暖炉の中で薪がはぜる音がするだけの居間で、の消えた扉の向こうをじっと眺める。
 半時間前までは確かにあった暖かな空間が、今では冷たいものへと変わってしまった。そしてその冷たさは、赤々と燃える炎でも払拭できそうにない。
 話し合いとすらいえないようなやり取りのあと、しばらく一人になりたいと言っては自室に篭ってしまった。
 傷ついた眼差しに零れ落ちた涙。
 触れようと伸ばした手は、反射的な拒絶に会い、空を切る。
 彼女は私を責めなかった。
 だが、その態度こそが雄弁に物語る。
 私に対する彼女の愛情が、急速に失われてしまったことを――。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 ――昨晩、恒例と化した夜の散歩を終えた後、が自室へ入るのを待ってからベルナールに指示書を書いた。
 昼間のうちに書いておけば、余計な時間を取られることはなかったのだが、がふいに外へ出てしまわないよう見張っていなければならなかったので、それはできなかったのだ。
 指示書には、ジャン=オーギュスト・イブリーという工場主について調査すること、もしもアンリ・ド・クレールの調査とかち合うようなことがあったら、イブリーを優先することを記す。イブリーの工場の所在地とパリのアパルトマンの住所はナーディルから聞いていたので、それも書いた。あの男が本当のことを語ったかどうか、今のところ、私には確認する術はない。しかし何の手がかりもないよりはましだろう。
 それにしてもイブリーなる男の行動にはひっかかるところがある。ナーディルのことを懸想する娘の愛人――私のことだ――の知人だと認識しているようなのに、そのナーディルになぜ自分のプロフィールをべらべらしゃべったのだろう。
 私には恋をした男の一般的な行動というものを深く理解しているとは言い難いが、それでもそのようなことをしたら恋敵である娘の恋人に、自分の存在を知られてしまうと考えないのだろうか。現に私はナーディルの口を介してイブリーの存在を知り、の話から詳細を知った。こういうことは、ことの次第と状況によっては、決闘沙汰になるのではないか? そのようなことにも思い当たらないほどの愚か者なのだろうか。私には理解できない。
 しかし理解できなかろうとなんだろうと、イブリーの存在は、私には邪魔でしかない。
 奴がしでかしたことは、ド・クレールよりもはるかに悪質だ。うら若い娘に白昼堂々と愛人契約を持ち出すとは、なんと不埒な奴だ。このような男が金満家として堂々と世間に出ていることが腹立たしくて仕方がない。
 排除をするならば、イブリーの方が先だ。
 しかしイブリーを排除するのは、ド・クレールよりも難しい。奴はオペラ座の定期会員ではないので、ド・クレールのように密かに観察する機会を持つことはほとんど不可能なのだ。
 なので、ベルナールの報告を待つ以上のことは、今はできない。
 指示書を書き終えると、いつもの場所へ置きに行った。そして休む間もなく次の作業に入る。
 玄関に新たな錠を取り付けるのだ。が勝手に外へ出ないようにするために。
 もう迷っている時ではない。実行しなければ、いつか彼女は帰ってこなくなる。そんな気がしてならないのだ。
 時間があまりないので、凝ったものはできないだろう。そしてぱっと見には何も変わっていないようにしていなければならないのだ。でなければ、が不審に思ってしまうだろう。
 あまり音を立てないよう、慎重に作業を進めながら今後の行動を計画する。
 まずは地上とオペラ座へ通じる通路の罠を変更すること。それも今以上に強力なものに変えなければ。ド・クレールやイブリーが万が一ここまで来たら、生まれてきたことを後悔するようなものがほしい。
 はここ数日、昼間はガウンを縫い、夜は私と散歩に行くという生活をしているのだから、その後、彼女が眠ってからならば作業時間はとれるだろう。そして最近ではめっきり昼間の外出をしていないので、色々変わったことに気付くまで、ある程度の時間稼ぎができるはずだ。
 だがこのことに気がついたなら、彼女はどうでるだろう。
 喧嘩……に発展するのだろうか。それとも意外に楽天家でもあることだから、夜の間だけでも散歩ができるのならと、気にしないかもしれない。そうであると楽なのだが……。わからない。彼女の行動は、私には読めないのだ。
 もっともらしい理由をつけて言いくるめる事はできると思う。イブリーのことは彼女も嫌っているようなので、不自然なことはないはずだ。
 しかし、もし、いつになったらまた自由に外出ができるようになるのかと問われたら、それに答えることが、私にはできない。
 だがやるしかないのだ。
 昼の世界を忘れさせるのだ!
