空は青く澄み渡り、風はさわやか。
 鼻歌でも歌いたい気分になるような、気持ちのよい日和。
 いつもの気分転換を兼ねた散歩、今日のコースはカプシーヌ大通り経由凱旋門行き、だ。
 一階が店舗になっている石造りの建物が左右に立ち並び、その間を広い道路が通っている。人も馬車もたくさん行き交うこの通りは、歩いているだけでもなんとなく浮き足立つような、賑やかなところだ。
 わたしの散歩は本当に歩くだけ、ということが多い。
 なにしろ一人で時間をつぶせるようなところがあまりないのだから。
 美術館や博物館は一度見て回れば十分だし、実際歩いて行ける範囲のものはすべて回りきってしまった。
 カフェやレストランなどにはエリックから入ってはいけないと言われているし。もっともカフェはともかくレストランで外食をしたら、家に帰ってから食事ができなくなるので、もとから入るつもりはないのだけど。
 他には公園でのんびりするとか、ウインドウショッピングをするくらいか。
 というわけで、選択肢はあまりないのである。
 それでも日の光を浴びるだけで劇的に気分が変わるので、散歩をするのをやめられないのだ。
 ずっと暗いところにいると、気だるいというか、なんとなく、ぼんやりした気分になってくるのよね。
 さて、シャンゼリゼ大通りをひたすら真っ直ぐ進んでゆくと、放射線状の道路の中心に聳え立つ凱旋門が見えてくる。馬車がひっきりなしに通るので、わたしはいつも歩道が途切れる直前でUターンするのだ。
 特に凱旋門に登ったりはしない。始めてこの辺りに来た時に登ったので、もう十分だと思っているから。
 帰り道は、そのまま同じ道を戻ることもあるし、別の道を行くこともある。これはその日の気分によって。
 違う道を行くのは、地図で見るだけではなくて実際に歩いてみて土地勘をつけるためという目的もある。たまに雰囲気がよくないと感じる通りもないわけではないけれど、そういう時にはすぐ引き返すし、よほど狭い道に入らない限り不穏な感じはしないのでまあ大丈夫だろうと考えている。
 今日は途中で雑貨屋さんに寄らなければいけないので、元来た道をまっすぐ戻る。
 ペン先が少なくなってきたので、新しいものを買い足さなければいけないのだ。買い物ならベルナールさんに頼めば買ってきてもらえるのだけど、この散歩の途中のちょっとした寄り道が楽しみで、自分で使う消耗品などは自分で買うようにしているのだ。
「こんにちは、ムッシュウ」
 何度か入ったことのある雑貨屋の扉を開ける。
 カウンターでなにか書き込んでいた店主が顔をあげて「やあ、お嬢さん」と返した。
 わたしの他にお客さんはいない。
「今日は何がお入用です?」
「ペン先を、そうね……一ダース分ほしいのですけど」
「はいよ、少しお待ちを」
 店主はカウンター後ろにある棚から紙箱を取り出した。
 数を数え、店主が紙袋にそれを入れている間、わたしは大きなガラスのはめ込まれている窓に目を向ける。ちょっとした張り出しのついているそこには、商品やポスターがディスプレイされていた。大きな通りに面しているので、通りかかる通行人は多い。ガラス越しで見ると、様々な色合いのドレスやリボンを身につけた女性たちは、さながら水槽の中の熱帯魚のようだ。
(あ……)
 通行人の一人が足を止め、店内の様子を眺めている。わたしの立っている位置が位置だったので、視線が合ってしまった。
 なんとなくその人の邪魔をしてしまったような気がして、わたしは窓ガラスから目をそらす。丁度商品の計算を終えた店主が値段を告げてきた。
 お金を払って商品を受け取り、店を出る。
 店の中を見ていた人はまだそこにいた。これから中に入るのかな? いや、その人が見ているのは、もしかしなくてもわたしのようだ。あからさまに顔がこっちを向いている……。
 肌の色も顔立ちも全然違うからなぁ。こういう視線に遭うと、嫌でも自分が異邦人であることを感じてしまう。
 さすがにもう、慣れたけどね。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 二日ぶりに外に出てみると、空は生憎の薄曇り。
