夕方になって広げていた裁縫道具を片付けていたは、傍目から見ても随分と浮き足立ってた。
 口元には絶えずあえかな笑みが刻まれ、私と目があうと、さも嬉しそうに目を細める。
 私の都合で急遽決まった夜の散歩だったが、これほどまでに彼女が喜ぶのであれば、この件が片付いた後も続行しても良いと思い始めた。毎日はさすがに無理だが、週に一度くらいならば、時間を作ることはできるだろう。
 そもそも私のささやかな望みの一つに、日曜日ごとに妻と腕を組んで散歩をする、というものがあった。それは本当ならばこの世に大勢いる夫婦者たちのように昼間を想定していたものだが……それを私が動きやすい時間帯に変えてしまえばいいだろう。彼女が気にしないのであれば、の話だが。
 まあよい。
 まずはこの件が終わるまでの間、に疑念を持たれないように上手くやりおおせなくては。
 夕食を作り、それをいつもより早い時間に食べ終わると、私たちはそれぞれ自室に戻り、外出の支度をした。
 私は夜会服に絹のマント。彼女は外出用のドレスなのだが、これは襟ぐりが割と広く開いており、ショールや飾り襟などをつければ昼用のドレスとして、それらをつけないままであればあまり大げさではない夜会などにも着用できるデザインのものだった。
 露わになった首筋を彩るのは一条の銀の鎖。その中心にあるのはダイヤと真珠をあしらった指輪……私たちの婚約を示すそれだった。
「その姿はとても麗しいが……私としては、指輪は指にはめるのが一番だと思うのだがね」
 わざと真面目な口調で提案をすると、はさっと頬を赤らめる。
「だって……こんなに大きな石がついている上から手袋をするのって、なんだか変な感じなんだもの」
 手袋を身につけるのは、女性のたしなみだ。私は彼女にきちんと上等な革の手袋をダース単位で用意してある。色だって、一種類ではない。白に黄色、鹿の子色に空色、淡いピンクに灰色、あまり使わないだろうが、黒もある。
 今は鹿の子色をした手袋をはめた指先で、彼女は指輪をいじっていた。
「手袋は革製なのだから、問題なく伸びるよ」
「そうかもしれないけど、気になるんだもん。……このままじゃ駄目?」
 私の意見を伺うように、は目をあげた。黒いまつげで縁取られた瞳に、我知らず吸い寄せられる。
 そっと身をかがめてこめかみに口付けをすると、彼女はくすぐったそうに身を捩った。
「ちょっと言ってみただけさ。好きにおし。指であろうとなかろうと、お前の肌に触れていることには変わりはないのだから」
「……」
 は小さく口を開け、棒立ちになる。顔は熟れすぎたトマトのように真っ赤だった。
 うむ、見事な反応だ。
「エ、エエ、エリック……」
 どもる彼女に、私はそ知らぬ顔をする。
「しかしその格好で外に出るにはいささか問題があるね。夜風は冷たい。そのままでは風邪をひいてしまう。薄手のマントがあっただろう? 馬車の中はともかく、歩く時にはそれを着ないと」
「ああ、うん……。というか、あの、他に言う事ないの……?」
「何がだね?」
 真顔で答えると、は納得がいかないという表情になった。
「わたしのこと、からかってるよね?」
「からかう? どうして? 恋人が風邪をひいてしまわないように気を配ることがそんなにおかしいかい?」
「いやそうじゃなくて、その前の……。エリック、もしかして酔ってる?」
 は疑わしそうに目をすがめる。私はわざとらしい仕草で肩をすくめた。
「ワインを一瓶開けたくらいで今更酔うはずがないだろう」
「そうよね。意外に飲むものね、あなたって。それに酔っても顔にでないタイプっぽいし」
 納得したように腕を組みながら彼女は何度か頷く。気をそらしかけた彼女に、私は背をかがめて囁いた。
「酔っているとしたら……お前にだよ。夜の女神との逢瀬に、柄にもなく気分が高ぶっているんだ」
 どうやらと共に外出するということで、私自身も浮かれているようだ。
「やっぱりからかってるでしょ、エリックーー!!」
 叫びながら彼女はその瞬発力をそのまま手の平に込めて腕を叩いてくる。
 私は声をあげて笑うと、マントを取りに行くように促した。
