「ジャン=オーギュスト・イブリーという名に聞き覚えがあるか?」
 カーンさんとの週に一度の会合を終え、帰ってきたエリックは、つかつかとわたしの前に歩み寄り、切り出してきた。
「ジャン……?」
 あまりに唐突だったので、一瞬何を言われたのかと思った。針を動かす手が止まる。
 エリックの台詞を頭の中で反芻すると、とても不愉快な記憶が引き出された。
「嫌なこと思い出させないでよ。……というより、どうしてエリックが知ってるの?」
 反射的にわたしはしかめ面になる。
 エリックは心持ち俯いた状態でぼそりと告げた。
「ナーディルが教えてくれた」
「カーンさんが? どうしてカーンさんが知っているの?」
 わたしは首を傾げる。
「チェイルリ公園でナーディルと会い、散歩をしたことがあるだろう」
「ええ、たまに会う時があるから。最近だと……一ヶ月くらい前だったかしら」
 確かそれから何日も経っていなかったわね、あのイブリーという男に声をかけられたのは。
 ああ、思い出しただけでも腹が立つ……。
「それが最後?」
「ええ」
「ならば、その時だろう」
「なにが?」
 エリックは相変わらずぼそぼそとしゃべる。どうしたんだろう、さっきからすごく様子がおかしい。
「お前の後ろを、そのイブリーという奴がつけていたそうだ。下手くそな尾行をしているようだったので、気づいたらしい」
「ええっ!?」
 てことは、わたし、一体いつから付けられていたんだろう。
 思いがけない事実を知らされ、顔からざっと血の気が下がった。
「カーンさんったら、気づいていたのなら教えてくれても良かったのに。もし知ってたら、わざわざ実験なんてしなかったわよ!」
「実験?」
 聞き咎めるようにエリックは鋭い声で問う。
「あ、うん。散歩の途中でよく見かける顔があるな、とあるとき気付いたのよ。それがイブリーというひとだったわけなのだけど。そのひと、気付いたらいつも私の後ろにいたの。だけど、わたしが気がついた場所って、いつも結構人がいるから、たまたまなのか付けているのか、確信がもてなかったのよ」
 なにしろこのあたりはパリの中心部に位置している。意図的に細い路地にでも行かない限り、すれ違う人、同方向に行く人には困らないというものだ。今回はそれが仇になったようなものだけど。
「それで、本当にわたしの後をつけてきているのか、試してみることにしたの。といっても単純なことよ。いつも通りに散歩して、その人を見かけたら後ろの方を注意するようにしただけ。……本当についてきているとわかったときには驚いたわ。スクリブ通りの入り口から帰るのはまずいと思って、とっさにオペラ座経由で戻ったんだけど……。ねえエリック、大丈夫だったかしら。私が気付いていない間にここのことが知られたりなんてしてたら……」
 それはまずい。最高にまずい。エリックが細心の注意を払って築きあげてきた生活をわたしがぶち壊しにしたとなったら、どれだけ謝ったところで足りないだろう。
 エリックは小さくため息をつく。
「それは大丈夫なようだ。もしも誰かが近付けば、私がそれと気付かないわけはない。しかしお前がオペラ座と関係していることだけは知られているようだ」
「……そう。そうよね、やっぱり」
 見つかってはいないのか。だったらまだ救いはある。あとはイブリー氏が頭を冷やしてわたしのことをさっさと忘れてくれるのを待つだけだ。どれくらいかかるんだろうな。こういうの、初めてだから見当もつかない。
 エリックは再びため息をつくと、どさりとソファに座った。
「どうして言わなかったんだ?」
「どうしてって……」
「なぜ私に話さない」
 エリックの声は平坦だった。俯きがちなせいで表情も読めない。
 責められている、と感じた。
 居心地が悪くなり、わたしは手をもじもじさせる。
「話そうと思ったことはあるの。最初は、カーンさんと初めて会った時のように、わたしの知らないエリックの関係者かもしれないと思ったから」
「ガルニエのことを聞いたのは、もしかして……?」
「ええ。それで、違うとわかったから、余計な心配をかけることになると思って、言わない事にしたの。しばらく外に出なければいいと思ったから」
「だがそいつは諦めていないかった」
 うう、言い方に棘があるよ、エリック……。
 わたしはぎゅっと、縫いかけのガウンを握りしめる。
「それで奴はお前の素性をさぐるためにナーディルに矛先を向けたのだろうな。一緒にいたところを見られていたから、知人であることははっきりしている」
「え!?」
 自分でもびっくりするほど裏返った声で叫んでしまう。
 そうか。それで話がつながった。
 どうしてカーンさんがイブリー氏のこと――名前とか――を知っていたのか。
 向こうから接触してきたのなら、そりゃあカーンさん、知っているに決まってる。
「カーンさん、何言ったの?」
「当たり障りのないことらしいがな」
「わたしがあなたと婚約していることも?」
「ああ」
「……っ」
 それをイブリー氏が知ったのは、わたしに声をかけてきた後なのか前なのか。
 もしもすでに知っていたのにあんなこと言い出したのだとしたら……。
 うわぁ、余計腹立ってきた。足、踏むんじゃなくて蹴っ飛ばせばよかった!
