一人で食べた昼食後に、自分が飲むだけの分量のコーヒーを入れた。それを牛乳で割ってカフェオレにする。
 エリックの分は必要ない。だって、あの人ここのところずっと、昼過ぎにならないと起きてこないのだもの。毎夜のように散歩へ行っていたために、しっかり朝に起きて夜に眠る生活だったあの頃とはまるで反対だ。
 強制的外出禁止を言い渡されてすぐは、わたしと同じく顔を合わせるのが気まずくて、わざと時間をずらしているのだと思っていた。そうではないとわかったのは、エリックの方からできる限り居間にいるように言われてから。
 彼はまだ、わたしと一緒に居たいと思ってくれているらしい。
 だけど、わたしにはもう、どう彼と向き合えばいいのかがわからない。
 あの人は一体、わたしに何を求めているのだろう。
 一方的に外界と遮断されて、なんとも思わない人間がいるとでもいうのか。これでもまだにこにこできるとしたら、わたしは随分とお馬鹿さんだということでしょうね。
 それでも閉じこめられてすぐの頃は、まだ事の重大さが自分でもよくわかっていなかった。はじめの頃に――この時代にきてすぐの頃に――戻るだけではないか、と軽く考えていたところもある。
 だけど当時とは決定的に違うことがある。
 あの頃のわたしは、この時代のことについて、そしてエリックについて何も知らなかった。
 地下にある家と仮面をつけた男性という怪しいこと極まりない取り合わせを、奇異に思いながらも受け入れることができたのは、見知らぬ家主に対する気遣いと毎日のように覚えていかなければならない課題に忙殺されていたからなのだろう。それにもちろん、どこにも行くあてがないからという理由もあったけれど。
 家の設備はわたしの時代とは随分違ったし、彼の指導によるフランス語の特訓はかなりハードなものだった。だけど今はそのどちらもない。閉じこめられたわたしには、何もやることがない。
 話しだって、出かけなければすぐに尽きてしまうし、元の時代のことでめぼしい話題はとっくにしゃべっている。
 食事の支度、自室の手入れと共有部分の簡単な掃除。やることといったら、これだけ。
 読書は好きだったけれど、時間潰しにできることがそれだけとなると、手に取ろうという気力は萎えていった。
 ガウンを作るのもやめてしまった。
 だってあの布って、イブリー氏から逃げるためにオペラ座に行ったのがきっかけで行くことになった買い物のときに買ったものなんだもの。メグちゃんたちには罪はないけど、どうしてもあの人の顔を思い出してしまって、見るのも嫌になってしまったのだ。
 エリックが喜んでくれていたから、閉じこめられる前までは気にしていなかったのだけど。同じものに対してこうも見方が変わることって、あるのね。
 ため息をついてカフェオレを一口すする。
 香ばしい匂いも柔らかいミルクの風味も、少しも気分を変えてくれない。
 なんだろう、この閉塞感。堂々巡りばかりで、ちっとも前に進まない感じだ。
 今までのわたしだったら、ここらでえいやっと何か行動を起こしていてもおかしくはなかったのに、動き方を忘れてしまったみたいだ。そもそも動こうという気力自体があまり起こらない。このままではいけないということだけは理解しているのだけれど。
 エリックとちゃんと話そうと考えたこともあるけれど、そもそも何を話せばいいというのか……。
 わたしは今まで通り、好きなときに外出をしたい。
 別に毎日ではなくてもいいのよ。気分が乗らなくて散歩に行かない日だって、これまでずいぶんあったし。でも自分の意思で出かけないのと、強制的に出られないでは精神的な圧力が随分違うのだ。
 そもそもエリックは心配のしすぎなのよ。焼きもちを焼かれるのは、女としてちょっと嬉しい、と思わなくもないけれど、だからといって度を越していない? 毎日毎日、監視されるように見つめられることにはもううんざりだわ。
 そうよ、わたしは怒っていいはずなのよね。
 怒っていいはずでしょう?
 だって、これって監禁よ。異常事態じゃない。警察に通報したら、この時代であっても対応してくれる類の問題でしょう。それはもちろん、たとえここに電話があったところで通報なんてしないけれどね。
 そうよ、ここは一つ、わざと挑発してでも喧嘩して、自分を追い込んでみるのもいいかもしれない。
 必要なものはブースター。いつまでもうじうじしているなんて、ちっともわたしらしくない!