 まったくもう、などとぶつぶついいながらもはその通りにする。頬は赤いままだ。

 ……しかしからかうのもほどほどにしないといけないな。
 彼女の姿が見えなくなってから、私は腕をさすった。
 かなり痛い。もしかすると、跡がついたかもしれない。
 女の力とはいえ、火事場のなんとか的な力がでることもあるのだと、私は学んだ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 馬車はゆったりと揺れながら盛り場とは逆の方向へ向けて進んでいた。
「ねえエリック、どこへ行くの? こっち側はほとんど行ったことがないわ」
 私のからかいに拗ねたまま、意地になっているのかずっと黙っていただったが、行き先が気になるのか、馬車に乗り込むこと十五分を過ぎてようやく口を開いた。
「もうじきつくよ。目的地はヴァンセンヌの森だ」
「ヴァンセンヌの森? 名前は知ってるわ。地図で観たもの……」
 納得したように、彼女は頷く。
「たしか、お城があるんだったわよね」
「ああ、ヴァンセンヌ城だな。昼間ならば見学もできるのだが、さすがに夜間ではな」
「ううん、いいの。別に観たいわけじゃないから。でもどうしてこっちに? たまに行くみたいに、ブローニュの森に行くものだと思ってたわ」
 不思議そうな顔では私を見上げてきた。
「まだ行った事のないところへ行くのもいいだろう。それともブローニュの森の方が良かったかね?」
 はふるふると頭を振り、笑みを浮かべた。
「そういうわけじゃないわ。ちょっと疑問に思っただけよ。ヴァンセンヌの森でいいの、もちろん。初めて行くところだもの、楽しみだわ」
「ヴァンセンヌもブローニュと同じように遊歩道が整備されている。歩くには困らないだろう」
 そっと腕を伸ばし彼女の肩に回すと、しばしためらってから、は私の胸に身を寄せた。
 服越しに吐息がかかるのを感じる。
 本当は、ヴァンセンヌを選んだのは、そこがブローニュよりも風紀が良いからだ。
 ブローニュの森は、夜ともなると客待ちの娼婦が集まってくる。当然、女たちを目当てに男共も集まってくるわけで……。
 私としてはと過ごしている大事な時間に、あの不愉快な記憶を思い出させるようなものとは一切関わりを持ちたくなかったのだ。
 それに、あいつは女を買うことになんの戸惑いも躊躇もしない類の男だ。奴には一応愛人がいるようなので可能性としては低そうではあるが、気まぐれを起こさないとも限らない。とあの男が顔を会わせる可能性がありそうな機会は潰しておかなくては……。
 まあ、仮に鉢合わせをしたところで、私がいる以上奴には何もできないだろうが。
 そういうことで、もしもにブローニュへ行きたいとごねられたら非常に困ったことになったのであるが、素直に未見の地へ行く事に同意してもらえたので内心とても安堵していたのである。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 次の日も、その次の日も、私とはヴァンセンヌの森に散歩にでかけた。
 遊歩道は幾つか道が分かれているので、それらをすべて制覇してみようと持ちかけてみたのだが、同じ場所に行くのも一週間程度が限度だろう。
 夜間の散歩で何が困るかというと、行ける場所が限られている、という一点に尽きる。
 道すがら、目を引くような店のウインドウを覗くこともできないし、カフェやレストランは閉まっている。公園ならば基本的には出入り自由ではあるが、場所によっては夜間は閉鎖されるところもある。
 そして公園というところは、木と花と潅木などがあり、あとは噴水だの小川だのがあるだけで、端的に言ってしまえば似たり寄ったりなところだ。たまに訪れるくらいならばともかく、間を置かずに行ってもさほど面白いところではない。
 オペラ座界隈であれば、深夜まで営業している店もないわけではないが、この私の風体では歓迎されないのは目に見えている。
 ようするに、彼女に飽きられてまた昼間に一人で散歩にでかけられないために、なにか目新しいものを用意する必要があると、私は感じていた。
 しかし何を用意したらよいのか……。