 ふざけるな、フランス人め、日本の女をなんだと思ってるんだ!
 あ、フランス人とかいうとエリックも含まれてしまう。もちろん彼は別よ。除外除外。
?」
「なあに」
 ぷんすかしたままわたしは答える。
 エリックは一瞬ためらったように動きを止めたが、
「何があったのだ?」
 と問うてきた。
「……言いたくない。気分が悪くなるもの」
 もうとっくに悪くなっているけどね。
「私には言えないことなのか?」
「そうじゃなくて、本当に腹が立ったんだもの、わざわざ思い出してまた嫌な思いをしたくないわ。それに終わったことなんだから、もういいじゃない」
「そこまでお前が不快な思いをしたというのなら、婚約者としても放っておけない。教えておくれ、何があったのか」
 今回はやけに粘るなぁ。
「どうしても、言わなくちゃ駄目?」
 ふう、とわたしはため息をつく。
 エリックは両手を膝の上で組みながら、ゆっくり頷いた。
「聞かせてほしい。もしも私を……愛してくれているのなら。私の知らないところでお前が辛い思いをしていたなどと耐えられない。気づけなかった己が不甲斐なくて仕方がないんだ。もっと早く慰めてやれたら、と。しかし何があったのかはっきりしないままでは、慰めようにもどう慰めたらいいのかわからなくてな」
 話し終わるとエリックは唇をかみ締めた。ひどく思いつめている様子が痛々しい。
 どうしてそこまで、とも思ったが、わたしが彼が垣間見せてくれた過去から彼の受けてきた傷や痛みを想像し、悲しい思いに駆られるように、エリックもまたわたしが傷ついていると考えているのだろう。
 実際のところは、傷ついている、というよりもひたすら腹が立っているだけなのだが。
「楽しい話じゃないわ。それに、何度も言うけど終わったことなの。悪質なナンパよ。お金をちらつかせれば女の子はほいほいついてくるんだと勘違いしているような人だったの。わたしはあんな人、大嫌いだし、今後どこかで会ってもすぐに逃げるつもりでいるわ」
「……」
 エリックは黙ってわたしを見つめ続け、ややあって目を閉じた。
 動く気配はない。
 そして彼の雰囲気に呑まれ、わたしも動くに動けない。
 どうあっても話を聞きだすつもりなのだろうか。
 ああ、もう、なんでこんなことになっちゃったんだろう。放っておけば終わると思っていたのに!
