家へ戻ると、当然ながらはすでに就寝しており、居間の明りは最小限まで落とされていた。
 まっすぐにキャビネットへ向かうと、ブランデーを瓶ごと呷る。
 強いアルコールに喉が焼ける感覚がしたが、この程度では私の苦悩は鎮まりそうになかった。
 瓶を置いて肩で息をする。私の目は自然と私の聖域――の寝室――に吸い寄せられていた。
 は、あの男を知っているのだろうか?
 もう声をかけられているということは?
 あの男の口ぶりでは、まだ接触はないように感じられたが……周囲の人間の手前、そのような振りをしていただけかもしれない。
 もしも知っていて黙っていたのなら、それは、どういう理由で?
 ああ、私と同じくあの男を不愉快だと感じたからだというのならば良い。
 堅気の女ではないと判断されることほど、女にとって腹立たしいこともないだろう。自分の価値を低く見積もられたということなのだから。
 しかし、もしも――。嫌だ。そんなことは考えたくもない!
 すぐにでも彼女を叩き起こして問い質したかった。
 この不安は杞憂なのだと。案じることはなにもないのだと言ってほしい。
 あの温かい両腕で抱きしめられ、キスしてもらえたら、きっと私は信じられる。
 そう、きっと……。
……)
 我知らず、彼女の部屋の扉の前に立ち尽くしていた。
 そっと手を上げ、ドアノブに触れる。
 鍵はかかっていないだろう。少し力を入れるだけで、これは簡単に回り、私を奥へ通してくれる。
 その先にあるのは、女物の調度品に囲まれた寝室で、ベッドにはが眠っている。
 彼女はそこで穏やかな夢を見ていることだろう。
 何も知らず、何も感じず……そう、私がこれほどまでに焦燥にかられていることに気づかずに。
 ここにあるのは、ただの仕切り板のようなもの。私たちを隔てているものは、ないに等しい。
 安心させてくれ。
 証明してほしいんだ。
 お前には、私しかいないのだと……。
 ぐっとドアノブを握る手に力を込める。
 だが……いつになってもそれを回す勇気が出てこなかった。
 結局私は、彼女に拒絶されるのが恐ろしいのだ。
 には私がまっとうな道を歩んできていない人間だということはとっくに知られている。それでも彼女に対しては紳士的に振舞ってきたからこそ、愛情と信頼を勝ち得てきたのだといえよう。
 その一線を越えてしまったら……眠っている女性の寝室に忍び込むような振る舞いをしてしまったら、彼女に軽蔑されてしまうのではないだろうか。
 そして私に嫌気がさし、別れたいと思うようになったら……みすみすあの男にを得る機会を与えるだけではないか。
 駄目だ。この先に行ってはならない。
 私は力の抜けた腕をだらりとたらした。
 は渡さない。誰にも。
 そのためならば、私はどんなことだってしよう。何にだって耐えよう。
 だから……月よ、早く夜を遠ざけてくれ。
 太陽よ……急いで朝を連れてきてくれ。たとえ光が差し込まずとも、朝になれば私の眠り姫は目を覚ます。
 そうしたら、彼女は私に笑いかけてくれるのだろうから。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 まんじりとしないまま、時間だけが過ぎていった。
 その間に私は、あの男をの前から、オペラ座の中から、そして地上から退場させるにはどのような方法が最適かを考え続けていた。
 一息にやるのは簡単だ。オペラ座の中でならば尚の事。
 しかし、それではいけないのだ。
 ここで怪死事件が起きようものなら、彼女は真っ先に私を疑うだろう。
 なにしろは私がオペラ座の怪人であることを知っているのだ。
 だからなにをどうするにしても、決行場所はオペラ座の外――場合によっては、奴のテリトリー内で行うことになろう。
 これが譲る事のできない条件であることを認めた私は、が起きてくる前に一仕事をしに家を出た。
 外から見た我が家は、のっぺりとした闇の中に沈み、知らぬものならばここに住人がいるとは思わないだろう。もちろん、ここにこのようなものがあるということは、知っている者ならば知っていることだ。ここはオペラ座建設時にでた地下水から基礎を守るための防水壁の、さらに二重になった囲いの内側で、公式記録にも載っているものなのだ。
