ベルナールさんへ

朝の中央市場が見てみたいです。
今度はいつ行きますか?
わたしも連れて行ってください。お願いします。







 ある日のことです。いつものように指示書がないか郵便箱を覗いてみると、いつものように赤い封蝋のされた封筒がひっそりと置いてありました。
 中には、二つに畳まれた便箋が一枚。それに、カードが一枚入っています。
 こんなパターンは初めてでした。それで、何気なくカードを引き抜いてみますと、お嬢様からのメッセージがこのように書かれてあったのです。
 お嬢様の筆跡は、美しいというものとは少し違いますが、丁寧で大変読みやすいものでした。綴りも正確です。先生のものとは大違いで……いえ、私は何も申しておりませんとも。
 私は先生の命令でこれまで多くのやっかいな用事を片付けてまいりましたが、これもある意味ではその部類に入るでしょう。
 なんだってお嬢様が市場に興味をもたれるのでしょうか……? あの場所は観光名所でもなんでもないのですが。
 連れてゆくのは構いませんが、朝が早いのです。朝食の時間に差し障ってしまうのではないでしょうか。返事をするのは先生の確認をとってからにしようと決め、今度は便箋を開きました。
 するとそこには『いきなり走り出して迷子になったり、妙なものを売りつけられたりしないようよく見張れ』というようなことがまあ、なんとか読みとれるような字で書き付けてありました。
 つまり先生の許可はもう出ているわけですな……。
 お嬢様のこととなると、本当に先生は優しくなられる。ただ、その優しさの方向性が微妙に間違っておられるような気がいたしますが。これでは過保護な父親です。
 とにかく、今日はこれ以外用事らしい用事はないようですので、一度家に戻って返事を書くことにいたしましょう……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「ただいま」
 玄関を開けたが、誰も出てこなかった。もうこうなって随分経つので、気にするのはやめた。
 ようやく私の足音を聞きつけた女中が、何の感情も浮かんでいない顔で出てくる。帽子とステッキを預けながら「アネットは?」と聞くと、「奥様は子供部屋で勉強を教えていらっしゃいます」と答えて、忙しげに立ち去った。
 これもまたいつものことだった。
 そこにいれば、私と顔を合わせなくて済むからだ。
 数年前まで、私たち一家は数歩も歩けば壁にぶつかってしまいそうな、狭くて質素な家に住んでいた。そこでは何をするにも家族に知られずに済むということはなかったのだが、この綺麗で新しく、広々としたアパルトマンの二階に移り住むようになると、妻は逃げるように子供部屋に閉じこもるようになった。
 私に近付くと、先生の声が聞こえ、姿が見えるのではないかと脅えている。そして妻である自分がこのような状態だというのに、私が先生から離れないことを憎んでいるのだ。
 もっとも閉じこもるといっても鍵がかかっているわけではないので、入るのは簡単なのだ。しかし彼女の心労を考えれば、そうするのもはばかられる。
 とはいえ、彼女が教師の役を務めるには無理があった。私が下職石工、パリのいたるところにいる、善良だが貧しい労働者だったように、彼女も働いて家に金を運ばなければならない女工だったのだ。当然ながらたいした教育は受けていない。せいぜい読み書きと教理問答ぐらいのものだ。
 一番下の子もすでに文字を覚えた以上、もう彼女に教えられるものはない。なのに、未だにそこから離れないでいる。子供部屋にいないときは、子供たちをつれて公園へ散歩に行くか、一人で教会に行って祈りを捧げているようだった。
 十二万フランの年収が入る家庭ならば、子供たちのために乳母や家庭教師を雇うのが普通なのに、そのどちらも拒み、すべて自分で世話をしていた。
 その行動は彼女の実直な出自がさせているわけではないと気付いたのは、いつだっただろう。
 結婚した頃には思いも寄らなかったような裕福な生活も、少しも彼女の慰めになっていない。妻が私に近付いてくるのは、今では不満や愚痴が言いたい時だけだ。
 その上、最近では子供たちまでが私を軽んじるようになってきた。
『ろくでもない仕事をしてあくどく金を稼いでいる父親』
 口には出さないが、そんな風に思われていると肌で感じる。
 四六時中側にいる母親がそう思っているのだ、無垢な子供たちに伝染して、何がおかしい。
 それでも私はあの子たちのために働かなければならない。