「……楽しい話じゃないのよ」
 力なくわたしは言った。
 エリックの目がそろりと開かれる。
「それでも聞きたいの?」
「……ああ。お前のことなら、なんでも知りたいんだ」
 うわ。
 狂おしげな、弱弱しい声。
 思わず心臓がドキンとなる。
 わたしの顔は赤くなっているのだろう。顔が、熱い。
「……わかった」
 わたしは降参と、小さく両手を挙げる。
 でも、すぐには話さない。だって、多分エリック、聞いたら怒るんじゃないかと思うし。
 で、エリックって、その……アレな人だから、極端な行動に出ないとも限らないし……。
 それがすごく心配なのだ。
「話すけど……ひとつ約束してくれる?」
「約束?」
「うん。わたしはイブリー氏は嫌いだし、多分聞いたらエリックも不愉快になるんじゃないかと思うんだけど、報復とか復讐とか嫌がらせとかなんとか色々、しないっていう約束、しれくれる?」
「……」
 エリックは唇をへの字にした。
「無理? できないならわたしは話さないわ」
「嫌いなのだろう? なのに庇うのか?」
「あなたが心配だからよ。関わらないようにすることのできる相手なんだから、そうすればいいんだわ。報復ならわたしが自分でやったもの。……もう一撃お見舞いしておけばよかったとは思ってるけど、でも、もう済んだことなの」
 エリック相手にどこまで我を張れるものかわからないが、これだけは譲れない。わたしのせいでエリックが犯罪行為に走るなんて絶対にさせられないのだ。
 ……わたしのせいで、とか、なんだかドラマのヒロインみたいだとちょっと思ったのは内緒だ。雰囲気に流されないように気をつけなくっちゃ。
「わかった。約束する」
 ためらったものの、エリックはようやくそう口にして、わたしはほっと安堵の息をもらした。
「じゃあ話すわ。あのね……」


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「はじめまして、お嬢さん」
「……はじめまして」
 前方を塞ぐようにその人はわたしの前に立った。
 言葉を交わすことは初めてだったけれど、初対面というわけではない。
 そのことはお互いに了解している。
 とはいえ、この人のことは出くわすごとにどんどん印象が悪くなっていったので、わたしとしてはどうしてもにこやかに接する気にはなれないでいた。
 なので、わたしは相当ふてくされたような顔をしていたと思う。
「私はジャン=オーギュスト・イブリーと申します。郊外にソーダ工場を持っておりましてな。まあ、つまり、怪しいものではありません。お嬢さんの名前を伺っても?」
 通常のわたしなら、ここで名乗っていただろう。
 だけどわたしには黙し続けなければならない秘密があり、そして相対している人物に好感情は持っていなかった。ようは嫌われようと別に構わなかったのだ。
 なので、随分つっけんどんな言い方をしたと思う。
「用件をおっしゃってください。わたしの名前など知らなくても、可能なことでしょう?」
「いや、まあ、それはそうですが」
 その人は鼻白んだ様子で心持ち身を引く。
「まあ、警戒しているのも当然ですな。もちろんそうです、あなたのようにお若い娘さんは、見知らぬ男に対してあまり親しげにするものではない。そうでしょう」
 自分に言い聞かせるように、その人は何度も頷いた。
「……それで?」
「いや、まあ、つまり、私は何度かあなたをお見かけしていました。多分、あなたも気付いていたと思いますが」
「ええ、まあ」
「それで私はあなたのことを、ひそかにラ・アジーヌと呼んでいたのですよ。名前を教えていただけないようなので、その名で呼んでも構わないですかな」
「ラ・アジ……?」
「ええ。東洋……アジアの方でしょう?」
「そうですけど……」
 つまりアジアという意味のAsieを女の名前っぽくしたのか。綴りはla asieneあたりだろう。勝手に名前を付けられるとか、ちょっと気持ち悪い……。
「午後は時間が空いているようですね。よく散歩をしているようだ。気晴らしですか?」
「ええ」
「この近くに住んでいる?」
「そうですけど……住所を教える気はありません」
「ああ、いや、もちろんですよ。教えろなんていいません。まあ、もしも私とあなたが良い友人関係になれたのならば、お互いのアパルトマンを行き来することもあるかもしれませんが」
 そんな日は永久にきません! わたしは心の中で突っ込みを入れる。
「素晴らしい衣装をお召しですね。よくお似合いです」
「ありがとうございます」
「いつも洒落た身なりをしていると感心していたのですよ。ただ、若い娘さんにしては珍しいくらい上品なものばかりだ。華やかなものは嫌いですかな?」
 素直に地味だといったらどうだろうか。この間、メグちゃんにけっちょんけっちょんにされたばかりなのだが。などとこの人に言っても仕方がないことだが、微妙にへこむ。