 ちょっと残念だったけれど、雨は降らないだろうと、わたしはそのまま散歩に出かけた。
 今日はオペラ大通りを通ってチェイルリー公園へ。
 緑の多い広い庭園があるここは、隣接地にあの有名なルーブル美術館もある。
 建物自体は古いものだろうとは思っていたけれど、美術館になったのは二十世紀のことだと思い込んでいたわたしは、すでにそこが美術館となって半世紀以上経っていると知って驚いたものだ。
 そうそう、エリックがわたしの散歩を黙認するようになってからしばらくして、自分で買いたいものもあるだろうからとお小遣いをくれるようになったのは、確かわたしがそこに行ってみたい、と呟いた時からだったと思う。
 あの時はそこまでしてもらっていいのかなと思う反面、これでたまには自分で好きなお菓子が買える、とか浮かれていたんだけど、あれって、入館料のつもりでくれたのかもしれない。入館料にしてはちょっと多かったけれど。
 しかし美術館は結局、一日かかってざっと見て回っただけで終わってしまった。
 どうやらわたしには芸術品や美術品を鑑賞するためのセンスも知識もないのだろう。教科書に載っていたようなものならさすがに足を止めて魅入ったりもしたけれど、それ以外のものはさっぱりで。途中で何度エリックの解説を聞きたかったことか。彼ならば例の彼らしい毒舌で色々面白い話を聞かせてくれただろうに。……もっとも、自分の気に入らない作品には目もくれなさそうでもあるけれど。
 と、そんなルーブル美術館を横目に、わたしはてくてくと歩く。
 途中で追いかけっこをしている子供たちが追い越していくのを微笑ましい思いで見送ったり、ぴったり寄り添う恋人達を羨ましい思いで追い越していったりしながら。
(あーあ、たまにはエリックと一緒に歩きたいなぁ)
 でも彼に昼日中に一緒に歩いてくれなんて、機嫌を損ねそうで言えない。
 別にわたしは夜でもかまわないけれど、どうもパリの大きな公園って、夜には閉まるみたいなのよね……。つまんないなぁ。
 そんなことを考えながらぶらぶら歩いていると、向こうの方から見覚えのある人がこちらに向かって歩いてくる。
 向こうもこちらに気がついたようで、ゆっくりした足取りだったのが、少し早足になった。
「やあさん」
「こんにちは、カーンさん。お久しぶりですね」
 カーンさんはひょいと帽子をあげると、にこやかに笑った。
「体調はいかがです? なにか不自由なことはありませんか?」
「大丈夫ですよ。何も問題はありませんから」
 わたしも笑って答えた。
 カーンさんはエリックの古い友人で――知人だ、とエリックは頑なに言うけれど――その分エリックの過去もよく知っている。そのせいかちょっと心配しすぎではないかというくらいの関心をわたしに向けてくる。
 エリックが何かひどいことをしていないか、悪い事をしていないかを常に把握することで、彼に対して牽制をするのが狙いなのだそうだ。
 だけどわたしに関しては、その心配は無用というものだろう。本当に何か問題があるのなら、ほけほけと散歩に出てこられるわけがないのだから。
「彼はどうしています?」
「昨夜から作曲モードに入ってしまって、例によって徹夜です。わたしが家を出た時にはまだオルガンの前でした。今度はいつ終わるのだか……」
 エリックが何かに没頭するときは、いつも唐突だ。五分前まで普通に話をしていたのに、気づくと意識が別世界へ飛んでいるということは珍しくない。何か書き込んだり、よくわからない身振りをしたりと、動きがないわけではないのだが、視線が一点で固まっているので思考の海に沈みこんでいるのがわかるのだ。
 こうなるとわたしの声なんて届かない。エリック一人の世界になってしまう。
 そういう人だと、それなりに長いといえる付き合いの中でわたしも学んだし、『オペラ座の怪人』として活動するよりは他人に迷惑をかけないのだからと、好きなだけ没頭させてあげることにしている。放っておかれるのは寂しくないわけじゃないけれど、わたしだってエリックが内心良く思っていないだろう散歩を続けているのだから、お互い様だ。
