見られている。
「……できる気がしないわ」
 がぱちぱちと瞬きながら、呟いた。
 彼女は作業用テーブルの向かいに立ち、まじまじと、真剣な顔で私の手元を見ていた。
 ……妙に、緊張する。
 このままでは失敗してしまうのではないかと危惧していたのだが、どうやら私の手は私の意思になどにいちいち左右されたりなどしないようで、覚えたとおりに動くのだった。
 私はフユタージュ・ラピッド(速成折込パイ生地)を作るために、小麦粉とバターと水、それと少しの塩でできている混合物をひとまとめにしていた。
 これは先日が買い求めてきたカボチャでパイを作るための下準備だった。
 すでにカボチャは甘く煮てあるので、あとはそれを載せるための土台があればよい、というわけである。
「あれ、それだけでいいの?」
 は首を傾げる。
 飾りがほとんどないあっさりとしたドレスにエプロンをつけ、右手にはペン、左手には小さな手帳を持っていた。フユタージュ作りの要点をまとめるのだと言っていたのだが、要点を書くくらいならば、実際にやってみた方がよほど覚えるものがあるだろう。やり方を教えるからやってみなさいと言ったのだが、一連の手順をを見てからではないと嫌だというので、こうして私が粉と戯れているというわけである。
 生地がまとまったので、麺棒で四角く形を整える。それを伸ばして三つ折を二回。
 と、ここまでの作業はものの三十分もかからないのだ。なにも難しいものではない。
 今回はお茶の時間に間に合うようにと、なんども生地を休ませなければならない、つまりその分時間のかかるフユタージュ(折込パイ生地)ではなく、ラピッドの方にしたのだが、通常のフユタージュにしたって、それほど難易度が変わるわけではないのだ。
 そういうようなことを、生地を休ませる間に道具を片付けながらに言うと、彼女は頬を膨らませ、
「そりゃ、エリックからすれば簡単なんでしょうけど」
 と、全く賛同を示せない様子を呈した。
「動きに無駄がなさすぎて早いし、正直、何をどうしているのかわからない部分もあるのよ。もっとゆっくりやってくれたらいいのに」
「フユタージュをゆっくり作っていたら、バターが溶けてしまうじゃないか」
「それってそんなにいけないことなの?」
 きょとんとして彼女は聞き返してくる。
「ああ。バターが溶けると生地がベタベタになるんだ。焼きあがりにも影響する」
 ふうん、とは頷くと、かりかりと手帳に書き込んだ。
「……前から思っていたんだけど、エリックって私が誘わない限り食べないわりに、お菓子作り、上手よね」
 書き終わると、納得がいなかいというように、彼女は上目使いで私を見上げる。
「甘いものどころか普段の食事もどうでもよさそうにしているけど、本当は料理が好きなんじゃないの? それか、一時期凝っていたとか。エリックって興味を持ったものには際限なく取り組むものね」
 彼女のたわいない想像に、私は声をあげて笑った。彼女の頭の中には、山高のコック帽でも被った私がいるのだろうか。
「そうだな。菓子作りは……」
「うん、うん」
 わざと言葉を濁らせると、彼女が興味深そうに身を乗り出す。
「お前がここに来てからだな、覚えたのは。自分ひとりではわざわざ買おうとも作ろうとも思わなかったから」
「嘘だぁ! それでこんなに上手なわけがないじゃない」
 反射的には叫ぶ。その顔はまったく信じていないようで、どうして隠すのかと責めているようだった。
「嘘ではないよ。覚えているかね? 私が最初にお前のために作った菓子は、カトルカールだった」
 あれは彼女が私と共に暮らすようになって、二ヶ月ほど経ったころだった。私もそうだが、彼女も私に慣れてきた頃で、少しずつやりたいことややってほしいことを言ってくれるようになった時期だ。
「うん、覚えてるわ。わたしが甘いものが食べたいって言って、でもなにもなかったから、あなたが作ってくれたのよね。あれもおいしかったわ。ドライフルーツがいっぱいで、ラム酒の香りもすごくよくって」
「食べ物のことはよく覚えているのだな」
 にやりと笑うと、は「意地悪」とむくれる。
