上手く誤魔化せたとは思っていない。
 自分でも、私の様子はあまりにも不自然だと思うのだから。
 これが他のことならば、案じてくれる人がいることに喜びこそすれ、拒絶などしないだろう。
 だが、これを口にすることはできないのだ。
 彼女を、 を殺そうとしてしまったのだ、なんて……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 私の所有している楽器は、一時とはいえ彼女の気を逸らすのに役立った。
 とはいえ、つい先刻のことなので忘れてはいないだろう。
 どのくらい時が経てば思い出さなくなるだろうか。
 私は顔を合わせたらいつ詮索されるかと気が気ではなくて、普段はしない大掃除に着手することにした。
 楽器探しをしていたら、洒落にならないほど散らかってしまったせいもあるのだが。
 そうして私はオルガンのある側の壁に積み重なっていたさまざまなものを分類する作業を開始した。やらなくても良いと私は言ったのだが、彼女は分類したものを処分先に持ってゆく作業を引き受けてくれた。
 普段から私はきっちり掃除をする方ではなく、必要な時に汚れているところを拭くくらいで、あまりにもゴミが増えてしまった時にだけ片付けるくらいだった。それも全部捨てるのではなく、必要なスペースが確保できるだけで止めていた。それは何かこだわりがあってそうしていたわけではなく、単に面倒くさいからだった。
 そういうわけで、ここには私がこの地に住み始めた頃から放置されているものが随分あった。
 ある紙箱を開けてみた。
 開けてみると、書き損じや完成したものの気に入らなくなった楽譜がぎっしりつまっている。随分前に行った、その場しのぎの『片付け』の名残だった。
 別のぼろぼろになって潰れた箱からは、すっかりさび付いた釘やネジ、それに金属片がざらざらと入っていた。ここに住み始めた頃に作った我が家を守る仕掛けの残り材料だ。
 雑誌や新聞の束、まとめた針金、買ったものの気に入らなくて装丁をつけないままでいた本。
 埃に塗れたドレスシャツも出てきた。全然記憶にないが、脱ぎ捨てたものが紛れ込んでしまったのだろう。
 空き缶が五、六個、転がり出てくる。これには覚えがあった。以前、オルガン付近に置いてあるランプを手入れするためのボロ布を、これに入れておいたのだった。いちいち物置まで掃除用具を取りに行くのが面倒だったので、煤がひどくなった時にこれでざっとふき取っていたのだ。が、そのうち布が汚れて使うのが嫌になったので、そのまま放置した。……ということを何度も繰り返した名残だ。
 そのほか、インク瓶を倒したのを拭いた布や――カピカピになっていた――癇癪を起こした時に投げつけて壊した人形の家――私が作ったもので、ごく普通の家庭を再現したものだった。あまりにも惨めだったので、作ったことすら忘れていたものだ――それから物と物の間からは、これでもかと埃が玉になって出てきた。
「……なんだ、これは?」
 平べったい、妙なものが出てきた。
 よく見ればそれはネズミで、すっかりミイラ化したものだった。首のところにぽっちりと歯形がついている。多分、アイシャが仕留めたものを隠したのだろう。そしてそれをすっかり忘れてしまったというわけだ。
 こんなものは少しも欲しいとは思わないが、いらないものとしてより分けたものは彼女が燃えるものと燃えないものに分けるため、いらないものに入れるわけにはいかない。卒倒でもされたら困る。
 これはあとで捨てておこうと脇へどけた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 好きでもない掃除とはいえ、目的があれば案外はかどるものだ。
 私は選り分けに熱中していたようで、気付くとあれほど雑然としていた山がすっかり小さくなっていた。
 時計を見ると十一時を回っている。もうくたくただった。
 何か元気になるものを口にしてから休もうと、私はソファに腰を下ろした。
「……ふう」
 座るのではなかった。立ち上がる気力がない。に頼もうか。しかし、彼女も疲れているだろうから迷惑をかけるわけにもゆくまい。
 まとまらない頭でぼんやりと座っていると、軽い足音がして最後の分別を終えたが、手をプラプラさせながら戻ってきた。埃や何かですっかり汚れてしまった手を洗ってきたようだ。
 私も洗ってこないといけないな。こんなに汚い手では彼女に触れることができないのだから。
 しかし、疲れた……。
「お疲れ様、エリック」
「ああ、本当に疲れたよ」
 掃除もそうだが、あの楽器八箱が効いたな。
 彼女はちょっと眉をしかめる仕草をし、気遣わしげに首を傾げる。
「エリック、何か持ってこようか?」
「ああ、頼む」
「コーヒー? ワイン? それともすぐ寝付けるように蜂蜜ミルク?」
 蜂蜜ミルク、とイタズラっぽく言ったので、思わず笑ってしまった。彼女は私を扱うコツをすっかり心得ているのだ。
 厚意に甘えてワインを所望する。
 ちょっと頷いてから彼女はキッチンへ消えた。
 戻ってきたときには盆にデキャンタに移したワインとグラス、それに皿に盛った薄切りのバゲットとチーズ、さらに濡らした布巾と、まさに至れり尽くせりな品物を乗せてきた。
 布巾を手渡され、それで私が手を拭っている間に飲み物と食べ物がテーブルに並べられる。
 このちょっとした気遣いが嬉しい。は良い妻になれるだろう。そうとも、それも、私の妻にな。
「お前は飲まないのか?」
「わたしは蜂蜜ミルクにしたの。今温めているところ」
「そうか」
 並べ終えると、再び彼女はキッチンへ行った。湯気の立つカップを手に戻ってくると、向かいのソファに座る。
 も疲れたのか、ほとんど口をきかなかった。ただ、時折私の様子を窺うようにちらちらとこちらを見ている。目が合うとぱっと逸らされるのだが、口元が笑っているので、この陽気な沈黙の中では私も不機嫌でいることなどできなかった。ああ、本当に彼女はなんて可愛い女なのだろう。
 この調子なら、私の様子がおかしかったことなど、すぐに忘れてしまうだろう。
 私だって忘れられるものならば忘れてしまいたかった。
 あの忌まわしい記憶は、思い出すまいとしてもふとした折に顔を覗かせる。
 人の世界から呪われ、人の世界を呪った私には、幸福になる権利などないのだと繰り返し告げるかのように……。
「エリック?」
「うん?」
「疲れてるね」
「……そうだな」
 一瞬真顔になっていた。問いたかったことは多分別のことだろう。
 だが、彼女は聞かなかった。
 私も言うつもりはない。
 いつか、ただの思い出となって話すときがくるかもしれないが、今はまだ口にしてはいけないことだから。