「気になっていたんですよ。ドレスは素晴らしいのに、アクセサリーをほとんどつけていないでしょう。指輪や首飾りや腕輪なんて、ほしくはありませんか?」
「必要な分は持っています」
 滅多につけないけど。
 それに襟の下になっているけど、鎖に通した婚約指輪も身につけているのだ。なにもないわけではない。
「ああ、そうでしたか……。でも、もっとほしくはないですか?」
「何がおっしゃりたいんです?」
 いつまでもこんなのらくらした会話など続ける気はない。わたしはひとつ息を吸い込むと、睨みつけるようにイブリー氏を見上げた。
「いや、なに、悪い話ではないんですよ」
「では用件を手短に、単刀直入に言っていただけません? そうでないなら、わたしは失礼させていただきますけど」
 駆け引きでもなんでもない。心底家に帰りたくて、わたしは最後通牒を突きつけた。
「ああ、いや!」
 イブリー氏は慌てたように手を上げた。落ち着いて、と身振りで示す。
 ごほん、と咳を一つすると、彼は腕を後ろで組んだ。
「まあ、つまり、あなたの空いている午後の時間をちょっとしたお小遣い稼ぎに使う気はないか、私は知りたいんですよ」
「……お小遣い、稼ぎ?」
 嫌な予感しかしない。そしてそれはすぐに的中した。
「そう。週に何度か私と会ってくれるだけでいい。それで月に三百フランあげよう。私は工場に近いところに屋敷を構えているが、商用でパリに来る事も多いので、この近くにもアパルトマンを借りているんだよ。だから場所のことは心配しなくていい」
 そんなことは心配していない。
 しかしまともに突っ込む気力すらなくなってしまった。
 なんなんだろうこの人。こっちがこれだけ不機嫌そうにしているのに、まるで気にしていないみたいだ。
「興味はありません」
「私は独身なんだ。だから浮気だとかそういうことも心配しなくてもいい。私を君の崇拝者の一人にしてほしいだけなんだ」
「……は?」
 崇拝者? そんな人がいた覚えはない。
 エリックは、まあ、その、たまに盛大に褒めてくれることもあるけど、恋人なんだし、崇拝者とはちょっと違うだろう、うん。
 なんだか混乱してしまったけれど、つまり。
「あなたはわたしに、愛人になれと言っているんですね?」
 言うと、イブリー氏は軽く顔をしかめて、
「ずいぶん明け透けに言うんですな。……まあ、言葉を飾っても仕方がないでしょう。その通りです」
「お断りします」
 わたしは即答した。これで話は終わりよ、さっさと帰ろう。スクリブ通りからだとまずいから、オペラ座経由にしないと。
 踵を返そうとしたが、がちりと腕をつかまれる。
「離してください」
 わたしはもがいた。
「まあまあ、ちょっと落ち着いて、よく考えてご覧なさいよ。君は退屈しているんでしょう? 君を囲っている男がどんな奴かは知らないが、たまにちょっとしたものを買ったりするくらいで、あとは散歩しかしていない。つまり、気晴らしのための小遣いが足りていないんだと思っているんだが? 私と付き合ってくれれば、カフェやダンスホールに行ったり、馬車を借りて遠出することもできる。それに、社交界には興味ないかい? 私の通っているサロンに君も連れて行ってあげよう。そこで磨きをかければ、名流夫人の仲間入りだってできるさ。どうかな」
 勝手なことをぺらぺらとしゃべる男だ。
 まあ、囲われている、という点に関してはわたしとしては否定したいが、状況的にそう解釈されても仕方がないので、黙っておく事にする。
 とはいえ下降線を描いていたイブリー氏への評価は、さらなる急カーブを描き、わたしの中でベスト・オブ・最悪男に見事輝いた。
「退屈していないとはいえません。でもカフェやダンスホールには、行けないのではなくて、行かないというのが正しいです。女が一人で入ってよいところではないそうですから」
「堅気の娘さんなら、そうでしょう」
「わたしは堅気ですが? あなたが何を勘違いしているのか、想像したくもないですけど、わたしは複数の男性を渡り歩くような職種にはついていないんです。おあいにく様!」
 なんとか振り払おうとするが、さすがに男の力には叶わず、掴まれているところが痛くなっただけだった。
 顔をしかめると、ばつの悪そうな顔をしてイブリー氏は手の力を緩める。とはいえそれは、振り払うことができるほどではなかった。
「いやいや、もちろん、君がちゃんとした娘さんだろうということは疑っていないとも。もちろんだとも。ああ、君は本当にいい娘さんだ。わたしの理想だ」
 そして妙ににやついた顔で一人で納得したように何度も頷く。
 ……何? なんなの、この人。本気で気持ち悪い。
 逃げたい。エリック、助けて……。
 それにしても周りには何人も通行人がいるのに、なんで誰も注意してくれないんだろう。
 あからさまに絡まれていると思うのだけど、そうは見えないの? 気がついていないの?
 それとも……見るからにヨーロッパ系ではない女だから、助ける価値がないと思われているの?