 喉の奥で笑いながら、彼女の頬を手の甲で軽く叩くように触れた。こんな風にしても、彼女は飛び上がって逃げたりはしない。それがどんなに嬉しいか。
「それが私が初めて作った菓子だ。実際に作ったことはなかったが、作り方は知っていたのでね。なにしろ、卵と砂糖と小麦粉とバターを同量、混ぜて焼くだけだ。造作もない」
 それだけではあまりにも単純に過ぎたので、ドライフルーツを刻んでラム酒にひたしたものを混ぜてみた、という次第だ。まあ、これだって手を加えたといえるほどのものでもないが。
「あれが初めて……?」
 は信じられないという表情になる。
「ああ、そうしたら意外に面白かったこともあって、少し自分でも書物を調べてみたりもしたんだ。菓子作りは実験に似ているかもしれん。基本的な材料はほとんど同じだ。小麦粉、バター、砂糖、牛乳、卵。これらのいくつか、あるいは全部を適宜混ぜたり練ってから焼く。風味付けに使えるナッツ類やリキュールも、我が家には常備しているから、パータ・ケックだろうがビスキュイだろうが、プティ・フールだろうが、大抵はできる。ようはどう応用を利かせるかだな」
 そう言うと、はびっくりしたような顔になった。
「どうした?」
「あ、ううん。ちょっと驚いちゃって。エリックが料理している時って、凄く生真面目そうで重大な実験をしているみたいだな、って思ったことがあるの。本当にその延長みたいな感じでやっていたのね」
 そんなことを思っていたのか……。まあ、私の考えている事を理解しようとしている姿勢は悪くはないが。
 と、はふうとため息をつく。
「それにしたって、上手すぎるわよ。そりゃ、下手よりはいいんだけど。あーあ。こういうのってやっぱり最後には才能がものをいうのね」
 納得をしたと思ったら、今度は落ち込む。は本当に感情の変化が激しい。
「なにも私をうらやむ必要もあるまい。必要に迫られている技術でもないのだから、できないならばできないでも構わないではないか」
 私がやれるのだから。
 しかしはきっと顔をあげ、
「わたしが構うの! わたしなんて女の端っこの方にいるかもしれないけど、好きな人にわたしの作ったおいしいものを食べてもらいたいって気持ちくらいはあるんだから」
 ムキになって言い募る。
「端っこって、お前ね……」
 卑下しているわけではなく、彼女は本当にそう思っているのだろう。彼女は自分を女らしくないと感じているらしいのだ。しかしそれもせいぜいはドレスよりも現代服が好きであり、おしとやかにしているのは苦手であるという、ただそれだけのことなのだが。
 ああ、それよりも重要なのは『好きな人においしいものを食べてもらいたい』というくだりだ。こんな風にさらりと言ってくれるほど、私を好いていてくれるなんて……。
 私は顔が笑ってしまわないように精一杯堪えた。
 実を言えば、私が菓子作りをするようになったのには下心がまったくなかったわけではない。オペラ座に属している女、あるいはオペラ座を訪れる女、あるいはアジアの国々で出会った権力者の女たちを観察した結果として、女というのは美しい衣装と宝石、それに菓子が何より好きなものであるという認識が私にはあったのだ。
 はドレスと宝石に関しては、興味が薄いのは最初の頃からわかっていたが、菓子の魅力にはまったく抗えないらしい。市井の噂では、横暴なる料理人を追い出したいと思いつつも、その料理の腕の素晴らしさにできないでいる主人というものがいるという。胃袋への誘惑は、それほど強いものだというのだ。私自身は食の多様さというものにはそれほど拘りがあるわけではないのだが、を見ていると強く納得がいくのである。
 こうして知らず知らず、彼女は私の策にはまってゆく。私の作るものが彼女の舌になじみ、身体の一部となり、彼女という存在を構成してゆく。
 いつかこの地下の暮らしに、あるいは私に我慢のできなくなった彼女が出て行ったとしても、私の作るもの以上の食べものがなければ、彼女は自分から戻ってくるにちがいない。
 そう、ざくろの実を食べたがゆえに、冥府に一年の数ヶ月は戻らなくてはならないペルセポネのように。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 翌日。