 針を進める彼女を眺めながらつらつらと考え事をしていたが、いい加減腰をあげないとならない時刻が来た事に気がついた。
「ちょっと出てくる。すぐに戻ってくるから……」
 声をかけると、は目をあげる。
「そういえば今日はカーンさんが来る日だったわね。ねえ、前から気になっていたんだけど、こういう時にはわたしもご挨拶した方がいいと思うのよ」
 広げてある布地を軽く畳みながら、は神妙な顔でそう言った。
「そんな必要はないよ」
「必要あるわよ。知ってる人が来ているのに無視するのはよくないわ。人間関係は大事にしないと」
 人間関係……。そんなものに期待を持てるのであれば、こんなところには住んではいないのだが。
「招いたわけでもないのに、あいつが勝手に来るんだ。おまけに人のことをあれこれ詮索して」
「あなたのことが心配なのよ。そんなこと、どうでもいい人相手だったら、しないもの。大丈夫、本当にちょっと顔を出して挨拶するだけだから。男性同士のお話の邪魔はしないわ」
 言うと、彼女は私の先に立って玄関に向かった。まったく、言い出したら聞かない娘で困る……。
 さっさと玄関を開けると、すでにナーディルの奴が来ていたようで、は対岸に向かって愛想の良い声で呼びかけていた。
 時候の挨拶と体調を気遣う型どおりのやり取り。
 正直、こんな毒にも薬にもならないことをしなければならないと思う彼女の気持ちがわからない。ナーディル相手に今更愛想を良くしたところで、奴が私の周りをかぎまわることをやめるわけでもないだろうに。
 ひとしきりのやり取りが終わった辺りを見計らい、私はに中へ戻るよう促した。このまま長々と話されてはたまらない。対岸にいる者同士でしゃべっているため、声が普通の会話をするよりは大きいのだ。さらにその声が岩に反響して何度も木霊してしまう。
 ……これでは見つけてくれと自分から触れ回っているようではないか。なんのためにこんなところに隠れ住んでいるのだと思っている。
 私たちの安全のためにも、やめさせる理由には十分だ。ナーディルとの話をさっさと切り上げて、に忠告しなければ。
 が中へ戻ったことを確かめると、私は一つため息をついて、小舟に乗った。
 対岸へ着いたが、岸には降りずに用件だけを告げる。
「先週、私は誰の邪魔もしていない。以上だ。ではな」
 そのまま戻ろうとしたところ、呆れたような声が後ろから追ってきた。
「それはないだろう。わざわざ長い階段を降りてきた相手に対して」
「知るか。お前が勝手に来ているんだろうが」
「……機嫌が悪いようだな」
「それほどでもないさ」
「まあ、だがさんは元気そうで良かった」
「彼女はいつでも元気だ」
「しかし、最近散歩に出ていないようだが? なにか心境の変化でもあったのかな」
 私は振り返ると傲慢そのもの態度で鼻を鳴らす。
「一人で散歩をするよりも、私と一緒にいる方がいいからさ。今では夜に出かけているんだ。二人で、ね……」
 ナーディルは一瞬息を飲んで、目を見開いた。
 まったく……私だけではなくの動向まで探っているのだからな、あいつは。それにどうもの話では、時折散歩途中で会うようで、その折に世間話にかこつけて私の悪事を聞きだそうとしているようだが……ナーディルにとっては生憎なことに、にはそういった類の話はしていない。だから有益なことは何一つ手に入っていないだろう。奴が知ることができるのは、せいぜい私が何度徹夜したかとか、いくつ作曲したとか、そういったことぐらいのものだ。
「まさか君の口からそんな惚気を聞く日が来るとは思わなかったよ……」
 感嘆したような口調のナーディルに、私はむっとした。嫌味でもからかうでもなく、心の底からそう感じているようなので、尚更腹が立つ。
「惚気てなどいない」
「自覚がないのか。いい事だな」
「……減らず口ばかり叩くのなら、さっさと帰れ」
「ひどいな。これでも私は君たちのことを本当に心配しているんだよ。先だってのこともあるし……。でもそれは、私の杞憂だったようだな。君が荒れて、彼女を外へ出さないようにしているんじゃないかと思ったものだから」
 心臓が、強く脈打った。
 こいつは知っているのか?