 蜂蜜ミルクを飲み終わっても、彼女はその場に残っていた。もう真夜中になっているし、いつもの ならば寝に行っている時間だ。おそらく食器を洗うために私が食べ終わるのを待っているのだと思うが――本当は水仕事などさせたくないのだが、一人暮らしの折のクセが抜けきらず、つい後回しにしてしまうのだ、私は。あとで洗おうと流しに放置していると、彼女がさっさと片付けてしまうという悪循環。あの子の手が荒れない内にどうにかして改めなければ……――私がやるからと言うと、彼女は後ろ髪を引かれているような様子で寝室に引き上げていった。
「ふう……」
 ワインを飲んで軽くものを食べたから眠くなってきた。少し横になりたい。
 しかし、今横になったらそのまま眠り込んでしまいそうだ。だが、洗い物もしなければならないので――やらなければまた がやってしまうからな――まだ寝室に行くわけにはゆくまい。
 眠らず、身体を横にするだけにしようと、私はクッションに身を預けた。
 途端、ボフンと何かが噴出するような衝撃と気流が襲ってくる。
「うお!?」
 クッションが爆発したのか? まさか! しかし一体何が……。
 がばりと起き上がり、クッションを手に取った。すると、幾つか重なり合ったそれの下から哀れただの皮袋と化したビニュが出てきたのだ。これが原因か!
「……エ、エリック?」
 笑いをこらえるが壁にへばりつくような格好で肩を震わせていた。くそう、まだ部屋に入ってなかったのか。
 というより、これはお前がやったんだな。アイシャではここまで綺麗に押し込むことはできん。
 さっきの場面を見られてしまったのが腹立たしい。世界一のマジシャンと自信を持っていただけに、こんな子供だましに引っかかってしまったのが悔しかった。
「このしょうもない仕掛けをしたのはお前だな」
 自分でも顔がひきつっているのがわかる。はにっこり笑って、
「他にこんなことする人はいないでしょ?」
 距離があるのを幸いとばかり、彼女は指を二本立てる。
「っ、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるぞ!」
「でも、驚いたでしょ? エリック元気がないみたいだし、これで笑ってくれたらなーって」
「だからといって、女の子がこんな品のないイタズラをするんじゃない!」
 頭を預けたから良かったようなものの、そのまま後ろに寄りかかったら、放屁をしたように見えるではないか。
「まあ、あまり褒められたものじゃないけどね」
 私の説教の意図するところを正確に読み取った彼女は、苦笑いする。
……!」
 私はビニュを放り投げて彼女のところへ向かった。疲れも眠気も吹き飛んだ私は、がっちり説教をしてくれようと足早に歩く。しかし彼女はぴっと片手をあげると、
「それじゃあそういうことで、bonne nuit monsieur!」
 と寝室へ逃げ込んだ。
「……くっ、卑怯な!」
 目の前で扉は無常にも閉まった。
 その前を私は檻の中の熊のようにうろうろとする。
 彼女は私の恋人だが、許可もなしに寝室に入ることはできない。音はしなかったので閂はかけていないと思うのだが、だからといって開けていいわけではないのだ。
 一体どうしてくれよう。みっともないところを見られたままでは男としても面目が立たない。
 無論、彼女とてずっと寝室に閉じこもりっぱなしでいるわけにはいかないのだし、朝にあったら出てくるとは思うが、ただ叱るだけでは腹の虫が収まりそうになかった。
 ぶつくさと腹の中で文句を言っていると、鈍い、聞きなれた音がした。湯がパイプを流れている音だ。風呂の用意でもしているのだろう。
(風呂、か……)
 確か、彼女の入浴時間は四十五分ほどだ。
 ……別に、覗いたことがあるわけではない。居間にいると、色々と音が聞こえてくるのだ。私だっていつもいつもオルガンを弾いているわけではないのだから、浴室の扉を開ける音だとか、部屋を歩き回っている気配とかがするのだ。ただそれだけのことだ。
 ……神よ、勘違いするな。私は断じてあなたに対していいわけをしているわけではない。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 時刻は一時を回った。午前の一時だ。
 洗い物を終えた私は、ソファー――例のいまいましいイタズラが仕掛けられた方のだ――に腰掛ける。
(さて、あの子はどうでるだろうか……)
 目には目を、歯には歯を、イタズラにはイタズラを――。
 私は彼女に仕返しをすることにした。その成果を待っているところである。
 その仕返しをするためには彼女の寝室に入らざるを得なかったのだが、私は二十を数える間だけと己に言い聞かせて、目的のものを取りに行く時と戻す時の二度、彼女の寝室へ入った。
 その折、ちょっとしたアクシデントが起きた。このことは予想してしかるべきだったのだが、仕返しをするという思いつきに頭が煮えていたとしか思えない。
 洗濯物籠に入れられた下着を見たときには、頭が真っ白になってしまった……。
 オペラ座の女たちによって無駄に鍛えられていたというのに、今更下着の一つや二つで動揺してしまった自分が情けない。しかし、愛情の有無というのは布切れ一つに対する思いをこうも変えてしまうものか、と妙な感心をしてしまった。
 物音を聞き逃さないように、耳を澄ます。
 さきほど、浴室の扉が開く音がした。早ければもうすぐ結果が出るだろう。