 しかし地下深く、メンテナンスも特に必要もない場所だ。人の出入りなど、全くない。例外なのがナーディルくらいのものだ。
 とはいっても、万が一のことを考えて私は内側と外側にきちんと鍵を取り付けていたのだ。
 しかしそれはどちらも外部からの侵入者に対して備えていたもので、内部の者が出入りできないようにするためのものではなかった。
 何度かそのようにしてみたいと考えたことはあった。実行には移していなかったが。
 だが、今こそ新しい鍵を取り付ける時なのかもしれない。
 この件が片付くまで、には地上にでてほしくないのだ。外出すればそれだけ、あの男と遭遇する確率が増えてしまう。いやそれだけではない。地上は噂話の宝庫だ。どこでどんな話を耳にするかわかったものではない。私《ファントム》とあの男はまったくの無関係であると思わせなければならないのだ。
 だが、今になって彼女に足止めをしたりしたら、それはそれで彼女は私が何かを企んでいると気づいてしまうだろう。これまで鷹揚にしていたのが仇になってしまった。最初に彼女が散歩に行き始めた時点で、私の許しなしには外出できないようにしておくべきだったのだ。
 今更だがどうにかしないといけない。これには私たちの幸せがかかっているのだから……。
 しばし考え事に耽っていた私だったが、何かをするにしても、それをするのは今ではなかった。
 を一人にしたくない。彼女は熟睡しているであろうとわかってはいても、後ろ髪を引かれる思いで、私は再びオペラ座へ向かった。
 歩みなれた道を辿り、事務室へと侵入する。夜目は利く私だが、此度の探し物は明りなしでは難しいものだった。そこで持参したランプに火を小さく灯して捜索をする。あまり時間はかけていられない。なぜなら窓には薄いカーテンしかかけられていないので、もしも外を歩いているものがいたら――さすがにカフェもレストランも閉店している時刻ではあるが、まだ管を巻き足りない連中がうろついていることもあるのだ――怪しまれてしまうかもしれない。もっとも、それすらもオペラ座の怪人のせいにされるであろうことは、想像に難くはないが。
 書類のぎっしり詰まった棚をランプでゆっくり照らしてゆく。
 と、やがて。
(あった……)
 目的のものが見つかったので、私はそれを堂々と持ち出し、近くの小部屋に入り込んだ。そこは窓がないので、誰にも見つかる心配はない。
 椅子に座り、ページをめくる。
 私の探していたものはオペラ座の定期会員名簿だった。あの男の名前と住所はこれでわかるだろう。歌姫の楽屋での会話で、名の一部はすでに知っていたので、それを元に確定するだけで済んだ。
 調べが終わると名簿を戻し、帰途へつく。
 夜明けまではまだ時間があった。
 そこでベルナールに宛てて指示書を書いた。
 アンリ・ド・クレール――あの男の名前だ――について調査せよ。家族関係、親しい人間、よく出入りする場所、屋敷の間取り、特にあの男の部屋の位置を探れ、と。そして可能であるのならば、悩み事――弱点と言い換えても良い――も。
 ベルナールはこれまでにも当局に発覚すれば手が後ろに回るようなことを何度も命じている。あの人の良さそうな顔の、そして真実小心者の男は、いつもそれを見事にやってのけたのだ。今度のことも心配はしていない。
 しかし此度はこれまでのものとはわけが違う。これから私がしようとしていることは、私がフランスに戻ってからはずっと遠ざかっていた犯罪なのだ。
 このことに気がついたら奴は……。いいや、ベルナールは逃げないだろう。そうしようと思えばできないわけではないのに、しないのだ。服従することに慣れきり、それが当然だと思っている。これも思えば、哀れなことであるのだろう。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 指示書を置きに再び外出した。戻ってきたらようやく時計は六時を回ったところで、あと少しで彼女と会えると思うと何も手につかず、それから居間のソファで時が過ぎるのを待つことにした。
 彼女が出てくるまで一時間もないはずだ。
 だが待つという体勢に入ると、時間というものはとてつもなくゆっくりとしか進まないように感じる。