 本当に私を愛してくれているはずなら、それができるはずだ……。
 私は血の味がするほど強く唇をかみ締めながら、作業を続ける。
 集中し、雑念を振り払おうとするものの、錠を取り付けるなどという簡単な仕事ではなかなか難しい。
 私は何を焦っているのだろう。
 この胸中に満ちる不明瞭な感情は一体なんだ。
 私は彼女を守っているだけのはずだ。
 そのために私がに嫌われるかもしれないという可能性があって、そのことを私は嘆いているのだろうか。
 いいや、そのようなものではない。
 この感情。これは、不安、だ……。
 嫌な符号が気になって仕方がない。
 なぜ、二人もいるのだ?
 アンリ・ド・クレールとジャン=オーギュスト・イブリー。二人の毛色が違う、しかし女好きという共通項を持った男どもが、どうして急に現れたのだろう。
 いや、急に、というのは私の視点でしかない。は随分前から一人で散歩に出かけているのだ。どの時期にあの男どもがに目をつけたのかは、定かではないといえよう。
 違う、問題はそこではない。奴らはを愛人にほしがっていたが、それがただのポーズでないと、どうして私に言い切ることができるだろう。イブリーに至っては、話しでしかその存在を知らないのだ。ナーディルやが嘘をついていないと、どうしたら私にわかる?
(もしも、すでに彼女が私を裏切っていたら?)
 ぞっとするような考えに、頭から血の気が引いた。
 私はこの暗闇に沈む屋敷を出たあとの彼女の行動を逐一把握しているわけではない。そして彼女は、オペラ座の外に出てしまいさえすれば、私の目から逃れられる事を知っている……。まともな顔を持った、凡庸だが後ろ暗いところのない愛人を作ることは不可能ではないだろう。
 がもし、ヴァレリー・マルネフと同類の女だったら……?
 始めは違ったとしても、どこかで変わってしまっていたとしたら……?
 わかるはずがない。私自身が彼女の与えてくる愛に目がくらんでいるというのに。
 ああ、嫌だ。何も考えたくない……!
 私は無我夢中になってひたすら作業をした。
 錠は、夜が白む時刻になる前に完成した。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 休憩を取りに寝室に戻ると、ごろりと寝台に寝転がった。
 もうじきは起きてくるだろう、しかしこんなぐちゃぐちゃにこんがらかった頭のまま、彼女と向き合いたくはなかった。不安のあまりに自ら錠を増やした事を、罠を変更しようとしていることを暴露しかねない。
 両手で顔を覆う。重苦しい感情が胸のあたりに溜まり、私を押しつぶそうとしているようだった。
 そうしているうちにいつの間にか、私は意識を手放していたようだ。重い瞼を開け、おかしな姿勢で寝ていたためにきしむ身体をゆっくりと起こす。
 思わずため息がでてきた。
 頭はぼんやりとしているし、身体は重い。こんなこと、ここしばらくはなかったことだ。
 屋敷が地下にあろうとも、私の生活を成立させるには、度々地上に出ていかざるを得なく、そうなると腹立たしい思いや惨めな思いをすることも少なくはない。しかしとの共同生活が安定してからは、こういったことはあまりなくなってきていたのだ。彼女が私に笑いかけ、肯定と安心を与えてくれたから、たとえどんなに嫌なことがあっても、後にまで響くほどの傷にはならなくなったから。
 そして昔の夢にうなされながら目を覚ました時も、がいてくれたから、夢は夢だとすぐに割り切る事ができた。
 だが、どうやらその魔法は途切れてしまったようだ。
 安眠とは程遠いながらも睡眠をとったことで、私の頭の中でも幾ばくかの整理がついたようである。
 現在の私に強い不安を与えているのはド・クレールでもイブリーでもない。なのだ。
 そのことを私ははっきりと認識した。
