「……お前は加減をするということができないのか?」
帰宅したわたしに開口一番にそう言ったエリックに、
「言わないでよ、途中で嫌というほど思い知ったんだから」
肩で息をしながらわたしはふてくされた。
確かに、わたしは考えナシのことをしたと思う。でも、その言い方はないんじゃない? 褒めろ……とは言わないけど、重い荷物を持って帰ってきたんだから、ねぎらいの言葉くらいかけてくれてもいいじゃない。
そう、この荷物! これが死ぬほどやっかいだったのだ。階段の途中で精魂尽き果てて、その場に放り投げたいと思ったくらい。
エリックはちょっと眉を寄せると変形しそうになっている買い物籠――籐製のバスケットだ――を拾い上げる。
「無理なく持てるものだけ持って帰れば良かったんだよ。あとはいつもの荷物置き場に置いておけば、後で私が取りに行ったのに。こんなことにも思い至らないなど、ベルナールも気が利かない」
あれ? 責任が別の方向に行ってる……?
「ベルナールさんは悪くないよ。わたし一人で持って帰るのは無理だから置いていった方がいいって言ったんだもの。でもわたしは、自分のした買い物の荷物くらい、自分で運ぶべきだと思ったのよ」
ふう、とため息をつきながらその場にしゃがみこむ。その時、柱時計が時刻を告げた。
一つ、二つ……まだ十時か。なのにもう今日はどっと疲れてしまった。ベッドに横になりたい気分。
「疲れた……」
「当たり前だよ。これだけの大荷物を持ってきたのならな。それに、市場は広いだろうし、はしゃいだりしたんだろう?」
今日の家主様は棘があるなぁ。
「エリック、もしかして怒ってる?」
市場に行ってみたいというわたしに、割合すんなり許可をくれた彼だったけれど、実は気に入らなかったのかしら。
「怒ってはいない。ただ呆れているだけだ」
エリックはバスケットボール大のカボチャと、一リットル入りの瓶入り牛乳の入っている籠、それと新聞紙にくるんだ四本のバゲットを抱えてキッチンへ消えていった。
彼の姿が見えなくなってから改めてため息をついていると、
「着替えはいいから、座って待っていなさい。すぐ甘い飲み物を作ってあげるから」
キッチンの奥からエリックが叫ぶ。
「はーい」
口ではなんと言っても、こういう時には親切なのがエリックのいいところだと思う。
命令口調ではあっても心配しているのがわかるのだ。
大好き。
これだけのことでもちょっと元気が戻ってきて、わたしは鼻歌でも歌いたい気分になりながら居間のソファに座った。
ややあって眉間にしわを寄せたまま、湯気の立つカップを持ってエリックが戻ってくる。
目の前に置かれたのは、ホットミルクだ。これ、わたしが持って帰ってきた牛乳かな。
「生姜と蜂蜜が入っている。飲みなさい」
「いただきます」
わたしはぺこりと頭を下げると、神妙にその飲料を押し頂いた。
「……お前は、カボチャが好きだったのか?」
しばらくわたしがホットミルクを飲んでいるのを黙って見守っていたエリックは、難しいことでも考えているような顔で訊ねてくる。
「特別好きなわけじゃないの。カボチャって、喉に詰まるような感じがするから率先して食べたいわけじゃないし。料理のレパートリーも、あまりないしね」
だったら何でそんなものを買ってくるんだ、とエリックの目が語っていた。けだし当然の疑問だろう。
「でもカボチャサラダだけは好きなのよ、わたし。こっちに来てから食べてないなぁと思ったら、急に食べたくなって」
「サラダ?」
「うん。マッシュしたのをマヨネーズで和えるの。アマンドを砕いたのを加えたのがわたしは好き」
「……和える? 混ぜ込むということか?」
エリックの眉間のしわがさらに深くなったが、これは怒っているのではなく、わたしの言っていることがよくわからないということだろう。
まあ、現在の日本ではマヨネーズって、万能調味料みたいな感じで使われてるからなぁ。