 誰もいない廊下で、私はため息をついた。
 空しい思いを抱えたまま、自分の部屋へ向かう。
 返事を書くために手紙を取り出し、お嬢様のカードを机に置いた。
 あの真っ暗な地下から届いたとは思えないほど、白く清らかなそれからは、ほのかにラベンダーの香りがした。
 丁寧に書かれた文面からは、お嬢様の声が聞こえるよう。私がお嬢様と直接会ったのはそれほど多くはないが、あの方は一度だって不機嫌だったことはなかった。
「……っ」
 訳もなく泣きたい気分になったので、慌てて頭を振った。
 早く返事を書いてしまわねば……。
 私は先生が今日中に手紙を回収しない可能性も考えて、二日後に行きますと書いた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 朝の七時前にオペラ大通りに向かうと、人待ち顔の東洋人の少女がおりました。
 声をかけると私を認め、すぐに笑顔に変わります。
「おはようございます、ベルナールさん。今日もベルナールさんの馬車なんですね」
 私は帽子を脱いで挨拶を返しました。
 朝日を浴びてにこにこしているお嬢様ははつらつとしており、この方が窓一つない暗い地下の屋敷で暮らしているなどと、知らなければ想像もつかないことでしょう。
「ええ。まさか先生のクーペで市場へ乗りつけるわけにも参りませんので。それに今の季節ならば、風が気持ちの良い乗り物ですよ」
 その代わり、冬はなかなか大変なのですが。
 お嬢様が乗り込むのを手助けし、私は馬を走らせました。目的地はサン・トゥスターシュ界隈に広がる、パリ中央市場です。
「ところで、どうして市場などをご覧になろうとなさっているのです?」
 広いオペラ大通りに入ると、私は手綱を緩めました。ここから先は馬車も通行人も多いので、急ぐことはままならないのです。
 車輪が石畳をはねるたびに左右に揺られながら、のんびりと馬は進んでいきます。私はその間、手紙を受け取って以来気になっていることを訊ねてみました。箱型馬車でないからこそ、できることです。
 お嬢様は一瞬困ったような顔をしました。
「実はね、以前歩いて近くまで行ったことがあるんです」
「あそこまでですか?」
 これにはさすがに驚いてしまいました。歩いていこうと思えばできない距離ではないでしょうが、さすがに距離がありすぎると思います。お嬢様のきゃしゃなブーツでは足が痛くなるのではないでしょうか。
「散歩もさすがに同じようなところばかりに行ってると、飽きてしまうもの。市場なら珍しいものもあるかなと思って軽い気持ちで行ったんですけど……」
「閉まっていたとかですか?」
 お嬢様はいつも午後に散歩をするので、そんなところかと思いました。が、
「いいえ、独特の雰囲気に近付くのが怖くなっちゃったの」
 と可愛らしく肩をすくめます。
「でもエリックに一緒に来てほしいなんて、頼めなくて。わたしが行ったのは午後だったけど、それでも人出がかなりあったから……」
「確かに、先生があそこへ行ったら、大変な騒ぎになるでしょうなぁ。市場のおかみさん連中は遠慮がないですしね」
 あの方に比べたら、一目で外国人だとわかる程度のお嬢様など、なんということもなく溶け込めると思われます。
 そんなことを考えていると、後ろでお嬢様が、やっぱりそうか、などと言いながら一人頷いていました。ついで、ふと思い出したように呟きます。
「本当は好奇心以外の理由もあるんですけどね」
「それは、どのような?」
 何気なく聞いただけだったのですが、お嬢様はむっつりと黙り込んでしまいました。そして、
「エリックやベルナールさんが悪いわけではないから、勘違いしないでほしいんだけど……」
 慎重に前置きをして、理由を話し始めます。
「前から思っていたんだけど、うちに届けられる食材って、代わり映えしないですよね。そうなると作るものも自然と同じようなものしかできなくなるでしょう。あ、おいしくないわけじゃないんです。エリックはお料理、上手よ」
「……はあ」
 改めて、お嬢様という方の凄さを思い知りました。
 そうなのですよね。お嬢様は――寝室は別かもしれませんが――先生と同じ部屋で生活をし、共に食事をしているのですね。
