いつになく気を張っているのが自分でもわかる。
 エリックの地下屋敷へ向かう私の足は重くぎこちない。
 前回の面会日から一週間経った。その時に私は、非常にまずい失敗をしてしまったのだ。それがエリックを無慈悲な犯罪に駆り立ててしまったのではないかと悔やんでいるのである。
 しかし、誰が思うだろう。
 話が通じていると思ったら、まったく違う事を話していただなんて。
 さんを愛人にしようとしている男が同時期に二人も出てくるなんて、予想できるものか。
 だが、あいつは知ってしまった。その衝撃がどのように変化したのか、見極めなければ。
 そういった心配事もさることながら、私には他にも悩み事があった。
 イブリーに相変わらず付きまとわれている。
 そしてどれだけさんを必要としているか、いかに彼女の魅力に自分が参っているのかを延々と語るのだ。うっとうしいことこの上ない。
 しかし無知というのは実に幸せなことだと思う。イブリーは自分が世界でも有数の犯罪者に数えられてしかるべきエリックに、狙われているだろうことを知らないのだから。あいつに本気で狙われたら無事で済むはずがないんだ。逆に言えばイブリーがのんきな丸顔をさらしながらべちゃくちゃしゃべっている間は、エリックはまだあの忌むべき罪に手を染めていないとわかるのだが。
 しかしどうせならもう少し当たり障りのない穏やかな方法で知りたいものだ。イブリーの死刑執行書にサインを押すような真似をしてしまったのは私であり、その責任を取るという意味では私は彼の安全を気にするべきなのだが、あの御仁はどうにも好きになれない。自己主張が大げさすぎる。
 そんなことを考えながら、地下へ続く階段を延々と降りていった。
幾度目かの踊り場を通過しようとした時、ふっと違和感を覚えた私は、反射的に跳び退る。だがすぐ後ろは階段だったため、バランスを崩してそこに倒れこんでしまった。硬く冷たい石段に身体を打ち付けてしまい、痛みに顔をしかめる。
 しばらく石段に座り込んで、痛みが和らぐのを待った。それからそろそろと立ち上がって、踊り場にゆっくりと明りを近づける。
 そこは何の変哲もない踊り場だった。ほどほどの大きさの石を組み、隙間をモルタルか何かで埋めている。
 だが何か変だった。足を置いた途端、堅牢なはずのその踊り場の床面が、わずかだが揺れたような感じがしたのだ。こんなことはこれまでなかった。 
 気のせいかもしれない。しかしここは既にエリックの手の中。彼の地下帝国の一部だ。安易に油断することがどれほど危険か、私は知りすぎるほどに知り抜いている。
 舌を出したら舐めることも出来そうなほど、顔を近づける。ゆっくり、ゆっくりと明りを動かし、何か変わったところがないかを調べた。
 石の間を指でなぞり、そっと押してみたりもする。
「……!」
 あった。変化を見つけた。
 床面に切れ目が入っている。踊り場は階段と階段をつなぐという場所柄、歪な形をしているのだが、切れ目はその内側に四角く入れられている。ひと一人が立てるくらいの大きさだ。
 こんなものはこれまでなかったはず。
 私はエリックがオペラ座の地下に住み着いていると知った時から、オペラ座中を調べまくったのだ。彼の罠の凶悪さは知っているので、壁も床も残らず目を通した。それでもまだすべてを見つけていないことはエリックの態度からも明らかなのは癪に障るが。
 とはいえ私もある程度、エリックの細工を見破る自信はある。これは最近できたものだろう。場所から考えると落とし穴か何かだろうか。あいつは切り穴細工が得意だからな。
 しかしエリックの仕事にしてはずいぶん荒い。彼の細工は、こんな風に言うのもなんだがそれは見事なもので、作動スイッチなどがあるものは、どこにあるのかまったくわからないくらい周囲に溶け込んでいるのだ。こんな風に切れ目が切れ目だとわかるなんて、彼らしくない。
 なぜこんなことになっているのだろう。
 考えてみて、私は一つの推論を導き出した。
 これは作りかけなのではないか、と。
 この踊り場の仕掛けがどのようなものかはわからないが、最初から仕掛けを施すつもりでこの石段を作ったわけではなく、すでに出来上がっているものに追加するのだ。
 石を切ったり削ったりするだけでもずいぶん時間がかかるだろう。彼自身、優れた石工としての能力があるにしても、それは変わるまい。第一、彼は一人で作業をしているのだろうから、尚更だ。
 私は腕を伸ばし、明りを階下へ向けた。
