「おおらかというよりいい加減なんだと思うけれどね。年末年始って、特にその度合いが強いように思うわ。なにしろクリスマスを祝ったかと思うと、大晦日には除夜の鐘を聞いて、年が改まったら初詣をするんだもの」
 指を折って数えながら教えると、エリックは茶化したように聞いてきた。
「ユダヤ教やイスラム教の行事はやらないのかい?」
「そっちはさすがに馴染みがなくってね。でも行事にかこつけて遊べそうなものがあれば、取り入れることもあるんじゃないかしら」
 そう答えると、エリックは噴出した。

「ノエルは浮かれ騒ぐようなものではないから、日本風のものとは随分違うと思うが」
 そう前置きして、エリックは教えてくれた。
 まず十一月三十日に最も近い日曜日から四週間がアドベントだ。日曜日ごとにリースに立てた蝋燭に火を灯してゆく。
 蝋燭を立てなくてはいけないから、リースは横置きなんだって。わたしが見た赤い蝋燭のリースがこれのことだったのだ。日本でも戸口などに飾ったりすることもあるけれど、あれは縦になるようにするから随分違うのね。
 それから二十四日の深夜に教会でミサがあり、その後にレヴェイヨン――真夜中の夜食――をとる。この時に食事が一番のご馳走なんですって。それはとっても楽しみだけど、ちょっと翌日の胃の具合が心配だな。
「……遅くまで起きているから、次の日、つまり二十五日は昼まで寝ているものもずいぶんいるというよ。上流階級ではパーティをすることもあるというが、これは私たちには関係ないことだね」
「うんうん、それで?」
「あとは、特別決まったことはないよ。ノエルの十二日後がエピファニーで、この日がノエルの祝いの最後の日だ。ガレッド・デ・ロワという菓子を食べることになっている。この十二夜の間には新年の祝いもあるし、なんだかんだといって、この時期はフォアグラになってしまいそうなほどご馳走尽くめになるよ」
 年末年始の食べすぎ飲みすぎに気をつけなくてはいけないのは、洋の東西を問わず、って感じだなぁ。
 にしても、肝心なものが抜けているように思うのだけど。
「プレゼントのやりとりなんて、しないの?」
「プレゼント?」
 聞くと、驚いたようにエリックは瞬いた。
「違うの? ノエルにはプレゼントをやりとりするものだと思っていたんだけど……」
「それはイギリスの風習だね。アメリカなんかもそうだと聞いているが」
 イギリス? アメリカ?
「え……。それじゃあ、もしかしてフランスにはサンタクロースなんて、いなかったりする? あ、本当に存在しているなんてさすがに信じてはいないわよ。でも、子供の頃に二十四日の夜、寝るときに枕元に靴下を置いておくと、サンタクロースがその中にプレゼントを入れておいてくれるって、聞かされていたんだけど……」
 まあ、さすがに子供用の靴下の大きさなど高が知れているから、実際には靴下の側にプレゼントが置いてあったりするのだけど。
「靴下や靴に贈り物を入れる習慣はあると聞くよ。もっとも、本やおもちゃや……いわゆる子供が好きそうなものというわけではないが。そういったものは、新年に贈るんだ」
 あ、もしかしてそれがあのプレゼント商戦中の品々なのかしら。聞いてみると、そうだという返事が返ってきた。
「それなら、フランスの子供はノエルの夜には何をもらうの?」
 聞いてからはっとしてわたしは口を押さえた。彼はこの時期の良い思い出がないのではないかと感じたけれど、それは一人で地下暮らしをしているからというわけではなくて、そのずっと前、つまり彼が子供の時からのことではないだろうか。お家の人がノエルのお祝いをしてくれなかったとか……。
 ありうる。
 多分わたしはさっきから地雷原を突き進みまくっていたに違いない。
 しかしエリックは何でもないことのように答えた。
「りんごやナッツ類だと聞いているよ。もっとも私は良い子ではなかったから、一度もペール・ノエルが来たことはないんだ」
 ああ、もう、そういうことをさらりと言わないで! 切なくてわたしが泣いてしまいそうになるじゃない。
 言葉もなく彼を凝視していると、エリックは「昔のことだよ」とかすかな笑みを浮かべた。
 ……わたしが慰められてどうする。