 カーンさんと世間話などをしながら、庭園をゆっくりと歩く。
 この人の家は、チェイルリー公園に程近いところにあるアパルトマンなので、こうして遭遇することがたまにあるのだ。普段はまったくの一人歩きなので、会話の相手がいるのがとても嬉しい。
 特にわたしの同居人のことを知っているという点で、気分が楽なのだ。なにも隠す必要がないからね。
 オペラ座のことや話題のニュース、それにエリックのことなどを取り留めなく話していると、あっという間に時間が過ぎる。
 太陽が西に傾き、薄曇りの空に夜の気配が混じってきた。
 遅くならないうちに帰らないと、というわたしに、入り口まで送りますよとカーンさん。
 遠回りになってしまうからと断ったのだけど、どのみち今夜はオペラ座に行く予定なので気にするなと返ってくる。
 カーンさんもエリックに負けず劣らずオペラ座に出入りしているのよね。エリックが主に隠し通路を使うのに対して、このひとは堂々と関係者用通用門から入ってくるけれど。
 本当の関係者の人たちもそんなカーンさんにすっかり慣れてしまったようで、楽屋付近を彼がうろついていても、もう誰も注意しないのだそうだ。
 彼は故国では王族の一人だったとかで、そういう身分の問題もあるのだろうけれど、なんというか、オペラ座のセキュリティに一抹の不安を感じるのは、大きなお世話……であると思いたい。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 エリックの作曲モードは今回は短く、二十時間ほどで終了した。できあがった曲は珍しくアップテンポで陽気な感じ。
 譜面を見るとずらりと並んだおたまじゃくしが、おいかけっこをしているようだった。
 歌詞はないの? とわたしが問うと、お前が歌ってくれるならつけるよ、という答え。
 からかっているのかと思ったけれど、彼はいたって真面目な顔で……。ううむ。
 歌うのは嫌いじゃない。カラオケとか、よく行っていたし。
 でもエリックの前で歌うのは、ちょっと抵抗があるのだ。
 だって、すごく上手なんだもの。彼に比べたらわたしの歌など歌とすら呼べないしろものだ。エリックは気にする事はない、とは言うけれど、それで気にしなくなるほどわたしも単純じゃない。
 それで歌は勘弁してほしいと伝えると、彼はちょっと残念そうな表情になった。
(やっぱり歌うって言えば良かったかなぁ。別に舞台に立って大勢の前で披露するとかじゃないんだし。……でも大勢の観客よりもエリック一人の前で歌う方がよっぽどプレッシャーがかかるような気がしないでもないし)
 気兼ねと気後れから断ってしまったけれど、彼を喜ばせるためだけでも、引き受ければよかったかもしれない。
 どう頑張ったって、エリックに並べるほど上手になるはずもないけれど、なにもしないでいるよりは上達するだろうし。わたしがたいして歌えるわけでもないということを理解している上で、彼だって申し出ているんだし、ね。
 ……でも、恥ずかしいものは恥ずかしいんだ。
 そんなエリックは作曲モードが解けると、さすがに疲労したらしく軽く食事を取って現在は就寝中。
 残されたわたしは、まだ外が明るいからと散歩に出かけた。
 そういえば今日は毎月買っている雑誌の発売日だったということを思い出し、本屋によってから公園へ向かう。
 本日の目的地はチェイルリーよりも静かなモンソーだ。
 木陰の下、ベンチに座ってページをめくる。
 軽やかな鳥のさえずりをBGMに、わたしは記事を読みふけった。
 さすがに周囲が明るいので、カラーページの色合いがよくわかる。家だとどうしても暗いから、実際の色と異なって見えてしまうのだ。それに、ずっと暗いところで本を読んでいると、目が悪くなりそうで……。
 とはいえ、家でなら好きなときにお茶を飲んだりお菓子を食べたりしながら読むこともできるので、家でも読書をすることは、やめられないんだけど。
 半分ほど読み終えたところで、強張った身体をほぐそうと、座ったまま伸びをした。
 ぐん、と背を伸ばし、ふと周囲を見渡すと、
(あれ……?)