 彼女の本音がわからない。それが足元を揺るがすほどの強い不安感となっているのだ。
 私は一つ頭を振ると、のろのろと立ち上がった。ポケットから時計を取り出して時刻を確認する。まだ昼前だった。
 昨夜の散歩から帰ってきたときのままの格好――夜会服の上着を脱いだだけだ――なので、しわになった衣服を取り替える。
 部屋から出れば、と会うことになるだろう。ただでさえすっきりしない気分なのだ、これでさらにみっともない姿をさらすなどできるわけがない。
 着替えと洗面を済ませ、いつもの通りに仮面をきちんとつける。重苦しい気分で居間へ足を踏み入れると、そこには誰もいなかった。
 しかしテーブルは作りかけのガウンの材料や道具でいっぱいになっている。ちょっと作業を中断して、どこかへ行ったといった様子だった。
(そんな風に見せかけているだけかもしれない)
 瞬時によぎったのは、邪推じみたもの。
 いくらなんでもあんまりだとすぐにそれを振り払い、こんなことを考える自分自身を嫌悪する。
 そして彼女に会えれば、こんな馬鹿な動揺は消え去るだろうと思いなおす。そこでその場で待つことはせずに、を探しに行く事にした。たいして広い家ではない。すぐにみつかるだろう。
 まずは彼女の寝室へ行く。淑女に対して失礼かと思ったが、席を外した理由を、生物ならば避けて通ることのできない生理的なものかと推測したからだ。しかしノックをしてから開けたものの、何の物音もしなかった。
 次にはキッチンへ向かう。昼食には少し早いが、何か作っているのかもしれない。いや、休憩のためにコーヒーでも入れているのかも、と考えた。予想は当たり、彼女はお茶を淹れる準備をしていた。
「おはよう、エリック」
 にっこりとは笑う。
 いつもと変わらぬ姿、いつもと変わらぬ声。良かった、やはりだ。
 私を裏切っているなどありえない。全く、これだから夜に考え事などするものではないというものだ。必要以上に感情が高まって、自分で自分が制御できなくなる。
「おはよう。……ここにいたのか」
 何も気負っていない彼女に思わず安堵し、本音がこぼれる。しまった、と思ったが、は少しも疑問に思わなかったようだ。
 お茶を淹れようとしていた、という彼女は、私の朝食の準備もしてくれるつもりらしい。たいして食欲もなかったが、押し切られる形で果物が添えられ、二人そろってのお茶の時間となった。
 しかし、会話が弾まない……。
 さきほどに比べれば多少は落ち着いたものの、不安感は完全に拭い去れたわけではない。ちょっとしたきっかけでもあれば、すぐにぶり返しそうだった。
 テーブルの向こう側のを眺める。
 軽く俯いてカップを皿に戻した彼女は、すぐに目線を上げた。視線が合ったことに気がつくと、は軽く笑む。
 途端にずしり、と自己嫌悪の波が押し寄せてきた。
 がヴァレリー・マルネフと同類の女だなどと、いくらなんでも疑いすぎではなかろうか。彼女に知られたらひどい侮辱だと憤慨されること請け合いだ。
 バルザックの小説『従妹ベット』に登場するマルネフ夫人は、夫がいる身ながらもその夫公認で娼婦同然の行為をしている女だ。描写を読む限り、彼女は美しい容姿を持っているのだろう。しかし夫人の最大の武器はそのようなものにはない。彼女の強みは、計算された演技にある。いってしまえば、個人相手に女優のようなことをしているようなものだ。自分に興味を示した男の好みを探って、それに合わせた行動をする。すると男は理想的な女が現れたのだと勘違いするのだ。男の心をしっかりと掴んでしまえば、あとはもう財産を搾り取るのは簡単である。男はその演技に気付いても彼女から離れることができず、結果として破滅するしかなくなる。
 ……まさかな。
 心の中で、私は自嘲する。