 そして十分が経ち。

 二十分が過ぎて。

 三十分が経過した。

 それからさらに数分後、べべべべべっという音とともに、「ひあっ!?」という叫び声があがった。
 うむ。素晴らしい成功を収めたようだ。
 私は一人勝利を感じて頷くと、彼女が出てくるのを待った。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 でてこない。
 あれから二十分は経ったのに、の部屋は静かなままだった。
 てっきり、驚いたか怒ったかしたあの子が飛び出してくるかと思っていたのだが……。
 仕掛けをしたものを除けて寝ることにしたのか。つまらん。
 そういうことならもう私も休もう。いい加減疲れきってしまった。
「エ、エリック、助けてー」
 寝室へ向かいかけていたところ、の部屋の扉があき、半泣きになった彼女が顔を覗かせてきた。
「ど、どうした!?」
 驚くか怒るかするだろうとは思ったが、まさか泣くとは思っていなかった。私の仕掛けのせいか? しかし、一体どうして……!
 慌てて駆けつけ、彼女の寝室に入る。すると、そこは一面に羽が飛び散っていた。
「……何をしたんだ」
 呆気に取られた私は、彼女に説明を求める。
「何って、エリックが枕に仕掛けたんでしょ。びっくりしたわよ!」
「……で、中身をぶちまけたのか?」
 まあ、つまりこういうことだ。
 私は彼女が私にしたイタズラと同じことをしたのだ。少し手は加えたが。
 ビニュに厚紙で作ったリードをつけて枕の中に入れたのだ。ただ空気が噴出すだけではなく、そのときの振動で音が出る。これは原始的な笛の構造と同じなのだ。
 彼女がやったのと同じように枕の下に置いても良かったのだが、手品の仕掛けというのは観客から簡単に見えてしまうかもしれない場所に置くものではない。それでは興ざめだ。
「ぶちまけるつもりはなかったわ。ただ、そっと取り出すつもりだったの。なのに、どんどん中身が飛び出してきて。軽いからつかもうとしても飛んで行っちゃうし…」
 は唇を尖らせた。
 そうしている間に部屋中に散ってしまったというわけか。
 まさか自分で取り出そうとするとは思わなかった。中身が羽なことくらい知っていただろうに。そう言うと、彼女はそっぽを向いて、
「エリックは針糸は得意じゃないと思ってたから、あなたにできたことがわたしに出来ないとは思わなかったんだもん」
 と呟いた。まあ、確かに得意なわけではないがな。私は肩をすくめる。
「必要に迫られたことがあったから、使えないこともないんだ」
「必要に迫られたことって……?」
「まあ、色々だ。仕掛けには布や革を使うときもあるし、それらを修繕することもあるからね」
「ふうん……」
 もっとも、最初に針糸を持ったのは、一人でショーをして放浪していた頃だ。まだほとんど金を持っていなくて、テントに使う布もろくなものではなく、寒さや好奇の目を防ぐためにしょっちゅう繕いをしなくてはならなかったのだ。それに舞台衣装も自分で誂えなければならなかった。
 あの頃は、ショーの終わりに顔を見せずに済んだためしはなかった。どれほど目を見張るようなもの技を行っても、私の顔に対する好奇心を満たされない観客はそれを見ずには帰ろうとしなかったのだから。
 楽しかった思いなど一度もしたことがない。どれほど名声を博していようとも、あの頃の私は所詮ただの道端の大道芸人だった。客が満足しなければ代価を受け取ることができず、金がなければ飢えるしかなかったのだから。
