午前三時。
 我が家のお嬢さんたちは二人とも眠りについている……。
 私は一人キッチンに篭り、今日の午後に食すための菓子を作っていた。
 パイ生地はすでに出来上がった。今はカスタードクリームを焦がさないよう、かき混ぜている。
 ただ木べらを動かし続けるだけの単調な作業は、すぐに私を思考の渦に誘い、ともするとキッチンにいるのだということを忘れてしまう。
 しかしクリームを焦がすわけにはいかないのだ。
 仕上げの焼成は朝になってからでもかまわないが、その前の段階は が起きてくる前にすべて終わらせてしまいたかった。
 中身がどうなっているか、知られるのは困るのだ。
 それではゲームの意味がない。
 私は視線を落とすと、この身を包む幸福を眺めて気分を高揚させた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 十二日前のこと。
 の手によって、部屋中が赤と白と緑とで飾りつけられ、普段とはずいぶんと違った雰囲気の中で、私たちはノエルの夜食をとった。
 暖炉には、私が勘違いをして購入してしまったビュッシュ・ド・ノエルが燃えており、テーブルには彼女が希望していた丸太形のケーキであるビュッシュ・ド・ノエルが横たわっていた。
 ケーキにはヒイラギなどの緑の葉が装飾についているのだと彼女が言っていたので、それらも用意したのだが、丸太に葉ときたらこれは森をイメージした作りにするしかないと思い立ち、マジパンをこねて小さな動物をいくつかこしらえたのだ。
 そうしたらこれがには大いにうけて、「かわいい」「すごい」「食べるのがもったいない」という三語をひたすら繰り返したのだ。
 彼女に賞賛されるのは嬉しいのだが、食べてもらうために作ったのだ。それなのにただ眺めているだけのの姿にふとイタズラ心が沸き起こり、彼女の隙をついてリスの形をしたものを口に押し込んでやった。 は目を白黒させたが食べ物が口の中に入っているので、もぐもぐと咀嚼をし、そして……おいしいと言いつつももったいないことをしないでと怒ったのだ。
 なんて可愛らしい反応をするのだろう。
 聖夜の空気に酔っていたのかもしれない。だがあの時の私はとにかく何かしないではいられなかったのだ。
 ノエルの祝いをして良かった。
 そう心の底から感じていたのだ。

 食事が済むころには時計の針はすでに零時を回っており、もうプレゼントを渡しても良いだろうと私はポケットを探った。
 贈り物の一つ目は、蜘蛛の糸のように細い糸で編んだレースの飾り襟だ。機械編みのものがずいぶんと出回っているが、これは正真正銘手編みのものである。
 部屋着の上にこれをつければ華やかな気分になれるだろう。そう思って選んだのだが、彼女の反応はイマイチだった。
「綺麗ね。ありがとうエリック」
「……ああ」
 礼は言われたが、は本当に嬉しい時にはもっと全身を使って表現するのだ。つまり、この贈り物は彼女の琴線には触れなかったということだろう。
「あまり嬉しくないようだね」
 大人気ないとは思いつつも、そう言った私に、彼女は慌てたように首を振った。
「そうじゃないの。ただ、わたしレースで飾るのってあんまり得意じゃなくて……。現代ではもともと服についているのならともかく、レース単体を使うのってまずやらないんだもの」
 そう言われてみれば、 はレース製品をあまり使わないな。使うにしても通り一遍でなんら面白みもないやり方というか……。付け襟はともかく、カフスはつけたことがないのではないだろうか。やはり、使いどころがわからないせいかもしれない。
 しかし、女性にはああいった品が必要だということだけは知っているのだが、私もどういう場面でどのようなものを使うかまでは詳しくはない。
 こんなときは、彼女を教育できる女手がほしいと、思ってしまう。私一人の力では限界があるのだ。
 一つ目は失敗してしまった。
 だが、次こそは彼女を喜ばせてみせる。
 私は照明の影になって見えにくくなっているところに隠しておいた瓶を取り出した。
「あ、すごーい」