 はなにもわからない状態で私の元へやってきた。風変わりなところはあったが、それは彼女がこの時代の人間ではないせいだ。そのが、いくら見知らぬ時代の見知らぬ男の元へ放り出されたからといって、いきなりヴァレリー・マルネフの如き振る舞いをするなど、無理というものだろう。……頭の良い娘であることは、否定しないが。
 ……まさか、な。
 お茶の時間が終わったので、少々頭を冷やす意味も込めて片付けは私がやることにした。
ひんやりとした水に触れていると、自分の濁った考えが洗い流される気がしてくる。
 しかしそれも束の間、また嫌な考えが頭の中を占めていった。一体どうしたらいいのか、自分でもわからない。
 私にはこれまで恋人などいなかった。だから男女間のいざこざとも無縁だったのだ。
 世の男たちは、恋人に対する疑惑を、どうやって鎮めているのだろう。まさか鎮めるなどということはせず、別れてしまうのか? 女は人間の半分を占めているのだ。ただ一人に執着する必要も、ないといえばないだろう。しかし私にとってのような女は、二度と手に入りはすまい。私に彼女を手放すことはできない。
 片付けが終わり食堂に戻ると、まだはそこにいた。私が来るのを待っていたのだろうか。可愛いことをする。
 いくばくかの満足感とともに、不安が少し収まる。現金なものだが、昨日から何度も感情が上下していて、自分でも辟易していたところだった。しばらくこのまま落ち着けばいいのだが。
 居間に移動している最中、がそわそわしていることに気がつく。どうしたのかと問うより先に、彼女の方から口を開いた。
「あのね、エリック」
「どうした」
「玄関が開かないの。壊れたのか、外で何かが引っかかっているのかはわからないんだけど。後でいいから、見てくれない?」
 なぜなのだろう。
 起きてほしくないときに限って、起きてほしくない事が起きるのは。
「どうかしたの?」
 は私を見上げ、不安そうに眉を寄せる。
「どこへ行こうとした?」
 やはり彼女はヴァレリー・マルネフの同類だったのだろうか。
 私の隙をついて、外の世界で、崩れていない顔の男と一緒にいるのだろうか。
 私は捨てられるのだろうか。
 いつかはここから出てゆくつもりなのだろうか。
「どこへ行こうとした」
 答えない彼女に、もう一度問う。
 困惑したように首をかしげている様子は、とても愛らしい。
 それもすべて、計算なのか?
 私はお前にもてあそばれているのか?
「答えなさい」
 強く言うと、ようやく彼女は答えた。食料などの荷をとりに、上まで行こうとしていたのだと。
 そういえば、最近では私もすっかり朝方に転向していたので、何時間も荷物を放っておくということがなくなっていたのだった。は、気を利かせただけなのだ。それが事実であるのならば。
「本当に?」
 だから、私は聞いた。彼女がそうだと答えてくれさえすれば、それで良かったのだ。
 だが彼女は目を見開き、じっと私を見上げただけ。
 そうしてしばしの沈黙のあと、唐突にこう言った。
「開かなくしたのは、あなたなのね」


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 それから短いやりとりの後、は自室に篭ってしまった。
 すべてのことが予想外のことばかりで、頭の整理が追いつかない。
 の態度が不可解だ。
 無言で泣かれてもわからない。
 不満があれば文句を言えばいいのだし、たいしたことではないというのならば、泣いたりはしないだろう。
 やはりこれは……私の予想が当たっていたということなのだろうか。
 婚約をしたものの、私のような犯罪歴のある醜い男と共に暮らすことが、我慢できなくなっていたのだろうか。
 だから優しい態度で私に不信感を与えないようにしつつ、乗り換える先を探していたのだろうか。
 そして、私にばれたと思ったことで、何も言えなくなったと……? 「ごめんなさい、エリック」というあれは、やはりそういうことなのか?
