例の楽屋で待っている――。





 わたくしは再び彼の呼び出しを受けた。
 大胆不敵にも、わたくしが一人のときではなく、他のスタッフと廊下を歩いている時にだ。
 彼女たちは驚いて足を止めたわたくしに、どうかしたのかとけげんそうに尋ねてきた。
 そう問うからには聞こえていなかったのだろう。
 彼の声が。
 けっして小さな囁きではなかったのに。
 わたくしは忘れ物をしたことを思い出したと彼女たちに言い、その場を離れた。


 楽屋に向かうまでの道すがら、わたくしの頭は燃えるように熱く、胸の中は冷え冷えとしていた。自分がひどく愚かなことをしているのではないかという思いと、幽霊は利用できるのだという叱咤が混ざる。どうしても叶えたいという欲望と、そのために支払わなければならない対価を計算する。ともすれば危なくなるであろう我が身の保身を憂うも、危険なくして目的は達せないという事実が逃げる事を押しとどめた。
 決着をつけなくてはならない。
 それも、こちらにとって優位になるように。
 どんな相手かもわからず、どんな手管を使うかも知らないのに、わたくしはただ己の野望と、そして彼への興味という二つのものに引き寄せられて、何の躊躇も抵抗もせずに、示された場所へと足を踏み入れたのだった。
 そこは、やはり前のときと同じように明かりがつけられていた。
 わたくしは楽屋の鍵を内側から閉めると、部屋の中央に立った。
 受身でいたら、どこまで流されるかわかったものではない。
 わたくしは彼に話しかけられる前に自分から口火を切った。
「ムッシュウ、いらして?」
 わずかな間をおいて、返事が来る。
「ああ。マダム・ジリー」
 その口調にはわずかに戸惑ったような様子が混ざっていたようだった。
「知りませんでしたわ、ムッシュウ。あなたは支配人とも交渉を持っていらっしゃったのですね」
「彼と話したらしいね」
「ええ。オペラ座では怪人とも幽霊とも呼ばれる不思議な男の話を誰でも知っていますけれど、お話以上のものだと知っているのは、わたくしだけだと思っていました」
 どこに向かって話せばよいのかわからないので、わたくしは姿見に向かって話していた。そうすれば、少なくとも自分が脅えた表情をしたら、すぐに気付くからだ。
「彼との付き合いはあなたよりも長い。彼がここに赴任して以来のことだからね」
 幽霊はわたくしの言外の含みを正確に読みとる。
「なぜ彼が私の命令に従っているのか、知りたいか?」
 そして試すような問いを発した。
 わたくしは頭を振る。
「必要ないわ。ムッシュウ・ルフェーブルが何をしていようと、わたくしには関係がないことですもの」
「それがオペラ座に関係することであっても?」
「そうよ。不祥事が明るみに出ても、彼がクビになるだけのことですもの」
 もしも本当に彼の弱みがオペラ座に関係することだとしたら、真っ先に思い浮かぶのは横領だが、はっきりいってそれもどうでもよいことだ。公演にかけるべきお金をきちんとかけ、わたくしたちに給料を支払ってくれさえすれば。
「それとも、わたくしに聞いてほしいのかしら、ムッシュウ・F?」
 ふん、と鼻をならす音がかすかにする。
「いいや、結構だよ。あなたは彼よりよほど肝が据わっているようだ。気を悪くしたのなら勘弁してほしい。少し試してみたかっただけなのだよ。あなたが秘密を秘密のままにしておける人なのかどうか」
「試験は合格かしら?」
 皮肉を込めてわたくしは言った。
「もちろん。好奇心を押さえられるのは、秘密の共有者として必要な資質だ。あなたにはそれがある」
 意識して抑えていたわけではないのだが、とわたくしはそっと唇に笑みを浮かべる。
「では用件に入りましょうか。その前にわたくし、あなたに聞いておきたいことがあるのですけど……」
「なんだね?」
 気を悪くした様子もなく、彼は促した。
「はっきりさせたいのです。この間の件で、わたくしはいかほどの借りをあなたに作ってしまったのか。そして今後の費用にはいくらかかるか。ぜひ明快な答えをいただきたいわ」
 彼の用件もこのことなのかもしれない。しかし彼の出方を待つのは彼のペースに乗せられることと同じだろう。それは避けたいのだ。
「ああ、支配人の話を聞いて不安になったのだね。あなたからも毎月二万フランを搾り取ると? 必要ないよ。私は金には困っていない」
 その支配人から毎月大金をふんだくっているのですものね。そう思ったがさすがにこれを口に出すほどわたくしは馬鹿ではない。
「では?」
 なにもいらないというのだろうか。まさか、そんな上手い話があるはずがない。
「何も必要ではない、ということではない。あなたはバレエ教師だ。それもバレエの現状に満足していないのだからね、これからも子ネズミどもを扱いて磨きをかけてくれるだろう?」