「レヴェイヨンのメニューに何かご希望はあるかい?」
 新しくコーヒーを入れなおし――わたしにはショコラだった――彼は楽しげにペンと紙を用意してきた。
 そうよね、過ぎてしまったことは変えようがないけれど、今から楽しい思い出を作れば良いのよね。そう思い直して真剣に考える。
「こういうものは必ず食べるというようなものはあるの?」
「いや、特に決まっているものはないと思うが……。だからこそ聞いているのだがね。それで、何がほしい?」
「んー、希望って言われてもなぁ」
 エリックの誕生日の時も豪華だと思ったんだけど、他にどういうものがあるんだろう。今回も一緒に料理をするのだと思うけれど、誕生日の時よりも役に立ちたい。
 そう思って料理の本を持ってこようと腰を浮かせたわたしに、エリックが何気なく口を開いた。
「丁度シーズンだし、前菜は牡蠣にするか。それともキャビアがいいか?」
 いきなり恐ろしいことを聞かないでください。キャビアって、この時代でも充分お高い代物でしょう。
「スープは……メインを決めてからでいいか。メインはどうする?」
 だから、どういうものがあるのか知らないんだってば。
「どういうものがあるのかもわからないのに、決められないよ。料理の本をとってくるから、少し待ってて」
「ああ、少し性急すぎたようだね」
「そうね」
 ふふっと笑ってわたしは自分の部屋へ向かった。自分で買った本はエリックの書斎ではなくて、自分で保管することにしているのだ。そうでないと、いつの間にかどこかに紛れてしまうからね。
 と、ふいに思いついて、わたしは振り返る。
「そうだ、あのね、ビュッシュ・ド・ノエルがほしいなあ」
「ビュッシュ・ド・ノエルかい?」
「ええ、フランスのノエルには欠かせないものなんでしょう?」
 ビュッシュ・ド・ノエル。丸太の形をしたケーキだ。クリスマスにケーキを食べるのはすっかり日本でも定着したけれど、その中でも特に見た目が可愛いと思う。
 エリックは意外そうに目を見開いたが、すぐに微笑んだ。
「よく知っているね。いいよ、お前のために素晴らしいものを手に入れてみせよう。楽しみにしておいで」
「本当。ありがとう、エリック!」
 基本がロールケーキなのだし、家で作るのかと思ったのだが、どうやら店で売っているものを買うようだ。でも彼がああ言うのだから、きっと有名店のおいしいものを用意してくれるのだろう。それはそれで、とても楽しみ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 それから五日ほど経って、エリックはいつものように届けられた荷物を取りにでかけて行った。
 しかしたいていは一時間もしないうちに戻ってくるのに、今日はもう二時間ほど経っている。
 どうしたんだろう。オペラ座にでも寄っているのだろうか。
 それなら、編み物の続きを居間でやりたいんだけどな……。寝室の椅子だとずっと座っているうちに背中が痛くなってくるんだもん。長時間使用するには向いていないのよね、あれ。
 どうしようかとうろうろ待っているうちに、玄関の方でがたごとと騒がしい音がしてきた。
 室内まで聞こえてくるなんて、何事だろう。
 驚いて玄関まで走ってゆくと、丁度エリックが片手に幾つかの荷を抱えながら中へ入ってきたところだった。
「おかえりなさい、ずいぶん遅かったのね」
「ああ、ちょっと荷物が多くてね。三往復もしてしまったよ」
 彼は言いながら荷物を廊下の端に置き、再び外へ出て行った。あの様子では舟にはまだたくさん残っているのだろう。
 わたしは箱を一つ取り、自分でも運べる重さだということを確認して居間へ持ってゆく。
 戻ってみると今度はいつもの食材が積んであったので、食料庫へ運んだ。
 そしてまた戻ってみると……。
「エ、エリック、どうしたの、それ?」
 そこには一抱えはある大きなたきぎを運んでいるエリックの姿があった。
 燃料室には一冬分のたきぎがすでに保管しているのだが、それらはどれも手ごろな大きさに割ってあるもので……こんな丸太のままのものなんてどうするつもりなんだろう……。
 彼はそれを転がしながら玄関に運びいれ、後ろ手で扉を閉める。
「何って、ビュッシュ・ド・ノエルだよ。欲しがっていただろう」
 さすがに重かったのか、息を切らしながらエリックは答えた。
「ビ、ビュッシュ・ド・ノエル……? これが……?」
 まさかフランスではこんなに大きいケーキを食べるものだろうか。いや、どうみてもこれは本物の木だ。食べられるはずがない。
