満場の拍手が高い天井まで響く。
 今日の舞台は観客の評価だけではなく、わたくしから見ても満足のゆくものだった。
 舞台上では主要な役を務めた踊り手たちが並んで歓声に応えている。
 わたくしは安堵の息をもらし、バレリーナの共同控え室へと向かった。
 舞台のすぐ裏にあるこの控え室には、全身が写る鏡やバーがあり、一度に大勢が動けるだけの広さがあり、そして金ぴかの装飾や豪華な綴れ織りがあった。
 ここはただの控え室ではない。舞台が終わった後などはサロンとなって、定期会員という名のついた男たちが娘たちと好き勝手に過ごす場所へと変わるのだ。
 テーブルと椅子が並べられたそこでしばらく待っていると、上気した顔の少女たちががやがやと入ってくる。
 それもわたくしが軽く床を鳴らすと、しんと静まり返った。
 わたくしは今日の舞台の出来を褒め、ハメを外し過ぎないようにとだけ注意をすると、彼女たちは一斉に騒ぎ出す。これから待っている遊びのことを声高に話したり、互いにふざけて押し合いへし合いしたり。そうしている間に、この場所への出入りを許された観客が、仰々しいほどの賛辞を口にしながらだんだん集まってきた。
 こうなったらわたくしはもうバレエ教師ではなく、踊り子の娘を持つ一人の母親になる。娘に勝手に声をかけようとする男が出ないように付き添ってやらなければ。
 それにしてもすごい数だこと。
 まったく、この中の何人が、純粋にバレエという舞踏芸術を愛しているのかしら?
 賭けてもいいけれど、ほとんどがバレエそのものよりも、短くなったスカートからのぞく『足』の方を愛しているのでしょうよ。
 跳躍や回転といった、必要にして欠かさざるバレエの技をより踊りやすくするために、バレエの衣装は裾が短くなってきた。それが下心でいっぱいの男性たちをひきつけてしまう。踊りの出来など二の次。オペラ公演のときには、それがよくわかるのだ。
 それというのも、オペラでも二幕目か三幕目には必ずバレエの場面がある。これは伝統というのとは少し違う。観客の強い要望があってのことだ。
 序曲が始まってからはもちろん、一幕目になっても入場しない観客は案外多い。忙しくて間に合わないということだけではない。最初から序曲などつまらないと決めてかかっている人もいるのだ。それでもバレエは見逃したくないということで、それ以降に場面が設けられている。
 そういえばこんなこともあったわ。
 わたくしがまだ現役だった頃、「タンホイザー」のパリ初演があったのだが、そのときに彼はドラマ性を重視してバレエを一幕にもってきたところ、バレエを見逃した観客から非難を轟々と浴びたのだ。
 当時のわたくしは現役を引退しようかどうか迷っていたところで、この事件はそれを決意する要因の一つにもなった。つまり、わたくしは主に男性の観客たちから自分達がどのように見られているのかを理解し、割り切れていたと思っていたのだが、どこか釈然としないものが残っていたのだと気づいたのだ。
 毎日厳しい練習を積み重ねていても、通じていないのではないか。
 それよりもただ足が見えているということだけが重要視されているのではないか。
 こんな馬鹿な男たちを全部締め出して、本当にバレエというものの価値を理解してくれる人だけの前で踊れたら、どれだけ楽か。きっと観客は女性と少しの男性ということになるだろう。
 そんなことを延々と考えていた。
 今となっては笑い話ね。
 バレエは芸術的な舞踏であるとわたくしは思っているけれど、それ以前に入場料をとって観客を楽しませなくてはならない娯楽なのだ。すべての財政的かかりを負担してもらえた時代とは訳が違う。
 産業の発達とともに増えた富豪や中産階級、その彼らの出してくれるお金がなければ、オペラ座の経営はなりたたない。ただでさえ赤字なのだから。
 こんな風に考えられるようになったのも、年のせいかしら。それとも成長したから?