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 と決意したのはいいものの、やっぱりエリックはなかなか部屋からでてこなかった。
 起きてくる時間がバラバラなのはよくあったことだけど、連日のように遅いのははっきりいって珍しい。
 何をしているんだろう。あまり良い予感はしない。
(……もしかしてイブリー氏のことを探りに行ってるのかしら。まさかと思うけど、もう何かしちゃっているとか……? でもそれなら、毎日起きてくるのが遅いというのは変よね。ということはまだ決定的なことはしていないはずだ。……そうだといいのだけど)
 慣れというのは怖いもので、わたしはエリックが数多くの犯罪に手を染めてきた過去を持っていることを、ほとんど意識しないようになっていた。
 もちろんわたしたちの生活費がオペラ座を脅迫して引き出してきたものだということはわかっている。
 だが、こういうのも何だが、流血を伴うような犯罪に比べたら極めて穏当、とも思ってしまうのだ。二万フランは大金だが、それを毎月出せるだけの財力を持っている相手に対して行っているから、ということもあるけれど。
(それでも犯罪は犯罪だけどね……)
 だからといってわたしがエリックを断罪するのは間違っていると思う。わたしの身につけているもの、部屋にあるものはすべてその犯罪で手に入れたお金で賄っているものだ。断罪するのなら、そのことを知った時にそれらをすべて投げ打って、現代から着てきた服だけを着てさっさとここを出るしかなかったのだ。それをしなかったのは、エリックから離れて一人で生活するだけの自信も度胸もなかったからだ。
 あの人に見放されたら、わたしはきっと貧乏暮らしをするか、お金で男性に身を任せる浮き沈みの激しい世界に入るしかない。まともな仕事につけるなんて期待しても無駄だろう。この時代は資産もコネもない女性が、人並な生活を送れるだけの賃金をもらえる仕事につくのがとても難しいのだ。ましてやわたしは外国人。そして身元を保証してくれる人もいない。就職活動をしようとしても、スタート地点で躓いているようなものなのだ。
 それでも、一応まるで見込みがないわけでもない。
 リップサービスだったかもしれないけれど、鮫島公使はフランス語教師の紹介ならできると言っていたもの。帰国する覚悟ができたなら、そういった道もありえると思う。
(ただ、帰国といっても、わたしの時代の日本ではないものね……)
 百年以上の差がある時代的断絶を乗り越えることができるだろうかという不安がある。わたしがパリで妙なことをしてしまっても、外国人だからの一言で済ませることが出来たけれど、日本でとなると話は違う。外国かぶれの日本人、ということになるのよね。
 わたしはこの時代の日本のことについてはたいして詳しくはないけど、そういう人は煙たがられているような印象がある。外国のことに詳しいことが歓迎されるのはごくごく一部だけなのではないだろうか。そういったことを考えれば、いくら母国とはいっても簡単に帰国する決心はつかない。まだ一人で異国に暮らしているほうがましなのではないかとも思えてしまう。だってそれなら、故郷に対して失望することなどないのだもの。
 また、もう一つの選択は、覚悟を決めてイブリー氏と接触することだ。わたしのどこが気に入ったのかはさっぱりわからないが、エリック以外で私のことを欲しがっているとはっきりわかっているのがこの人だけなのだから、選択の余地はない。もしもまだ諦めていないのであれば、オペラ座周辺をうろつけば、簡単に会うことができるだろう。
 ただ唯一にして最大の問題点は、あの人には触られただけで鳥肌が立つほど生理的嫌悪感を覚えるということだ。さらに、帰国を選んでもそうだけれど、この道を選べば、わたしはもう二度とエリックの前には出られなくなるだろう。やっぱり後悔したから――どっちの行動を選んでも、後悔するだろうという予感はもうあるのだ――戻りたいと泣きつくことはできない。彼は許してくれないだろう。
(だから……だとしたら――)
 現状を受け入れるしかないのだろうか。またあの人がわたしを信じてくれるようになるまで。
 だけど一度危機感を覚えた彼が監視を緩めるなんてことがあるのだろうか。あの人はわたしには思いもつかないほど厳しい人生を送ってきたのだ。己を律する力も強いだろう。となると、やっぱりわたしは飼い殺しをされるしかないだろうか。
 飼い殺しだなんてずいぶんな言い様だと思うけど、そう感じてしまうのだからしょうがない。
 エリックのことは今でも嫌いではない。だが愛してるかと問われたら、首を縦にすることはできない。
 一緒にいても安心することもできない。威圧的な調子になることはほとんどないけれど、それでもあの人はわたしにとって専制君主になってしまったのだから。
 目頭が熱い。
 わたしはそっとまぶたを押さえた。
 考えれば考えるほど、気が弱くなっていくようだった。現状を受け入れる決心すらつかないのに、それよりさらに厳しい選択をすることなんて、無理だ。わたしは結局、帰国することもイブリーの愛人になることもないだろう。家出をして自活することだってしない。ただ考えただけだ。どうすれば今よりましになるかを考えて、そんなことは起こらないという結論を導きだしただけなのだ。
 だけど、今のままも嫌なのだ。
 このままでは心が押しつぶされてしまう。
 大人しく、ひたすら息をつめてエリックの顔色を窺って、それで、その先は……?
