エリックの様子がおかしい。
 心ここにあらずといった感じで、自分の内に篭っているようだった。
 一体、どうしたのだろう。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 彼の様子がおかしくなったのは、着替えをするために居間を離れた時だと思う。
 それまでは抑えてはいるものの、はしゃいでいて……そう、子供みたいに。
 エリックにはそういうところがあるのだ。
 着替えている間に琵琶の音が聞こえてきたので、わたしは驚いてしばし動きが止まってしまった。
 だって、エリックが琵琶を見たのって、これが初めてのはずなのにもうちゃんとした音が出てるんだもの。
 まあ、琵琶が弦を弾く楽器で、撥がついているとなるとだいたいの弾き方は見当がつくだろうけども。
 その音は、様子を探るような感じで、曲を奏でているというようなものではなかったが、妙に様になっているのは楽器慣れをしているせいだろう。
 エリックはたまにバイオリンなんかも弾いているし、世界各地を放浪した経験があるのだから、どこかで似たような楽器に触れる機会もあったかもしれない。
 それで、演奏の邪魔をしてはいけないと、着替え終わったわたしはそっと部屋から出て足音を立てないように彼の側へ行った。
 しかし、もうあと一歩で「だーれだ?」ができる距離になるというところで、エリックがばっと振り返った。力が入ってしまったのか、一際大きな音を立てて琵琶が鳴った。
 その時の彼の表情。
 どう言ったら良いものか、いつものエリックではなかったのだ。
 彼は不機嫌な表情をしていることが多いが、本当に不機嫌だというわけではない。わたしの考えでしかないが、おそらく彼は長い間辛い思いを抱えながら生きていたので、笑うということをあまりしなかったのだろう。蔑まれれば辛い、悲しい、そして、憎い。理不尽な扱いをされれば怒りも生まれる。そうして彼は生まれながらの顔に厳しい表情を張り付けることとなったのだと。
 思い返せば、本当に偶にだけどエリックは場の雰囲気を和ませようと笑うことがあって、でもそれは無理に浮かべた笑顔でしかないから、硬くて引き攣っているような笑顔になるのだ。
 これもやっぱり偶にしかないけれど、優しい笑みを浮かべることもあって、そういう時の表情は柔らかい。だからそんな時は彼が心から安心していて嬉しいと思ってくれているのだと思えて、わたしは彼を抱きしめたい衝動に駆らせるのだ。


「すまない、しばらくこのままで…」
 わたしをわたしだと認識したらしいエリックは、腕を伸ばすと不安にかられた子供が人形やぬいぐるみをぎゅうっとするようにわたしを抱きしめた。
 彼の手からは琵琶が落ち、間延びした音を出して転がった。弾みで糸が切れる。見捨てられ、打ち捨てられた楽器は、彼の心細さを代わりに表しているかのようだった。
 わたしを抱くエリックは、震えていた。
 なぜそうなったのかはわからないけれど、昔のこと――それも嫌なこと――を思い出してしまったのだと思う。脅えているように震えているのが、その証だ。
 泣きたいのなら泣けばよい。ここにいるのはわたしと彼とアイシャだけ。エリックが泣いても誰も責めないし、嗤わない。
 わたしはなんとかして腕の自由を取り戻すと彼の背に回した。
(よしよし、とかしたら、我に返っちゃうかな……)
 そんなことを考えながら、ゆっくりと背中をさすった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「悪かった、取り乱して」
「別に、構わないわ」
 どれくらい時間が経ったのか、エリックはそう言うとやおらわたしを引き離した。
 泣くかと思っていたのだがそんなことはなく、ただ元気のなさそうな様子で落とした琵琶を拾い上げた。
「切れてしまったな。換えの糸を捜さないと」
「……ねえ、エリック」
 何があったのか聞こうとするわたしに、エリックは、
「日本の楽器の弦は絹糸なのだな。これなら私でも何とか修繕はできるだろう……」
「何があったの?」
「そういえば、お前は自分で糸を締めることもできないようだが、やり方は習わなかったのか?」
 話を逸らそうとしているとしか思えない答え。聞かれたくない、ということなのだろう。
 わたしは一つ息を吐くと、彼の思惑に乗った。
 触れられたくないことは、誰にでもあることだ。彼は、その割合が他の人より多すぎるだけで。