 くすりと一人で笑っていると、すでにほろ酔いになったらしい赤い頬をした紳士が馴れ馴れしい様子で話しかけてくる。
 やたらめったらメグを褒めているところを見ると、この子にご執心なのかしら。でもたしかこの人、コーラス・ガールのベルトを囲っていたと思ったのだけど。結婚はしていないけれど、話では借金がかさんでいて、かなり危ないというし。とても近付けさせられないわ。
 わたくしは笑みを絶やすことなく彼との話を打ち切らせると、メグを促して場所を変えた。


 ……エリックは、こういう情報をどうやって手に入れているのかしら。
 おかげでこちらは助かっているけれど。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 幽霊に対して啖呵を切ってはみたものの、それからしばらくの間はひどく目が回るほど忙しくなった。
 彼は約束通り支配人になんらかの話をつけてくれていたらしく、わたくしが次のバレエ公演では今までよりも名前の通った作曲家に頼みたいという依頼にも、さほど渋らずに承諾してくれた。さほど、というのは、何日もかけて説得する必要がなかったというだけのことであって、新たな出費に対する愚痴を延々と聞かされることを回避できたわけではない。それでも幽霊のおかげか、いつもより短くすんだので感謝しているくらいだ。
 だがその後の、作曲者選びに難渋した。
 人気の作曲家は、一年先まで予定が埋まっていることも珍しくない。飛び込みの依頼を受けさせるだけでも一苦労、それもバレエの音楽だ。好感触を示してくれる者はまずいなかった。
 それというのも、作曲家にとって、バレエの音楽には、バレリーナが踊るための技巧上的な問題以外にも、致命的な弱点があった。
 それは歌がないことだ。
 作曲家も人気商売だ。自分の音楽が巷間に広まらなければ自身の収入に響いてくる。歌がある、というのは音楽だけのものよりも有利なのだ。歌ならば口ずさむこともできる。大衆に愛されてこそ、彼らが生活してゆく道が開けるのである。
 だからわたくしは、最初から『芸術的過ぎる』曲を作るとされる作曲家は避けていた。彼らだったら、こう言ってはなんだが、生家が金持ちでもないかぎり、金銭的に余裕がないことがほとんどなので、オペラ座から出せる金額で依頼を引き受けてくれただろう。
 しかし、大衆に愛されている作曲家となると、今度は彼ら自身の忙しさと金銭的な面で折り合いがつかなくなるのだ。オペラ座からの依頼だということで最初こそ愛想よく面会してくれるものの、それがバレエ公演のための音楽となると、途端に渋い顔になる。それの繰り返しだった。
 十人以上の作曲家に断られまくったわたくしは、なんとかしてとある人の良い性格の作曲家に引き受けてもらうことに成功した。ほとんどごり押しに近かったと思うが、こちらも日程の面なのでさんざん譲歩したのだから、おあいこというものだろう。
 その公演は、なかなかの評判を勝ち得た。音楽に対する評価も高く、再演も決定した。
 だが、それだけだった。
 何かが変わったという感覚がないのだ。
 わたくしが若かった頃にはバレエに対する熱狂があったが、そういった観客の熱を生み出すことができなかったのだ。
 何が足りないのだろう。
 どうすれば良いのだろう。
 光が見えたと思ったけれど、それは見間違いだった。わたくしはまだ闇の中にいたのだ。


 良い思いつきがまったく浮かばなかったわたくしは、再び幽霊と話をしようと、五番ボックス席に向かった。もちろん他の人びとに見つからないよう、公演のない日を選んでだ。
 文句を言いたかったわけではない。
 彼は最初から「やらずにいるよりはましだと思うのならばやってみろ」と言ったのだ。確実な成功を約束してくれたわけではない。
 ただ、一人で悩んでいるよりは、なにか展望が開けるかもしれないと思っただけだ。試行錯誤をするにしても、助言者がいるといないとでは大違い。その相手が、姿を見せない幽霊あってもだ。
 前のようにそっと五番ボックスに入り込むと、幽霊氏愛用の椅子とは別の椅子に座った。
 事前に手紙を書いたりはしていない。掃除係に見つからないよう、毎朝回収に行くのが大変だというのもあるし、一度話をしてくれたのだから、彼がボックスに来てくれさえすれば、わたくしを無視することもあるまいと考えたためだ。
 来なかったら運がなかっただけ。その時はまた日を改めればいい。
 そう気楽に決めて座ること十五分か二十分ほど経った頃、音がしないよう注意をしながらボックスに入ってきた人物がいた。
 彼が正体を現す気になったのかと驚きつつも、わたくしはその人が入ってくるに任せた。
 廊下も劇場内も明かりが落とされていたので顔は見えない。だが暗闇の中でも認識できる陰影から、それが背の高い男であることがわかった。