 わたしはきっと、いつか彼を憎むようになるだろう。感謝も愛もすべて忘れて。
 ……そんなことしたいわけじゃないのに。
 だから今の状態を変えなくてはいけなくて……。
 でも何をどう変えればいいのか。そもそもあの人がわたしを信用していないというところが最大の問題ではないの? それをわたしがどうにかできる?
 かといって……。ああもう、考えれば考えるほど、わけがわからなくなる。
 結局わたしは……。
 その時、はっと息を飲んだ。
 小さな音がしてエリックが居間に入ってきたことに気付く。
 そしてやっと思い出した。
 わたしは彼と交渉するためにここで待っていたということを。
 延々と考え事をしていたせいで、目的を忘れかけていた。最初の勢いはすでに失われていて、わたしは彼の姿を確認するために恐々と振り向く。
 エリックと目が合い、彼は不快そうに眉間にしわを寄せた。
 わたしのこういった態度が彼を余計に意固地にさせているのだということは、薄々と察している。だけど今のわたしにはもう、何が彼の気に障り、どれが不愉快にさせるのかが判断できなくなっているのだ。彼の一挙一動が怖くて仕方がない。
「おはよう」
「おはようございます」
 たっぷり十数秒ほど見詰め合ってから、ようやくエリックが口を開いた。
 それでわたしも声が出せるようになったので、軽く頭を下げて挨拶する。
 キスはしない。やってやれないことはないのだけど、エリックにとって不本意ではないかと思うともう実行できなくなっていた。
 わたしたちは初めて出会った頃のように他人行儀になってしまっている。いいや、それ以上に遠かった。
 エリックはさっと周囲に視線を走らせてからゆっくりと近付いてきた。
 向かいのソファに座り、じっとわたしを見つめる。
「何をしていたんだ?」
「特には何も……」
 静かな声で訊ねられたので、わたしも穏やかに答えた、つもりだった。
 だけど何が気に入らなかったのか、エリックは激情を押し殺すかのように唇を強く引き結ぶ。
「考え事をしていたの」
 慌ててわたしは言葉を付け足した。だからといってそれがなにかの益になるとは思えなかったけれど。
「考え事? どんな?」
 畳み掛けるようにエリックは尋ねてくる。
「どんなって……これまでのこととか」
 別におかしなことを言っているわけではないのに、目を合わせるのが辛い。そっと顔を伏せながら、小さな声で答えた。
「これからのこととか」
 黒いズボンの上に置かれたエリックの両手が、びくりと震えるのが見えた。
「これから……? それで、どうするんだ?」
「わからない」
 わたしは頭を振った。
「わからない?」
「まとまらないのだもの」
「そう……」
 なんとなく納得していないと思えたのは穿ちすぎなのかもしれないが、そう感じた。
 それからお互いに、無言。
 居たたまれなくて、わたしはひたすら視線を自分の膝に落としていた。
(どうしちゃったのかしら、わたしは)
 エリックとちゃんと話をするはずだったのに、逃げ出してしまいたい。心臓はどきどきしているし、手には変な汗をかいているし、留まっているだけで精一杯だ。わたしはこんなに臆病だっただろうか。
 何かいわなくちゃ。だけど何て言ったらいいの? どう切り出せばいい?