「それは……あなたに言われずとも、わたくしの役割ですもの」
 淡々とした声音で告げられて、わたくしは困惑した。
 まさかそんなことでいいの? バレエ団の技量レベルを上げる、それだけで?
「もちろん、それだけではない」
 ほっとしたのも束の間、わたくしは胃を掴まれたような気分になった。一体、何を言われるのだろう。
「私が要求したときには、私の指示に従ってもらいたい。バレエのことでも、それ以外でも」
「それ以外?」
「そう。例えば、私は支配人に色々と要求をすることがあるのだが、彼は必ずしもすんなりとそれに賛成するわけではないのだ。必ず一度はごねる」
 正体不明の相手からの要求だ、それも当然だとは思うが、彼の言い方は子供が親のいいつけに反抗しているかのように聞こえるので、わたくしは思わず吹き出した。
 彼もつられたのか、口調が明るくなっていた。
「彼の個人的なことならば、どうにかするがね。これがオペラやオペラ座に関することだと私も困ってしまうのだよ。彼は私がここを私好みにしたいだけの狂信的なオペラファンだと思っているんだ。ひどい誤解だろう」
「そうかしら。あなたは少なくともバレエとオペラを同じように愛しているようには見えないもの。だったら狂信的なオペラファンだと思われてもしかたがないのではないの?」
「それは違う。私はここで上演するものが常に素晴らしいものであってほしいだけだよ。そのために必要な改善案や提案をしているに過ぎない。だが、彼にはなかなかわかってもらえない。自分を被害者だと思っている」
 彼の理屈は筋が通っているところもあれば、通っていないと思われる箇所もある。
 わたくしは相槌をうっかりうたないように気を引き締めた。
「先見の明がないんだ。目先の金勘定しかできない男だ。くだらない男だ。だがここの支配人だ。影響力がある」
 明るい口調は徐々に吐き捨てるようなものに変わり、最後には見下すようなものへと変じた。
「芸術家きどりだが、芸術を理解できていない。だから、私が導いてやろうというのだ。光は常に彼に当たる。私が示した改革が功を奏したら、その名声は彼のものだ。提案をした、私ではなくな。まったく、世間というのは馬鹿げているよ。どんな名案も、それがどんな内容なのかということよりも、誰が言ったのかということが重要なのだから。幽霊の言葉なんて、誰も信じやしないのさ。だけど、私はそんなことに失望などしていない。必要なのは、目的を達する事だ。その手助けをあなたにもしてもらいたい」
「具体的には?」
 簡単なことを要求されているようにも思える。だがひどく難しいことを望まれているようにも思えた。
「私が要求したことを支配人は会議にかけることがある。もちろん私の案としてではなく、自分の思いつき、という体裁をとっているが。彼が会議にかけるときには、なにも闊達な意見を望んでいるからではなくて、それをどうにかして反対してほしいからなんだ。会議に出席できるのは、職員の中でも上層部に位置する者たち。その彼らが反対したとなれば、私に対して言い訳ができるから。だが、もうそんな茶番はうんざりだ。あなたには前もって教えておくから、その時には賛成に回ってほしい。それに、議題にかけられない時には、それとなくあなたの意見として、私の意見を伝えてほしい」
「わたくし一人が賛成に回ったところで、たいした力になれるとは思えないけれど」
 即答を回避するために、わたくしは覚えた懸念を彼に伝える。
「構わないさ。大事なのは、私と同じ意見を持つものがいるということを彼にわからせることだ」
 わたくしはしばし考え込んだ。
「いま答えるのが難しいというのであれば、返事は後日でもかまわない。だが、たとえ拒否するにしても私のことを他の者に話したりしたら、命はないと思え」
 ややあって、低い、呪うような声で彼は言う。
「見くびらないで頂戴。そこまでわたくしの矜持は低くはないわ。あなたには一応恩があるのですもの、正体がなんであれ、売り渡すような事はしない」
 わたくしはきっと虚空を睨んだ。
 そんな気はしていたけれど、やはり彼は危険人物のようね。あまり気長でもなさそうだし、こういう相手は不用意に刺激しない方がいいわ。だけど、わたくしも引くわけにはいかない。
「わたくしはオペラ座をクビになりたくないわ。あなたの伝令を仰せつかっていたら、いつかそんなことになりそう」
 あいまいな言い方で、彼の出方をうかがってみる。
「そんなことにはならないさ」
 なだめるように幽霊は言った。
「どうして言い切れるの? わたくしとあなたの意見が一致し続ければ、支配人はさすがに気がつくでしょう。幽霊をクビにすることは無理でも、わたくしは違う。バレエ教師としての信念からの意見対立だったら、いくらでも踏みとどまりますけれど、同感できるかどうかもわからないあなたの意見を立てて自分の立場を危うくする気は、わたくしにはないわ」