 わたくしはそっと立ち上がる。
 すると男はぎくりと動きを止めた。
 どうやら、わたくしには気がついていなかったらしい。幽霊を驚かせてしまったのかと心の中で笑っていると、男は押し殺した声で誰何してきた。
「だ、誰だ……!?」
 瞬間、わたくしは失望してしまった。
 彼ではない。声がまったく違う。
 だが、知らない人物ではなかった。
「支配人……? ムッシュウ・ルフェーブルですか?」
「その声はマダム・ジリーかね」
 暗くて、彼もわたくしの顔が見えないのだ。
「ええ」
 肯定すると、明らかにほっとしたように彼は扉を閉める。
「そうか、そうか、そうか……。てっきりあなたは知らないのだとばかり思っていたんだが、そうではなかったんだな」
「知らない? なんのことについてです?」
 問うと、彼は両手を広げて肩をすくめる素振りをした。
「このボックスの持ち主のことについて、ですよ」
「OのF氏ですか?」
 影は頷いた。
「ええ。今日が約束の日ですからね。だからあなたも来たのでしょう? それとも、臨時的ななにかですか? この間の作曲家の件とか……」
 約束? 一体なんのことだろう。
 支配人と幽霊氏の間になんらかの繋がりがあるのだろうとは思っていたけれど、なんだかおかしなことになってしまった。支配人も彼とここで定期的に会っていたというのだろうか。
 だが、約束といえるほどのものをわたくしは幽霊氏とはしていない。
 しかし何のことだと問い返せば、支配人は警戒してしまうだろう。ここは知っているふりをした方がよい。
「ええ、そうです。そのことで相談したいことがあったものですから」
 嘘ではない返事をすると、ルフェーブル氏はしばし沈黙し、わたくしに外に出てほしいと廊下を指差す。不審に思いながらもわたくしは従った。
 彼は誰もいない廊下で、内緒話をするようにわたくしの耳近くに手を添え、小声で話し出した。
「マダム、あなたの熱意は理解できますが、私の財産も無尽蔵にわいて出てくるわけではないのです。今回は彼の命令もあったので従いましたが、次からはまず私に相談していただきたいものですな。作曲家への謝礼が少し増えただけではないかとお思いかもしれないが、それも積もり積もれば大変な額になるのですぞ。……まあ、今回は好評に終わったのでこれ以上は言いませんがね」
「まあ」
 わたくしはすべてを理解している風を装って、軽く微笑んで見せた。彼はぶつぶつと「本当に大変なんですよ」と何度も繰り返す。
 それにしても『命令』とはずいぶんと物騒な言葉がでてきたものだ。てっきり幽霊氏と支配人は利害関係の一致から手を組んでいるものと思っていたが。何か弱みでも握られているのだろうか。
 ところで、支配人は幽霊氏の正体を知っているのだろうか。
 それとなく聞き出そうと質問を練っていると、そわそわし出した支配人が、再び低い声で話しかけてきた。
「ところでマダム……。あなたはおいくらです?」
「わたくしですか?」
 彼の問い方があまりにもおかしくて、わたくしは吹き出しそうになってしまった。『いくら?』だなんて、まるで娼婦に値段を聞いているみたい。支配人がそのような意味で聞いているわけではないだろうことはすぐにわかったけれど――それではあまりにも話が飛びすぎるからだ――そうでなければここは怒っても良い場面だわ。
 けれどもわたくしは不機嫌な様子など見せず、わざとらしく嫣然と微笑みながら、
「あらあら、わたくしに値段がつけようとする方が出たのはずいぶん久しぶりだわ」
 と返した。
 ようやく、自分の言い方が悪かったことに気がついた支配人が、泡を食ったように訂正してきた。
「し、失礼! そう言った意味ではないのですよ」
「もちろんそうでしょうとも。わたくしももう年ですものね」
 オペラ座の女は娼婦と同義だ。わたくしもその例には漏れない。生家は豊かではなかったし、パトロンでもいないとこの華やかな世界では浮かび上がることは難しいのだ。
 とはいえ独身で、若さと美貌で売り出していた当時ならばいざしらず、今は娘を育てることが大事だ。男女の駆け引きなどに労力を裂いている暇はない。
「ああ、いや、そうご自分を卑下しなくても。あなたはまだ充分お美しい」
「ありがとうございます」
 口を滑らせたことへの謝罪も入っているのだろうが、美しいと言われれば悪い気はしない。
「それで、一体わたくしの何についてお聞きになりたかったのです?」
 話題を戻すと支配人はほっとした様子でかすかに頷いた。
「彼への報酬ですよ」
「報酬ですって。報酬がいるのですか!」
 わたくしは驚いて思わず大きな声を出してしまった。そんなこと彼は一言も言わなかった。それに、思いもよらなかった。幽霊がお金を要求するなんて!