 火だの刃物だの扱うことをおいそれと先生が許可をするとも思えませんし、そうなると食事の支度は先生がなさるのだろうと想像はつきますけれども、それでも先生が作ったものを食べるというのは、一種、己の勇気を試されている行為としか思えません。
 お嬢様は、それを毎日なさっているのですね……。
「でも、わたしだって多少は料理もできるし、せっかく今までとは違うところで暮らしているのだから、フランスならではの食材とかを、もっと知りたいし食べてみたいなと思って」
 思わず苦笑してしまいました。そうなってしまった理由は、はっきりしています。
「たしかに、食料は基本的にいつも同じものを買っています。というのも、先生はいちいち食材を指定するのが面倒くさいようなので、すぐにしなびてしまう青菜類や、足の速い魚なども敬遠していたからです。燻製にしてあれば別ですが。肉は、先生もお嬢様も常人より食べる量が少ないので、これもまたあまり買いません。あれはいらない、これもいらない、こっちは月に一度でいい、ということをしていった結果が『代わり映えのしない食材』になってしまったのですよ」
 それでもお嬢様がいらっしゃるようになる前に比べれば、ずいぶんバラエティが増えたのですが。特に果実や甘味関係が。
「エリックもそんな風に言ってたわ。それで、せっかく市場に行くのだから、色々見てきなさいって。どういうものがあるか知っていれば、欲しいものが出たときでもベルナールさんに頼めるだろうって」
 お嬢様は弾んだ声でそういうと、若い娘さんらしく軽やかな笑い声をあげました。
 それにしてもお嬢様の口を通すと、先生がごく普通の人のように思えます。これはとんだ発見です。
「そういえば、ベルナールさんはどうして中央市場まで買い物に来るんですか?」
 ひとしきり笑うと、今度はお嬢様が訊ねてきました。
 確かに距離のことを考えれば、オペラ座よりも私の家の方がずっと遠いですからね。不思議に思うのも当然でしょう。
「近所の店はみんな顔馴染みですから。女中がいるのに男の私が玉ねぎやらジャガイモやらを買うのは格好がつかないのですよ。中央市場なら小売店の店主から惣菜屋の旦那なんかも材料を調達しに行きますから、変に目立ちませんしね」
「女中さんに一緒に頼むとかじゃ駄目なんですか? ベルナールさんだってご家族の分の食材は必要なわけですし」
 考えたこともありますが、それは無理なのです。
「先生が食べるものですから、女中には任せられません。粗悪な品を売りつけられるかもしれませんし、わざと誤魔化すことも考えられますから。自分の目で確かめなければ……」
 それに万が一女中に任せて腐った品物でも届けてしまったら、どれほど恐ろしい目に合わされるか! 禍の種になりそうなことは慎重に避けなければなりません。私は私自身のためにこうしているのです。
 しかしお嬢様は私の答えを別の方向に解釈してしまったようです。とても優しい眼差しで軽く頭を下げてきたのですから。
「ベルナールさんみたいに真面目で良い方がいてくださって、本当に良かった。だからエリックは安心して任せることができるんだわ。あの人は多分お礼を言ったりはしないでしょうから、わたしから……いつもありがとうございます」
「いえ、そんな……。それが仕事ですから……」
 実際、私の仕事は給金に対してずいぶん軽いものなのです。平均すれば一日の労働時間は三時間もないのではないでしょうか。世の中の大半の人びとは、私の三倍働いても私の給料の三分の一だってもらえないというのに……。
 しかしこのようなことを話して、お嬢様の気持ちを暗くすることはありません。何かもっと楽しい話題でも考えましょう。
「お嬢様は普段から料理をなさるのですか?」
 浮世離れをしているようなお嬢様ですが、先ほどのお言葉からすると、心得はあるのでしょう。
「普段からというほどないです。レンジの火加減が難しくて、思ったようにできないというのもあるし。だから煮込み料理以外のものを作るときは、エリックが側についていられるときだけということに、いつの間にかなったの」
 あっけらかんとお嬢様は答えました。
