今回の話は時期的に日常その23の前です。
秋も深まった頃、いつものように地上へ荷物を取りに行った時のことだ。
特に変わったものを注文してはいなかったので、荷は多くないはずだった。パンと少しの生鮮食料品、それになくなりかかっていたコーヒー。それから、彼女の好きなコンフィチュールと。
ところが、実際に隠し扉を開けてみると、大きな箱が八つも積み重ねられていたのだ。
「なんだ、これは……」
思わず声に出して呟いてしまった。
が何かベルナールに頼んでいたのだろうか。そういうときには私に報告するように言っているのだが。欲しいというのなら何を頼んだって構わないのだが、支払いをするのは私なので、把握しておく必要があるのだ。
一番上の箱に、手紙が載せられていた。封蝋を剥がして中を確かめる。手紙と、名刺が入っていた。訝しく思い、便箋を広げる。
「ああ、そうか。そういえば、もう終わったのだったな……」
すっかり忘れていた。
これは、私の注文だった。
が弾けるという日本の楽器。フランスでは到底手に入らないと半ば諦めていたものだったが、万博会場で展示されていたのだ。その万博も少し前に幕引きとなっていた。
それから同封の名刺は、今度パリに開店した日本の品々を扱う店のものだった。例の、日本人が経営している店で、万博で展示した品物の売買を担当しているという。ということは、この名刺は挨拶状兼宣伝といったところだろう。
ベルナールによると、日本の楽器は工芸品などよりは人気がないということだったが、それでも好事家というものはいるもので、幾人かのライヴァルを蹴散らす必要があった。しかし無事に全て購入する約束ができたということだ。そう、「全て」だ。
当初はの扱える楽器だけにしようかと思っていたが、どうせならと展示されている楽器を全種類買ってみることにしたのだ。値段はともかく、一体どれほど保管スペースを喰うか、案じないでもなかったが。
そして実際に届いた箱は一つ一つの大きさが、高さはともかく長さは身の丈ほどもある。
それが八個だ。食料品に加えてこの箱の数……。
(往復九回、舟でも九回、か……?)
とっさに頭の中で計算する。
思いがけない重労働に、私はそっと肩を落とした。
……さっさと戻って、昼寝をしようと思っていたのだが――昨日は徹夜をしたのだ――どうやらそれは叶わないようだ。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
なんとか荷をすべて玄関の前まで運ぶことができたが、これだけで三時間近くかかってしまった。なんという馬鹿げた労働だろう。
いや、しかしもう少しでが異国の音楽を奏でてくれるだろう。それを思えばこれくらいなんでもない。
私は足元に積んだ箱を手に取った。
せっかくだから、コトを一番に持って家へ入りたかった。懐かしい楽器を目にしたら、彼女はきっと驚き喜んでくれるだろう。
ところで、コトはどれだ?
確か、弦楽器だと言っていたが。
「…………」
全ての箱を開け中身を確認したが、最終候補が三つ残ってしまい、どれがコトなのか判断がつかなかった。
一つは弦が四本のリュートのような楽器。もう一つは七本の弦があるチターのような楽器、そうしてもう一つはやはりチターに似た楽器で、弦が十三本あるものだ。
(……どれだ!?)
実物を見ればわかるだろうと高を括っていたのが仇となってしまった。特長の一つでも彼女に聞いておくのだった。
しかし、悔やんでももう遅い。
抱えて家に入るのなら、リュート似の楽器の方がチター似のものよりも様になりそうだし小さくて丁度良い。しかし、これが正解かどうかはわからない。確率は三分の一。さて、どうしようか……。
(まあ、どれでも日本の楽器なのだし)
ならば知っているだろうと、私はリュート似の楽器を手に取った。
「いま帰ったよ」
声をかけると、奥からパタパタと軽い足音がした。玄関に顔を除かせた彼女は、私が手にしているものを目にして小さく口を開ける。
さて、どんな反応をしてくれるのだろう。
わくわくして待っていると、彼女はひどく怪訝そうな顔になり、歩きながらも楽器から目を離さなかった。近くまで寄るとまじまじと見つめ……。
「これって、琵琶よね? なんでこれがここにあるの?」
思い切り首を傾げた。
「ビワ、というのか。これは……」
どうやら私は外したらしい。三分の一の確率のものを外すというのは、なんというか、こう、妙に悔しいものだな。
は戸惑ったような表情を浮かべ、私を見上げてくる。
「そういえば万博って、終わったのよね。琴を買うとかなんとか言ってたけど、間違えて予約しちゃったの?」
「いや、そういうわけでは……」
背後に視線をやったことで、彼女の関心を引いてしまったらしい。はひょいと玄関口をのぞくと、そのまま外へ出て行った。
と、思ったら、すぐに戻ってきた。
「ちょ……! 何? 何なのあれ。一体何を買ってきたのー!?」
は血相を変えて叫ぶ。
「万博会場で展示していた楽器だよ。お前のものだ。私ばかりオルガンやら何やらを弾くのは不公平だと思ってね。これらがあればお前だって音楽を楽しめるだろう」
言うと、は一瞬言葉を亡くしたように口をぱくぱくし、ややあって額を押さえた。
「あのね、エリック……」
「……嬉しくはないようだね」
彼女の様子を見れば一目瞭然だ。私は少しでも彼女と共に楽しめるものがあればいいのにと思っていたが、なかなか共通する趣味がなくて、もどかしく感じていたのだ。
だが音楽ならば、彼女も多少は理解できるようだからと望みをかけていたのだが。
は申しわけなさそうに縮こまる。
「う、嬉しくないわけじゃないけど、でもこんなにあっても、わたし、困るわ。だってわたし、琴なら弾けるけど、他の楽器は触ったこともないんだもの」
なんだって?