 はぱちぱちと手を叩いて歓声をあげた。
 生涯をかけて鍛え続けているマジックの早業を使ったのだ。彼女の目には瓶が急に表れたように見えただろう。
「二つ目の贈り物だ。一年の間、よい子にしていた子供には木の実が与えられるのだよ。もっとも、靴の中に入れられないけれどね」
「子供扱いしないでよ、もう!」
 憤然としながらも、は笑いながら瓶を受け取った。菓子屋などで小売をするための瓶をまるごと買ってきたので、両手に抱えなければならないほど大きい。
「プラリーヌね。わたし、これ大好きよ。だけどちょっと大きすぎるわ。業務用の瓶じゃないの」
「お前にはこれくらいじゃないと足りないと思ってね」
 わざとらしく真面目な顔で返すと、はもう、といいながら肘鉄をするふりをしてきた。
「人のこと食いしんぼみたいに言わないで……あら?」
 気付いたな。心の中で、私はにやりと笑った。
 は瓶を目の高さまで持ち上げて、何度か振る。
「中に何か入ってる……。エリックが入れたの?」
「さあてね」
 空とぼけて見せると、はテーブルに瓶を置き、蓋を開けて指を入れた。
「やっぱり、なにか……」
 プラリーヌを掻き分け、小さな包みを取り出した。は私と包みを何度か見やると、徐にリボンを解いた。サテンの布地がするりと広がり、中からはクリスタルの小瓶が現れる。
「香水瓶? 素敵……」
 ランプの明かりにかざし、角度を変えて眺めながらうっとりしたようには呟いた。
 良かった、こっちは気に入ってもらえたようだ。
「中身は私が調合したのだよ。お前のイメージに合わせてね」
 そう言うと、はきょとんを私を見上げてきた。
「中身なんて、入ってないわよ」
「入っているよ。見えないのかい?」
「入ってないってば。入れ忘れたのよ、ほら」
 彼女が私にも見えるように、小瓶を掲げた。優雅なラインを描いたボトルは星が瞬くようなきらめきを作り出す。
「入っているよ。ちゃんと蓋をあけて確かめてごらん」
「入ってないって、言ってるのに……」
 文句を言いながらもは素直に蓋を外した。そして片目をつぶって中をのぞき、
「ほら、やっぱり入ってない」
 私に向かって小瓶を突き出した。
 私は無言での両手を取り、蓋をはめた。私の手は、の手を包むように押さえている。小瓶に直接触れているのは、の手だけだ。
「入っているとも」
 の手を押さえたまま、私は小瓶を上下に振った。軽い手ごたえと共に、液体がはねるちゃぷんという音がする。
「……え!?」
 は驚きのあまり、目をまるくした。しかし私はそのまま上下に振り続ける。
 二回、三回、四回……。
 十度も振ると、八分目まで増えた液体が小瓶を満たした。
 手を外してやると、は私と小瓶を何度も見比べ、そしておそるおそるといった風に蓋を開けた。手で仰いで香りを確かめる。
「……本当に香水だわ」
「ほらね、入っているって言っただろう?」
 してやったりと笑うと、は純真な目で私を見上げてきた。
「タネがあるってわかってはいるのよ。あなたは最高のマジシャンで、マジックにはタネがつきものなんだもの。でも……」
「でも?」
「たまに、あなたは本当に魔法が使えるんじゃないかって、思うときがあるわ」
「……褒め言葉と受け取っておくよ」
 私には魔法など使えない。これはすべてマジック。タネを明かせば飽きられてしまう、つまらない技に過ぎない。
 しかしこんなものでも、お前が喜んでくれるのならば私も嬉しい。
 だけど、本当に私に魔法が使えたのなら、私の持つ才能のどれかと引き換えでも構わないから、この顔が人並になるようにしただろう。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 カスタードクリームができあがったので、バットに移して粗熱をとる。
 その間に作るのはアーモンドクリームだ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「今度はわたしがプレゼントをする番ね」
 は付け襟と瓶入りプラリーヌと香水瓶をまとめて置くと、さっきまで食事をしていたテーブルに向かって歩き出した。