 ああ、こいつもオペラ座には頻繁に出入りしているからな……。気づいていたとしてもおかしくはない。
「何のことを言っているんだ?」
 まずは、カマをかけてみることにした。どこまで知っているのか聞き出さなくては。
 ナーディルは疲れたような、困ったような笑みを浮かべる。
「君が気づいていない、とは思わないが、言えというなら答えよう。さんに懸想している男がいる」
 やはりそうか。顔が自然に強張るのを感じた。
「相手の男について、どれくらい知っている?」
 今度は逆にナーディルが質問してくる。
「名前と住所、家族構成くらいは」
「君にしては控えめだ。弱みくらい握っていると思っていたが」
「調査中なんだ」
「なるほど」
 にやりと笑って、彼は腕を組んだ。
 私はしばし熟考して、小舟を岸につける。
 これでいてこいつは、偵察はなかなか上手なのだ。下手に隠すよりも、適当に言い含めて納得させた方がいい。
 私がアンリ・ド・クレールに対して敵意を持っていないと信じさせなくては、奴が急死をした時に疑われてしまうだろう。
「東洋娘が珍しい、というのはわかる。だがそれだけの理由で……彼女の意思を無視し、性質を汲むこともなく、珍奇な動物を得ようとするが如くに彼女を得ようとする男は、正直言って反吐が出る」
「……まあ、そうだろうな」
 ナーディルは同意を示して頷いた。
「しかし、この手の男など掃いて捨てるほどいるのもまた事実だ。オペラ座に潜んでいれば、嫌でも似たような話を聞かされるからな」
「確かに」
 ゆっくりと歩きながら、私は静かな声で言葉を紡ぐ。
 憤慨、憎悪、殺意。
 私の抱えている感情をわずかでも感じ取らせないようにして。
「腹を立てても仕方があるまい。しかし当人は知らなかったようだが、婚約者のいる女性に手を出そうとしたんだ。それに対しては厳粛に釘を刺しておく必要があるだろう。そしてこれは私の義務だ。ナーディル、野暮は無用、お前は口を挟まないでくれ」
「君の言い分はもっともだよ、エリック。だがその釘はどれくらい長いんだい? もしも心臓にまで達するようであれば、私も黙ってはいるわけにはいかないんだ」
「何を警戒しているんだ? 私がそいつを殺すとでも?」
 ナーディルの懸念を笑い飛ばすように、私は言った。
「絶対にないと言い切れないからね。他のことならともかく、さんが絡んでいるんだ。落ち着いているようにみえて、実は爆発寸前かもしれない。すまないがエリック、私としては警戒を解くわけにはいかないんだよ」
「ご苦労なことだ」
 冷ややかに私は言った。
 長年の付き合いがあるだけに、ナーディルは誤魔化されてくれないようだ。
 しかしそうであってもド・クレールをこの世から消す事に、躊躇はない。本気の恋をしている男から、ただ己の好奇心を満たすために女を奪おうとしている。そんな下種な輩の命がの純潔よりも大事だとでも? 馬鹿馬鹿しい!