「なら、これも?」
持っていたビワを軽く揺すると、はこくりと頷く。そして、
「実物を間近で見たのは、わたしが生まれる百年以上前のパリの展示会場でのことだったわ……」
と遠い目になった。
日本の楽器なのに、こちらへ来るまでまともに見たこともなかったのか……。
「他の楽器は?」
「似たようなものよ。琴くらいならともかく、他の楽器は、教えてくれる教室なんて日本全国でどれだけあるのかって感じだったもの。まあ、わたしが興味を持ってなかったから知らなかっただけかもしれないけど……」
参った、というように、は両手をあげる。
私も参ってしまった。まさか未来の日本では自国の楽器まで忘れられつつあったなんて思いもしなかったのだ。以前にキモノを買ってやろうとしたが、着方がわからないのでいらぬと断られた時のようにショックだった。
いや、しかしそれでも彼女はコトならば弾けるのだ。他の楽器はおいおい使い方を探ってゆけばよい。
そんなことを考えている間に、が側に寄ってきて、私の腕に手を置いた。そしてすまなそうに見上げてくる。
「ごめんなさい。余計なお金を使わせてしまって……。でも、一言相談してくれればよかったのに」
もっともだ。しかし、それでも私はを喜ばせたかったのだ。前もって教えているより、思いがけない方が、喜びは増すものだろう。
「そんなことは気にしなくても良い。それよりも、コトを弾いてくれないかね? それが何よりの労いになるのだが」
そう言葉をかけてもは気兼ねをしているような顔をしていた。それでもやがて吹っ切れたらしく、「わかったわ」と笑った。
「とにかく、全部運び入れちゃいましょう。このまま外に出しっぱなしにしていると、湿気で駄目になっちゃう」
気を取り直したのか明るい声で彼女は言った。
「ああ、私がやるよ。お前はこれを居間に持っていっておくれ」
と、ビワを渡した。
受け取ったは、「結構軽いのね〜」と感心したように言った。
……本当に、触ったのが初めてなんだな。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
小さめの箱から運び入れていると、彼女は絨毯の敷かれているところをうろうろとしている。
「?」
動きが妙なので思わず声をかけると、困り顔の彼女が振り返る。
「どうした」
「琴をどこに置こうかと思って……」
テーブル、と思ったがすぐに無理だとわかった。この楽器は、幅はそれほどではないが、長いのではみだしてしまうのだ。
「なら、絨毯の敷いているところに置けばいい」
アジアの楽器はいくつか知っているが、床座で演奏をするものも多いので、これもその類なのだろうと思ったのだ。
「まあ、そうなんだけど……ちょっと、嫌」
は顔をしかめる。
「なぜ?」
「日本では家の中では靴を脱いでいるものだから。絨毯っていっても、靴履いたまま歩き回ってるし、そこに座るのはちょっとね」
そういうものなのか。しかしそうなると、何か床に敷くものがいるということか。
何かあったかと思い巡らす。と、彼女が明るい声で手を打ち鳴らした。
「そうだ。前、ピクニックに行った時に使ったラグは? あれなら大きさも丁度いいわ」
そういえばそんなものもあったな。
「確か、バスケットの中に入れて物置につっこんだはず……」
「バスケットの中ね」
弾んだ声では物置に駆けていった。やれやれ……。
再び楽器箱を抱えて居間に戻ると、彼女は絨毯に並べるようにラグを敷き、しわを伸ばしていた。
ラグの端の方に一番大きな箱を置く。と、彼女が近寄ってきてそっと蓋に手をかけた。
「うわ、すごい……」
中を覗いた彼女は、気圧されたように息を飲んだ。
桐でできたケースの中には上等の絹地で包まれた筝が横たわっていた。他の楽器もやはり絹地で包まれている。
楽器が傷つかないようにしているのだろうが、ケースの内側に布地を張っているのがヨーロッパのやり方なので、こんなところにも違いがあるのだと改めて感じた。
彼女はそれを広げ、コトをラグの上に置く。
と、膝をついて本体の木の部分や、弦に指を這わせた。その表情は真剣そのものだ。
「……ああ、そっか。そうよね……」
細部を確かめつつ、彼女は何度かそんなことを呟いた。そして箱の中に残っていた付属物、小さい木箱とさらに小さい――指輪が入る程度の大きさだ――木箱を取り出した。
その下にやはり絹地で包まれた薄いものが入っている。
が小箱に気を取られていたので私はそちらを手に取った。
布を開いた私は絶句した。
「日本音楽解説書……」