 いつものようにスクリブ通り側の出入り口付近に届けられる荷を取りに、私は階段を上った。
 常と違うのは、身体の中心あたりが重苦しく感じることか……。
 それというのも、昨日作ったパイが残ったので、朝食にもそれを食したのだが、ぎっしりとカボチャのつまったそれは腹に溜まる代物で、なかなか消化してくれないのだ。
 もそうなのではないかと思ったが、彼女の様子はいつもと同じようである。あれが若さというものか……。
 カボチャは嫌いではない。甘いものもまたしかり。しかしどちらも進んで食したいというほどではないため、連日のカボチャ攻勢には私も根をあげてしまいそうだった。
 今度彼女が市場に行きたいと言い出したら、カボチャだけはやめておくれと頼むつもりだ。
 そんなことを考えながら階段を上り続けていると、だんだんと前がほの明るくなってくる。うっかり通行人に姿を見られないよう、慎重に影に身を潜めながらさらに進んだ。
 ふと、誰かが入り口付近にいる気配がする。耳を澄ますと、確かに誰かが何かを漁っているような物音がしていた。
 気配を殺しながら様子を探る。そして不審な物音の正体を確かめると、声をかけた。
「ベルナール、お前か」
「これは、先生……!」
 物音の主はベルナールだった。奴は私の存在に気付くと、本気で驚いたようで、目を見張る。それからへりくだったように挨拶をしてきた。
 それにしても、珍しいことだ。私が時間を指定して直接命令を下すことは時折あるのだが、そういうわけでもなく顔を合わせるのは、もしかして初めてではないか?
「一体どうしたのだ。こんな時間に何をしている?」
 いつもの届け物をするには遅い時間だ。
 咎められていると思ったのだろう、ベルナールは慌てたように持っているものを私に差し出してきた。
「お嬢様からご依頼された品が幾つか手に入りましたので、お届けに参ったのです」
の?」
 そんな話は聞いていないが、まあいいだろう。帰ったら本人に確かめてみればよいことだ。
 しかしめ……ベルナールになにかを頼む時には私にも一言報告をするように言っていたのに、全然言う事を聞かないのだな。支払いに差しさわりが出かねないというのに、まったく……。
「それで、これは何だ?」
 ベルナールが渡してきたのは、一抱えはある陶器の瓶と、それよりずっと小さい瓶の二種類だった。大きい方には“JAPANSCHZOYA”と書かれている。日本のものであるらしいのはわかったが……。
「この大きい方の瓶はショウユで、小さい方にはミリンが入っております」
「ショウ……ああ、日本のソースだな、たしか」
「はい、その通りで」
がこれをほしいと?」
「はい、他にも日本の料理を作るのに欠かせない調味料を望まれていたのですが、さすがに見つからなく……」
 まあそういうものだろう。ヨーロッパでも日本という国の名は多少なりとも知られるようになり、かの国の珍しいものを扱うような店も増えてきたが、それでもまだまだ未知なる国という印象が本当のところだろう。着物や工芸品ならば、しばらく売れなかったとしても簡単に腐りはしないが、食料品ともなるとそうもいかない、いくらパリでも流通が著しく少ないだろうことは、容易に想像がついた。
「ショウユは外国の珍しいものを扱っている食料品店で見つけられました。その店の主人によると、定期的に輸入しているそうで、急に買い手が増えない限りは、まず切らすことがないだろうと」
「ほう」
 ならば入手は比較的容易なのだな。
 私も名前だけならば書物で読んだので知っているのだが、これがそれか。
 興味をそそられ、瓶をとっくと検分していると、ベルナールは説明を続ける。
「しかしその他のものとなりますと、まったくでして。お嬢様から一通り、どのようなものなのかの説明を受けたのですが、何しろ初めて聞いたものばかりでよくわからないというのもあってまったく見つかりませんでして、それで日本公使館に行ってどこか売っている店は知らないか、もし店にはないとしても、もし持っていたらわけてもらえないか相談に行ったわけです」
「なん……だと」
 私は顔から血の気が引くのを感じた。
 日本公使館だって!? ベルナールめ、余計なことを……!
