彼女の存在を知ったのは、約一年前。『彼』――エリックが、ある時途方にくれたような様子で、女性物の下着やコルセット、それに靴下やらをわたくしに買ってきてほしいと頼んできた時のことだった。
それまでの彼はいつでも堂々とした態度を取っていたものだが、それはなりを潜めており、わたくしはてっきり、彼が狂気に陥り、いもしない女性の幻想を見ているのだと思ったものだった。
出会った当初はともかくとして、彼が『どこに』住んでいるのかを知っていたのだから、当然の反応といえよう。
それにしては弱り方があまりにも真実味にあふれていたので、わたくしも最後には彼女の存在を信じざるをえなかったが……。それでも実際に会うまでは、地下の住人が二人に増えていたということを認めるのはなかなか難しかった。
どうして急にこのようなことを考えたのかというと、答えは簡単だ。
リラ が散歩の帰りにオペラ座のわたくしの部屋に寄ったからだ。
彼女は最近よくここへ来るようになった。そしてわたくしが部屋にいるときには世間話などもするが、わたくしもいつでも在室しているわけでもなく、いないときにはオペラ座の中を適当に歩き回っているようである。
こうなると娘のメグと遭遇することも増え……彼女はメグとともにメグと特に親しいクリスティーヌ・ダーエとも仲良くなったようだ。
こうなったのも、地下での暮らしが単調だからだろう、と推測を巡らす。
窓一つない暗い世界。気持ちのよい風が入ることもなく、退屈を紛らわせる小鳥の声すらしない。そして話し相手といったら、あの『彼』しかいない生活というのを、わたくしは想像することができない。女が好むような取り留めもない話、話をするためにする話などには付き合ってくれるタイプでもなさそうだからだ。
おそらく彼女は時間を持て余しているのだろう。
しかし自分が暮している場所や共に暮している相手に対して、特に不満らしい不満を持っていないということには驚いている。
わたくしは自分の立場柄、男に対して不満を通り越して嫌悪感を持っている女をよく知っているのだ。オペラ座は芸術の館であると同時に、巨大な娼館でもある。美しく、踊りや歌の才能がある女たちは、ただ芸術の高みだけを目指してここにいるわけではない。綺麗なドレスや高級な馬車、たくさんの宝石、召使い付きの豪邸……。それらを自分に与えてくれる男性をパトロンにするわけだが、彼女たちはたいていの場合、相手の男などどうとも思っていない。むしろ、嫌っている場合が多いのだ。財産で女を買うことはできるが、愛は買えないというわけだ。むろん、相手の前ではそれなりに愛想よくしているが。
もちろん、中には純粋に芸術の高みを心から望み、邁進している者もいる。だが、それが例外に属していることは、残念ながら事実だった。
……どうしてこのようなことを考えたのかというと、答えは簡単だ。
リラ がさきほどからノロケ話としか思えないようなことをしゃべり続けているからだ。
それも、話すのが楽しくてたまらないというように、頬を染めて。
わたくしには理解できない。
どこをどうしたら、彼が可愛らしく思えるのだろう。これが若い男ならば、わからないでもない。若さゆえの無知さ、純真さ、青臭さ。そんなものを懐かしくも愛おしく思えることもあろう。
しかし、彼は……。
見た目――仮面の下は知らないが――は怪しいし、年だってわたくしと同じ程度の、つまり人生の黄昏時を迎えているのだし、背は高いが体格が良いわけではない、財産はあるが、支配人から脅し取っているものだ。
世の中にはその他のものに関しては世間並みの感性を持っているのに、男の趣味だけが壊滅的に悪い女がいるというが、彼女はその類なのだろうか。それともわたくしにはわからない彼の美質を、彼女は見抜いているのだろうか。もしくは、フランス人にとってマイナスにしか思えないようなところでも、日本人にはプラスに見えるのかもしれない。それならば、彼にとっては幸いだっただろう。
とにかく、いい加減、恋に不器用な中年男の行動の詳細な部分について聞くことに疲れたわたくしは、口実を作って部屋を出ることにした。リラ
は、まだ帰りたくなければ適当に時間をつぶすことだろう。
(そういえば……)
わたくしは歩きながらエリックの美点を一つ思い出した。
彼は素晴らしく良い声の持ち主なのだ。わたくしがこうして、支配人が心底脅えかつ迷惑がっていると知っていながら彼に協力しているのは、そのせいもある。
そう。
あの声が全ての始まりだったのだ。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
『彼』との出会いは、偶然だった。少なくともわたくしはそう思っている。