目玉焼きにかけるなんて初歩の初歩、煮物だろうが揚げ物だろうが、焼き物だろうが、使おうと思えば使えちゃう。ある意味、醤油並みに日本の食卓に馴染んだ外来物だと言えよう。
だが、サラダにかける、ならともかくも、サラダに混ぜ込むっていうのがフランス人のエリックには理解し難いのかもしれない。
「とにかくだまされたと思って食べてみてよ。エリックにとってはおいしいと感じられないかもしれないけど、少なくともまずくはないから。多分ね」
姑息にも逃げ道を残しつつ、わたしはエリックを煽る。と、彼はだらしなく背もたれに寄りかかり、ため息をついた。
「まあ、別に今日は忙しくはないし、手伝うのはやぶさかではない」
「手伝ってくれるの?」
「仕方あるまい? お前だけに任せたら何時間かかるかわからないからな」
やれやれと言いたげに、彼は答えた。その割には口元が笑っていたので、どうやらこの事態を面白がる余裕が出てきたようである。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
一休みをしたら気力が回復したので、昼食に合わせてこれから作業をすることになった。
外出着から部屋着に着替え、エプロンをするといそいそとキッチンへ向かう。
作業用のテーブルの上には、デンとオレンジ色の皮のカボチャが載っていた。こうして見ると、やっぱり大きいな。これでも小さいものを選んだつもりなのに。
悪くなる前に食べきれるだろうか。わたしたち、二人しかいないのに。
うっかり気が遠くなりかけていると、エリックがボイラー室から出てきた。なんでそんなところに行ったのかと思ったが、その手にあるものを認めて唖然とする。
「ちょ……まさか、それで割るつもり?」
「ナイフでこのカボチャが切れると思うかね?」
エリックは手斧を持ってきたのだ。薪を小さくするために使うための、あれだ。
そういえば彼のキッチンで初めて料理をしようとしたときに驚いたのが、包丁がないということだった。
それなら切ったり剥いたりはどうするのかというと、果物ナイフくらいの大きさのナイフを使うのだが、これがすこぶる使いづらい。切れ味が悪いということではなく、力が入れにくいのだ。
「でも、砕けちゃわない?」
薪じゃないのよ。カボチャなのよ。無茶苦茶よ!
焦るわたしに、エリックはごく当たり前そうな顔で、
「加減はする。それにマッシュにするなら別にかまわんだろう」
そういう問題では……。
「よっ……」
エリックは手斧を振りかぶる。木の柄と丸いフォルムのカボチャという図が、さながらスイカ割りを連想させた。もっとも、割るのはスイカじゃなくてカボチャなんだけど。
とすっという鈍い音と共に、刃がオレンジ色の皮に食い込む。それを引き抜くと、彼は手で二つに分けた。切り口は綺麗ではないけれど、特にテーブルを破壊するということもなく、あっさり終わった。
「なんか、わたし……今すごくドキドキしてた」
わたしが胸を押さえると、
「信用がないのだね」
彼は苦笑いを浮かべる。そしてほら、とカボチャを示した。
「どれくらい使うんだ?」
「そ、そうねぇ」
サラダにすれば、わたしは結構食べられるんだけど、それでも二人で半分は多いだろう。
「エリックはカボチャ、好き?」
「特に好きではないが、嫌いでもない。あれば食べるよ」
この人は質には拘るけど、それ以外はわりとどうでもよさそうなのよね。でもまあ、食べるというのだから食べてもらおう。
「じゃあ、四分の一で……。あ、でもゆでるだけは全部ゆでて、できる限り早く使いきった方がいいのかなぁ」
現代なら冷凍保存という方法もあるんだけど、さすがにここには冷凍庫はない。切り口は乾燥するだろうけど生のままならしばらくは大丈夫なはず。でも……残したらそれはそれで、食べる気がなくなりそうな気がするのよね。
難しい顔になるわたしに、エリックが提案する。