 らせん状に渦巻き、地下へと続く階段。すでにここには太陽の明りなど届かない。
 彼の住処までは、あと半分ほどの道のりがある。
 ランプの炎で照らされているものの、その光はあまりにも儚く頼りない。地獄が口を開けて待っているような暗闇に、萎縮しているようだった。
 この先を進むべきか迷った。
 私の想像通り、ここにエリックが仕掛けを作っている途中だとしたら、先に進むのはあまりにも危険すぎる。
 なぜなら、エリックが新しい罠を作り始めたのが、ここだけとは限らないからだ。
 もっと彼の家に近いところにすでに完成したものがあって、侵入者を待ち構えているかもしれない。
 だとしたら近付くのはまずい。それがどのような働きをするのか、私は知らないのだから。
 彼はあの住処を誰にも知られたくないのだ。私が近付けば罠が解除されるようになっている、なんて甘っちょろい期待など持ってはならない。もし少しでも彼が私を厚遇してくれる気があるのなら、とっくの昔に私は彼の屋敷に招待されていたことだろう。
 私は唇を噛むと、明りを掲げる腕を下ろした。
 後ろ髪を引かれる思いで、その場を後にする。
 このまま訪ねていっても、彼は私に会ってはくれまい。そんな確証めいたものが頭をよぎる。
 そしてこの仕掛けが、彼の気まぐれによってたまたま作られているものだ思わなかった。
 あいつは怒っている。イブリーに対して。ド・クレールに対して。さんを奪おうとするすべてに対して。
 そして私は、そんな奴をどうにかして止めなくてはならない。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 オペラの上演が始まる頃、馬車と人の波に紛れるように建物に近付く。
 明りを付けないままスクリブ通りの入り口へそっと入り込んだ。
 エリックは夜にさんを連れて散歩に出かけるという。
 何時に家を出て何時に帰宅をするかわからないが、ここで待っていればそのうち会えるに違いない。もし散歩に出かけないにしても、落胆することはないだろう。エリックだけは外に出てくると私は予想している。踊り場の仕掛けを作るために。
 彼が動くなら夜の間ではないだろうか。作業をするのならば明るい昼間の方がいいとは思うが、場所柄、そこは昼間だろうと光は差さない。ならば彼にとって動きやすい時間帯である夜にやっているのではないかと、そう思ったのだ。
 足音を忍ばせて、例の踊り場の少し上で待機する。
 春真っ只中ではあるが、夜の、しかも地下とあっては暖かさもあまり届いてこない。念のためにコートを持ってきていてよかった、と私はそれを羽織る。
 とはいえエリックが出てこなかったら無駄足だ。肌寒い中、眠い思いをしてこのようなことをしているなど馬鹿げている。
 あいつが出てくるまで昼も夜もずっと待ち続けるわけにもいかないので、私は自分の中で見切りをつける時間を決めた。
 それは朝、ジュール・ベルナールが来た時だ。彼はエリックたちの食料品を届けにほぼ毎日スクリブ通りの入り口まで来ているという。エリックに会えなくても彼ならエリックが何をしようとしているか、知っているはずだ。知らなくとも何かしら命令を受けているに違いない。それを聞き出せれば、何が起こっているのかははっきりとしよう。
 コートの襟を立てて、私はしゃがみこんだ。
 そして用心のために、首の周りを両手で覆う。パンジャブの投げ縄が飛んできても締まらないようにするためだ。
 パンジャブの縄は道端に落ちていても誰も注目しないようなただの皮ひもだが、エリックが持てば強力な殺傷力を持つ武器になる。おまけに投げ縄という特性上、離れたところにいる相手の方が仕留めやすい。やっかいな武器ではあるが、しかし最初の攻撃さえ防げれば、簡単にやられることはないのだ。
 とはいえ、攻撃をかわしてそれを奪えばエリックを無力化できるかといえば、そういうこともない。彼は独り立ちしたその日から、自分の身を自分で守ってきたのだ。ナイフなども使うが、いざとなれば腕一本で相手を倒すこともできる。
 昔、まだ私がペルシアにいて、エリックがシャーに仕えていた頃、パンジャブの縄を使った殺人ショーに飽きたシャーに彼はこう命じられたのだ。武器なしで戦ってみろと。
 対戦相手は死刑囚。もしも囚人が勝ったら罪を許されて解放されるとあって、相手は非常に興奮していた。身長こそ十人並みだったが、それなりに喧嘩慣れしているとわかる体格の男だった。一方エリックはといえば、誰の目にも明らかなほどやせ細っている。