中には図解入りで楽器の名前や演奏法、それにどのような音色が出るかということがフランス語で書かれてあったのだ。これも展示品か? それとも出品時の審査用書類か? どちらでもいいが、さっさとこれの存在に気付いていたら、ビワとコトを間違えることなどなかったのに……!
ベン……。
このやり場のない憤激をどこへぶつけたらよいのかわからないまま肩を震わせていると、ふいに典雅な音が耳を打った。
が別の弦に指をかける。
ベン……。
彼女は音色に耳を済ませるように顔を傾け、糸の張り具合を確かめるようにまた別の弦に手をかけた。
ベン……。
「やっぱり緩いわよね」
ふと私の存在を思い出したかのように顔をあげ、きゅっと眉を寄せる。
「ねえエリック、もしかして糸を締めたりするなんて……できたりする?」
「やってみよう。少し場所を空けておくれ」
構造を調べてみると、そう難しいものではないことがすぐわかった。どのくらい強く張ればよいのかわからないが、弦は絹を縒ったものなので、あまり締めすぎると切れてしまうだろう。
とりあえず真っ直ぐになるように糸を張ると、は付属の小さい箱を取り出した。
「それは?」
そこにはチェスの駒に似ていなくもないものが十数個入っていた。は手馴れた動作でそれを弦の下に挟んでゆく。
「コトジ(琴柱)っていうの。触ったことがないからよくわからないんだけど、バイオリンとかって、指で弦を押さえて音階をだすんでしょ?」
「ああ」
「そういうのとは違って、コトは琴柱で先に音をとってしまうの。だから調弦さえしてしまえば誰でもすぐちゃんとした音が出せるのよ。もちろん、上手に演奏するには練習が必要だけど」
そういいながらもう一つの箱を開けた。そちらは竹でできたピックのようなものが三つ、入っている。
「ちょっときついなぁ……」
ピックの根元についている輪に指先を入れようとしたが、なかなか入らないようで悪戦苦闘する。
「どれ、貸してごらん」
「サイズ合わせをしないと駄目かも。多分でんぷん糊でくっつけてると思うから、水につければ剥がれると思うんだけど……」
「もう少し広げれば入るようだが……。巻いてあるのは革か。なら、引き伸ばせば剥がさなくてもすむかもしれない」
「そうなの? お願いできる?」
「いいよ。少し待っていてくれ」
「あなたって、本当に何でもできるのね」
感心しているのか呆れているのかよくわからない表情を浮かべると、彼女は小さく肩をすくめた。
「それじゃ、お願いします。ところでその作業をしている間、わたし、近くに居たほうは良い?」
「いや、そんなことはないが……どうして?」
「ドレスだとバッスルやペチコートが邪魔で正座できないから、着替えてこようと思って」
「ああ、構わないよ、行っておいで」
踵を鳴らしてが立ち去った。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
引き伸ばしの作業はものの五分で終わったが、はまだ戻っていなかった。
まあ、女性の着替えは時間がかかるからな。
手持ち無沙汰になったので、ソファに立てかけられたままほったらかしにされていたビワを手に取った。
指ではじきつつ、糸を締めてゆく。こちらもコト同様弦は絹でできていた。ガットに慣れている身にはいささか頼りなく思える。
(気をつけないとすぐに切れてしまうな……)
付属として、小さなピックのようなものがついている。解説書によると、バチというものらしい。
爪弾くのではなく、これで弾いて音を出すもののようだ。
戯れるままに、弾き、音を調節して、また弾く。
どのような音を出すのが最良なのか、直に聞いたことのない私にわかろうはずもないが、思うまま、自らが好む音色に合わせてゆく。
その音色に、記憶が過去へと遡っていった。
……アジアの音だ。
絶望と探究心に焼き尽くされそうな心を抱え、一人世界のあちこちをさ迷った頃を思い出す。
町のどこかから、あるいは祭りの時などには、これと似たような音色が流れてきたものだった。
ヴェトナムでも、インドでも……ペルシアでも。
だが気の向くままに放浪していた頃とは違い、ペルシアで召抱えられていた頃には、楽を奏でようなどという気はまるで起こらなかった。
あの頃は建築に興味の比重がかかっていたということもあったが、演奏をするには落ち着いた環境が必要だ。しかしあの国で落ち着けるところなど、ありはしなかった。
そうでなくとも、いつもいつも、暇を持て余したシャーや太后に、何か面白いもの見せろとせっつかれて辟易していたのだ。
そのシャーに仕えたのもずいぶん前だが、あの男は未だに健在だという。
あの、狂気と謀略に満ちた世界では、今でも余興で殺人ショーが行われているのだろうか……。
それとも、もうそれにすら飽きてしまったのだろうか。
ビィン……!