 しかし私はそう考えていても、ナーディルは――もしくは世間というものは――私のこの思考を異常だと考えるかもしれない。
 だとしたら……。
 ド・クレールに手を下した暁には、私は破滅してしまうだろう。
 オペラ座に対する恐喝にも脅迫にもナーディルは沈黙しているが、それは殺人という大罪を犯さないで済むのであれば多少の罪は見逃してやろうとしているからに他ならない。
 ナーディルはこの場所を知っている。
 彼はただ、ここまで官憲を連れてくるだけでいい。
 こんなところに住んでいる者がまともな人間であるはずはない。地上の奴らはそう判断するだろう。
 そして……これは私だけの問題ではない。このような地下の屋敷に住んでいる以上、も同罪と見なされるだろう。彼女がただここに住んでいただけなどと、彼らが信じるはずもない。
 私は無言でナーディルを見つめた。
(こいつは無実の娘を監獄へ送り込むことになる危険を冒してまで、私を警察に突き出すだろうか……)
「エリック? ……おい、エリック」
「なんだ」
「なんだじゃない。少しも動かないからどうかしたのかと思ったぞ」
「私はどうもしていない」
「……」
 ナーディルはうろんげに目を細め、じっと私を見た。
 息詰まるような沈黙が暗闇に満ちる。
 それを破ったのはナーディルの方だった。
「とにかくだ。下手な行動は起こしてはいけない、エリック。彼女が知ったら悲しむぞ」
「もちろんだとも。下手なことをしたら、を巻き込んでしまいかねないからな。よくわかっているさ」
 そう。だから『上手に』始末してしまわなければ……。
 私を説得しえたと思ったのか、ナーディルは肩の力を抜いてほっと息を吐いた。
「それにしてもあの男も、知らないとはいえ、やっかいな相手に絡んだものだよ。よりにもよってオペラ座の怪人の恋人に手を出そうとしているんだからな」
 そしていつもの人を食ったような笑みを浮かべる。
「知っていたら手は出さなかっただろう。……いや、逆に火に油を注ぐことになるのかな? 私から女を奪うことになるのだから、箔がつくとでも思うのだろうか。とにかく余計なことはしないでもらいたいものだ。こっちは何もしてやしない。この件に関しては被害者は私だよ。女に不自由しているわけでもないのに、私のにまで関心を持たずとも良いではないか」
「その発言については全面的に肯定しよう。魅力的な女性を恋人に持った男はとかく気苦労をするようだからね。だがさんは君に貞節を誓っているから、その苦労は半分で済むだろうよ。なにしろ魅力的なご婦人というのは、自分が魅力的だとわかっているから、より良い男を見つけるのに熱心だったりするからね。君は本当に素晴らしい当たりくじを引いたと思うよ」
とお前はそんな話までするのか?」
 さすがに不躾すぎるだろう、と半ば不快になって私は声を低くする。
「貞節うんぬんのことかい? まさか。いくら私だって、あんな初心な子にそんな話はしないよ。問題の男が、頼みもしないのにべらべらしゃべってきたんだ」
 最後の方を呆れたような口調で言うと、ナーディルは肩をすくめた。
「……そいつと面識があるのか、ナーディル」
「面識というか、一方的に知人扱いされているんだ。さんのことについて聞き出そうとまとわりつかれて困っている」
「ほう。ならば君に纏わりつかれている私の気持ちがわかっただろう」
 にやりと混ぜ返すと、ナーディルは渋い顔になった。
「茶化すなよ。本当に参っているんだから。あんな知人などいるものか。彼はな、エリック、多分結構前からさんの後をつけて彼女の素性を知ろうとしていたんだよ」
「……何?」
「私が気づいたのは、ちょっと前に散歩中のさんとチェイルリ公園で会ったときだ。彼女の後ろをつけている変な男がいたから、余計な世話かもしれないが、彼女の従僕を気取って彼女をガードしていたんだ」
「……」
 ここは感謝をするべきところなのかもしれないが、そうするにはあまりにも羨ましくてできなかった。
 人の多い昼間の公園をと散歩だと? 私がしたくてもできないことをこいつはやすやすと……!