オペラ座に幽霊がいるという噂は、ガルニエ宮が出来てからすぐに流れ始めていた。誰もいないはずの客席から声が聞こえたり、影がよぎったり。また、コツコツと歩き回る靴音がするのを聞いた、という者もいた。
話の出所はたいていがバレエの練習生やコーラスの少女たちなど、オペラ座ではとくに姦しいと言われている子たちからだった。
若い娘らしく、ちょっとのことでも大げさに面白がったり騒いだりするので、その話はたいていが彼女たちの勘違い、もしくはその場を盛り上げるためのでっち上げだと、わたくしは思っていた。
幽霊の正体については、様々な憶測が乱れ飛んでいた。
建設中に死んでしまった工事関係者だとか、殺されたコミューン兵士、あるいはオペラ愛好家が死んだあとでもオペラを聴きたくてさ迷っている、などで、姿をはっきり見たことのある者は一人もいないにもかかわらず、幽霊は男だということだけは共通して認識されていたように思う。
ともかく、わたくしはそんな話には興味がなかったのだ。
いつだって少女というのはふわふわと浮ついているもので、それは昔少女だったわたくしにも覚えのあることだったからだ。
そこに真実が隠れているとは、思いもつかずに「幽霊話なんて、イギリス人に任せておけばいいのです」そんなことを何度も言って、練習に集中しない少女たちを叱りつけたこともあった。
といっても、これは今でも言っているのだけど。練習中に私語をするのは、それが幽霊の話だろうと新聞のゴシップだろうと、同じ程度に時間の無駄でしかないのだ。集中しなければ、覚えるものも覚えられないのだし、怪我をする可能性だってある。
わたくしはずいぶん厳しいバレエ教師として、少女たちに恐れられているのだ。
だが、ある日『幽霊』と出会ってしまった……。
その日は公演のない日だったが、わたくしは新しいバレエの演目について打ち合わせるためにオペラ座に来ていた。
打ち合わせというのは、いつだってスムーズにいったためしはなく、その時も揉めに揉めていたが、何について揉めていたかは覚えていない。多分、求めていた内容に対して出来上がった曲がイメージに合わないだとか踊りにくいとか、そのようなことであったのだと思う。このことで揉めるのは、いつものことだからだ。
ともかくわたくしはそれが終わった後、くさくさした気分になったので、少し身体を動かそうと一人練習場へ向かったのだ。
オペラ座は豪奢な建物ではあるが、裏に回ればさほどではない。支配人や政府のお偉方、それに定期会員が顔を見せるような場所を除いては、いたって質素なものだった。
廊下に灯されるガス灯も、人が少ないせいか普段より炎が小さいように感じた。頼りなくゆらゆらと揺れ、時折ジジッと埃が焼けるような音がする。
廊下と階段が交わるところで、わたくしは何となく顔を動かした。
危険に気がついたときの動物の本能のようなものだったのだろう。わたくしの目は、間違いなくさっと動いた影を捉えたのだった。
オペラ座は大きな建物だ。いつだって、誰かがいる。多いか少ないかだけの問題なのだ。
だからわたくしは誰かがいてもおかしくはないとは思ったが、こそこそするその影の人物については怪しい、と感じたものだった。
内部の者ならば堂々としていれば良いのだし、定期会員などの外部関係者だとしても、バレエ教師であるわたくしに遠慮などしないだろう。
もしかしたら、泥棒ではないだろうか。
そんなことをわたくしは思った。
オペラ座では、盗難事件が多いのだ。
大抵は本人が置き忘れてしまったとか、パトロンが気に入りの娘の小物を持ってゆくなど、本来の意味での盗難とは趣が異なるのだが、まあ、つまり、物がよくなくなるのだ。
「そこにいるのは誰?」
わたくしは薄暗がりに向かって声をかけた。
だが、答えはない。人影らしきものが見えた廊下を見渡しても、誰かがいる様子はなかった。そこはしんと静まりかえっている。
わたくしはゆっくりと歩き出した。もし誰かが隠れるとしたら、ここからは影になっているあの柱の後ろか……。
後から冷静に考えれば、無茶をしたものである。
これがどこか人気のない通りなどであったら、絶対に近寄らなかっただろう。自分から犯罪に巻き込まれに行くようなものだからだ。しかし悪漢に襲われるかもしれない、という考えはその時のわたくしにはなかった。オペラ座という堅牢な建物の内にいたせいだろう。
柱の後ろには誰もいなかった。
(おかしいわね、確かに誰かがいたように思ったのだけど……)
不審に思ったが、誰もいないのは事実だったので、釈然としないながらもわたくしはその場を離れることにした。
「きっと、オペラ座の幽霊でも通りかかったのね」
それはただの戯言だった。誰に見られたわけでもないのに、自分の行動が滑稽だっただろうという思いが、とっさにこんな言葉を吐かせたのだ。
だが、驚いたことに返事が返ってきたのだ。