「わたしみたいな、習い始めて何年も経っていないような人は、安い練習用の楽器しか使えないものよ。弦だって切れやすい絹糸じゃなくて、頑丈なテトロン糸だもの」
「……テトロン?」
「化学繊維ってやつ。一年間、毎日のように弾いても一本切れるかどうかってくらい丈夫なの。わたしが使ってた間には一度も切れなかったから、そもそもどうやって糸の交換をするのか、わからないのよね」
「ああ、そういうことか」
 ほっとしたように肩を落とすエリック。
「……何か弾いてくれないか」
 彼は目で筝を示した。


 絹糸を張った筝は、わたしが使っていたものと同じ楽器だと思えないほど雅やかな音を立てた。
 指慣らしに調弦をしながら定番の「さくら」を奏でてみる。
 テトロンの固い糸とは違い、絹糸の弦は指に吸い付くような優しい感触をしていた。
 テンポの速い楽曲を大勢で演奏すると、それは迫力が出るのだけれど、これはそういったものには向かないだろう。一音一音の余韻を楽しむのに適している。
 普段は全然着たいとは思わないし、あっても自分では着れないので欲しいとは思わなかったけれど、振袖とか着て演奏したらさぞかし様になることだろう。
 もっとも、現代では椅子に座って演奏することも多いし、西洋楽器とコラボレートすることもあるからドレス着てたって全然変じゃないんだけども。楽譜には西洋クラシックのものを筝曲用にアレンジしたものだってあるのだ。
 閑話休題終了。
 そっとエリックを窺うと、ソファに座って足を組み、両手を組んで目を閉じていた。
 一見すると聞くことに集中しているように思えるが、多分、違う。
 彼はまださっきの動揺から立ち直っていないのだ。
 最後の一音が空気を震わせ、拡散した。
「ふう……」
 久しぶりの演奏に、ずいぶん緊張してしまったみたいだ。肩が張ったような感じがして、思わず安堵の息を吐く。
「終わりかい?」
 目だけ動かして彼が尋ねる。
「もう一曲やってもいいわよ」
「なら、頼む」
「ウイ、ムッシュウ」
 わざとおどけたように言うと、エリックはちらりと笑った。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 その一曲が終わると、わたしは筝から離れて他の楽器たちを見てまわった。
 本格的な雅楽器に触れる機会なんて滅多にないもの。放っておくなんてもったいない。
 ……機会もなにも、これはエリックが買ったものだし、彼の言ったことが事実なら、これはわたしに贈られたもので……つまり、わたしのものなので、触ろうと思えばこれからはいつでも好きなときに触れるのだが。
 笛類は比較的地味だった。漆が塗ってあるものもあるが、大きな違いといえば、大きさや長さくらいだろう。弦楽器類は筝もそうだが、琵琶にも和琴にも螺鈿などの細工があって、これぞ邦楽器という貫禄を出している。それよりスゴイのが太鼓で、革面には朱色のぐるぐるや狛犬のようなものが描かれており、太鼓を吊るす台には龍の彫がされた金属の飾りがついていた。
 太鼓に対しては、もうこの感想しかなかった。
「派手だ……」
 そして、ものは太鼓……。
 一体、いつ使えというのだろう。
「なかなかのものだ」
「はい?」
 わたしが太鼓に目を奪われていると、エリックが横に立って見下ろしていた。
「素材は良い。図柄も興味深いね」
「……エリック、叩いてみる、これ?」
「遠慮しておくよ。上に聞こえないとも限らないし、実際に使ったらそのうち絵から塗料が剥がれてしまうだろうからね」
「叩かない太鼓に一体何の存在意義が……」
「飾ればいいじゃないか。他のものも一緒に。素敵なインテリアになると思うが?」
「……まあ、そうするしかないわよね」
 でも、とわたしは楽器類を見渡した。さっきからどうにも妙な既視感がある。
 それがなんだったのか思い出そうと額に手を当てた。
 と、メロディと共にその見覚え感が何に由来していたのかに思い至った。
『雛人形だ……』
 多段飾りについている五人囃子。あの人形たちが持っている楽器が全部ここにあるのだ。思い浮かんだメロディも、日本人なら誰でも知っているというもの。五人囃子の笛太鼓、今日はたのしいひな祭り、だ。
、今なんと? 話すのならフランス語にしてくれないか?」
「いえ、ちょっと昔の思い出が走馬灯のように駆け巡ったもので」
「お前もか?」
「え?」