 シャーはエリックの才能を賛美し、色々な形で試していたが、こればかりは無茶だと思った。これでエリックが負けたらどうするつもりなのだろうと心配した私を余所に、彼は涼しい顔で相手を見据え、そして。
 二分と経たずに囚人を行動不能にしてしまった。
 何をどうやったのかはわからない。ただ何気なく男の肩に触れただけのように見えたのに、その腕があらぬ方向に曲がり、外れたか折れたかというような音を立てたのだ。続けて倒れた囚人の足を軽く蹴っ飛ばした。ように見えたのだが、男は激しい叫び声をあげて口から泡を吹いた。
 それで終わり。あっけないものだった。
 囚人は失神していただけだったが、勝負を続けることは無理だと判断された。
 そして男は処刑された。気絶した状態ではなく、目覚めるのを待ってから。
(嫌なことを思い出してしまった)
 陰鬱な思い出に、ため息が漏れる。
 私の人生の大部分はペルシアで作られた。必然、思い出すものといったらかの国での出来事が多くなる。
 あの国では幸せなことがたくさんあった。
 追放されるという形で故郷を離れたが、シャーを恨んだりしたことはない。一種の清清しさをもって私はそれを受け入れたのだ。
 なぜなら、幸福と同じくらい、悲しく辛いことも多かったから。妻も息子も失って、信頼できる友人などもおらず、ただシャーの機嫌をとるために神経をすり減らすことに、ほとほと疲れ果てていたからだ。
 今の生活に満足しているかといえば、それも否だが――文句を言っても仕方がないが、慣習の違いや気候の差などといったものには未だに慣れない。それに私の生活を成立させているのは、十分とはいえない額の年金だけなのだ――それでも眼前を血が流れることがずいぶん減ったことだけは確かだ。
 血が流れるのは、気分の良いことではない。そして気分だけの問題ではなく、宗教的な問題でも、法律的な問題でも、意識して他人を害することは十分罪になるのだ。
 このまま放っておけば、エリックはその罪を再び犯そうとするのではないか。
 別に誰に頼まれたわけでもないし、人類愛だなんてご大層なものも感じていない。
 だが彼は私の友人だ。だから止める。それだけだ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 どれくらい時間が過ぎただろう。
 耳に届く地上のざわめきから、オペラの上演が終わったらしいことがわかった。
 時計を出して確かめたかったが、いつエリックが来るかもしれないので、ぐっと堪える。
 それにしても参った。
 腕をずっと上げっぱなしなので疲れてきたし、長い間肌寒い中にいたので、少々切羽詰ってきている。
 まさかこんなところで用足しをするわけにもいかないので、一度上に行くかと私は腰を上げた。今夜は長期戦を覚悟しなければ。
 すっきりしてまた元の場所に戻る。だが地上の喧騒がすっかりなくなる頃には、今度は睡魔に襲われていた。昼寝をしておけば良かったのだろうが、昼間は今夜のことで頭がいっぱいでとても眠れそうになかったのだ。。
 うつらうつらしているうちに、がくんと頭が垂れ下がる。その衝撃ではっと我に返り、こんな事では駄目だと己を叱咤した。そしてまた元の体勢に戻る。
 その時、空を切る音が耳をかすめた。その音を認識したかと思ったら、手首に衝撃が走る。
「やめろ、私だエリック。ナーディルだ!」
 パンジャブの縄だ。
 とっさに私は叫んだ。
 石に囲まれた空間に、自分の声がうわんと響く。焦った頭でそれを他人事のように聞いていると、締まっていた縄がしゅるりと緩んだ。
 危なかった……。あのままうとうとしていたら、首が絞まっていたところだったぞ。さすがの私でも、半分寝ぼけたまま手を上げ続けるなんてことはできないからな。
「こんな夜中に何をしているんだ」
 闇の中から響いたのは、エリックの声。
 靴音もさせず気配だけが近付いてくる。まるで声だけの存在がそこにいるかのようだった。
「君を待っていたんだ。それより明りをつけてもいいかい? 真っ暗ではどうも落ち着かなくて」
 なんとか息を整えて言うと、彼は好きにしろ、と呟く。
 そこで好きにさせてもらうべく、持参したランプに明りを灯した。
 オレンジ色の炎がぼんやりと周囲を照らす。
「君にしてはずいぶんだらしがない格好じゃないか」
 思わずそんな言葉が漏れてしまう。エリックは嫌そうに眉をしかめた。