「ねえ、それで、これどうしたらいい……って、エリック?」
 の声にはっとして我に返る。
 また私は過去に囚われていたのだ。
「ご、ごめんね。遅いのに引き止めちゃって。自分でなんとかするから、エリックはもう休んで、ね。昨日も寝てないんでしょ?」
 むっつりと黙り込んだのを、怒ったのだと勘違いしたのだろうか。は私を部屋の外へ押し出そうとした。歩くたびに羽がふわりと舞い、空中に漂う。
「いや、いいよ。もうこうなったら一晩寝ないのも二晩寝ないのも同じだ。これを片付けてしまわないと、お前も眠れそうにないのだし、手伝うよ」
「全然同じじゃないわよ。いいから休んでってば。わたしが悪かったわ、ほんの冗談のつもりだったのよ」
「一体、何のことを言っているんだ?」
 微妙に話がかみ合っていないような気がして、私は訊ねた。
「クッションの仕返しなんでしょう? いいわよ、自分で片付けるから」
「いや、私はお前がびっくりすればそれでいいと思っていただけで……。これは予想外のアクシデントだよ」
「そうなの?」
 きょとんとするに、私は思わず苦笑いをしてしまった。
「ああ、部屋を羽だらけにしてしまおうなど、さすがに私も考えはせんよ」
「そうなんだ。……それで、この羽毛、どうしたらいいの?」
「ここまで散ってしまったら、少しずつ集めるしかあるまい」
「やっぱりそれしかないのね……」
 はあ、とは大きく息を吐く。その拍子に落ちかかっていた羽毛がまた舞い上がった。
「……今晩中に終わるかしら」
「さあね。できなかったら昼間に寝ればいいさ。そうしたところで、どこからも苦情はこないよ」
 はしょうがないわね、と苦笑した。
「ついてる」
「何?」
 彼女の髪に白いものがひっかかっていたので、私はそれを取った。
「ほら」
「あ……」
 ふわふわした羽がついていたのだ。
 と、彼女が目線を下におろし、大きな声で叫んだ。
「ちょ……スリッパが大変なことに! エリックも足あげてみて!」
 スリッパの裏側には潰れた羽毛がひっついていた。私の靴の裏も同様で、たとえ掻き集めても使い物になりそうにない羽毛がずいぶんあることを教えてくれる。
 せっかく落ち着きかけていたのにばたばた動いたものだから、また羽毛がそこらを飛びまわった。
 叫びながら羽毛をかき集めようとし、さらに舞い上がらせた彼女に思わず噴出してしまう。
「エリック、笑ってないで手伝ってよー!」
「わかったよ。少し落ち着きなさい。これでは散らかる一方だ」
 ああまったく、彼女といると長々と憂鬱になっている暇はない。
 ……いや、それでいいのだ。
 思い出したくないことをいつまでも思い出して、新たに傷を作るよりは。
 彼女がここにいて、私のために笑ったり拗ねたり喜んだりしてくれれば、忌まわしい記憶もそのうち片隅に追いやられてゆくだろう。


 以前、私は彼女が神のきまぐれでここへ現れたのだと思った。
 しかし、そうではなかった。
 彼女は人の姿をした私の守護天使なのだ。

 羽の舞い散る中にたたずむを眺め、そんなことを思った。







・bonne nuit :「お休みなさい」

…つか、前々から思ってたけど、うちのエリックはムッツリなんとかだな。
(そういや、エロ本も持ってたんだよなぁ。カノジョが来てから処分したけど/笑)





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