「まさか払ったことがないのですか?」
 支配人が怪訝そうな声を出す。薄暗くてよくわからないが、多分眉を寄せているのだろう。
「ええ。わたくしが彼と話をするようになったのはつい最近のことなのですもの」
 言ってからしまった、と思った。これは支配人にも言ってよかったのだろうか。彼も幽霊の声を聞いているのだろうか。手紙だけ、ということは、ないだろうか。
 だがわたくしの心配をよそに、彼は納得したように頷くだけだった。
「そうでしたか。ではきっと近々請求書が来ることでしょう。あなたは私ほど財産がおありなわけではないので、無茶苦茶な金額を提示されることはないでしょうが……」
 支配人の口ぶりにわたくしは不安になった。一体幾ら取られるのだろう。いや、問題はそこではない。この話の内容からすると、支配人は無茶苦茶な金額を幽霊に支払っていた、ということにならないか?
「参考までにお聞きしたいのですけど、ムッシュウ・ルフェーブルはどれくらいオペラ・ゴーストにお支払いをしているのです?」
 そんなことはあなたには関係ないだろうとつっぱねられるかと思ったが、支配人は悲痛そうに顔を歪め、
「ああ、それが聞いてくださいよ。毎月二万フランなのです」
「に……!」
 驚きすぎて、まともに声が出なくなった。
 毎月二万フランなら年間にすると二四万フランだ。二十四万フランもあれば、それなりに贅沢したとしても一生働かずに暮らしていける。それが毎年幽霊に対して支払われているなんて! 
 ムッシュウ・ルフェーブルはわたくしを同士だと思っているのか、それからくどくどと幽霊に対する愚痴を続けたのだが、わたくしはこの莫大な額にすっかり度肝を抜かれてしまい、まともに聞いてなどいられなかった。
 支配人で月二万フラン。ではわたくしは一体幾らになるのだろう。わたくしにはそんな財産はない。生活は苦しくはないけれど、いずれメグが結婚する時のためにと持参金を溜めているのだから、他にまわすような余裕はないのだ。
 支配人にここで会えたのはむしろ幸いだった。わたくしは性質の悪い詐欺師にひっかかっていたのだわ。
 そうよ、あれが幽霊であるものですか。前から怪しい怪しいとは思っていたけれど、どこの世界にこれだけの金子をほしがる幽霊がいるというの。やはりわたくしが睨んだとおり、彼は生きた存在なのだ。だったら対処のしようがある。こんな恐喝を行う者など、警察に相談をして……。
 そこまで考えてはたと思い当たった。
 ただの恐喝犯ならば警察に相談をすればよい。
 ではなぜ、支配人はそれをしないのだ?
 そうできない理由があるのか?