「なら、全部マッシュにして、半分は甘くするか? パイにでも使えばなんとか食べきれるだろう」
「あ、じゃあ、残りの四分の一はポタージュにしよ?」
「決まりだな」
☆ ☆ ★ ☆ ☆
「それで、市場はどうだったんだ?」
カボチャを適当な大きさに切りながらエリックは尋ねてきた。今度はいつものナイフを使っている。
「そうねぇ、とにかく人と馬車がすごく多かったわ。お祭りみたいだった」
わたしは食料貯蔵庫からサラダに必要な材料を取りに行きながら、開け放した扉越しに答える。
「野菜や果物を売っているところはすごく楽しかったわ。品種は違うけど、どれがなにか、すぐわかったもの。水気と土の臭いが混じった感じも気持ちよかったしね」
卵やらオリーブオイルやらを抱えて戻る。エリックは切り分けたカボチャを片っ端から鍋に入れているところだった。
「じゃ、楽しくなかったのは?」
からかうように彼は言った。
「チーズ棟ね。臭いで頭が痛くなっちゃった」
さすがフランスというべきか、チーズやバターなどの乳製品だけで棟が一つ埋まっているのだ。
しかし日本のスーパーみたく、ビニール包装された上に冷蔵ケースに置いてあるわけではない。常温のところにせいぜい虫が飛び込まないように覆いがされているだけなのだ。その臭いたるやちょっと表現できないくらいで、わたしは棟に入るどころか、近付いただけで踵を返したのだった。
鍋に水を入れながら、エリックは笑う。
「たしかにチーズは独特の臭いがあるからな」
それを火にかけると作業は一段落。煮えるまで待つことになった。
「もうマヨネーズ、作っちゃう?」
エリック手製のマヨネーズは、作るのに十分もかからない。
「そうだな、先にやってしまうか」
彼は木のボウルを引き寄せると、器用に片手で卵を割りいれ、軽くスプーンで溶いた。次にマスタードを入れてさらに混ぜ、少しワインビネガーを加えて再び混ぜる。それからオリーブオイルを少しずつ加えて、適当な硬さになるまで混ぜるだけだ。
こちらの世界に来る前に、マヨネーズを手作りする時には分離しやすい、みたいなことを聞いたことがあるのだが、エリックは一度も失敗したことがなかった。彼の器用さを持っていれば当然かもしれないが。
そしてこれも、とてもおいしい。
しかしただスプーンを回しているだけなのに、なにか魔法の薬でも作っているような雰囲気なのがおかしくて、思わず微笑んでしまう。
ものすごく真面目な表情で、料理をしているというよりも、実験でもしているみたいだ。
「なにがおかしいんだ?」
わたしが笑ったことが心外だとでもいうように、エリックがむっつりと言う。
「いいえ、ただ、素敵だなって思っていたの」
「マヨネーズを作っているところが?」
わたしの答えが意外だったのか、それとも適当に誤魔化されたと感じたのか、定かではないが、彼は肩をすくめて皮肉気に言った。
「そうよ」
わたしも肩をすくめて見せた。ふふん、だてに一年以上一緒にいるわけじゃないんだから、彼がにこやかにしていなからって、機嫌が悪いのだ、なーんて思ったりしない。ま、エリックの場合、にこやかな時の方が少ないのだけど。
「そら、できたよ」
彼はスプーンを差し出して、味見をするよう促した。反射的に少しなめる。うん、マスタードがぴりっとしてて、
「おいし」
「そうか」
いいながらエリックもなめた。
「まあ、こんなものだろうな……。どうした?」
「……いえ」
わたしはぎくしゃくと頭を振る。
彼は不思議そうにマスクで覆われていない方の目を細めた。
こっちは妙に恥ずかしいのだが、エリックはそうでないらしい。
いや、今更間接キスくらいで動揺するのも変なのだろうけど。だけど……!
「あ、わたし、アマンド砕くね」
自分でもわざとらしいと思えるせりふを言いながら、テーブルの前を離れる。
(駄目だ、意識し始めたら心臓がドキドキしてきた)
少しでも彼の視線から逃れたい……!