 エリックはシャツとズボンだけという非常に寒そうな格好をしているのだ。ベストすら着ていない。身だしなみには随分気を使っている奴にしては、珍しい。
「余計な世話だ。それで、何の用だ?」
「昼間の面会ができなかったので、それをしに」
「こなかったのはお前の勝手だ。私がそれに付き合う義理などない」
 できるだけ明るい口調で言うも、エリックはにべもない。
「そりゃそうかもしれないが、行くに行けない状況だったんだ」
 エリックは半分仮面で覆われた顔をしかめてこちらを見ている。私は顔を引き締めて告げた。
「私だって、命は惜しいからね」
「……ふん」
 エリックは顔をそむけると、重たそうな荷物を床に降ろした。
「もうここ以外にも新しい罠ができているのかい?」
「お前に答える必要などない」
 エリックはそっけない。
「かもしれないが、答えてもらわないと。来週以降の面会に差し支える」
 真面目に返すと、彼はにやりと笑った。
「だったら終わりにすればいいさ。いいきっかけだ」
「私が行かないと、さんが不審に思うんじゃないかい? そういえば彼女は元気か? 先週は随分丁寧に挨拶してもらったから、今週も期待していたんだが」
「――彼女は元気だ」
 エリックの顔から笑みが消える。
「とても」
 そして固い調子で続けた。
「なるほど」
 私はそうとだけ答えた。彼の様子からすると、やはり何事かがあったのだろう。さんはどうしているだろうか。どうにかして様子を知りたいものだ。
「今夜は散歩へ出かけないのか?」
「ああ。風が冷たいからね。女性の身体にはよくないだろう」
「そうか」
 本当のことだとは思えないが、この件についてはこれ以上追求してもはぐらかされるばかりだろう。ならばそれ以外のことを聞き出さなければ。
 エリックが苛ついているのが感じ取れたが、私は気がついていない振りをする。
 彼が癇癪を起こして帰ってしまったら、必要な情報を得られなくなってしまう。慎重に振舞わないと。
「私の方は散々だったよ。相変わらずイブリーにつきまとわれているんだ。……ああ、すまない。君にとっては気持ちのいい話ではないな」
 怒鳴り散らしたいのを堪えるように唇を強く引き締めていた彼は、眉間に寄せていたしわをますます深くさせながらも、小さく頭を振った。
「いいや。興味があるね。聞かせてくれるかい?」
 声は震えている。どれだけの感情を内に秘めているのか、想像するだけでも恐ろしい。
 私は肩をすくめて迷惑な知人に対する嘆きをアピールした。
「イブリーは大体午後の二、三時間をオペラ座周辺で過ごしているみたいなんだ。初めて会った日はともかく、二日、三日と経つと無駄口の多さに閉口してしまってね。どうにかして彼に会わないで済むように、ここを訪れる時間をずらしてみたんだよ。まあ、それでも何度か遭遇してしまった。それで彼がいるおおよその時間帯がわかったんだがね。ちなみに日曜日は来ないようだ」
「たいしたことのない情報だ」
 ぼそりとエリックが失礼なことを言う。
「だったらベルナールに詳しいことを聞くんだね。どうせ調べさせているんだろう」
 嫌味たらしく言うと、彼はむっつりと口をつぐむ。図星か。
「ま、彼の調査はともかく、私の方はすでに何度もイブリー本人と接触しているからね。人となりに関しては私の方が詳しいという自負はあるよ。とにかく見事なほどの俗物だ」
 エリックは無言で私を睨みつける。私は平然と受け流している風を装った。さあ、いよいよ正念場だ。
「ところでエリック、この踊り場には一体何ができあがるのかな」
 話をいきなり別の方向へ飛ばしてみた。案の定エリックはうんざりしたような顔になる。
「それが交換条件というわけか?」
「私だけが話すなんて、フェアじゃないだろう?」
 エリックはしばし考え込んだが、しかし頭を振った。
「お前の情報と私の秘密が釣り合うとは思えない。ここに何かがあるのには気がついているのだろう。だったらそれ以上は自力で見つけるんだな」
「それはないんじゃないかい。君に秘密が多いのは知っているが、だからといって私の情報がそれ以下だと決め付けるどんな根拠があるというんだ?」
「お前に聞かずとも、いずれわかることだ」
「では私は帰ることにしよう。ここに残っても埒が明かないようだから。さんによろしく伝えてくれ。それから午前中なら散歩をしても大丈夫だということも」
「そんなこと、わかるものか」
 反射的にエリックは言う。それで彼がずいぶん動揺していることがわかった。
 もう一押ししてみるか?