「ああ、そうだが、あなたのお邪魔をするつもりはなかったのだ、マダム」
男の声だった。
そのとき、わたくしは自分がどのような行動を取ったのか覚えていない。
気付いたらオペラ座内にある自分の部屋、バレエ教官室にいたのだった。持っていたはずのトウ・シューズも財布や家の鍵を入れていた小さなバッグもなかった。
我に返ってすぐに探しにいったが、それはどこにも落ちていなかった。例の声が聞こえたところにも。
オペラ座ではいつでも何かがなくなっていたから、わたくしのものはもう返ってこないだろうと半ば諦めてつつも、念のため事務所に問い合わせてみた。案の定、何も届いていないといわれ、わたくしは落胆しながらその日は家に帰った。
さらに驚いたのは翌日のことだった。
わたくしのバレエ教官室に、シューズとバッグが置いてあったのだ。慌てて中身を確かめるが、財布からは1スーもなくなってはいなかった。
安堵すると同時に、気味が悪く思われた。
これらにはイニシアルすら入っているものがなかったというのに、どうしてわたくしのものだとわかったのだろうか。
答えは一つしか思い浮かばなかった。
これらがわたくしのものだと届け主は知っていたからだ。
しかし事務所に届けもせず、書置きの一つも残さず、こんなことをする人間に心当たりはない。わたくしには現役の踊り子だった頃からのつきあいがある常連客の知り合いも多いが、彼らはこんな、ある意味で奥ゆかしいことをするような人びとではない。
やはりあそこには誰かがいたのだ。
でも、誰が?
……幽霊が?
(まさかね……)
わたくしは思い当たった可能性の、あまりの非現実さに一人苦笑した。
だが、疑いは消えない。
わたくしは胸の中がもやもやしながら、その日の指導を終えた。何度か例の声が聞こえたところへ足を運んだけれども、昨日とは違い人通りがあって、とても幽霊が出てきそうな雰囲気ではなくなっていた。
自分でも滑稽だと思っていたが、思考が幽霊に向かってしまって仕方がなかった。あれほど存在を否定し、若い娘たちの空想の産物だと馬鹿にしていたものに対して、自分がこれほどまでに囚われるとは思ってもいなかったのだ。
だがそんな自分に我慢がならなかった。
わたくしは幽霊を恐れているのだろうか?
――いいえ。ただ、自分がからかわれたようで、腹が立つのだ。
わたくしは行動を開始した。
相手はどこの誰なのかわからない。
それでも、自分の気持ちに区切りをつけるために、そして例の声に対して、自分は貴方などを恐れてはいないのだということを示すために、わたくしは短い手紙を書いた。
『落し物を拾ってくださって、どうもありがとう』
内容はこれだけ。それに、わたくしの名前の頭文字を加えた。
封筒にあて先は書かない。だが、どこに置くかは決めていた。
二階の五番ボックス席だ。
幽霊の噂よりも、誰の目にもわかりやすくて不可解な謎がオペラ座にはあった。
それは、このガルニエ宮が完成してからしばらくして、ある席だけがいつでも空席になっていることだった。
それが二階の五番ボックス席。
位置からしても価格からしても、いつでも空席であるのが非常に不自然な席だった。
支配人がいうには、この席は一年契約ですでに買われているということだったが、その席に誰もこないことの説明にはなっていない。まあ、金は払ったのだから、来ようが来なかろうが本人の勝手だ、ということにはなっているのだが。
そしてこの、謎の空席続きのボックスと、幽霊の噂話がオペラ座の少女たちの頭の中で結びつくまでにさほど時間は経たず……そこは幽霊専用のボックス席なのだということになっていたのだった。
わたくしはそんなことを反芻しながら問題の席へと向かった。
自分の行動が滑稽で的外れかもしれないという思いはある。
だが、これで置いた手紙が手付かずのままでいたら……。
わたくしはきっと自分の迷妄を吹っ切ることができるだろう。
ところが、これが大失敗だったのだ。
いや、あるいは大成功か――。
翌日、ボックスに清掃係が入るより先にそこへ行ってみると、あろうことか返信が置いてあったのだ。
薄暗い客席の、さらに薄暗いボックス席にある台の上に、不吉な黒縁の封筒がひっそりと乗せられていたのだ。これがただの白い封筒ならば、わたくしは自分が置いたものだと考えて、読まずに捨てていたことだろう。
わたくしはボックス席を見渡し、そこに誰もいないことを確認すると手紙を拾った。
半分夢に浮かされるようになりながら自分の部屋へ行くと、ランプをつけて封を開いた。
筆跡から身元が割れないようにするためか、大文字だけで綴られていた文章は、わたくしが書いたものに負けないほど短かった。
『礼には及ばない。驚かせてすまなかった』
やはり黒で縁取られた便箋の一番下には署名が――F. DE L’O――と記されてあった。
OのF……?
