時刻は昼を過ぎていただろう。
 寝起きに時計などいちいち見はしないので、細かいことはわからん。
 だが、居間に入った時にがいなかったので、彼女の散歩時間にあたる頃合だろうと推測したのだ。
 まったく、私も変わったな。
 以前の私ならば、地上へ赴いた彼女が私や地下での暮らしに嫌気がさしていつか戻ってこなくなるのではないかと気が気ではなかったが、今の私はいつものことだと軽く受け流している。
 心配していないわけではない。
 いや、それどころか、不安のあまりに彼女がどこへ行っているのかベルナールに調べさせたくらいだ。尾行ならば私の方が上手いのだが、なにしろ昼間のパリ市内だ。オペラ座の中を動き回るのとは訳が違う。
 そして彼女が、バリエーションはいくつかあれど、さして広くない範囲を本当にただ散歩しているだけだということがわかったので、詮索をするのをやめたのだ。
 このことはには言わない方が良いだろうと、ずっと黙っていた。だいたいこの調査は彼女と婚約する前のことで……つまり、彼女が私を好いている以上、私に嫌気がさして戻ってこないという可能性は潰れたと考えられるからだ。
 それでも長年の間に染み付いてきた感覚というものは生半可なことでは消えないのだろう。人気がなく静まり返った部屋に一人でいると、という存在は幻で、私には可愛い婚約者などおらず、ただ一人地下の寂しい牢獄で孤独に朽ち果ててゆくだけなのだ、と思えてしまうことが多々あるのだ。
 ああ、だが、そんなことにはならない。
 彼女の存在は夢ではない。
 目覚めると同時に掻き消えてしまう儚いものではないのだ。
 私に向かって明るく微笑み、臆することなく話しかけてくる。時には優しい抱擁を、時には柔らかなキスを与えてくれる。
 そんな彼女に対して、私は狭量な恋人でありたくはない。
 一日一度の気分転換、それもほぼ定刻が決まっていることに対してまでうるさくしては、彼女も気詰まりになるだけだろう。
 そして世間一般的な恋人同士というものは、普通は一緒に暮らしてはいない。それに対して私は愛しい女性とすでにこうして同じ屋根の下にいるのだから、恵まれているといえる。
 そうだとも、私だってこの屋敷だって、少し世間の毛色とは違うだけなのだ。
 私のような顔の男にも恋人はできるし、太陽から見捨てられた哀れな屋敷でも、暖かい家庭を築けないわけではないのだ。
 私は普通になりたいのだ。
 当たり前の幸せがほしいだけなのだ。
 彼女と共にあるのならばきっとそれは得られるだろう……。
 そうはいうものの、の姿が見えないと寂しいと思うことには変わりはなく、戻ってくるまで何をしようかなどと考えながら、とりあえずコーヒーでも淹れるかとキッチンへ行った。
 キッチンへ行くには食堂を通り抜ける必要がある。そこで食堂へ通じる扉を開け、驚いた私は足を止めた。
 がいたのだ。
 中には明りが灯され、テーブルは食器ではないもので埋め尽くされている。
 彼女は扉から丁度背を向けるように座っており、何やら作業をしているようだった。
 珍しいこともあるものだ。
 時折彼女は手芸をすることがあるが、その作業は居間でやるのが常だ。わざわざ食堂でするなど……。まあ、テーブルに載っているものをみれば、ここでないと作業ができないのだろうということはわかるが。
 テーブルには切り分けられた布と紙がパーツごとにまとめられている。それに端切れや広げられた雑誌に裁縫箱。そこに置かれているものすべてが、彼女が何らかの衣服を作っていることを示している。それにしても彼女はどちらかというと大人しい色や柄のものを好む傾向が強かったが、この布地は大人しいなんてものじゃないな。