 思わずエリックを見上げてしまった。彼はしまったと言いたげに口をへの字に結ぶ。
 ……やっぱり、昔のことを思い出して憂鬱になっていたのだ。
「エリック」
 どうにも心配だ。彼がたまに物思いに沈んでいることはあるにしても、こんなに引きずることは滅多にない。ここは強制的にでも元気付けた方がいいのかも。
 もうこの楽器類はしまってしまおう。
 理由はともかく、エリックを塞ぎこませた原因はこれらにあるみたいだから。
「インテリアにするのはともかくとして、一度に演奏できるわけじゃなし、一旦しまいましょう? 琵琶も、ほら弦が切れてしまったのだし、ね?」
 返事を待たずにわたしは楽器を片付け始めた。この後はお茶でも飲ませて――ブランデーを落としたコーヒーの方がいいかな?――落ち着かせよう。吐き出したいことがあるのならそうさせた方がいいとも思うし。
 しかしエリックはわざとらしく咳払いをすると、さらにわざとらしい口調でこう言った。
「それなら今度は私の持っている楽器を見せてあげよう。お前の知らないものもあると思うよ」
 ……思い出した過去はどうあっても話したくない類のものみたいだ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「長い間使っていないものもあるから、きちんと音が出ないものもあるかもしれない」
 そういいながら、彼は寝室やオルガンの脇で雑多なものを積み上げて山となっているところをかき回し、次々に楽器を運んできた。
 邦楽器は片付けて部屋の片側に積み重ね、ラグにはそれらにかわってエリックの楽器たちがずらりと並んだ。
 始めに持ってきたのはバイオリン。これはちょこちょこ使っているのでわたしも知っていた。飴色の本体は丁寧に手入れがされており、彼の愛着振りがわかるものだった。
 次に持ってきたのはハープ。コンサートで使うような巨大なものじゃなくて、膝に乗せて演奏できるサイズのものだ。ハープの音色はわたしも好きだ。滅多に聞く機会はないけれどね。後でエリックに奏でてもらおうっと。
 その次は……なんだろう、これ。ラッパのような、笛のような。木製で、先が朝顔みたいに広がっている。
「エリック、これ何?」
「ズルナだ。オーボエの原型になったという楽器だよ。それはトルコのもので、ショーの効果音にするために昔買ったものの一つだ。まだ残っていたのには私も驚いたのだがね。てっきり捨てたと思っていたものだから」
「へえ……。吹いてみてもいい?」
「壊れていなければ鳴るだろう。その場合、かなり大きい音が出るからびっくりしないようにな」
 そうなんだ。ではっと。
 大きく息を吸い込んで、吹いた。
「……出ない」
「随分昔のものだからな」
 エリックが近付いてきてズルナを確認した。
「ああ、やはり、ここが割れている」
 と、本体の裏側を指差す。木製のものだし、保存状態も良くなかったのだろう。細かいひび割れがいくつも出来ていた。これは、修理するのも難しそうだなあ。
 そういうわけで、ズルナの音色は解らず仕舞いになった。
 次は……と。
「これは?」
 ギターみたいな形だが、弦は三本で胴が三角形になっている。
「バラライカ。ロシアの楽器だよ」
 そういえばエリック、ロシアにも行った事あったんだっけね。これを捨てずにいたのはもしや、糸を止めている部分に馬の彫刻がされているからだろうか。バラライカという名前はわたしも聞いたことはあったけど、こんな形をしているんだ。
「弦が三本の楽器って、日本にもあるわ」
「そうなのか? しかし、あの中にはなかったようだが?」
 エリックは邦楽器の入っている箱を指さす。
「雅楽では使わない楽器だからね。そういえば、笛の一種で尺八というのがあるのだけど、それも入ってないわね。一般的な日本人にとっては、三味線と尺八の方がよほどなじみがあるんだけど……。民謡でよく使うから」
「俗すぎて敬遠されたか」
 皮肉気にエリックは唇をあげた。
「それもあると思うけど、多分、雅楽が完成した頃にはまだ日本に伝わっていなかったからだと思う。雅楽器に比べてたら、三味線も尺八もまだ新しい楽器っていうイメージがあるもの」
「なるほど」
 そういうと、エリックはまたオルガン脇の山を捜索しだした。
 大きな山が崩れて、小さな塊が幾つもできている。高さがなくなった分横に広がったため、やたらと散らかっているという印象になってしまった。