 静かな世界で耳をそばだて、気配をうかがい続けていると、彼女が起きたらしい物音がしだいに聞こえるようになってきた。
 もうすぐ。
 もうすぐだ。
 待ちに待った聖域の扉が開く。
 まだはねむそうな様子のが、小さくあくびをしながら出てきた。
 朝の挨拶をするのももどかしく、彼女を抱きしめようと腕を伸ばすと、は大きく目を見開いて「ひゃあ!」と叫んだ。
「エ、エリック。びっくりしたぁ。どうしたの、急に?」
 本当に驚いたのだろう。声が裏返ってしまっている。しかしなんといって説明したものか……。話せないことが多すぎて、上手い説明が思いつかない。
 それでも早く彼女の体温を感じたく、私は無言のまま抱きしめた。
「エリック……?」
 私の行動を不審に思っているのであろうが、何か感じるものがあったのだろう、は問うように私の名を呼んだ。
「……抱きしめてくれ」
 情けないことに、の顔を見た途端に弱気に襲われた私の声は、すっかり懇願する調子を帯びていた。彼女はしばし沈黙すると、みじろいで両腕を私の背に回す。
「何があったの?」
「……」
 私は頭を振った。
 彼女は動き辛そうに首をかしげると、小さくため息をついた。回された両腕がゆっくりと上下する。
 あやされている。
 思わず苦笑がもれた。
 これではぐずっている子供と同じだ。だが、自分の半分以下の年の娘にすがりついているのは事実なのだから、虚勢を張っても仕方があるまい。
 はややあって手を動かすことをやめると、少し伸びをして頬にキスをしてくれた。その次は額に。
 ああ、なんて柔らかいのだろう。
 そしてなんて温かいんだ。
 彼女は何も知らない。知るはずがないんだ。
 があいつを通じているのであれば、こんなに私に優しくしてくれるはずがない。
 すべてはあいつの一方通行。それを排除するのは、婚約者である私の正統な行為だ。
 目を閉じると薄っすらと涙が目を覆うのを感じる。彼女のような綺麗な存在を汚す奴は、私が許さない。アンリ・ド・クレール。地獄で後悔するがいい。
 決意を新たにした私はようやく彼女を離すと、は心配そうな顔で見上げてきた。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
「でも、何があったの?」
 真っ直ぐな目で見つめられるのに耐え切れず、私は目を伏せた。
「……すまない、言えないんだ」
 こんな理由にならない理由を答えたので追求されるかと思ったが、彼女はきゅっと眉を寄せると、「わかった」とだけ言った。そして、
「わたしにしてほしいことはある?」
 と問うた。
 私のような男が言いたくないことは、たいがい面倒なことが裏にあると知っているせいもあるだろうが、ただ腫れ物に触るような扱いをしない彼女を、心の底から嬉しく思う。
「いつものお前でいてくれ」
 ささいなことで表情を変える、そんなを見ていれば、私もいつもの私に戻れるだろう。
「わかった」
 彼女は小さく頷くと、ふいに自分で自分の頬をぴしゃりと押さえた。
「うん。うんうん、よし」
 それから何度か頷くと、ぐっと拳を握った。
 ……自分で頼んでおいてなんだが、こういうわけのわからない突拍子もない行動を取られると、いつものだなぁと思うのは、恋人に対する感情としては何かがちょっと間違っている気がしないでもない。
「じゃ、一応話も済んだという事で、朝ごはんにしましょうか」
 私を見上げたまま、殊更明るい調子で彼女は言う。
「……あ、ああ」
「エリック元気ないみたいだから、今日は卵もつけましょうね。オムレツとベーコンエッグ、どっちがいい?」
「いや、食欲はさほど……」
「だーめ。半分でいいから食べなくちゃ。栄養ちゃんととって、何か好きな事でもすれば、いい考えも浮かぶし、嫌なことだってどっかに飛んでいってしまうものなんだから、ね?」
 彼女の勢いに押されて、私は思わず頷いてしまった。
「じゃ、すぐ作るね。希望がなければベーコンエッグにするけど、それでいい?」
「ああ、いいよ……」
「わかった、ちょっと待っててねー」
 ぱたぱたと軽い足音をあげてはキッチンに行ってしまった。
 いつもどおりにしてほしいと頼んだのは私だが、こうもすぐに気持ちを切り替えられてしまうと、複雑な気分になる。