一瞬、本当にそんな知り合いがいたのかと思い、あてはまる頭文字を持っている人がいたかどうか、考えてしまった。
しかし、すぐに違うことに気がついた。
OのFとは幽霊のことだ!
Le Fantôme de l’opéra!
幽霊が本当にいたなんて……!
年若い少女たちの幻想が、実在するのだとわかったわたくしは、小一時間ほどその事実に熱狂した。
だが、だんだん冷静さを取り戻すと、どうにもおかしなことに思われてきた。
まず、返信があったこと。
幽霊が、封を開けて手紙を読んだというのか?
それに便箋と封筒を持っていて、ペンとインクを使い、手紙を書いたとでも?
それからもう一つ。
幽霊がわたくしのシューズとバッグを届けてくれたということ。
肉体を失ったからこそ幽霊になったのだというのに、どうやって持ち上げられたのだろう。
これらは、生きている者だからこそできる行動ではないか。
わたくしはまだ『声』にからかわれ続けているのだろうか。
まったくわからなかった。
ただとにかくすっきりしない気持ちだけがわたくしを突き動かした。
そこでわたくしは、もっと思い切った手段を取ることにしたのだ。
それは問題のボックスに、しばらく一人でいること。
もちろん、開演中にそんなことはできないし、バレエ教師としての仕事もある。時間を捻出するだけでも一苦労だった。
だが手紙には返事が来たのだ。
あの声の主があの席へ来ることだけは確かなのだろう。
決行は、それから四日後のことだった。
その日も公演のない日で、わたくしは細々とした雑用を片付けると二階の五番ボックス席へ向かった。
耳が痛くなりそうなほど静かな客席。明かりを落とした舞台。薄暗いオペラ座は、生気を失った古代の遺跡のようにも見えた。
わたくしは椅子の一つに腰をかけ、じっとした。
ランプも蝋燭も持ってはきていない。
誰かに見つかって、何をしているのかと訊ねられたくはなかったからだ。
それからどれくらい経っただろう。
初めは興奮していたわたくしも、だんだんと、自分がひどく子供染みたことをしているようで――そう、これこそ、娘のメグが好きそうなことだった。とりもなおさず、娘自分のわたくしも好んだことだったが――居心地が悪くなってきた。
幽霊探しだなんて、馬鹿げている。
第一、会ってどうするというのだ。
自分を驚かせたことについて、文句を言うのか?
それならば……もう、彼は謝っているではないか。
ここから出よう、そう思い始めた時に、ついに運命の瞬間がやってきたのだ。
「何か面白いものでも見えるのかな、マダム・ジリー」
わたくしは思わず隣の席を見やった。
ボックス内には数脚の椅子があるのだが、そのうちの一つ、わたくしの隣の席から例の声がしたのだ。もちろんそこには、目を凝らして見ても、誰もいない。
驚いて何も言えないでいるわたくしに、さらに声は続ける。
「すまないがね、マダム。あなたが座っているその席は私の席なのだよ。私は自分の習慣を変えるのが嫌いなのだ。場所を変えてもらえるかな?」
声は鷹揚に、しかし有無を言わさぬ調子でそう言ってきた。わたくしは立ち上がり、声がしたのとは別の椅子に座りなおす。
「ありがとう」
すると声は先ほどまでわたくしが座っていた椅子からしたのだ。
本当に幽霊が存在していて、自分のお気に入りの席に座りなおしたようだった。
「あなたは、ムッシュウ・F?」
不躾だとは思ったが、訊ねずにはいられなかった。すると声は小さく押し殺したように笑う。
「あなた、本当に幽霊なの?」
『声』がいるはずのところへ向かって、疑問を投げかける。
「違うのならば、なんだと思うのだね?」
質問に質問で返されて、しばし言葉に詰まる。しかし、
「幽霊が手紙を書くなんて、不自然だとは思っているわ」
わたくしは正直に自分の疑念を告げた。『声』はそんなことに少しも頓着していないように答える。
「そうしないと、こちらの意思がきちんと伝わらないからそうしているのだ。幽霊もずっと同じ人物につきまとっていられるほど、暇ではないのでね」
「つまり、あなたはオペラ座をさ迷っている幽霊というわけね。娘たちが幽霊の正体を色々推測していたけれど、当たらずといえども遠からず、というところかしら」