 役人なんかと関わっては面倒この上ない。あの時は、一回限りのことだと思ったからこそ重い腰を上げたのだというのに。
 連絡がないのをこれ幸いと、放置していたのに、これで私のことを思い出して、なんやかやとまとわりつかれてはたまらない。
 不審がられてフランスの役人に相談されたりしたら……そこから調査が入ってしまうかもしれないではないか。そうなったらもうおしまいだ。ここにはいられなくなってしまう。
 となると当然、彼女とのささやかで幸せな生活は失われてしまうだろう。
 オペラ座を離れたら、定期的な収入もなくなってしまうし、たとえ彼女が強い心を持っていたとしても、四六時中世間の人間の意地の悪い囁きや視線にさらされれば、私と一緒にいたいと思わなくなるのではないか?
 冗談じゃない!
「……せ、先生?」
 蒼白な顔で、ベルナールは私を見た。
「なんだ!」
「な、何か手落ちがございましたでしょうか? その……」
 ぶるぶると身体は震え、今にも殺されそうな表情をしている。私はよほど悪鬼のような顔になっているらしい。
「自分の立場をわかっているのか? 私は何者だ? お前は? 愛想を振りまくのも結構だ。それがお前の仕事なのだからな。だがその相手がどんな力を持っているのか、それが私にどんな影響を与えうるか、少しは考えなかったのか!」
 怒りの衝動のままに、ベルナールの胸倉を掴み上げる。ベルナールは半泣きになりながらも弁解してきた。
「め、滅相もございません。先生に疑いが行くようなことは私はけっして漏らしませんでしたとも。彼らは先生が引退した実業家で、大変辛抱強い方だと思っているのです。これも……そのお詫びもかねてもらったもので」
 と、ベルナールはミリンが入っている方の瓶を指さした。
「侘び?」
 話のつながりが理解できなかった。
「は、はい。お嬢様の身内の調査が難航しているようで、日本からはまだ何とも答えが返ってきておりません。ずいぶんと時間が経ってしまいましたが、先生は急がせるように催促なさったりせず、静かにお待ちいただいている……。早くご結婚したいでしょうに、と」
「……」
 私が催促しないのは、そのようなことをしても無駄だと知っているからなのだが、そうか、公使館の連中は、そんな勘違いを……。
 私はなんだか拍子抜けしてしまい、掴んでいたシャツを離した。
「これは公使が日本から持ってきたミリンなんだそうで。甘い酒なのだそうですな。些少ですが、納めてくださいと」
「……そこまでしてもらう必要はなかったのだが」
 妙なことから妙なものをもらってしまったものだ。簡単に店で手に入るものではなく、ましてや故郷を思い出させるもの……。遠い異国の地にいるものにとっては、手放すのが惜しいと思うようなものではないだろうか。私とて、ボッシュヴィルを懐かしむことはなくとも、フランスという国には愛着がないわけではない。私ですらそうなのだから、国を背負っているという気概に燃えている青年にとっては尚のこと断腸の思いだったのではないだろうか。悪い事を……してしまった、のだろう。
「ご懸念なさることはありませんよ、先生。私がショウユだけは日本のものを見つけて買ったと言ったらものすごく喜ばれまして。中国でもショウユは作っていますし、お嬢様はヴェトナム育ちですので、そちらの方に馴染んでいるかもしれないけれど、日本のショウユを選んでくれるとは、さすがに父上が日本人なだけはある、と」
 ……愛国主義、というものか? それにしても。
「ずいぶん大げさだ」