「……それは、拒絶と考えてよいのかな?」
 彼の口調から、快活さと熱が消えた。
「いいえ、保障がほしいといっているの。そうしてもらえれば、そうね、伝令役を務めても良いわ」
 幽霊がわたくしの背後にいるとわかれば、支配人もわたくしに強く出られなくなるだろう。それはなかなか好ましい変化になる。
 ただ、勝手に幽霊の名を使うのはまずい。彼はオペラ座の幽霊だ。すぐに気がついて手を打ってくるだろう。
「あなたはなかなか手ごわい」
「どうもありがとう。素敵な褒め言葉だわ」
 わたくしは本心からの笑みを浮かべた。
「支配人は彼自身の考えがどうあれ、最終的には私の意見に従っている。少なくとも今まではそうだった。なら話は簡単だ、私が彼に、あなたをクビにしないよう言えばいい」
 頷きつつ、わたくしは次の要求をした。
「それから、バレエに対する独立性の保障を。あなたの意見を伺うことはあるかもしれないけれど、できうる限りわたくしは自分の力でやりたいわ」
「いいだろう。あなたは無能ではないから」
 彼はあっさりと承諾する。もっとも、彼にとってバレエはオペラほど重要ではなさそうなので、そのせいもあるかもしれない。
「それから、もう一つ」
「まだ何か?」
 ややうんざりしたように彼は言った。
「証拠を見せてくれとは言わないわ。だけど嘘偽りのない答えが聞きたいの。あなたは人間? 幽霊? 悪魔? 天使? それともそれ以外の何か? わたくしは今、マンダランを殺したところよ。そのわたくしに、それくらいのことは教えてくれてもいいと思わない?」
 彼は沈黙した。
 今度はわたくしが待つ番のようだ。
 答えがあるとしても、本当のところを教えてくれるかどうかはわからない。だけど、聞く価値はあると思った。
「……マンダランを殺すほどの覚悟が必要なほどの無理難題をしたとは思っていないのだがね」
 疑わしげな口調で彼は呟く。
 わたくしは頭を振った。
「いいえ。あなたがわたくしをどう思っているかは知らないけれど、これでも良心を殺し、踏みつけてまで何らかの利益を得ようとしたことはないわ。それも、こんな危ない橋を渡る事なんて……」
 自分が承知したことが世間に知られたら、きっとわたくしは破滅する。
 わたくしは支配人を恐喝し、脅迫しているものと手を組んだのだ。いいえ、それだけではないかもしれない。幽霊の正体がわからないのだもの、彼が過去にそれ以上の犯罪に手を染めていないと、どうして言えて?
 引く気はないと、わたくしは顔をあげたまま、じっと彼の答えを待った。
 彼は、とうとう観念したようだった。
「明かりを消したまえ、マダム」
「なぜ?」
「その必要があるから」
 暗闇に乗じて、わたくしを殺すつもりかしら。そうは思ったものの、明るい今でも見えないのだから関係なかろうと、わたくしは彼の言葉に従った。さあ、何を見せてくれるのかしら?
 ガスを止めると、炎はじりじりと明るさを失い、やがて部屋は闇に沈んでいった。
 わたくしは家具にぶつからないよう、そろそろと動いて、もとの鏡の前と思われる場所まで戻った。
 小さな明かりが灯る。
 ランプなんて持ってきていたかしら、そう思った刹那、床より少し高い位置に見えたそれがすうっと持ち上がった。
 足が見えた。
 黒いズボンに包まれた二本の足が。
 それから燕尾服の裾が、皮の手袋に包まれた手が、白いシャツの胸元が、そして……。
 白い仮面で覆われた、男の顔が、見えた。
 わたくしは驚きのあまり目を見開いた。男がいたことに驚いたのではない。男が、鏡の中にいたことに驚いたのだ。
 やはりこの男は幽霊か悪魔なのだろうか。
「あなた……一体?」
 鏡の中で男はにやりと笑った。
「単純なトリックだよ。あなたも知っていると思うがね」
 言いながら、彼は手の甲で鏡を裏から軽く叩いた。
 ああ、そうか、これは鏡ではなく……。
「鏡ガラスなのね」
 舞台でも幻想的な雰囲気を出すために何度か使っている。明るい方から暗い方を見れば鏡に、その逆では窓のように見えるのだ。
 だけどいつの間にこの部屋の鏡が取り替えられていたのだろう。けっして小さい鏡ではないのに。
「あなたは生きている人間なのね」
「死んだ人間が歩きまわれるのでなければ、そういうことになろう」
 彼はひねくれた答えをよこした。
「驚いたわ。まさか姿を見せてくれるなんてね」
「そうでもしないと、余計に嗅ぎまわされそうだったからね。先手必勝という奴だよ。それに、これがどういうことかわからないほどあなたは愚かではないと私は読んだのだが?」
「……結構な評価を頂いて、ありがたいわ」
 交渉をし、手を組み、相手の姿まで見た。
 すべてが明るみになっても、もう何も知らなかったではすまない。