 何をするのかと思っていたら、テーブルクロスをべろりとめくり、中から大きな……靴下を取り出したのだ。
 お前……そんなところに……。
 いや、それはいいが、その靴下はどうかと思うぞ。
 はいエリック、とにこやかに渡されたものの、眩暈のするような配色の巨大な靴下に、私は呆然となってしまった。
 なんとか笑顔で礼を返せたと思うが、もしかしたら頬はひきつっていたかもしれない。
 原色の赤と緑と白でできたその靴下に恐る恐る腕を突っ込む。口を大きく開けば中身などすぐにわかるのだが、なんだかそうはしたくなかったのだ。も期待するような目で私を見ていたのだから。
 最初に手に触れたのは紙に包まれた軽いものだった。
 包装紙を解きしっかりした紙箱の蓋を取る。
「レターセット?」
 中には上等の便箋と封筒のセットが入っていたのだ。便箋は真っ白で、上部に優雅なエンボス模様が押されている。封筒も同様だった。
「どうしてこれを……?」
 私が手紙を出す相手など五指にも満たない。
 支配人たちかベルナールかだ。たまにマダム・ジリーにも渡すが、それくらいのものだ。
「そういうのがあってもいいかなって思ったから」
 はまっすぐ私を見つめてそう答えた。微笑んではいるが、眼差しは真剣だ。
 真意のわからない私は、わずかに首をかしげることで疑問を示す。
「エリックの使っているレターセットって、黒枠がついているじゃない。あれ、日本だとあまり縁起のよいものじゃないの。お葬式の案内とか、喪中はがきとか、あと遺影とか、そういうものを連想しちゃうのよ」
「いや、連想するもなにも、私の使っているレターセットは訃報連絡用だ。もともと縁起の悪いものなのだよ」
 私の答えを聞くやいなや、彼女は腰に手を当て、首をかしげてため息をついた。
「だったら、なおのこと、これをプレゼントして良かったと思うわ。あなたの好みに水を差すつもりはないけれど、あなたのことを知っている人たちにまで、そんなものを使う必要はないでしょう? 気分を悪くさせるだけじゃない」
「ベルナールのことか?」
「マダム・ジリーやカーンさんもよ」
「いや、ナーディルに手紙を書いたことは……」
「書く必要が出てくるかもしれないじゃない」
 ……ここは下手に口答えしないほうがよさそうだ。彼女なりに私の評判を思いやってくれたのだとは思うのだが、地上の人びとの評価など、私にはもうどうでもよいものなのだ。私はただ に理解してもらえれば、それでいいのだ。
「せっかくお前がくれたのだから、いつか使うことにしよう」
 レターセットを脇へ置き、私は次の贈り物を取り出すべく、靴下に手を入れる。今度は液体が詰まっているようだ。落とさないようにゆっくり腕を引き抜くと……。
「カルヴァドス……!」
 透明な瓶の口は細く、底がフラスコのように丸くなっていた。中を満たす液体は琥珀色。そしてリンゴがまるまる一個入っていた。
 靴下の中に、リンゴの……酒とはな。
「エリックはもう大人だから、よい子の証であるただのリンゴは必要ないと思ったの」
 喉の奥で笑い出した私に、はしれっと言った。
 私がプラリーヌを、彼女がカルヴァドスを贈りあうとは……。私たちは互いに似たようなことを考えていたということか。
「お店で試飲させてもらったんだけど、かなり強いのね、これ。エリックは大丈夫? 飲める?」
「平気だとも。せっかくだ、少しいただくとしよう。お前もどうだね?」
「舐める程度しかできないけれど、それでよければ」
「なら、私のグラスからお飲み」
 新しいグラスを取りに行き、美しい色の液体を注ぐ。強烈なリンゴの芳香が鼻腔をくすぐってきた。一口含むと、甘さの中にも快い酒精が広がる。
 なかなか良い酒を選んだようだ。それとも店主の勧めが良かったせいか?
 もう一口飲んでからに渡す。彼女が舐めている間に私は再び靴下に手を入れた。今度は柔らかい。
「…………」
 これを私に……?
 なぜこんなものを贈ろうと思ったかさっぱりわからん。こういうものを好みそうだと思われているのか?