 なんだか、見覚えのある人がいるなぁ。
 とはいえ、友人でも知人でもない。
 文字通り『見た覚えがある』だけの人だ。
 年のころは四十を過ぎたくらいだろうか。背は低めで体型は太め。
 身なりはよいけど、なんというのだろうか、微妙にセンスが悪い感じがする。色の組み合わせのせいだろうか。
 着ているものなんて、この時代の男の人はどれも似通ったようなものだけど、見比べてみるとやっぱり差が出てくるのよね。
 わたしの場合はエリックが男性の基準になってしまっているので、世間一般のフランス人男性のことはよくわからない。
 だけどこの人は、体型のせいもあるだろうが、動きが鈍くて、なのに鳩みたいに胸をそらして歩いているから、どこか滑稽だ。
(あ、やば……)
 相手の男と目が合う。
 前にもあったシチュエーションだ。
 そう、たしかあれは数日前の散歩の途中の、雑貨屋に寄った時のことだ。
 わたしの記憶が確かなら、あの時通りから店の中を見ていた男の人なはず。
 向こうもわたしのことを思い出しただろうか。東洋人の女なんて、さすがのパリでも何人も見かけるわけじゃないもの。
 まあいいや。別に知っている人というわけでもないし。
 パリ中心部に住んでいる人ならば、偶然出くわすということだってあるだろう。この人の場合、わたしが覚えていたので気がついたけれど、そうでないまますれ違っている人だって何人もいるに違いない。
(さてと、続き読もう)
 わたしは開いたままの雑誌を取り上げると、読書を再開した。
 だけど、今度はなかなか集中できない。
 なぜかというと、さっきの男の人がちょうど目の端に見えるあたりをちらちら動いて邪魔だったからだ。
 なんなんだろう、あの人。同じところばっかりうろうろして。
 どこか別のところに行ってくれないかなぁ。誰かと待ち合わせ中だろうか。このページを読み終わってもいなくならなかったら、わたしが別のベンチに移動しようかな。
 もしかしたら、このベンチで待ち合わせ、とかかもしれないしね。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 問題が発生したかもしれない。
 確証はまだ、ないんだけど。
 例の男の人がどうやらわたしの後をつけてきているみたいなのだ。
 あのあと、ベンチ移動を決行したのだが、わたしが立ち上がるとその人は足を止め、わたしが歩き出すと距離を保ちながら同じ方向へ歩くのだ。
 自意識過剰かもしれないが、正直言って気持ちが悪い。
 なのでもう帰ろうと、わたしは公園を出た。
 極力後ろに人などいないと言い聞かせつつ、まっすぐ帰途につく。
 それでも細い通りには一切入らず、人通りの多い道を選んで。
 しかし好奇心には勝てず、道を曲がるたびにさりげなく振り返り、その度に後悔した。
 ついてきている。
 ついてきている。
 間違いなくついてきている。
 オペラ座界隈にはたくさんの店がある。そのどこかが目的なのかもしれない。わたしと同時期に公園を出たのも、ただの偶然かもしれない。
 だがその偶然が何度も続けば、気づいた方はもうひたすら怖いだけなのだ。
 おまけにわたしには、他人には語れない秘密がある。わたしがオペラ座の地下に住んでいることを、そしてファントムがそこにいることを、知られるわけにはいかない。
 このまままっすぐスクリブ街の入り口に戻るのは危険だと、わたしはオペラ座の関係者通用門に向かった。門番のおかみさんにチップを渡して中に入る。マダム・ジリーはまだ来ていないと言われたが、部屋で待たせてもらうからと、そのまま楽屋の立ち並ぶ一角へ。
 周囲に誰もいないことを確認すると、マダムの部屋には寄らずにエリックの隠し通路がある楽屋へと入った。
 そこから暗い通路へ出ると、思わず安堵のため息がもれる。
 あの人、なんだったのかなぁ。
 全然そんな雰囲気じゃなかったけれど、警察とかで、身元不審の東洋人の調査をしているとか?
 あるいは、やっぱりそうは見えなかったけど、事件記者かなにかで、カーンさんみたくオペラ座の怪人のことを調べていて、そこからわたしのことに気付いたとか?