「そうとも言えないようです。なにしろ中国のショウユは安いので、日本のショウユは負けているのだそうですよ。少しでも多く日本のものを売り込みたいわけですな。なんていっても、個人輸入を勧められてしまいましたしね」
「輸入だって?」
「ええ、ショウユと、あとミソはともかくコンブだとかカツオブシだとかいうのは、さすがに扱っている店はパリでもないのではないかということで。ヨーロッパ中を探し回るより、ほしいものを日本から取り寄せたほうがよいのではないか、と。私が、日本の商店など知らないですよと申し上げたのですが、それなら自分が紹介するからと」
「なるほど、商売熱心だな」
 それもこれも、私が単に日本娘と結婚したがっている物好きというだけでなく、それなりに財産を持っているのだと認識されているからこそ、このような話が出たのだろう。金払いの良い客を欲しがるのは洋の東西を構わないといったところか。
「それをどれだけがほしがっているかわからないから、彼女に確認しなければなるまい。返事はそれからだ」
「承知いたしました」
 ベルナールは一礼をする。
 話はそこで終わった。
 ベルナールは帰宅をし、私はというと、バゲットと牛乳――これは二日に一度は必ず届けられるのだ――、それに大小の瓶という予定外の大荷物を抱えて地下へと戻ってくはめになった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 家に戻り、一連の話をに聞かせると、彼女は非常に申しわけなさそうな顔になって考え込んだ。
「どうしよう、まさかそんな大事になるなんて……。あったらいいな、くらいの軽い気持ちで言っただけだったのに……」
「そもそも、どうして私に相談をしなかったのだ? 支払いのこともある。事後報告だけでもしてくれていたら、こんなことにはならなかったのだぞ」
「お金はわたしのお小遣いから出すつもりだったんだもの。いくら高くても、まさか十フランとか二十フランもするものでもないと思ったし。それに、本当に見つかるかもわからなかったんだもの」
 彼女の返答に、私はため息をついた。これだ。
 まったく、彼女はいつまで経っても、女の欲しい物の代金を支払うのも男の甲斐性であることを理解してくれない。小遣いはあくまでも、彼女が外出した際に不意の出費にも困らないように渡しているだけで、あれだけで彼女のほしいものすべてを賄えということではないのだ。
 その辺りのことを懇々と言い諭すと、彼女は萎れた花のようにうな垂れた。
「ごめんなさい……」
「わかってくれれば、それでいいんだ」
 私は必要なことを言っただけだ、と思うものの、に悲しい顔をさせるのは本意ではなかった。
 それで話題を別の方へ向けるべく、要返答の問題について彼女の意思を問うた。
「それで、ショウユ以外はパリでもなかなか手に入らないようだが、輸入はするかね?」
 するとは頭をふる。
「そこまでして欲しいというわけではないの。ただちょっと和食も久々に食べたいなって思っただけだから。大丈夫、我慢できるわ」
 我慢……。
 やはり、我慢なのか。故郷の味というのはそうそう忘れられるものではないのだろうから、ないとなれば我慢するしかないのだろうが。
「……国に帰りたいか?」
「え?」
 は驚いたように私を見上げた。
 本当なら、彼女はここにいるはずがないのだ。
 生まれた国が違い、時代が違うのだから。
「帰りたくないといえば、うそになるけど……」
 ゆっくりと、言葉を捜すように彼女は話す。
 ああ、やはりそうなのだ。どれだけ私が尽くしても、彼女の中から望郷の念を消す事などできやしないのだ!