 三つ目の贈りものを取り出すと、靴下はぺちゃんこになってしまった。つまり、これが最後の贈り物というわけだ。
 しかし、正直言って、このようなものをもらっても私は……困る。
 喜ばなければ に悪い。しかしいくらなんでもこのようなものをもらって喜ぶなど私の矜持が許さないのだ。どうするエリック!?
「それはね、アイシャへのプレゼントなの」
 私が何も言わないので、は自分から説明しだした。
「ア、 アイシャ?」
「ええ。転がしてもいいし、噛んでもいいし、寝床において毛布代わりに……っていっても毛布にはならないと思うけど、表面は毛糸だから割と暖かいと思うし。どう使ってくれてもよいの」
 それでか。
 三つ目の贈り物は猫のぬいぐるみなのだ。おそらくが自分で作ったのだろう。焦げ茶の毛糸で外側を編み、中に綿をつめている。顔やヒゲも毛糸で刺繍されているので、少しよれたようになっていた。
 造形はリアルではなく、葉巻のような形の胴体の上下から力の抜けたような足が四本と尻尾が一本、ひょろんと伸びているといったかんじだ。
「アイシャへのプレゼントか。驚いたよ」
「あなたにあげたのだと思った?」
 愉快そうには笑い声をあげる。
「アイシャ、おいで! お前へのプレゼントだよ」
 夜中にも関わらず、アイシャは尻尾を揺らしながらとことこと歩いてきた。彼女は私以上に地下暮らしに馴染んでいるので、こんな時間でも起きていることがよくあるのだ。
に礼を言わないとな」
 アイシャがすぐじゃれつけるようにぬいぐるみを床に置く。彼女はふんふんと匂いを嗅ぐと、猫パンチを一発お見舞いしてくるりと踵を返して去った。
「やっぱり……」
 はため息をつく。
「アイシャは気まぐれだから、そのうち相手をするんじゃないかな。寝床にでも置いておくよ」
「慰めてくれなくてもいいのよ。こうなるだろうなって、思ってたから」
「それならなぜ……」
 見向きをされないとわかっていたものを作ったのだろう。
 レターセットもカルヴァドスも、彼女が私のことを考えて選んだということは疑っていないが、それでも彼女の手製のものをもらえたアイシャが羨ましい。私なら大事に大事に扱って、パンチなど絶対しないのに。……さすがにこのぬいぐるみをほしい、とは思えないが。
「わたしは猫嫌いじゃないもの。アイシャお姉さまとだって遊びたいのよ? でも、お姉さまはわたしのこと嫌いだから、ぜんぜん相手してくれないし……。だからその、賄賂というか……。お気に入りのおもちゃになりそうなものをあげたら、少しはこの関係が改善されるかと……」
 気持ちはわかる。アイシャに邪険にされるたびに、はあからさまにがっかりしていたのだ。
 出会いが悪かったせいかもしれないが、傍から見ていて気の毒に思えるほどだ。
 猫じゃらしを作っても駄目、世話をしても駄目、追いかけたときにはひっかかれそうになったのだったな。
 最近では何をされても――あるいはされなくても――平然としているので諦めたのだと思っていたが、そういうわけではなかったのか。
「そ、そうか……」
「片思いって、辛いわね、エリック」
 はわざとらしい仕草でよよと泣き崩れた。
 どこまで本気で言ってるんだこの子は。それとも、カルヴァドスが効いてしまったのか?
「わたしの匂いが残っているうちは、アイシャは遊んでくれないだろうなって思ったの。だからしばらくそれ、エリックの部屋においててほしいんだ。あなたの匂いが移れば、アイシャも関心を持ってくれる、と思うのよ、多分」
 がばとあげた顔は、少しも涙に濡れていなかった。代わりに、頬がリンゴのように赤くなっている。
 口調はさほど変わっていないようだが、あまり飲ませない方が良いな。
 私はからグラスを取り返し、残りをゆっくり仰いだ。
「置くぐらいはかまわないが、しかし……妬けるね」
「ほえ?」
「アイシャが羨ましいよ……」
 ものがファニーフェイスなぬいぐるみであっても、が心を込めて作ったのだからな。私も、そういうものが何か一つでもよい、ほしいものだ。
 私もカルヴァドスが回ってしまったのか、それともこれまでに飲んだワインのせいか、しんみりとしながらぬいぐるみを膝に置いた。すると……。
「エリックったらかぁわいい!」
 頓狂な声で叫びながら、が抱きついてくる。これは、本格的に酔っ払ったな。
「ほんっとうに猫が好きなのね。いいわよ、ご希望があればいくらでも作っちゃう! 色はどうする? どうせならアイシャみたいなクリーム色にしようか?」
 違っ……。ほしいのはそれじゃない!