 まさかこんな布でドレスを縫う気か? いや、ドレスでなくても、たとえば化粧着や寝巻きだとしても、彼女には似合いそうもない。まったく、布地がほしいのならば私に相談してくれれば、彼女に似合う最高の絹地を用意しただろうに……。
 私がを観察している間も、彼女は黙々と作業を続けていた。熱中しすぎて、私に気がついていないらしい。いつもとは逆だなと思いつつも、せっかくなので邪魔をしないでおこうと、そっと雑誌に手を伸ばした。
 途端、彼女の肩がびくりと強張り、はっとしたような表情を浮かべて顔をあげた。
「おや、すまない。邪魔をする気はなかったのだが」
 おそらく雑誌に完成予想図が描いているだろうから、それをちょっとみてみたいと思っただけなのだ。
「エ、エリック! ……あっ」
 しかし彼女は妙に慌てたように私の手から雑誌を取り上げた。
「見ちゃダメー!」
「おっと」
 あまりの勢いに思わず手から雑誌が落ちる。は顔を赤くしながら落ちた雑誌の上に両手を広げた。まるで、私の目から隠そうとするかのように。
「……見た?」
「ああ、見えた」
 見えたが、なぜそこで頭を抱えて突っ伏すのかわからない。そうまでして隠すようなことでもないと思うのだが。
「ガウンのようだな。もしかして、私に?」
 は雑誌を抱きしめると困惑した様子を示して一層赤くなる。開いていたページに記載されていたのは、男性用のガウンの作り方だったのだ。
 そしてそれを作る理由も彼女にはあることを、私は思い出した。
 彼女はつい先日、メグ・ジリー、クリスティーヌ・ダーエと共にデパートにでかけたのだ。そしてその折に彼女が私用のガウンの布地を購入したとベルナールから報告を受けている。とはいえ彼女自身の口からはまだ聞いていなかったのだ。帰ってきたときには商品の包み一つ持っていなかったし、ベルナールからの報告は翌日届けられたので聞きそびれてしまったということもある。今にして思えば、ガウンを作れるだけの布地が彼女の小さなバッグに入るわけはないのだから、いったんどこかに隠しておいて、私がいない時に持ち込んだのだろう。
 しかし、さっぱりわからない点が一つある。それは。
? どうして隠すんだい? なにか私に知られると困る事でもあるのか?」
ということだ。
 は恨めしげに私を見上げると、小さくため息をつく。
「だって、わたし、お裁縫ってそんなに上手じゃないんだもの」
「そうなのか?」
 しかし彼女は私のパジャマを羨ましがって、売っていないのならば自分で作ると宣言し、見事着替え分を含めて二組を作ったはずだが。それに、そうしょっちゅうするわけではないが、刺繍をしたりもする。
 私がそう言うと彼女は、
「だってこれ、エリックのだもん。自分用なら多少縫い目がガタガタだって全然平気だけど、エリックはそういうの気にするじゃない。身につけるのはどれも一流のお店で作ったものばかりなんだもの。とってもじゃないけどあなたにあげることを前提で作るなんて無理よ!」
 どういう理屈だ、それは。しかし私はそんなに融通の利かない男だと思われ……ているのだろうな、つまり。
「エリック、昨日も一昨日もあんまり寝てないみたいだから、今日はきっと夕方まで寝室から出てこないと思っていたのに……」
 はしょんぼりと肩を落とす。
 食堂はいつ誰が入るかわからないところだ。私など生活が不規則なので、特にそうだ。
 そういう所で作業をしていていたのだからこうなることくらい予想できそうなものだが、あまりにも彼女がしょげているのでなんだか悪いことをしてしまったような気がする。しかし私が余計に気にかけていたのは別のことだった。
「私にあげるのが前提でなかったら、これは出来上がったらどうするんだ?」
 まさか他の男――たとえばベルナールとか――にあげるのではあるまいな?