 沈黙を。
 そうでなければ破滅を。

 言葉にしなくても、わかる。
 わたくしはもうけっして引き返せないところまで足を踏み入れたのだ。

「私が恐ろしいか?」
 男は尋ねる。
 彼の顔は半面が仮面で覆われているが、見える部分からわたくしとさほど年が変わらないように思えた。背は高く、ひどくやせている。そして随分と陰鬱そうな雰囲気を漂わせていた。あまり友人にはしたくない類の外見をした人物ではある。
「愚問よ。あなたを怖がったところで、わたくしが選んだ結果が変わるわけではないわ」
 彼はしばし間を置いて、にやりと笑う。
「確かに。私とあなたは手を組んだ。それだけのことだ」
「そうよ。死なばもろとも、というやつね。周りに知られないよう、せいぜい気をつけて頂戴」
「随分な言い様だ」
 あきれたように男は言った。
「言いもするわ。姿を見て確信したけれど、オペラ座の幽霊の目撃談は必ずしもでっちあげばかりではないのね。いくつかの特徴があなたと一致しているもの。あなた、割とその辺をうろついているんでしょう? 捕まらないよう、用心するのね」
 それでわたくしまで捕まってはたまったものではないもの。
 憤然とそう言うと、男は愉快そうな笑い声をあげた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 それからわたくしたちは、互いに用があるときの合図を決め、別れた。
 面会場所はここ。
 だけどしばらくしてわたくしの部屋も加わった。
 あまりに頻繁に使われていない楽屋へ出入りしているところを見られるのはまずいからという理由だ。
 男の名前は、長い間知らなかった。
 ずっと、わたくしはムッシュウとだけ呼んでいた。
 彼がエリックという普通の名前を持っていることを知ったのは、オペラ座の地下に住む二人目の住人と接触するようになってからだ。
 そう、のこと。
 それにしても、改めて考えると、彼女の正体も彼に劣らず不明なことだらけだわ。
 あの少女はどこから来たのかしら。
 なぜ彼と暮らすようになったのかしら。
 身寄りが全くいないのかしら。
 日本人であるのも本当かどうかわからないし……。
 いいえ、詮索はよしましょう。
 深入りすれば、その分抜け出せなくなる。
 エリックとわたくしは利害関係の一致によって結ばれている。
 ともその延長でいなければ。
 それは、あの年頃の少女ですもの、女手があったほうがいいのはわかっている。頼まれれば彼女の世話をするのはやぶさかではない。
 クリスティーヌのことも引き受けているのですもの、一人が二人に増えたところで大した差ではないだろう。


 それでも、少し気になることがあるのだ。
 彼女は最近オペラ座に顔を出すことが増えた。
 たいていは午後の早い時間なので、関係者以外はほとんどいない時間帯だ。
 が、ほとんどであって、全く、ではない。
 目ざとい人間はどこにでもいる。
 わたくしは先日、定期会員の一人にこんなことを聞かれた。

 最近よく見かけるあの東洋人の娘は誰か? 新しいコーラスか何かか?

 と。





かなり消化不良ですが、マダムとエリックの出会い編はこれにて終了です。
ああ……長かった。

ちなみに、この回のテーマは文中に出てきた「マンダラン殺し」というものなのですが「読書の首都パリ」(宮下志朗 著)という本の中に「マンダランを殺せ」という章がありまして、興味深かったため、自分でも挑戦してみました。まあ、全然歯が立たなかったわけですが(泣)
意味内容をちょっと詳しく言いますと、「中国の大官(マンダラン)を自分では指一本動かさずに殺す事ができ、(一切接点がないにも関わらず)その大官の持っている莫大な財産を手に入れることができるとしたらあなたはその大官を殺すかどうか?」というものです。
19世紀のフランスで使われていた文学的比喩の一種(?)で、良心を試すような感じで使われていたそうです。
(登場作品:「ゴリオ爺さん」(バルザック)「モンテ・クリスト伯」(アレクサンドル・デュマ)など)
比喩ですので、別に本当に大官を殺す必要はないですし、得るのも金銭であるとは限りません。
自らの欲望のために露見しない悪事を実行するかどうか? という感じだと。

で、まあ、マダムはマンダランを殺してしまったわけですけれどね……。
エリックは想像上のマンダランどころじゃないうえに、数も一人じゃないんだけどね……。




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