 何を……。
 一人で焦っていると、柱時計が時を告げた。
 それを契機にわたしは大きく息を吸うと、お腹に力を込めて立ち上がった。
「食事の用意をしてくるわ。コーヒーとバゲットと卵でいいかしら」
 何かをすれば気は紛れる。誰もほぐしてくれないのだから、自分でほぐさなければ。
「いやいい、自分でする」
 エリックも立ちあがったがわたしは首を振って止めた。
「お願いだから何かやらせて頂戴。このまま二人して黙りあっているのがいいだなんて、まさか思っていないでしょう?」
「……それでお前の気が済むなら、好きにしろ」
 しばし無表情でわたしを見つめていたエリックだったが、ぷいと顔をそらすと腕を組んだ。
「そうするわ」
 わたしはスカートのしわを軽く調えると、キッチンへ向かう。
 コーヒーを沸かしている間にバゲットを切っていると、のそりと彼が入ってきた。
「待っていて良かったのに。居間に運ぼうと思っていたのだもの」
「いや、ただ……」
 気まずそうにエリックは目を泳がせた。それから、
「手伝おうかと思って」
 ぼそりと、言い訳がましく続けた。
「……大丈夫よ、すぐに終わるから」
 エリックの様子がすねた子供のようで、思わず微笑んでしまう。ぎこちない作り笑い以外の笑みを浮かべたのなど、何日ぶりだろう。
 そして一気に悲しくなった。
 こんなやりとりを意識せずにやっていたはずなのに、どこでボタンを掛け違えてしまったのだろう。
 わたしは浮かびかけた涙を見られないように背を向けて、作業に集中しているふりをした。
 エリックはそんなわたしの態度を見透かしたのかどうかは知らないが、足音を忍ばせてそっと立ち去っていった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 トレイに食事を載せて居間へ戻る。エリックはぼんやりと中空をみつめていた。
 バゲットを入れている小さな籠やコーヒーのカップを並べると、彼は小さく礼を言ってきたので、わたしは軽く頷いた。
 トレイをテーブルの脇に置き、ソファに座る。
 彼が食事をしているところを、見るともなしに見ながらわたしは自分に言い聞かせた。
 エリックが食事を終えたら、話をしよう。
 もう先送りにすることはやめにするのだ、と。
 そしてあっという間に、話しをしようと決めた時間がやってくる。
 エリックはコーヒーの最後の一口を飲み干して、受け皿に置いた。かちゃりと小さな音が響く。それが試合開始のゴングのように思えて、わたしは一人奮い立った。
「エリック、あの……」
 切り出した。なんとか切り出せた。しかしここから先、どう続ければいいのだ?
 何も考えていなくて頭の中が真っ白になる。
 エリックも顔をあげてわたしを見つめたが、口を半開きにしたまま固まるわたしに怪訝な表情になった。
「どうした」
「えっと、その、聞いてもいい?」
 いつになったら外に出れるのかって? まさか、いくらなんでも唐突すぎる。何か別の、本題とは関係のなさそうなことから始めよう。逃げなどと言わないで。耳鳴りがするほど静かな部屋の中で、楽しいとは思えない話をしなくてはならないのだから、そのプレッシャーで胃がねじ切れそうになっているのだ。
「なんだね」
 彼なりに協力してくれているつもり、なのだろうか。さらりと話を促してきた。
「えっと……あの……」
 話題、話題、なにを言おう。あ、そうだ。
「ここのところ、いつも起きてくるのが遅いけど、何をしているの?」
 エリックがもしもわたしの想像通りにイブリー氏を狙っているのだとしたら、人として止めなくてはならない。だから知っておいた方がいいと思ったのだ。……正直に言えばイブリー氏のことは積極的には好きではないけれど、それとこれとは別だ。ああもう、本当に、なんであの人、わたしに関わってきたのよ!