「出来上がり次第だけど、あまりにも出来が悪かったら練習用ってことにして、何度かバラして縫い直してみようかと思っていたんだけど……」
「思っていたんだけど?」
「予想外に縫う分量が多くって、途中で飽きるかもしれないな……なんて」
 そっと視線をそらして小声で呟く。
「ふむ、そうか」
 他の誰かの手に渡るわけではないとわかっただけで、一気に安心する。
 私は何気なく布地を手に取ると、検分した。
 色や模様は、私が身につけるものだと考えればそれほどおかしなものではない。しかしベルナールの話通り、普段私が着用しているガウンの布質と比べると一段落ちる感じがする。手触りがやや荒いのだ。彼女が私のために選んだという看過できない理由がなければ、即効私の目の届かないところにやっていたことだろう。
 しかし、繰り返すが、これはが私のために選んだのだ。
「できあがりが楽しみだ。無理はしない程度に頑張りなさい」
「……でも、上手くできるかどうか、わからないよ?」
 期待が重荷に感じるのか、彼女は不安そうに顔をしかめる。
「そんなに卑下することはない。お前が作ってくれるんだ、着ないわけがないだろう?」
「……本当? なら、頑張る」
「嬉しいよ、。ところで、もう昼過ぎだがおはようの挨拶をしてもいいかな?」
 言うと、彼女はにっこりと笑って頷いた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 それからというもの、はもう私に隠しても仕方がないと開き直ったようで、堂々と居間で作業をするようになった。
 というよりも、最初の日に食堂を使っていたのは我が家にある一番大きなテーブルがそれだったためなのだ。もし私があの日、彼女を見つけていなかったら、あの日以降は部屋に閉じこもって作業を進めるつもりだったらしい。
 そんなことになっていたら、きっと私は理由がわからない彼女の沈黙にやきもきしていたことだろう。
 偶然とはいえ、早く起きてよかった。
 布を裁断してしまえば、あとは居間にある小さなテーブルでも作業することはできる。
 このところ、私は毎日起きるとソファにゆったりと腰掛けて、真剣な表情で針を進めている彼女に出くわすのだ。
 そして私に気がつくと、手を休めて微笑む。
 ずっと縫い目を見つめているのは目が疲れるのだろう、その時にパチパチと瞬きをすることが多いのだが、それがとても可愛らしい。
 それからまた、作業を再開する。
 作業中はいつもより会話が少なくなるが、気にならなかった。
 むしろそんな彼女をずっと見ていたくて、私はこのところ昼間にオペラ座を訪問することを控えるようになっていたほどだ。
 公演のある夜には出かけているのだし、少しの間ファントムが出没しなかろうとも、オペラ座に染み付いた彼への恐怖は簡単に消えはしない。
 私は彼女の向かいに座って、書物を繰ったり思いついた物事をメモしたりしながら――時にはそのようなことをしているフリをしながら――針仕事をしている彼女を見守っていた。
 疲れてくると作業をする手を止めて首を回したりしながら部屋の中を歩き出すので、ならば私も気分転換を手伝おうと彼女をダンスに誘うこともある。
 馬鹿馬鹿しい戯れ歌や軽めの流行歌などを私が口ずさみながら早めのステップを踏むと、だんだん気分が高揚してきて最後には二人とも声をあげて笑うのだ。
 ああ、なんて素晴らしい。
 これが理想の夫婦像というものではないか?
 私たちはやはり、出会うべくして出会ったのだ。
 あとは神と法の前で正式に婚姻の契りを結ぶだけ。例の公使館の件が落ち着いたらすぐにでも実行しなければ。どうせあちらから色よい返答などくるはずはないのだから、それ以外の方法を考えることも忘れてはならない。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 しばらく経ったある晩のことだ。
 その日は公演があったので、夕食をとったあと、私はオペラ座へ向かった。
 舞台の出来はそこそこといったところだが、しかしそれ以上に観客を面白がらせていたのは、最近入ったソプラノの娘だった。
 この娘は大舞台に立つことが己の天分だと信じ込んでいる者にはよく見られるような自信家で、長い間第一ソプラノとしてオペラ座に君臨していたカルロッタに露骨に喧嘩を売るような真似をするのだ。