「どう考えるかは彼女が決めることだ。判断するのは君じゃない」
 言い捨てると、私は階段を上り始めた。
 エリックが食いついてくるかは賭けである。
 しかし駄目でも悲観することはない。朝になったらもう一度来ればいいのだ。ベルナールに頼み込んであいつからの指令を聞きだそう。
 ……エリックのあの様子じゃあ、さんが自分から外に出ないようにしているのか、怪しいものだからな。そのあたりを突けば、いかに主人を恐れているベルナールといえども、女主人の不遇を見過ごしたりはしないだろう。少なくとも、私の話を聞いてくれさえすれば、イブリー自体は警戒するほどの相手ではないということがわかるのだから。
「ナーディル!」
 押し殺した、しかし張り詰めた声が背後から追いかけてくる。
 私は複雑な勝利感を覚えながら、ゆっくりと振り返った。
「なんだい?」
 肩をそびやかしてエリックが数段下に立っていた。
「それで、イブリーというのはどんな男なんだ?」
 明りが遠のいたので、彼の姿はシャツと仮面の部分だけがぼんやりと白く見えるばかりだ。知らぬ者が見たら、やはりこう思うだろうか。幽霊が出たと。
「エリック。ここには何ができるんだい?」
 私はできるだけ穏やかな声で再び訊ねた。
「思い返してみれば、君が仕掛けを作っている途中の場面に立ち会うのは初めてかもしれない。それだけでも興味があるね」
 私は小さく笑った。
「建物はともかく、仕掛けは、なんだかいつの間にかできあがっていたから。本当に君には魔法が使えるのではないかと思ったこともあったよ」
「そんなものは使えない」
「わかっているさ。それだけ君の腕前が見事だということを言いたいんだよ。それで、答えは?」
 エリックは大きく息を吐いた。
「ただの落とし穴さ」
「ただの?」
「複雑な仕掛けをこのあたりに作ってもしかたがないだろう。しょっちゅう壊れていないか、確認しなければならなくなるからな」
「なるほど」
 私は続きを促した。
 エリックは背を向け、階段を降りる。
「おい、どこへ……」
「降りて来い。実際に見たほうが早いだろう」
 そっけなく彼は言った。
「あ、ああ……」
 まさかエリックが自ら仕掛け内容を暴露してくれるとは思わなかった。どのようなものができあがるのかを教えてくれるだけだと思っていたから。驚いたが、それ以上に喜んでいる自分がいる。
 エリックは踊り場に膝をついた。床に手をつき、切れ目のあるあたりをぐっと押す。すると反対側が持ち上がった。それを外して脇に置くと、彼は下を見るように指差した。
 覗きこんでみると、そこにはさして深くもない穴が口を開けていた。
「すいぶんちゃちな落とし穴だな。こんなんじゃあ落ちたとしても、私でも這い上がれるよ」
「まだ途中だ。最終的には二メートルほどの深さになる」
 むっつりと彼は答える。
「……ああ、それもそうか」
 馬鹿なことを言ったと自分でも思った。エリックが子供のいたずら程度のものをわざわざ作るわけがないんだから。
「そっちの蓋は? ずいぶん軽そうだ」
 私はエリックの方に近付き、立てかけてあるさっきまで床だったものに手を伸ばした。エリックは止めなかった。
 持ち上げてみる。それは厚さに見合わず、
「……随分軽いな」
 意外だったので、思わず声が出た。
「板の上に薄い石を貼り付けたんだ。床と同じ色になるように、適当に色づけもした」
「へえ……」
 だから揺れたのか。それにしても別の床になっていたなんて、気がつかなかった。床なんてどれも同じに見えるのでしょうがないといえばしょうがないのだが、なんだか悔しい。
「それは完成までのつなぎだ。まさか作業を中断している間、穴が開いたままにはしておけないだろう? 目の前にいる誰かさんのように、この階段を使おうとする奴がいないとも限らないんだから」
「で、どうなったら完成になるんだ?」
 当てこすりは聞き流して、質問をする。流したことには触れず、エリックも淡々と答えた。
「穴は、さっきも言ったが二メートルほどにする。幅はこの切れ目と同じだ。内側はできるだけ綺麗に削ってでこぼこがないようにする」
「君は凝り性で完璧主義だからな」
 多分ここの仕掛けを作るのはここ一週間で思いついたに違いないのに、細部までこだわるとは彼らしい。しかしエリックは真顔で答えた。