さんには言っていない。怖がらせるといけないと思ったからね。オペラ座の中まで彼女を送って、彼女は帰宅し、私はしばらく中をぶらついていた。で、外に出たら捕まったんだ。彼女のことを聞かせてくれって」
「……随分と熱心なんだな」
 あの鼻持ちならない態度から、そんな風に恋に悩むなど想像がつかないのだが……。根は純情なのだろうか。だからといって、を譲る気など全くないが。
「本当に、大した熱心さだよ。というよりも血迷っているんだ。もともとはヴァリエテ座を贔屓にしていて、愛人もそこの女優を選んでいたくらいなんだが、その女とも別れたらしい。さんの素性は、もちろん私は一切しゃべっていないが――ああ、といっても、知人の婚約者だとはちゃんと伝えているさ。全然気にしていないようだったが――オペラ座の関係者だというのは突き止めていて、なんとかして定期会員になろうと必死になっている……」
「ちょっと待て、そいつは定期会員じゃないのか?」
 確かに、定期会員になり、年間ボックス席を予約していても、実際には懐具合が思わしくなくて、第三者にその権利を売り渡している名目上の定期会員などもいないわけではないが……。しかし私の調べたオペラ座の定期会員名簿には、確かにやつの名前が載っていた。では……?
「ああ。まだ定期会員ではないんだ。時期が中途半端で取得することができていない。まあ、次の機会を待つのが無難だろうな」
 同姓同名、なのか? 私は別の人物の調査をベルナールに頼んでしまったのだろうか。しかし釈然としない。
「私の調べでは、そいつの名前は定期会員名簿に載っているのだが……」
 ナーディルは眉を顰める。
「そう、なのか? ではどうにかして栄えある会員になれたのだろう。すごい執念だな。しかしそうなると余計にやっかいなだな。楽屋までフリーパスになったも同然なわけだから……。なあエリック。私はけっして さんを不自由な状況に陥らせることはしたくないのだが、あの熱心さ加減はちょっと異常だ。恋に恋して目がくらんでいるように見える。彼女を一人で外出させるのは本当に危ない。だから夜に君とでかけているというのは懸命だろ思う。昼間の散歩は当分控えた方がいい」
「ご忠告ありがとう」
 そっけなく言うと、ナーディルは憤慨した。
「私は本気で心配しているんだぞ! なにしろあいつはすでにさんに愛人契約を持ちかけたっていうじゃないか。なにを余裕ぶ……」
「なんだって!?」
 反射的にナーディルの胸倉をつかみあげる。
「おい、詳しく話せ。どういうことだ!?」
「……ぁぐっ……」
 苦しげに彼は顔を歪めた。
「ああ、すまない」
 手を放すと彼は地面に転がり、ぜいぜいと息を荒くする。
「……殺されるかと思ったぞ」
「刺激的な話はいきなりしないことだ。同じことがないとも限るまい」
「反省という概念はないのか、君には」
「すまないと謝ったじゃないか」
「あんな悪びれもせずに言われても謝られた感じはしないがね」
 襟元を直すとナーディルは立ち上がる。
「あまり無礼な態度を取るなら、君の聞きたい話はしない。まったく、なんだって君のためにこんな骨折りをしなくてはいけないんだ!」
 本気で怒ったらしい。ズボンについた泥を払いながら、ナーディルはぶつくさ言った。
「それで? 愛人契約を持ちかけられて、はどうしたんだ?」
 そしてそれを私に言わなかった訳は? 彼女は私を裏切っていたのだろうか……。
「君ってやつは……」
 盛大に嫌な顔をしたものの、ナーディルは渋々口を開く。
「話を持ちかけた途端、足を踏んで逃げられたそうだよ。それっきり見かけていないというから、彼女も警戒しているんだろう。……もしかしてさんからは何も聞いていないのか?」
「……ああ」
 逃げた? 本当に?