 あと可能性としては……これが一番気楽といえば気楽だし、ありえないとは思うものの……ただナンパしようとしていただけの人、とか。
 結構年がいっている人だったし、そういう人がナンパするというイメージがないのだけど、なにしろここはフランスだからなぁ。絶対違うとはいいきれまい。
 まあ、事件性がなければなんだっていいんだけど。
 エリックに相談したほうがいいのだろうか。
 でも、たまたまだったかもしれないし。
 うーん、うーん。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 結局エリックには何も言わなかった。
 ストーカーであると決まったわけではないし、無闇に人を疑うようなことはしたくない。
 たまたま、偶然が重なっただけかもしれないからね。
 ということで、今日は実験をしてみることにした。
 あの人がわたしの後をつけているのだとしたら、高確率で今日もどこかで会うことになるだろう。わたしの散歩コースは毎日決まっているわけではないけれど、頻繁に使う道というのはある。
 その中でも利用頻度が高い、オペラ大通り発チェイルリー公園経由カプシーヌ大通り周りで行くことにした。あの人のことを最初に認識したのも、カプシーヌ大通りだったしね。
 立ち並ぶ商店のショーウインドウを眺めるふりをしながら、わたしはいつも以上にゆっくり歩いた。
 後から後から追い越されてゆくが、わたしのようにウインドウショッピングを楽しんでいる女性たちもわりといる。お陰で変に目立つことはないだろう。
 ショーウインドウには、ディスプレイの一つとして鏡を使っているところも多い。
 その鏡越しに背後を観察すれば、頻繁に振り返らずとも追跡者がいれば気づけるという寸法だ。
 何事もなければ良いと思いながらも、疑心暗鬼になっている自分がいることに気づく。
 歩きかた、ぎくしゃくしていないといいけれど。
 今日はチェイルリー公園には入らず、その脇に伸びているリヴォリ通りを通った。コンコルド広場を抜け、ロワイヤル通りに入る。その通りからは真っ直ぐにマドレーヌ寺院が聳えて見えた。
 道程は三分の二を過ぎたが、油断はできない。これから問題のカプシーヌ大通りに入るのだから。
 と。
(あっ……!)
 心の中でわたしは叫ぶ。
 いた。
 あの人、いたよ!
 ちょうど向こうから例のひとがこっちに向かって歩いてきた。向こうは絶対わたしを個別認識している。あからさまに息を飲んでたもの。
 いや、でも、落ち着いて。
 向こうから来たということは、わたしのことをつけているわけではないのよ。このまますれ違えばそれで終わりなんだもの。
 やっぱりあの人、わたし同様、オペラ座周辺をよく歩き回っているだけなのよ。うん。
 わたしはドキドキしながらも、その人とすれ違った。
 その人が見えなくなって十数メートルほど歩いてから、ちらりと後ろを振り返る。
 これでもう安心、大丈夫。そう思うだろうと思っていたのに、今度はわたしが息を飲むことになった。
(ついてきてる……!)
 振り返ったわたしに、その人は足を止める。
 わたしは顔を前に向けると、唇をかみ締めて早足で歩いた。
 なんだかわからないが、多分、やばい。
 君子危うきに近寄らず。
 別にわたしは君子じゃないけど、危険は避けるに限る。
 カーンさんのときみたく、実はエリックのことを知っている人でした、というオチだったらいいのだけど、多分違う。もし他にもエリックの知人さんがいるのなら、エリックが言わなくてもマダム・ジリーかベルナールさんかカーンさんあたりが教えてくれると思うもの。いくらなんでも、もう仲間はずれはないでしょう? そうであってほしい。
 わたしは嫌な汗をかきつつ、オペラ座の通用門を通り抜けた。
 当分は家で大人しくして、散歩に出るのは、やめよう……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 実はエリックの関係者でした、というオチではないことを確認するため、昼間にあったことは伏せて彼に『エリックのことを知っている人で、もしわたしの存在を知ったら挨拶の一つもしようと思いそうな人はいるか』ということを聞いてみた。
 エリックはなんでそんなことを知りたがるのかと、怪訝そうにしていたけれど、深く追求することなく答えてくれた。
 そういう人物はもう一人しかいないと彼は言った。そして彼があげた名前を聞いて、わたしもすぐに思い出す。
 シャルル・ガルニエ。
 エリックとともにオペラ座を作り上げた人だ。
 写真かなにか、顔のわかるものがないかと訊ねると、建築雑誌のバックナンバーを持ってきてくれて、そこに載っている写真を見せてくれた。
 それで、例の人がエリックの関係者ではないことが確定する。
 顔も体型も全然違うのだ。
 じゃあ、何者? 何の目的で後をつけるの?