 残された私はやるせないため息をついたのだった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「ねえエリック、これからどこかに出かける?」
 食後のコーヒーを持って居間へ行く途中、は妙に楽しげに訪ねてきた。
「いいや、今日はどこへも行かないよ」
 今のところ、打てる手はすべて打った。必要なものが揃うのはもう少し後だろう。その間、できる限り家にいて、彼女がふいに外出しないように見張っていなければ。
 ここのところ、ガウンを縫うのに夢中になっているようで、めっきり散歩にでかけなくなったが、彼女のことだ、いつ気分転換をしにいくか、わかったものではないからな。
「良かった。それならちょっと試してもらいたいことがあるんだ」
 両手を合わせながら弾むような足取りで、は私の前を歩く。
「なにがあるんだ?」
「ふふー。すぐ持ってくるね」
 くるりと半回転していたずらっぽく笑うと、は自室に入っていった。
「これ。これなの!」
 すぐ戻ってきた彼女は、軽く畳まれた布地を抱えて戻ってきた。
「ガウンか……。できたのか?」
 それは私もすでに見慣れた色と柄のものだった。
「ううん。全然まだよ。でもようやく仮縫いが終わったんだ。こういうの作るの、初めてだったからすごく時間がかかっちゃった。ほとんど真っ直ぐ縫うだけだと思ったけど、そうでもないのね。結構細かいパーツもあるし……」
 はらりと広げると、それには確かにまだ白い仕付け糸が目立っていた。
「でもこうして形になると嬉しいものね。ね、エリック。調整するから、着てみてくれない?」
 期待に目を輝かせ、はそれを差し出した。
「ああ、いいよ。……少し待ってくれ」
「どこに行くの?」
 自室に戻ろうとする私に、が不思議そうに問う。
「何って、着替えるんだよ」
 私は昨夜の観劇からこちら、着替えをしていない。夜会服を脱いでからでなければ、ガウンをまとうことは不可能だ。
「ここでいいじゃない。シャツの上から着るものなんでしょう? 上だけ脱げば?」
 きょとんとして彼女は聞き返した。
「それとも脱いだ服はすぐに手入れをするのが習慣に……なっているわけはないわよね」
 自分で言いながらも少しも的を射ていないことに途中で気がついたようで、彼女は腕組みをしながら妙に納得顔で頷いた。
 確かに服の手入れはしないこともないが、面倒な時にはなにもしていない。これまでにも夜会服やフロックコートを着たまま汚れがつくのもかまわずに、作曲や設計、実験に没頭しているところを何度も彼女に目撃されているのだ。
 しかしだからといって、上だけ脱げばいい、などと……。
 ガウンを着るには一度シャツだけの姿にならなければいけないではないか。
 いくら彼女が私とは違う感性を持っているとはいえ、男がシャツ一枚で女の前に立つというのがどういうことがわかって……いないのだろうな、これは。
 彼女がここへ来て一年以上が過ぎた。あれほど嫌っていたコルセットをつけ、髪を結い上げ、挙措動作はこちらの時代のご婦人たちと遜色のないものになってきたものの、彼女の感覚はあくまで彼女の時代のままだ。
 まあいい。ガウンはもともとゆったりとしたものだ。上着だけ脱げば良いだろう。ベストの上からでも調整はできるはず。
「わかったよ。まったくお前は、一度やりだしたら止まらないのだからね」
「エリックがしょっちゅう見本を見せてくれるから、わたしにも移っちゃったのよ、きっと」
「減らず口をいうのは、この口かな?」
 わたしは彼女の唇を摘んだ。
「んむぅー」
 くぐもった声で抗議をするも、何を言っているのかわからない。だが彼女の面食らった顔があまりにも可愛らしくて、私は思わず噴出してしまった。
「エリックは最近わたしに対して意地悪になってない?」
 ぷうと頬をふくらませてわざとらしい怒りの表情を浮かべる。
「そんなことはない。私はいつだって、お前に対して優しくしているよ」
「嘘ばっかり。さっきだって変にからかったくせに」
「それはお前もだろうに」
 上着を脱いだ私に、は後ろからガウンを着せ掛けてくれた。
「あれは……。ん? ……ええっ!?」