さんを責めるなよ。彼女が悪いわけではないんだ」
「……わかってる」
「だったら、そのメドゥーサすら射殺しそうな目はやめてくれないか」
「この顔は前からだ」
「そうじゃないだろ……」
 はあ、とナーディルはため息をついた。
「ともかく、家に戻るのは落ち着いてからにしろよ。そうでないとさんが何事かと驚くだろう?」
「……ふん」
 それくらいのこと、私が思い至らないとでも思ったのか。忌々しい。何もかも見透かしているとでも言いたげに……。
「足を踏まれたのはいい気味だ。どうせなら平手打ちをくれてやれば良かったのに」
 かなり威力があるからな。
「とっさのことだから、それは難しいんじゃないかな」
「しかしあのガキがそこまでに傾倒しているとは知らなかったな。馬鹿な放蕩貴族だとばかり思っていたが」
「……ガキって……。そりゃ、君よりは若いが、ガキ呼ばわりされるほどの年ではないだろう」
「二十代ならガキで構わんだろう」
 とにかく奴をけなしたくてたまらない私は、吐き捨てる調子で言った。
「……二十代?」
 ぽかんとしたように、ナーディルは口を開ける。
「どうかしたのか、ナーディル? ガキが不服なら若造でも構わんが」
「いや、どうしたのかって……」
 ナーディルの様子が一変する。顔には汗が浮かび、血の気が下がった。濃いオリーブ色の肌がみるみる青ざめてゆく。
 頭を抱えて、彼は岩壁に寄りかかった。
「どうした、気分でも悪いのか?」
 貧血でも起こしたのだろうか。しかし介抱するために我が家へ招き入れるのは……。地上まで運んで、辻馬車を拾おうか。
「いや、エリック……」
「うん?」
「ちょっと確認したいんだが、君は一体誰の話をしていたんだい?」
「誰って、に横恋慕している愚か者、アンリ・ド・クレールのことだが? それがどうかしたのか?」
「アンリ・ド・クレール。ああ、聞いたことがある。クレール伯爵家の放蕩者の三男坊だな」
 ナーディルの様子に、私は嫌な予感を覚えた。
「ナーディル。私も聞くが……君は誰のことを話していたんだね?」
 彼の様子から、私の返答が予想外だったことが窺える。彼はド・クレールのことを話題にしていたわけではなかったのだ。では、誰だ?
 ナーディルは小刻みに頭を振った。
「話してほしい。私の に言い寄ろうとしている男は、つまり、他にもいるんだね?」
 彼は沈黙を続ける。そしてそれは肯定を示していた。
 信じがたい事実に、私の頭からも血の気が引いてゆくようだった。
 自分でも顔が強張るのを感じる。口元がひくつき、うまく回らない。
「話したくないならそれでいいさ。オペラ座に出入りをしようとしている新参者ならば、調べればすぐにわかる。君にできるのは、多少の時間稼ぎだけだ。だろう?」
 だが私はできる限り、優しく彼を諭した。
 観念したのか、ナーディルは青ざめた顔をゆるゆると上げて、小さな声で告げる。
「ジャン=オーギュスト・イブリー……。パリ郊外に工場を持っている工場主だ。年は四十三。死別した妻との間に、さんとさほど年の変わらない娘がいる……」
 ナーディルが話すたびに、怒りが強まる。
 彼が顔も知らないジャン=オーギュストに見えてきて、絞め殺さないでいるのが精一杯だった。



 そうか。
 そうかそうかそうか。
 そうか……。


 愚か者は二人もいたのか。






手袋と指輪の関係がわからなくて困っています……。
この時代、淑女は朝から夜まで手袋をはめているのが普通らしい(家事や労働をしなくていい身分だという証)んですが……。
だったら指輪するときどうするんだろうって。
結婚指輪みたなのだったら指輪をした上から手袋をするんだろうけど、石がついているような、ある程度の高さがあるものはどうするんだろう。
映像資料になりそうなもの、いろいろ見てみたんだけど、手袋の上からでも下にでも指輪をしているものが見つからないので、どうしているんだかがわからない。
アンティークジュエリーを調べると、指輪は相当数出回っているから、していなかったわけはないと思うんだけど……。
高さがある場合、手袋の上にはめた方が見栄えもいいと思うんだけど、となると手袋を外した状態ではつけないということ……?(手袋の厚さ分、サイズが変わるもんね。まあ、すっぽ抜けるほどの差ではないかもしれないけど)
ああっ、わからーん!





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