「それで……これをどうするの……?」
 目の前にある、『ビュッシュ・ド・ノエル』にわたしは困惑する。エリックもわたしの反応につられたのか、怪訝な顔つきになった。
「どうって、燃やすんだよもちろん。ビュッシュ・ド・ノエルなのだから」
 いや、確かにbûcheは丸太って意味だけど……。
「もしかして、お前が言っていたのはこれのことではないのか?」
「うん……」
 わたしは半ば呆然となりながらも頷いた。エリックは首を傾げる。
「お前はビュッシュ・ド・ノエルをなんだと思っていたんだ?」
「……ケーキ」
「ケーキ?」
 エリックはよほど驚いたのか、珍しく裏返りそうな声をあげた。
「うん。ロールケーキにクリームで丸太に見えるように飾り付けをしたもののことを言ってたんだけど……」
「そんなものがあるのか……」
 今度は彼の方が呆然となった。
「まさか同じ名前の別のものがあったなんて……」
「まったくだ」
 わたしたちは顔を見合わせてため息をつく。
「すまない、私は家庭的なことには詳しくなくて……」
「ううん、エリックが悪いんじゃないよ。わたしだって勘違いしていたんだし」
 ひどく落胆したエリックが痛々しくて、わたしは何度も頭を振った。
「しかし……」
「気にしないで。ケーキは作ればいいんだし、これは燃やせばいいんだわ。こんなに大きなたきぎだもの、重かったでしょ?」
 お疲れ様、と彼の腕を取ると、エリックは苦笑しながらわたしの頭をなでた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 二十四日、深夜。時刻は十一時過ぎ。
 キリスト教徒的信仰心を持っていないわたしと、ずっと教会に足を踏み入れていないというエリックはミサを聞きに行くことはせず、家でノエルを祝うことにした。
 部屋は、それらしい雰囲気を出そうとわたしが飾りつけをし、料理はエリックが大部分を担当した。
 暖炉には食べられないビュッシュ・ド・ノエルが横たわり、赤い炎をあげている。テーブルには他のご馳走と並んで食べられるビュッシュ・ド・ノエルがどどんと置かれていた。
 この食べられる方のビュッシュ・ド・ノエルには、手先の器用なエリックがマジパンで作った森の動物たちが周囲に添えられている。食べるのがもったいないと思うほどの力作だ。
 夜会服に着替えるために彼が部屋に入ったのを見計らい、わたしは自分の部屋からプレゼントを取りに行く。
 結局プレゼント交換をノエルのお祝いと一緒にやろうということになったので、頑張って用意したのだ。
 それにしても、間に合って良かった。
 どうせだからと贈り物が入るサイズの靴下を編んでみたのだ。アイシャ用のプレゼントも一緒にしたかったので、結構な大きさになってしまった。クリスマスカラーということで、本体は赤、つま先は白にし、縁を緑で仕上げてみた。ちなみに、縁は折り返して縫い、リボンを通してある。リボンをひっぱってから結べば、巾着のようになるという寸法だ。
 エリックに渡すには子供っぽすぎる形に色使いだと思うが、お祭りだということで勘弁してもらおう。
 本当は彼が眠った後に部屋へ置きに行きたいところだけど、どれだけこっそり侵入しても、エリックならば気付いてしまうだろうから……。そういう意味では驚かせるには不向きな人だと思う。

 あっと、エリックが戻ってきた。
 わたしはとっさに贈り物入り靴下をテーブルの下に押し込んだ。床に着くほどのたっぷりしたテーブルクロスが彼の鋭い目から隠してくれる。
「Joyeux Noël
 艶のある声でエリックが囁く。
 さあ、聖夜は、これから始まるのだ。






ビュッシュ・ド・ノエル(食べられないほう)→もとはキリスト教以前の古い祭りが起源。冬至の頃に丸太に供え物をしてゆっくり数日かけて燃やし、翌年の福(豊作とか家内安全とか)を呼び込むための儀式が、だんだんキリスト教が広まるにつれ、キリスト教の行事として残った…という説があります(や、諸説色々あるので、絶対にコレと言い切るころができないのですよ)
ビュッシュ・ド・ノエル(ケーキの方)→上の行事で使われていた丸太をヒントに作られたのだと思われるが、いつ頃できたのかは年代がバラけまくっているので特定できず。早ければ19世紀半ば頃。遅くて20世紀半ば頃。ということで、作中ではエリックはこのケーキは知らなかったということにしています。






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