 疑問は消えないけれど、今の生活を危険にさらさないことの方が重要だ。下手に接触してとりかえしのつかないことになったら大変なことになる。
(エリックに相談した方がいいのかなぁ)
 でもそのためには一度はエリックもわたしと一緒に散歩コースを回らないといけなくなるのよねぇ。あの人がいつでもカプシーヌ大通りにいるとは限らないんだもの。
 それに……エリックに話したら話したで、外出禁止令を出されるかもしれないし。わたしだって自重するつもりでいるけれど、彼の場合とことんまでやりそうだからなぁ。軟禁状態はさすがに勘弁してほしいわ。


 それから一週間。


 久々に地上に出ると、明るい日差しと流れる空気に身も心も洗われる思いがした。
(お家でまったりもいいけど、やっぱりたまには外に出ないとね)
 とはいえ、この間のことは忘れてはいない。
 当面はいつも使う道は避けて、あまり行かないラファイエット通り方面を歩くつもりだ。
 たかが一週間、されど一週間。ずっと家の中にいたので、すっかり運動不足になっていたらしく、今までだったら気にならない程度の距離を歩いただけなのに、足がかなり痛くなってしまった。
 こういうのって、やっぱり継続するのが大事よね。
 などと思いながら帰途につく。ショセ・ダンタン通りとの交差点に差し掛かり、さてこのまま曲がろうか、それとももう一本先に行こうかと迷っていると、向こう――オスマン大通り――の方から、見覚えのある人が。
 その人はもうとっくにわたしに気がついていたらしく、走るのを堪えるように、でもできる限りの速さでこちらに向かおうと大股で近付いてきていた。
 こうなると、どんな内容かはともかく、あのひとの狙いがわたしにあるのはもう、間違いようのないことだろう。
 しょうがない、腹を括るか。
 これだけ周囲に人がいるなら、少なくとも誘拐される恐れだけはないだろう。
 ため息交じりで足を止めると、問題のひとが息を切らせながらわたしの前に立った。
「はじめまして、お嬢さん」
「……はじめまして」
 その人は真っ赤な顔で――照れているのではなく、足を早く動かしすぎたのだろう。あまり運動するのに向いている体型ではない人だから――笑いながら声をかけてきた。
 わたしはというと、怖い思いもした相手だからということで、あえて微笑んだりもしない。
 その人はそんなわたしの態度に鼻白んだようだったが、気を取り直したようにべらべらとしゃべりだした。
 しかし。
 自分が見ていたことに気づいていただろう、とか。
 悪い話ではないんだ、とか。
 とにかく回りくどいので、わたしは単刀直入に言ってくれないかと頼んだ。
 すると彼は咳払いを一つすると、わたしに『条件』を提示する。
 なるほど、わたしの予想はあながち外れてはいなかった。
 一応は、第三予想であるナンパ男のカテゴリに入るのだろう。
 が、はっきり言おう。ただのナンパだったほうがましだった。

 その人は、くどき文句もそこそこに、値段の話をし始めたのだ。

 最初は呆然としたものの、だんだん腹が立ってきて、なれなれしくわたしの手をにぎりだしたのをきっかけに、そいつの足をこれでもかというほど体重をかけて踏んづけてやった。
 外国人っぽく、「おうっ!」とか言いながら飛び跳ねたので、その隙にダッシュで逃げる。
 せっかく綺麗に結い上げた髪が崩れてきたが、かまうものか。
 なによ、なによ、なによ……! 失礼にもほどがあるってもんじゃない!?

 誰があんたなんかの愛人になるもんか……!






日常その25−1でカノジョがマダムの部屋に飛び込む羽目になった理由が、これです。




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