 ……そうなのだろう。そして、それを問うのは、幽霊と直接交渉を持っているのだと告白するよりも危険だと感じた。毎月二万フランを払ってでも沈黙を守っていたい類のものなのだ、ちょっとした悪事、程度では済むまい。
 立て続けに知った秘密の多さに、さすがのわたくしも気力が萎えてしまい、幽霊が来るのを待っていることができなくなってしまった。支配人はそれに気付くと気の毒そうに同情を示してきた。以前の自分を見る思いなのだそうだ。
「私がここに来たのは、今日が幽霊の給料日だからなのです。彼は当初支配人室に取りに来ていたのですが、幽霊にうろつかれるのは困りますので、彼のボックスに置くのでそちらで受け取ってほしいと頼んだのですよ。ということで、このままここで待っていれば確実に彼と鉢合わせ――姿の見えない相手でもそう言って良いのであればですがね――してしまいます。こちらから会いに行かなくても、用があれば彼の方から来ますから、今日はお帰りになった方がいいでしょう。ひどい顔色ですよ」
 支配人はわたくしが聞いてもいないことを教えてくれる。こんなに優しく誠意のある様子を見せる支配人は初めてだった。普段はもっと傲慢な人なのに。それだけ、幽霊の与えている苦痛が大きいということなのだろう。
 わたくしは彼の薦めに従った。そしてそのまままっすぐ家に帰り、食事も取らずにベッドに横になる。心配した娘が容態を聞きに来たけれど、本当のことなど、何一つ言えなかった。


 それから回復するまでは、実に三日もかかった。その間はオペラ座には出勤していない。
 一日目は破産してしまうのではないかと心配しをし通し、二日目は別のことを心配した。それというのも、支配人のように幾ら出してもかまわないほどの秘密も弱みも、わたくしは幽霊に対して持っていないことに思い当たったからだ。だからムッシュウ・ルフェーブルほどたかられたりはしないだろうと少し楽観できるようになったのだ。代わりに、何か別のことを要求されるのではないかと思ったのだが、幽霊の嗜好がいまひとつわからないわたくしにとって、予測することは難しかった。三日目になると、自分自身の愚かさ加減と野心の強さにほとほと参ってしまった。愚かだというのは、正体不明の存在の口車に乗ってしまったこと。あの幽霊はどこの誰ともわからないどころか怪しさ満点で、そんな彼に少しでも信頼を置くことがどれだけ危険か、冷静になった状態ならば簡単にわかったのだ。
 それでも、彼は非常に使える。
 支配人に対する切り札になる。
 ムッシュウ・ルフェーブル氏個人には、特別な恨みもわだかまりもない。もしもあるとしたら、それは彼がオペラ座の支配人であるということ、全体を統括するべき立場にいるということだけだ。
 全体をまとめるには現場の要望をすべて聞くわけにはいかない。それは理解できるが、だからといってこちらも簡単に諦めるわけにはいかないことだってあるのだ。
 今回の作曲家の変更にしたってそうだ。これがわたくし一人の提案であれば、実行に移されるにしても年単位で先のこととなっただろう。
 それがあの幽霊氏の口利きで、一日で済んだのだ。
 ……今後のことを考えれば、彼とは手を組んだほうが得策ではないか?
 わたくしは彼には弱みも秘密も握られていない。それでも謝礼金の一つもなしというわけにもいかないだろうから、多少の出費は覚悟しなければならないしても、上手く交渉できれば……。
 だけど、そんなことをして、無事ですむのかしら。
 何か犯罪に巻き込まれるようなことは……。
 ああ、彼の正体さえわかれば、対処のしようもあるのに、声しかわからないなんて、なんて厄介なのかしら!
 悩みに明け暮れたものの、充分に休んで気力も体力も回復したわたくしは、幽霊といつ対峙してもよいように覚悟を決め、再び出勤を始めた。
 最初にしたことは支配人室に続けざまに休んでしまったことを詫びに行くことだったが、ムッシュウ・ルフェーブルは少しも責めなかった。それどころか、無理はしなくてもよいのだとまで言った。彼は幽霊ショックから立ち直るまで、もっと時間がかかったらしい。気の毒なことだ。


 それから二日後。
 運命の日がやってきた。





ようやく続き再開です。…エリック出てないですけど。
後一回で終わりの予定。
どーにかまとめられるか!?






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