 先生は、お嬢様に対しては優しいだけではなくて甲斐甲斐しいのですね……。とはいえ、これはあまり想像したくない光景です。なんとも居たたまれない思いがして、話題を別の方向へ変えようと試みました。
「日本の料理などは作らないのですか?」
 わたしとしては先生から話題が離れればなんでも良かったのですが、そう聞いた途端にお嬢様は馬車の枠を力いっぱい叩いたのです。
「やってみようとしたことはあるの!」
 そして、よくぞ聞いてくれたというように、勢いよく前のめりになって力説します。
「でも、調味料がないとどうしようもないということに気付いたのよ!」
「調味料、ですか…」
「そう。食材はなんとかなりそうだし、調理器具も、とりあえず鍋と包丁があればどうにかできるわ。でも、味噌も醤油もないと、何一つまともに日本料理は作れないのよ〜。昆布か鰹節だって必要だし!」
 がっくりと芝居がかった動作で座席に倒れました。
「ミソとショーユと、コンブとカツオブシ……ですか?」
 お嬢様がおっしゃったものがどういうものなのかよくわかりませんが、それがあればできるというのであれば、探してみましょう。
 外国の珍しいものを扱っている店はパリにも何件かありますし、蛇の道は蛇とも言いますので、なんなら公使館へ手紙の一つも書けば良いのです。せっかく知遇を得られたわけですからなにかしら返答はあるでしょう。
 それで、ご用意しますよとお慰めしますと、お嬢様はひどく驚いたように目を丸くなさいました。
「あるんですか。パリに醤油が?」
「探してみなければなんとも言えませんが……ここはパリですからね。ないものなどないと思いますよ」
「ベルナールさん、すごい!」
 心底から感嘆しているようで、お嬢様は目をきらきらさせて私を見つめています。
 私は誇らしいというよりも、ひどく居心地の悪い思いに駆られました。こんなに素直に感心されたり、礼を言われたりしたことなどここしばらくの間、まったくなかったのですから。
 人から感謝されることがこれほど嬉しいことだったと、ずっと忘れていました。
 そして知らず知らずの間に、心が折れそうになっていたことにも、気付いてしまいました。
 私という人間を知っている人たちは、私のことを幸福な男だと言うでしょう。
 たしかに、表面的には完璧に見えるのだと思います。裕福な生活をし、妻は家庭を立派にきりもりしているしっかり者で、子供たちは全員元気に育っている。
 だけど、そんなものは偽りにすぎません。
 私は、家族からも軽蔑されている駄目な父親でしかないんです。大切な家族のために、先生の恐怖支配から離れる気力もありません。
 しかしこの苦しみから逃れたいというのだって、虫のよすぎる願いなのでしょう。
 私を縛り付けているのは恐れだけではなく、あの莫大は給金によるところもあるのですから。
 ですが……これだけは言わせてください。



 ありがとうございます。
 ありがとうございます、神様。
 お嬢様と先生を出会わせてくれて。
 私の主人は、ちゃんと人を愛せる方でした。
 そうでなければ、どうしてお嬢様がこのようにいつもにこやかでいられるでしょう。
 先生は人の心を持っている。血に飢えた獣ではなかったのですね。
 そして、お嬢様は先生だけではなくこの私をも救ってくださった。
 家族と先生の板ばさみで、ただただ消え去りたいと思っていた私を……。



「もし日本酒もあったら、それも買っておいてください。あ、清酒って名前になっているかも。お米で作ったお酒なんですけどね、風味付けにはかかせないんですよ」
 後ろで屈託なく話すお嬢様の声を聞いていると、鬱々とした気持ちが段々と晴れてゆきました。
 自然と笑みが浮かんでくるのを抑えられません。
 今日ばかりは、仮面を外しましょう。
 ずっと取ることができなかった作り笑いの仮面を。




ベルナールの設定は、ケイ女史の「ファントム」からそのまんま、借りているのですが、なんかあまり家庭円満ではないような気がしたので……。



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