「いや、無駄にでこぼこがあるとそれを足がかりにして登ってこようとするだろうから、それを防ぐためだ」
「……ああ、そう」
 褒めた自分がバカだった。私はため息をつく。
「この幅だったら、手足を突っぱねて登る事も難しいからね。こうしておけば自力で脱出するのはまず不可能だ。それに……」
 エリックは私の手から床もどきを奪い返した。
「最後の仕上げとして、この仕掛けの蓋ともいうべきものはモルタル製の頑丈なものを作ろうと思っている。表面には床と同じ模様をつけてね。重いから、不十分な姿勢でこれを押し上げることはできないだろう。そしてこの仕掛けは常時作動するんだ。というよりも、仕掛けが作動しないようにしない限り、通りかかったものは誰でも落っこちるんだよ。この仕上げが大変なのさ。なにしろ解除スイッチは壁に作るつもりだから、そっちも少々壊さないといけないからね」
「時間がかかりそうだな」
「ああ。さすがにね。もっと簡単にもできたんだが、罠にひっかかった愚か者がいた場合、後始末が大変になるから、それはやめにしたんだ」
「どんなものなんだ?」
 興味を覚えて、私は訊ねる。
「蓋の部分を鏡にするんだ。何の仕掛けもない、普通の鏡だよ。天井が写るから、そこにあるのが鏡だとはまず気付かれない。そこを歩いて通ろうとしたら、君にもすぐに想像つくだろうが、体重を支えきれずに鏡は壊れる。子供ならば平気かもしれないが、大人はまず無理だ。そして哀れな生き物は割れた鏡ともども穴の下、さ。運が悪ければ出血のしすぎで死ぬだろう」
「……聞くんじゃなかったよ」
 穴の中がすでに血に染まっているように思えて、私は顔を背けた。エリックは悪びれもせずに、肩をすくめる。
「それで、この仕掛けを解除する方法は?」
 話を元に戻す事にして、私はエリックに向き直った。
「壁に解除スイッチを作るといったじゃないか。まだそっちには全然手をつけていないから、完成したら教えるよ。後は自分で探してくれ」
「話をそらすなよ」
「そらしてはいない。事実だ。この穴すら掘りかけなことくらい、君にだってわかるだろう?」
 それは確かだが、エリックのことだ、解除スイッチを作る場所を具体的に決めていないはずがない。
「解除スイッチをどこに作るのか、教えてくれ。でないと私も全部は話さないよ。場所がわからなければ私も君の仕掛けの餌食になってしまうからね」
「知る必要などないだろう。私はこの仕掛けができても、特に解除スイッチを使うつもりはない。ただ、念のために作るにすぎないんだよ」
 言っている意味がわからず、私は眉を寄せた。エリックは可愛そうなものを見るような目で私を見つめる。
「わからないのか?」
「何が?」
「解除スイッチなど、本当は必要ないんだ。落とし穴の場所がわかっているんだから、そこを避けて通ればいいだけなんだから」
「…………」
 穴は踊り場全体にあるわけではない。現にエリックも私も、掘られた穴の脇に立っている。
 自分の間抜けさ加減に眩暈がしてきて、私は目頭を押さえた。
「納得していただけたかな?」
「ああ、した。ところで……」
 嘆息して顔を上げる。
「ここ以外にも罠を仕掛けたのか?」
「予定としてはあるよ。だが完成したものはない」
「本当に?」
「信じる信じないはそっちの勝手さ」
 自嘲的な笑みを浮かべてエリックは私の手から蓋を奪い返した。それを元の場所に戻す。
「今日はついてないよ。作業はできそうにない」
 それからひたりと私を見据える。
「では、聞かせてもらおうか。君の話を」





ヒロイン出てこないー。
あ、エリックが上着を着てなかったのは、石の細かい破片とかかぶって汚れるからです。

階段って、板状のものを段々に重ねていっただけみたいな感じのものから、段の下はみっちり詰まっているものまで色々あるけど、ここの階段は上から見ると一直線にらせん状になっているわけじゃなくて、少し斜めになっている、という感じで想定してます。なので踊り場掘っても下の階段の天井部分をぶち抜いたりはしないと。
そしてエリックの仕掛けは……なぜだかピタゴラスイッチ的なものが浮かびます(笑)
いや、実際にはそんな仕掛けではないですが。




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