 答えの出ない問いが頭の中で回る。
 ソファに背を預けて、上を仰いだ。天井は明るい色合いに塗られてはいるものの、ぼんやりとした明りしか届かないため、どこか憂鬱めいて見える。
 彼女はこれからどうするだろう。
 そして私は、どうしたら良いのだろう。
 何も気付かなかったふりをして、これまでと同じように振舞えばいいのだろうか。
(いいや、無駄なことだ)
 これまでの私たちは壊れてしまったのだ。いつもと同じにしたところで、何もなかった頃に戻れるわけではない。
 それにしても彼女が浮気をしたかもしれないのに、彼女に対して怒りを覚えない自分を意外に思う。心のどこかではいつかこのようなことになると思っていたのだろうか。私のような男を愛する女など存在するわけがないと。
 希望があれば、それにすがってしまう。そして思うような結果が出なかった場合には、落胆する。傷つく。しかしはじめから期待していなければ、そんなこともない。
 私は、の愛を最初から信じていなかったのだろうか。あるように見せかけられたものを、あるのだと思い込んだふりをしていただけなのだろうか。お互い騙しあい、満足しあっていただけなのだろうか。
 なんという茶番劇だろう。
 ふいに何もかもが堪らなくなって、私は立ち上がった。勢いのまま扉を開けようとするも、ノブを掴む手が止まる。
 が泣いている。
 押し殺しているものの、聞き間違えようもなかった。
 彼女がこんな風に泣くのは初めてかもしれない。
 断罪された乙女が無実を訴えているようなその響きに、私の胸は罪悪感でぎりぎりと痛んだ。
 そうだ。彼女が潔白だとしたら、私のしでかしたことは取り返しのつかない愚策だったということになる。
 自ら彼女の信頼を損ね、嫌われる方向に持っていっただけではないか。
 しかし……一度疑いに火がついてしまった以上、もう無心に彼女の言葉を信じることは……できない。
 結局、は一日中部屋から出てくることはなかった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 次の日からというもの、私たちの生活はちぐはぐになった。
 少ないながらも会話もするし、一緒に食事もする。しかし活気はない。
 当初は私と顔を合わせるのが苦痛だとでもいうように、は居間や食堂、キッチンでなければできないことを終えると、さっさと自室に戻ってしまった。これでは無言であてこすられているようで不愉快だったので、居間にいるように言うと、その通りにした。
 だが以前のような、無言状態が長く続いていても、それが気にならない状態とはほど遠く、ひたすら苦痛なだけである。
 そしてはガウンを作ることをやめてしまった。
 気力が起きない、と言っていたが、それが本心なのかどうかはやはりわからない。
 悲しげな顔で、ただぼんやりとしているだけの時間が続いている。本を手にすることもあるが、ページを繰る手が止まりがちだった。ここまで無気力な彼女も初めてだ。
 夜の散歩も拒否され、我が家は暗く重たい雰囲気に支配されている。
 アイシャやが来る以前にただ一人この地下の屋敷で暮らしてた私は、わずらわしい事のない気楽さをありがたく思う反面、時折静寂の激しさに耐えかねて衝動的に家を出たことがあった。少しでも音が戻ると落ち着くので、行き先はせいぜいオペラ座や地上の入り口程度であるが。
 しかし今は別の意味で家にいたくない。
 愛するものに疎まれているのがわかっていて、どうしてそばにいられよう。
 きっと彼女も同じだろう。それでも、一人暮らしに戻るつもりは、私はないのだ。
 を愛している。愛されていないとはっきりしたとしても、愛し続けるだろう。
 彼女だけが私に温もりをくれた。微笑みと抱擁とキスを与えてくれた。
 そこには計算があったのかもしれない。そうであったとしても、すべてが嘘だったとは思いたくない。の存在に、私はなんど救われたことか。
 失いたくはない。例え元の関係には戻れなくとも。
 
 失いたくないのなら、絶対に手放さないことだ。
 それしか、私には方法がない。




さらに悪化……。
どん底まで落ちたら後は浮上するだけ、になるのを祈る。



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