 カルロッタ以上に目立とうと声を張り上げ、技巧を見せびらかし、客席に向かって媚を売る。
 新人が早く観客に認めてもらおうとこのような振る舞いをすることは珍しいことではない。しかしこの女の場合はやりすぎだ。新人ならば腹の中ではどう思っていようと、多少は先達を持ち上げておくものだが、この女――ジェルソミーナという名だ――はよほど己に自信があるのか、はなからカルロッタを馬鹿にしているきらいがある。
 無論カルロッタもぽっと出に煽られて黙っているほど冷静な女ではない。
 公演の前には大勢の取り巻きに自分の出番の時のみに大歓声をあげるよう要請し、新人には拍手も送らないようにすることはもちろんのこと、支配人に対してはより自分の出番が多い演目をするように圧力をかける。
 この二人の女は廊下ですれ違っても目を合わせないが、しかし互いに悪口が相手の耳に必ず入るようにしているという。
 見た目は正反対。
 肉体美を誇り、顔立ちが派手なカルロッタと、あまりメリハリのないスタイルをしているが、清楚な美貌を持つジェルソミーナ。
 野次馬たちはそれぞれカルロッタ派とジェルソミーナ派にわかれていがみ合い、そして連中に焚き付けられて、さらに二人は敵対心を燃やすという連鎖が続いていた。
 閉演した後、何か面白い話でも聞けないかと、私はこの二人の楽屋を訊ねて回った。もちろん、通常の者は知らない場所からだ。
 カルロッタはひとしきり取り巻きたちにちやほやされると、女王のように顎をあげてさっさと楽屋を出てしまった。話の様子から、レストランに移動してジェルソミーナをこきおろしつつ、どうにかしてスキャンダルでもでっち上げられないか、画策するつもりらしい。
 せいぜい頑張るがいいと心にもない激励を口には出さずに送り、次はジェルソミーナの楽屋に向かう。
 コーラス程度ならばともかく、歌姫ともなると、その楽屋は金持ちのサロンと同じようなしつらえになっている。
 豪華な家具と装飾を凝らした室内、続きの間には化粧室や衣装部屋がある。有力なパトロンとなると、開演前や終演後にそこへ行き、着替える歌姫と談笑することもできるのだ。
 ジェルソミーナのサロンをそっと覗くと、十数人の夜会服姿の男たちが、葉巻をくゆらせながら思い思いにくつろいでいた。
 すでに一杯やったと思われる赤い顔もいくつか見られる。
 ジェルソミーナの姿は見えない。化粧室にでもいるのだろうか。
 拍子抜けしながらも私は耳を済ませた。
 いや、そんなことをするまでもなく、男達の下品な会話がすでに私の耳に届いているのだ。
 話題はほとんど女たちのことだ。コーラスやカドリーユはもちろん、客として訪れた令嬢令夫人に対する評価も聞こえる。
 ジェルソミーナがいないせいか、彼らの口からは極端なカルロッタの悪口は聞こえない。意外な思いを感じたが、男たちにとってはそんなものなのだろう。
 相対するものがいなければ、ムキになる必要もないということだ。
 男たちの話題がイタリア座の新しいコーラスに移る。足の形が綺麗だの、指が細くて長いだの、髪にはもっと艶があったほうがいいだの、よくもまあ飽きないで女の話題ばかりを続けられるものだと思った。
 しかしジェルソミーナがなかなか戻ってこないので、一度支配人室に行って時間を潰そうかと踵を返しかけたとき、私の耳に聞き捨てできないことが飛び込んできたのだ。
「新しいコーラスといえば……時折東洋系の子を楽屋付近で見かけるんだが、あの子もそうなのかな?」
 のことだ。
 ぎくりして私は足を止める。
 別の男が答えた。
「ああ、私も見たことがあるよ。メグ・ジリーと仲が良い感じだったから彼女に聞いたんだが、マダム・ジリーの知人の娘らしい。母親がいないので、相談事などに乗っているんだそうだ」
 散歩の帰りなどに彼女はたまにマダム・ジリーのところへ立ち寄っているという。おそらくそうした折に見かけられているのだろう。
 暇な定期会員の中には、開演のずっと前からオペラ座で時間を潰す奴もいる。そういった連中に目をつけられる可能性がない、とは思わなかったが……。
「じゃあコーラスではなくバレエなのか? ここの舞台にあがる? 東洋人が?」