 心細くて情けなくて、泣けてきた。
 だけどこの男の前で涙を流すなんて、絶対にするものか。
 そう決意を固めたとたん、ぞわりと背筋が粟立つ。
 イブリー氏が掴んでいた腕をそっと外し、腕の線にそうように指を滑らせ、馴れ馴れしくもわたしの手をぎゅっと握ってきたのだ。
 その感触ときたら! まるで芋虫が這っているようなのだ。
 長くて繊細なエリックの指とは大違いだ。
『さ、触んないでよエロオヤジ!』
 頭に血が昇ったわたしは日本語で叫ぶと、これでもかと体重をかけて、ヒールのある踵でそいつの足を踏みつけた。
「おうっ!?」
 手が外れるのもそこそこに、わたしはダッシュで逃げ出した。男はなんだか大声で叫んでいたが、知った事ではなかった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「それからオペラ座の中に駆け込んだのでなんとか逃げ切ることができたの。家への帰り方が一つだけでなかったことをあの時ほど感謝したことはなかったなぁ」
 なにしろスクリブ通りの入り口を知られるわけにはいかないのだから。
 マダム・ジリーと知り合いでなかったら、帰るに帰れなくなっていたことだろう。
「……そうか」
 ずっと相槌を打ちながら聞いていたエリックは、かすかな声でそうとだけ言うと、ソファに身を沈めるように背を預ける。
 話を聞いている間、彼はほとんど口を挟まなかった。
 やっぱり不機嫌になってしまったか。だから言ったのに。
「聞かなきゃ良かった、って思っているんじゃない?」
 エリックはゆるりと顔をあげる。
「……とんでもない。詳しく知る事ができて良かったと思っているよ」
 空気を少しも乱さないような動きで立ち上がり、わたしの前にくると額に口付けてくれた。
 そしてわたしの頭を抱えるようにして、自分の胸に押し当てる。
「大変な目にあっていたのだな。それにしてもなんと下品な男だ……。怖かっただろう、
「ちょっとだけね。でも平気よ。過ぎたことだもの」
 エリックの指が優しく頭をなでてくる。あまり荒れずにすんでよかった、と安堵しながら、わたしは目を閉じてもたれかかった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 次の日、いつもの時刻に朝食の準備を終えたものの、エリックは部屋からでてこなかった。
よくあること、と思いつつも、ここ最近では珍しいことだった。
 夜の散歩に行くようになってからというもの、エリックはほとんどわたしと同じような生活サイクルになっていたのだ。
 今日もそうだと思っていたので、彼の分のコーヒーもいれていたのだが、このままでは無駄になりそう。
 全部飲むには、さすがに多すぎるわよね。

 結局エリックはわたしが朝食を終えてもでてこなかった。今日はゆっくり寝るみたいだ。
 それもいいでしょう、とわたしは作りかけのガウンを取り出す。
「あ」
 そうだ。エリックが起きてくるのが遅いのなら、上に届いているはずの食料品を取りに行こうかな。最近は昼間の気温があがってきたから、生ものはなるべく早く冷暗所に入れておかないと。
 荷物を持って帰りやすいようにと、バスケットを持ってわたしは玄関に向かった。
 扉を開けようと、内鍵としての閂と、外鍵用のシリンダー式の錠を外し、ノブを回す。
「……あれ?」
 開かない。
 何度かガチャガチャと回したが、扉はうんともすんともいわなかった。
 おかしいなぁ。
 どっちもちゃんと外しているのに。外でなにかが引っかかっているのかしら?
 再びシリンダー錠を動かし、間違いなく鍵がかかっていない状態であることを確認すると、再びノブを回した。
 が、やはり駄目だった。
「どうしちゃったんだろう……」
 何も見えないだろうと思いつつも、扉と枠の間から外を確認してみようと片目をつぶる。
 そしてそこからは案の定、なにも見えなかった。
「困ったなぁ」
 しかしこれで外に出られない、ということにはならないだろう。なにしろここはエリックが作りあげた家だ。扉だって、彼が取り付けたはず。つまりエリックに報告すれば、たちまち、というほどではないにしても、解決する類の問題のはずだ。
 しかたがない、彼が起きてくるのを待とう。
 わたしはバスケットを元の場所に戻すと、ガウン製作の続きに取り掛かった。





アレな人
アレの中にはお好きな単語(短気、癇癪もち、変わり者、犯罪者、etc……)をお入れください(笑)

ソーダ工場のこと
イブリーはナトリウム塩を原料とした第二次工業原料の製造をしています。ソーダという名前ですが、炭酸飲料水を作っているわけではありません。ナトリウムを使った製品はたくさんあるので、食品加工に使われるものもありますが。




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