 少し顔をあげると、は腕を上げ、私のフロック・コートの襟のところにそっと指を置いた。
「でも今の時代の日本は、私にとってはパリ以上に異国だわ。そしてわたしの時代の日本には貴方がいないのだもの、どうしたって十九世紀のパリの、エリックのところに戻りたいと思ってしまうでしょうね。だったら、わたしはここにいたい。あなたのところにいたい。エリック……」
 そのまま彼女は一歩進むと、私の胸元に額を預けるように軽く身を傾けた。
……」
 まさか。まさかこのような答えをもらえるとは思わなかった。
 この答えに私を喜ばそうという意図でもって、若干の誇張が入っていたとしても、構うまい。は私を愛している! 私を誰よりも必要としている! その事実だけで充分だった。
「ああ、お前はなんて可愛いことを言ってくれるんだろう。一体どこで、こんな風に男の心をくすぐるようなせりふを覚えたんだ?」
 愛しさが募って、思わず力を入れて抱きしめた。
 は真っ赤になり、
「自分でも恥ずかしいこと言ったと思ってるんだから、あんまりからかわないでよ」
 と私に顔を見られないように下を向く。
 本当に、なんて可愛い、愛しい娘なのだろう。
 ああもう、ぐずぐすしていないでさっさと結婚式を挙げなくては!
 出生証明証などどうとでもなる。明日にもベルナールを使いに出して、市役所に必要な書類をもらって……。
「あっ!」
「エリック?」
 どうしたの、とが見上げてくる。
「いや、なんでもないんだ。ああ、なんでも」
「なんでもないっていう感じには見えないんだけど……」
「お前が気に病むほどのことではない。本当になんでもないんだ」
 断固として言うと、彼女は不審そうにしながらも、
「……そう?」
 とそれ以上聞かないでくれた。
 そうだった。今の私たちは正式な結婚をすることはできないのだった。
 そうするためにはあまりにも危険な橋を渡らねばならない。
 簡単に言えば、結婚するには市役所と教会にその旨を申請して、結婚予告を張らねばならないのだ。一定期間、それは人の目にさらされる。
 私たちの場合ならばそれはパリ市役所とマドレーヌ寺院だ。どちらも大きな通りに面している、人通りも多いパリの要所である。
 万が一にも公使館の人間に目に触れないとも限らないではないか!
 日本からの返答が来ないうちに結婚式をしようなど、怪しんでくださいといわんばかりだ。それも、私の本意ではないものの、彼らの記憶を掘り起こしてしまった直後に、だ。
 危ない橋は渡らないに限る。
 しかし……。ええい、くそ! 時期がきたのだと思ったのに、これでは日本から返答が来るまでは動きが取れないではないか。なんたることだ。
 役人ども、調査などさっさと切り上げてしまえ! 芳しい成果などないことくらい、こちらは承知しているんだ!
 熱心ゆえか怠惰ゆえかしらないが、ぐずぐずと返事をよこさない極東の役人に、私は呪いの言葉を浴びせかけた。
「ねえ、エリック。本当に様子が変よ?」
 腕の中で可愛い恋人が心配そうな声を出すが、あまりのことに眩暈がしそうになっている私は、彼女の小さな身体にしがみつくように抱きしめるだけだった。







なんで公使が味醂を持ってたかというと、かなり前に読んだ本で、明治初期頃のパリにいた人たちが正月に集まって、なんとか日本の食べ物集めて新年を祝ったって話を読んだのですよ。(西園寺氏の伝記だったかな……)
wik調べですけど、味醂が調味料として使われるようになったのは、意外に新しいみたいで、それ以前は普通に酒として飲まれていたみたいです。今でも関西以西ではお神酒として味醂使うとも書かれていましたし。鮫島氏は鹿児島の人なので、嗜好品として味醂持っていてもおかしくはないのかな、と思いまして……。
や、私自身は北東北在住なので、実際どの程度広がっている風習なのかはわかりませんが。
味醂を味醂だけで飲んだことなんてないよ……。おいしいの?





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