すると声は皮肉げな調子で返してきた。
「彼女たちは騒ぐために騒いでいるだけだ。たとえ私がいなかったとしても、別の幽霊を作り出しただろう。そう、頭の中でね」
「たしかにそれは言えるわ」
わたくしは同意した。オペラ座にいる少女たちは、いつだって夢中になれる何かを探しているのだ。厳しいレッスンや厳しい母親、厳しい現実から逃れるためのウサ晴らしを切実に必要としているからだった。
だからといって教師であるわたくしが甘いレッスンをしていては、オペラ座のバレエ団は実力が落ち、そのうち世間から見放されてしまうだろう。大切なのは観客の評価なのだ。わたくしたちは慈善事業をしているわけではないのだということだけは、忘れてはならない。
それからわたくしたちはどちらからともなく、最近のオペラやバレエ事情についての話をしたのだった。相手の姿も見えないのにおかしな話だが、わたくしは確かに彼が話をするに値するだけの価値があると感じた。
皮肉屋で毒舌家で、容赦のない物言いもするが、音楽に関する知識は本物だった。本職であるこちらが舌を巻くほどの豊富な話題、そして洞察力。確かに彼は『オペラ座の』幽霊と呼ばれるだけはある。
「あなたならきっと、二十年前の舞台でも覚えていらっしゃるのでしょうね」
世辞でも追従でもなく、わたくしはそう言った。きっと彼なら現役時代のわたくしのことも覚えているのだろうと思ったのだ。ところが、
「いや、私はこのガルニエ宮以外のオペラハウスは知らないのだ。私はここ専属の幽霊なのでね」
と言った。
「専属?」
思いがけない答えに、わたくしは虚を突かれた。
「そう、こんな建物には幽霊の一人もいなければ本物とは言えないだろう」
人を馬鹿にしたような答えに、わたくしは半ばあきれた。
「それで、わざわざ墓場から引っ越していらっしゃったの?」
彼は神経質な笑い声をあげて、わたくしの言葉を繰り返した。
「そうだとも、わざわざ引っ越してきたんだ。墓場からね!」
頭にひびくような金属的な笑い声に、わたくしは顔をしかめた。まったくもって、これは残念なことだったからだ。
「そんな風に笑うのはおよしなさいな。せっかく素晴らしい声をしているのに……。あなたに身体があったら、わたくしは音楽監督に推薦をしていたところよ。歌が歌えるのなら、一流の歌手になれると思うわ」
実際、陽気な風に話す彼の声は、深みと艶があり、滅多に聞くことのできないほど美しい響きがあったのだ。
いつまでも聞いていたいような気にさせられてしまう、そんな声だった。
ああ、もしかしたらわたくしは、あの声をもう一度聞きたかっただけなのかもしれない。
そんなことを考えていたわたくしに、声は冷ややかな調子で切り捨てるように言った。
「ないのは、身体ではない。顔だ」
「……顔?」
「そうとも、このオペラ座に住まう幽霊には、顔がないのだ。よく覚えておきたまえ、マダム」
それから彼はふっつりと黙り込んだ。
ボックスの中にあった気配も同時に消え、わたくしは幽霊が帰った――多分、怒ったからだ――のだと理解した。
一人取り残されたわたくしは、複雑な気持ちでまだ椅子に腰掛けていた。
顔がないと言った彼の、静かな激昂。
知らないこととはいえ、わたくしは彼の触れてはほしくない部分に触れてしまったのだろう。悪いことをしてしまった。
こういうときにはすぐに謝るのが最上だが、彼はここにはもういないだろう。
次に会えたら、とも思うが、わたくしに怒ったままでいたとしたら、声をかけてはくれないかもしれない。
声をかけてもらえなくては、わたくしには彼がそこにいると気付くこともできないのだ。
(そこにいることにさえ、気づけない……)
幽霊とは、何と不便な存在なのだろう。
とにかく、わたくしが取るべき行動は一つしかなかった。
手紙を書くこと。
再びあの『声』が呼んでくれることを期待して。
マダム・ジリーがエリックとタッグを組むようになるまでの話。
もしかしたら長くなるかも……。
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