「さあね。メグ・ジリーはそういった予定があるとは聞いていないと言っていたけど」
 よし、よく言った。メグ・ジリー。
 この手の男どもときたら、デビュー前のバレエ学校の生徒まで青田買いをしに来る事もあるのだ。余計な期待など与えないに限る。
 だいたい、同じ顔の女がいたとすると、道ですれちがっただけなら特に関心も持たないくせに、舞台にあがったとするとそれだけで燃え上がるのが奴らの常だ。要するに、他人に対して自慢のできる女がほしいだけなのだろう。なんという俗物どもだ。
「でも、本人と話したわけじゃないんだろ? マダム・ジリーにだけ舞台に立てるかどうか、打診しているかもしれないじゃないか」
「どのみちバレエはありえないね。ここじゃあバレエ学校の卒業生でない限り舞台には立てない。よほどの大物なら話は別だろうが」
「そうだろうな。まあ、僕としては舞台に立つかどうかはどうでもいいんだけどね」
「ほう?」
 二十代後半くらいの、いかにも苦労知らずという男が意味深に笑った。
「東洋の女はただ一人の男に尽くすというからね。未亡人になっても再婚せずにずっと操を守り通すというじゃないか。そういう女なら浮気する心配もないだろう」
「ああ、君のところのロールは根っからの男好きだからな。君以外の男を咥えた数の方が多いんだっけ?」
「別に僕はロールのことなんて言ってないさ。彼女が自由を好んでいることは理解しているけれどね」
 ……こういう、下世話な会話の中に私の大切なものが混ざるというのは大変に不愉快なものだな。怪人の鉄槌でも降らしてやろうか。
 しかし、おそらく私が把握しきっていないだけでこのような会話が他でもすでにあり、そしてこれからも起こるのだろう。
 そいつらにいちいち罰を下していてはオペラ座の会員が極端に減ってしまうかもしれない。
 腹は立つが、ここは見逃すべきか?
 外を散歩するくらいならオペラ座の中を歩く方が安心できる、と思っていた。
 こういったことが起きる可能性を予想していなかったとはいわないが、私の庭の中で起きたことならば、私にはなんとかすることができる。外へ出て、どこの誰とも知れない男に危ない目に合わせられるよりもずっとましなのだと。
 だがその考えは改めるべきかもしれない。
 私が思案している間も、男はぺらぺらと喋り続けていた。
「そして僕だって自由な方が好きさ。ロールには最近うんざりしてきちゃってね。口数が多いだろ、彼女。東洋の女は大人しいというし、まだ抱いたことがないから一度試してみてもいいかな」
「マダム・ジリーが何ていうかな。彼女は厳しいぜ」
「文句なんてないようにしてみせるさ。どんな素性の女であるにしろ、侍女もつけずにここに出入りしている女なんだから、たかが知れてる。難しい話なんかじゃないよ」
「しかしなぁ……」
 途中から耳が音を拾わなくなった。
 衝撃の余り頭を殴られてしまったような感覚がし、焼け付くような怒りに支配される。
 気がついたら私はジェルソミーナの楽屋を離れ、地下へとつながる階段の踊り場にたたずんでいた。
 このままあの場にいたら、あそこにいた男共を全員殺していただろう。
 しかし今日は大勢の人間を一気に殺せるほどの準備はできていない。下手に打って出ては捕らえられる恐れもある。
 激憤にかられながらも、長い間隠れ潜む生活をしていた私の本能が、とっさに危険を回避したのか。しかし、愛する女の名誉も守ってやれないとは、なんと情けない男だ……。
 ああ、しかし、あの男。にやけた顔で、誠実などかけらも持ち合わせていない口で、よくもを汚したな! 
 お前だけは許さない。この報いは必ず受けさせてやる……!
 ゆらり、と黒い炎が宿るのを感じた。
 どうやってあの男を追い込んでやろうか、帰り道の長い階段を一歩一歩踏みしめながら、私は考えを巡らせていった。







なんだか途中の展開がどこかで見たような感じ……とか思ったら思い出した。
沈んだ歌姫ですね。さあ、沈むのはどっちだ!?(いえ、ロッタとミーナの争いは本編には絡まないんですけど/汗)
ついでにエリックを激怒させた男も、多分本編にはあまり絡まない……。





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