人の気配に、総毛立つほどの焦りが生まれる。目の端にオレンジ色のアジア装束を着た人影が見えたのだ。
これほど無防備に楽を奏でていた自分に怒りを覚える。しかし、それ以上に忍び足で近付いてきた女に憎しみを感じた。
顔を隠した大道芸人に好奇心を寄せただけだろうが、この手の女はアンコールを求めるように気楽に仮面を外しにかかるのだ。芸人にならば何をしてもよいと考える人間が多すぎる!
「すごいすごい。もうやり方を覚えちゃったのね」
縊り殺してくれると振り向くと、女は無邪気な様子で拍手を送っていた。
余韻がなくなると共に目の焦点があってくる。
一瞬、彼女が誰だかわからなくなっていた自分に愕然とした。
「」
喉から搾り出した声はひどく掠れ、震えている。
そうだ、彼女は。私の愛しい恋人だ。ビワを奏でている間に、私は過去の暗闇に囚われてしまったようだ。
「……? どうかしたの?」
はきょとんとした表情で首をかしげた。彼女はここへ来たときに来ていた現代服ではなく、夏に作ったパンジャビドレスを着ていたのだ。
これもペルシアの衣装とそっくりというわけではないが、現代服よりは似ているので過去の幻影が続いたような錯覚を起こしてしまった。
しかし、だからといって、彼女を殺そうとしただなんて……。
もしも気付くのが一瞬でも遅れていたら、私は己が手で一番大切なものを壊してしまうところだった。
ああ、それに、さっき私が彼女を殺そうとしたなどと、が知ったらどれほど脅えるか!
化け物のような顔でも彼女は私を愛してくれた。しかし、殺人鬼が潜む心まで愛してくれるはずがない!
絶対に、このことを知られるわけにはいかなかった。
そして私は自分に何度も言い聞かせる。ここはパリ。私と――とごく一部の者――しか知らない安息の家だ。
反吐の吐きたくなるような命令をされることも、切なさや寂しさを抱えたまま、一人地上をさ迷うことも、照りつける太陽や土砂降りの雨、身体が凍りつくような寒さに遭うこともない唯一の場所だ。
そして、なによりが、私を愛してくれる人がいるところ……。
そう思うと、胸の中が掻き毟りたいほど苦しくなり、私は腕を伸ばしてを引き寄せ、抱きしめた。
「エ、エリック……?」
「すまない、しばらくこのままで……」
「うん……」
心配そうな彼女の表情が愛おしく、衣越しに伝わる暖かさが心地よかった。
すがりつくように両腕を回すと、ビワがごとりと音を立てて絨毯の上に落ちた。
が慌てたように身じろぎしたが、私は許さず、しっかりと腕の中に閉じこめた。
「愛しているよ」
だから、どこへも行かないでくれ。
私を置いて、消えてしまわないでくれ……。
ここのエリックの年はスーザン・ケイのファントムを基準に考えていますので、仕えたシャーはナーセロッディーン・シャー(在位1848〜96)ということになっています。
エリックがいきなり琵琶弾けてたのは、中東を中心に使われているというウードという楽器を見聞きしたことがあるからだということにしておいてください…。形は割りと琵琶と似てます。が、どんな音がしているのかまではわかりません(>_<)
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