わたしはエリックの背後に回り、料理用の道具がしまわれている戸棚から麺棒と、本来ならパンを切るためのカッティングボードを探す。これでアマンドを押しつぶすようにするつもりだ。だってここ、すり鉢もすりこぎもないんだもん。
ついでに鍋をのぞくと、ようやくお湯がふつふつしてきたところだった。
ちらりと背後を振り返る。エリックは次の作業をしやすくするためにテーブルの上を片付けているところだった。
ううむ、まだ心臓ドキドキいってる。でも作業をするなら、また作業用テーブルのところにいかなきゃいけない。
だがこの状態じゃ、エリックに不審がられるのは間違いない。
なんか、話題ないかしら。気をそらせることのできる話。エリックのじゃなくて、わたしの方の気をそらせるもの。
えーと、えーと。落ち着け、落ち着け。
「どうかしたのか?」
後ろでもたもたしているのが気になったのか、エリックが振り返る。
「え、や、うん、その……」
しどろもどろになるわたしに、彼は眉をひそめた。
「貸しなさい。落としそうだ」
「え、あ、ありがとう」
道具を渡すと、エリックは自分の前にそれを置き、アマンドが入った瓶を開けて中身をざらっと出した。
「あ、わたしがするよ」
「構わんよ、これくらい」
「でも……わたし、何もしていないし」
「そんなこと気にすることはないと思うが……。そうだ、昼食はパンとサラダとポタージュだけでよいのか? 卵かベーコンをつけるなら、そっちを頼もう」
「うーん、わたしはいらない。それだけでお腹いっぱいになりそうだもの。エリックは?」
彼はちょっと考える素振りをしながら、
「私もいらないな」
と答えた。
ふと、ベルナールさんが言っていたことを思い出す。やっぱりエリックはフランス人男性としては食が細い方なのだろうなって。この体型からすれば当然なのかもしれないけれど。
そういえば市場の周りには露天の店や屋台もずいぶんあって、結構人が集まっていた。
で、そこで売られている食べ物の一人前の分量が、わたしからすれば随分多くて、それだけで満腹になってしまいそうなのだ。エリックが普段食べる量もそれに比べれば少ないから、やっぱりそういうことなのだと思う。わたしたち二人で、平均的なフランス人男性の一人分そこそこなのではないだろうか。そう考えれば、うちは結構エンゲル係数が低いのでは、と思ったけれど、量はなくても質には拘っているからなぁ。
そうそう、露天と言えば……。
「そうだ、思い出したんだけど、市場ですごく驚いたことがあったの」
「うん?」
アマンドを砕きながら、エリックは顔を上げる。
「あのね、ポトフ用のすでに切っている野菜セットがあったの。露天のお店で。ああいうのがこの時代にもあるとは思わなかったから、びっくりしたわ」
「ああ、忙しいおかみさん連中が買うんだろう。だが、私はああいうのは好きではないから、また市場に行くようなことがあっても買ってはこないでくれ」
一応、行きたかったらまた行ってもいいんだ。などと思いながらも、
「ええ、わかってるわ」
大人しく頷いておく。
そこのお店は、時間が悪かったのか、あまり売れない店だったのかはわからなかったけれど、切ってある野菜は端の方が干からびたようになっていて、エリックに言われなくても買う気にはなれなかったのだ。煮ればあんまり関係なくなるかもしれないけどね。
と、市場で見たもの聞いたものを話しているうちに心臓のドキドキは収まってきて、わたしはいつもの調子を取り戻す。
そうしているうちにカボチャが煮あがったので、お湯を捨てて皮を取る。熱くて指を火傷しそうになりながらも――エリックは自分がやるからいいと言ったけど、ここまで何もしていないのだから、お言葉に甘えるわけにはいかない――取り終わると、マッシャーで潰す。ぐに、ぐに、ぐに。
半分は別のボウルに移して、バターと砂糖を加える。これを後日カボチャパイにするのだ。
ただ、わたしはまだパイ生地を作れないので、もれなくエリックの作業になるだろう。
そして半分にしたもののさらに半分にしたものは裏ごしして小さな鍋へ。エリックは、サラダの味付けはわたしに任せると言ってポタージュ作りを始めた。
わたしは残りの四分の一でサラダ作りを始める。作り方はいたって簡単。砕いたアマンドとマヨネーズを混ぜ、塩で味を調えるだけだ。電子レンジさえあればカボチャを煮る時間を短縮できるので、もっと手早くできる。塩もみした輪切りキュウリを入れるのも良い。
あれ、そういえば、わたしはフランスならではの食材をもっと知りたくて市場に行ったはず。
なのに買ったのはカボチャで、作ったのはマヨネーズサラダって……。
全然初志を貫徹できていないよ、ね。
……まあ、いいか。一応、日本のスーパーではあんまり売っていないだろう、オレンジ色の皮のカボチャだし。
「エリック、できたよー」
「こっちももうすぐだ」
時計を見れば、時刻は正午過ぎ。
さあ、カボチャ尽くしの昼食にするとしましょうか。
夕食も、カボチャ尽くしになりそうだけど、ね……。
「よっ……」という掛け声がおっさん臭いなぁ、と思ったのですが、よく考えなくてもエリックはおっさんでしたね。
ちなみに、エリック作マヨネーズはフランスの家庭で普通に作られている手作りマヨネーズのレシピを参考にしました。(情報源はフランスに住んでる日本人のブログですが……)マスタードが入っているお陰で分離しないらしいのですが、試したことはないので実際のところはどうだかわかりません。
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