 素っ頓狂な声をあげたので、何事かと振り返ると、そこには愕然とした表情を浮かべた彼女がいた。
「どうしよう……。袖が短い……」
「何? ああ……」
 確かに、袖が短かった。シャツの袖口部分が完全に見えてしまっている。
 それに……。ううむ、彼女は私のサイズを把握してから作り始めたのではなかったのか? 身頃が余ってしまっているではないか。そのせいで、袖が短くとも肩口がつれた感じがしなかったのか。そして、裾もやや短かった。
「エリックは、私が思っていたよりもずっと細くて背が高かったのね……」
 がっくりとは肩を落とす。
、お前、これの型紙はどうやって作ったんだ?」
「雑誌に載っていたのを参考に……。体型によってどう補正するのかも書いてあったから、その通りにしてはみたんだけど……。最初はエリックに内緒で作るつもりでいたから、サイズがわからなくて。でもガウンだから余裕があっても大丈夫だと思って、その、だいたいの大きさで……」
 大雑把にもほどがある。
 口まで出かけたが、ここで彼女を責めたらもう作るのをやめたと言われかねないので、ぐっと飲み込んだ。
 恋人手製の衣服を諦めるなど、できるわけがない。
 それに、すっかり眉が下がり、涙目になっているに追い討ちをかけては可哀想だ。
「袖はさすがに作り直さなければならないだろうが……。まだ布は残っているか?」
「袖くらいならなんとか。でも、裾も短いよ? 身頃の分まではさすがに余っていないよ」
「なに、それは別布を足せばいいさ。身頃のラインを修正して全体的にパイピングをかければ、最初からそういうデザインだったようにできる」
「う、うーん」
 私のアドバイスを聞くうちに、の眉間にしわが寄ってゆく。
「身頃も一度ばらさなければならないだろう。ガウンだというから仮縫いをするとは思っていなかったが、かえって幸いしたな。しつけ糸をほどくなら、それほど手間もかかるまい」
「つまり、最初からやり直さないといけないのね」
 の表情はどんどん暗くなっていった。
 しまった、追い討ちをかけてしまったか……。
「大変ならば、やめるか?」
 やめてほしくはないが、強制できることではない。残念なことではあるが、やる気がなくなったのであれば、私にはどうすることもできない問題だった。
 しかしは顔をきっと上げると、勢いよく首を左右にふる。
「ううん。ここまでつぎ込んだ時間がもったいないもの。絶対完成してみせる!」
「そうか……。ならば私にできる協力なら、なんでもしよう」
「本当。なら……あの、今更だけど、サイズ、測らせてくれる?」
 恥じ入るように彼女は頬を赤らめる。うむ、それは最初の段階で言うべきだったな。
「本当に今更だ」
 私は思わず苦笑した。
 測るまでもなく仕立て服を注文する関係上、私は自分のサイズを承知していた。必要な箇所のそれを口頭で伝えると、彼女は慌てて書きとめてゆく。
 それをもとに、私たちは型紙を変更していった。
 はさすがに元気がでないようで、何度もためいきをついていた。
 あまりにもしょげかえっているので、今日は作業をやめるかと問うも、彼女は首を振って断ってきた。
「そうか、だが無理はよくないな」
 その時、ふいに思いついた。彼女を一人で外へ出さない方法を。
「良かったら今晩、一緒にでかけないか? 馬車を仕立てて夜の散歩に行こう」
 言うと、ぱっとは顔をあげる。
「一緒に?」
「ああ。ここのところのオペラ座の公演は、私の好みのものではないのでね、時間は空いているんだ。良かったら、毎晩でも。お前は昼は作業をしていたいだろう? だから夜には気分転換をするんだ。どうだ?」
「うん、うんうん。ありがとうエリック!」
 何度も首を上下させ、彼女は頬を紅潮させて喜ぶ。
 上手くいった。夜に出かけるとわかっているのならば、わざわざ昼間には出かけることはなかろう。彼女を閉じ込める鍵はなくとも、彼女は自らの意志でここにとどまる事になるのだ。
 なにも問題がない。
 私の懸念も、すぐに取り払われるだろう。
 勝利を確信した私の胸中に、喜びが満ちた。





すごくいつもどおりだ……。
修羅場編の面目まるつぶれです(笑)




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