 後で一緒に片づけをして、いらないものは捨てさせよう……。
「まだあった」
「今度は何?」
 それは、あまり楽器らしく見えなかった。木でも金属でもなく、布でできているようだが、布製の楽器なんて想像がつかない。
「ビニュというんだ。これはパリに戻ってから古道具屋で見つけたものだ」
 あの頃はとにかく時間を潰すのに必死になっていたからな、と自嘲気味に笑うエリックに、わたしは物悲しいものを感じた。
「結局、一度か二度使っただけで終わったがね」
 エリックは言いながらビニュの具合を確かめる。
「これもだいぶ傷んでいるな……」
「どういう風に使うものなの?」
「この皮袋に息を吹き込んで操作すると、ここの、チャンターというところから音が出るんだ」
 そうか、布じゃなくて皮だったんだ、これ。
「もしかして、バグパイプみたいなもの?」
「バグパイプは知っていたのか。ああ、似たようなものだよ」
「へえ……」
 見つかった楽器は以上の五つ。居間の置くにあるオルガンを入れれば六つの楽器をエリックは持っていることになる。
 彼はわたしのリクエストに答えてハープの演奏をしてくれ、その後はバイオリンで数日前に完成したばかりだという曲を奏でてくれた。
 音楽はどっちかというと聴く方が好きなのだけど、こんな風に演奏できるのはいいなあ。
 本当に届けられるまでは気乗りしなかったのだけど、少し真面目に筝の練習をしてみようかと思った。


 そんなことをしているうちに、もう夕食の支度をしなければならない時刻になり、わたしたちは慌しくざっと片づけをして食事の用意を始めた。
 食事が済んで一段落すると、今度はもっと本腰を入れた片づけをすることにした。
 何しろ、ガラクタ山を崩壊させてしまったのだ。あっちにもこっちにも、箱だの本だの、使用目的のわからない様々なものなどがたっくさんあって、特にオルガンの周りは足の踏み場もないほどだ。
 オルガンを使えるようにするためには、それから明日、気分よく居間を使うには、掃除をしないわけにはいかない。
 エリックはいるものといらないもののより分け作業をして、わたしは彼がいらないとしたものをさらによりわけた。布や木でできているものは、焚きつけにできるだろうということで、燃料室に運ぶ。金属や陶器、革でできたものはどうしようもないので、物置行きだ。
 そういうわけで、彼の持つ楽器のうち、ズルナは燃料室行きに、ビニュは物置行きとなってしまった。壊れているとはいえ、もったいないなぁ。
 ズルナはともかく、ビニュはこの木の管を取って穴をふさいでカバーをかけたらエアクッションみたいになるんじゃないかと思う。
 そう考えて、木管を取って穴を手で押さえながら膨らませたビニュを力いっぱい押してみた。すると、空気の抜けかかったサッカーボールみたいな感触とともに、ぼふんという気の抜けた音が出てきた。その衝撃で前髪がぶわっと舞い上がる。
「…………」
 ちらり、とエリックを見やる。
 彼はこちらに背を向けて、黙々と選別作業をしていた。掃除は好きではないというが、素晴らしい集中力を発揮しているようだ。
 わたしは再びビニュに半分ほど空気を入れ、抜き足差し足、ソファーに向かった。
 いくつか重ねてあるクッションを取り上げ、その一番下にビニュを置いておく。隙間からビニュが見えないように慎重にクッションを置きなおすと、わたしは再び作業へ戻った。
 さあこのとっても単純なイタズラに、エリックはひっかかるだろうか……?







・えー、楽箏(雅楽用筝)と俗筝(一般的な筝がこっち)を弾き比べをしたことがないので、イメージのみで書いてます。
・革面の朱色のぐるぐる→炎の図案
・狛犬のようなもの→唐獅子
・万博に送られた楽器に三味線、尺八がなかったかどうかはわかりません。カノジョ的にはない方が良いだろうと思いましたので…。特に三味線。だってあれ、猫の皮使ってるからさ…。
・バラライカはロシアにいた頃に買ったのが残っていたのではなく、パリに戻ってきてから(ビニュ同様暇つぶしのために)買ったものということにしておいてください。
・ズルナ:日本では一般的に「チャルメラ」と呼ばれている楽器です。音が出たならカノジョは喜んで、リコーダーを覚えたばかりの小学生の如く、あのメロディを吹いたことでしょう(笑)




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