「ぬいぐるみが羨ましいというわけではないから、そこのところは誤解しないでくれ」
 どこまで酔っているのか判断がつかないが、まだ話が通じることを願って私は一語一語区切って伝える。
「じゃあ、なにが羨ましいの?」
 勢い余って九十度も首をかしげながらは問い返した。
「お前の手作りのものをもらえたことだよ」
「ああ……」
 は納得したようにぽんと手を叩くと、
「セーターか何か、編もうか?」
 微妙に焦点のあってない目で、彼女はそう言ったのだ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 出来上がったアーモンドクリームとカスタードクリームを混ぜる。
 あとは伸ばしたパイ生地のこの混合クリームを載せ、フェーブを入れて形を作るだけだ。
 さて、このガレット・デ・ロワを焼いている間に、もう一品作っておこう。
 パイに添える冷たい菓子が良い。
 そう、リンゴのムースとか。
 彼女からもらったカルヴァドスを効かせれば香りも風味もぐんと増すだろう。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 は見かけによらずずいぶん酔っており、朝になって訊ねてみたら半分程度しか覚えていなかった。
 とにかく何か私と約束したということだけは覚えていたのだが、改めて話すとなるとまるで催促しているようで気まずい思いがした。
「……セーターを、編む?」
「か何か、と言っていたがな」
 酒の醒めたは濃い色の目を瞬かせた。私は気恥ずかしくてむっつりと返す。
「セーターって……一回しか編んだことない」
「そうなのか?」
 てっきり得意なのだと思っていたのだが。自分から口にしたくらいなのだからな。
「まあ、編み図があればなんとかなるとは思うけど、でも……セーターかぁ」
 無理に作ってほしいというわけではない、私が欲しいのはの手製の品であって、セーターではないからだ。そう言おうと口を開きかけた途端、
「カジュアル過ぎて、エリックには似合わないと思う……」
 問題はそっちなのか。
 私は己がセーターを着てみた姿を想像した。
 ……確かに似合わない。セーターでは私の威厳も何もかもが失われてしまう。あんな緊張感のない代物など、身につけるわけにはゆかぬ。
「そうだな。セーターはやめよう」
 私たちは互いに頷いた。
「となると、帽子とか手袋とかマフラーあたりが定番だけど……こういうのはかえって使わないわよね」
 は顎の下に指を当てて考え込んだ。
「そんなことは……」
 反射的に否定しようとしたが、は指を左右に振って私を止める。
「毛糸のマフラーや手袋や帽子よ。こういうのを外出用に使える? あなたが。だからといって、室内で使うのも変だし」
「まあ、な」
 渋々認めると、は頬に手を当てた。
「あとは……ああ、そうだ、ベストならいいんじゃない?」
「ベスト、か」
 それならガウンの下に着ても良いし……いや、ベストがあるならガウンなどいらないか?
 黒や濃い色のものならば、ふやけた雰囲気にもなるまいし。
「いいな」
 思わず呟くと間髪を入れず、
「決定でいいの? それなら襟の形をどうするかとか何色にするかとか決めましょう」
 案外と楽しそうには言った。


 色は黒が良い。首の周りはYネックかVネックだ。クルーネックは良くない。印象が優しくなってしまう。余人ならばともかく、私にとってそれは物笑いの種にしかならないのだ。
 そう伝えると、襟の形はともかくとしても、黒は却下されてしまった。
 いつも私が身につけている色なので、面白くないのだそうだ。たまには別の色のものを身に付けた私を見たいと言われては、応えなければ男がすたるというものだ。
 そこで、色は毛糸を探しにいく本人が決めて良いということにした。赤だの緑だの――つまり、あの靴下の色だ――の原色はやめてほしいという希望は出したが。
 そして私の希望はしっかり聞き届けられ、彼女は毛糸を買ってきた。
 だがそれを目にした瞬間、私は立ちくらみを起こしてしまいそうだった。
 なぜならその色はオールド・ローズだったからだ……。
 よりにもよってピンク系とは! くすんだ色合いであることは認めよう。だがどこをどうすれば私にピンクが似合うと……!
 まあ、 は似合うと思ったからこそ、この色を選んだのだろうが……。
 とはいえ、はじめは嫌がらせかと思ったオールド・ローズのベストも、だんだん形となってゆくのを見ていると出来上がりが楽しみになってくるのだから不思議なものだ。
 私には経験をしたことがないこと、縁のなかったことが幾つもあるが、暖炉の側で私のための編み物をしている女というものも、初めて見るものだったのだ。
 母は私がいるせいで家に仕立て屋を呼ぶことができず、私の衣類はすべて彼女自ら縫っていたのだが、一度としてその表情が明るかったことはなかった。ましてやすぐに成長してしまう子供が着るものだ。できるだけ長い間着ていられるようにと、それらの服はわざと大きめに作られていたのだ。
 私を恐れ嫌っていたのに、私のために己の時間を割かなければならなかったあの人は、どれほど私を憎んでいたことだろう……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 そして二日前の午後、ベストは完成した。
 ガウンを脱いでシャツの上に彼女手製のそれを着ると、身も心も温かくなったような心地がした。
 なにより裾が絡まないため、ガウンよりも動きやすい。
 首周りにはアスコット・タイを品よく結べば、砕けすぎる印象になることもなかった。
 私は昨日からガウンを着るのをやめ、もっぱらシャツにベストの格好で過ごすようになった。
 時同じくして、私の部屋に置きっぱなしにしていた猫のぬいぐるみにもどうやら私の部屋の匂いが移ったようで、アイシャはその優雅な前足で転がしていた。
 それはいま、彼女の寝床に引っ張り込まれて専用の枕と化している。


「朝からなに作ってるの、エリック……?」
 が目をこすりながら入ってきた。夢中になって作業をしていたので、すっかり時間が経つのを忘れていたようだ。もう七時になっている。
 キッチンにはガレット・デ・ロワの焼ける甘く香ばしい匂いが漂っていた。
「今日のお茶の時間は、少し特別なんだ」
 秘密めかしてそう答えると、は眠気が吹っ飛んだようで、興味深そうにレンジの側に近付いた。
「特別って?」
「それはあとのお楽しみだよ」
 ガレット・デ・ロワに入っているフェーブが当たった者は、その日一日、王や女王として他のメンバーに命令することができるのだ。王や女王は、その日だけの伴侶となる女王や王を指名するのが慣わしになっている。
 二人しかいない我が家では、どちらにフェーブが当たったとしても、私が王で彼女が女王なことに代わりはないが、しかしどちらかがどちらかに命令することはできる。ゲームなのだから、命令の内容はたわいもないことであることが多いというが。
 そして、ガレット・デ・ロワを作った私には、どこにフェーブが入っているかはわかっている。
 私がもらうか、彼女にあげるかは、私の胸先三寸にかかっているのだ。
 に与えて可愛い、あるいは彼女お得意の突拍子のないおねだりを聞くというのも捨てがたい。
 それとも自分で確保して、彼女に『命令』をしてみようか。
「毎年、私のためにベストを編んでおくれ」と。






フェーブは「ソラマメ」のこと。
昔はほんもののソラマメを入れていましたが、現在はほとんど陶器製だとか。
ソラマメ型だけではなく、おくるみに包まれたキリスト(横から見るとソラマメと似ているのが微妙に気持ち悪い…。そういやタラコQPにも似てるわ…)や、王冠、キャラクターものなどがあるそうです。




前へ   目次