 イブリー氏に対する憤りが加速装置代わりになって、わたしはふいに勢いづく。エリックが口を開きかけていたけれど、それを遮って続けた。
「わたしには関係がない、だなんて言わないでね。本当にわたしには直接的には関係のないのかもしれないけれど、でもまったく無関係であるなんて思えないもの。そうなんでしょう?」
 これで本当に無関係だったら苦笑いするしかないのだが、エリックは苦々しい表情で顔をそらした。自分を守るように腕を組み、肩をそびやかす。
「お前が知る必要はない」
 出てきた答えは、無関係ではないことを匂わせるもの。そしてわたしの危惧を払拭できないものだった。ひやりとしたものが背中を伝う。
「でもわたしは知りたいわ。教えてほしいの」
 これで否定的な答えが返ってきたら、わたしの予感は的中したも同然だ。わたしは固唾を呑んで彼の返事を待った。
 エリックは苛立ったように腕を振ると、勢いをつけて立ち上がった。
「外に出ないお前が知ったところで仕方のないことだ」
 その言い方にカチンときて、わたしもすっくと立ち上がる。
「出ない、じゃなくて出られない、のよ! あなたがそうしたんじゃない」
「お前を守るためにしていることだ。なぜわかってくれない」
「わからないもの」
 わたしは言下に言い捨てる。続けて不愉快そうに眉をひそめるエリックに、
「イブリー氏に、なにかしようとしているの?」
 と詰め寄った。
 この流れは良くない。わたしがあの人のことを持ち出すのは絶対にまずい。そう思ったけれど、頭に血が昇って、細かいことなど考えていられなかった。
 エリックは忌々しげに唇を歪ませる。
「……そうなのね?」
 半ば断定するように言うも、エリックは否定しなかった。
「駄目よ、エリック。イブリー氏には何もしちゃ駄目」
 まだ何もしていないのなら、救いはある。だが制止の言葉を吐いた途端、エリックは怒りの形相を浮かべて腕を伸ばしてきた。
「痛……っ」
 強く掴まれて、反射的に悲鳴をあげる。二人の間を挟んでいるテーブルに腿が嫌というほどぶつかった。
「どうしてお前があいつをかばうんだ! やっぱりお前はあいつのところへ行く気なんだな。清純そうな顔をして、私を欺いていたんだろう!」
「そんなわけないでしょ。好かれて迷惑しているのはこっちだわ。頼んだわけじゃないのにべたべたされて不愉快だったのに、どうしてありもしないことで責められなくちゃならないの!」
 怒鳴られたので怒鳴り返すと、エリックは舌打ちをする。
「言うだけならばなんとでも言えるさ」
 彼は吐き捨てるように言い、
「そうね。そういう人もいるでしょうね」
 わたしは冷ややかに返した。
 エリックの口元がぎりりと軋む。しかし腕をつかむ力が弱まったので、引き抜くように腕を払った。
「言っておくけど、イブリー氏はわたしにとってどうでもいい人なのよ。わたしに関わらないでいてくれるなら、どこで何していようとどんな目に遭っても関心なんてないわ」
 こういう考えは人として間違っているかもしれない。利己的で自分勝手で……。だけどこれがわたしの本心なのだ。
 ぐいと顎をあげてエリックを見上げると、彼はひるんだように息を飲む。
「だからそんな人相手に、あなたの手を汚さないで」
「な……」
「わたしを信じられないというのなら、それでもいい。でもどうかこれだけは聞いて。わたしは今でもあなたが大切なの。他の誰よりもあなたが幸せになってくれることを望んでいるわ」
 エリックの腕がぴくりと動いた。途方に暮れたように眼差しが揺れる。
「だけど、そのためにわたしは自分が踏みつけにされてもいいとは思わない。エリック、あなた……あなたは、知っているはずでしょう。そうされることがどれだけ辛いことか。……みじめなことか。なのに、わたしにそれを強いるの?」
、お前は……」
「まだ終わってない、聞いて!」
 わたしは激しく頭を振った。まとめた髪が勢いで崩れそうになる。
「喧嘩なんてしたくないけど、してしまうことだってあるでしょう。それはしょうがないことだと思ってる。どんな恋人達にだって起きる事でしょうし……。やつあたりをしてしまったり、思わずひどいことを言ってしまったりしてしまったり。だけどそんなことがあっても、最後には仲直りができればいいんだわ。でも」
 しゃべっているだけで息があがってきたので、わたしは胸に手を当てて整える。
「今のわたしたちは喧嘩にすらなっていないじゃない。なにをどうすればこれは終わるの? わたしがひたすらあなたに付き合って、気が済むまで待てばいいの?」
「そういうことではない」
「なら、どういうことなの?」
 涙が出そうだった。だけど泣きたくはなかった。わたしは喉の奥に力を込める。目の前に揺らぐ膜が出来つつあったが、消えろと心の中で念じた。
 エリックは困惑したようにゆるゆると頭を振る。
……お前は……」
 一端言葉を切り、口をつむぐ。それから再び開いた。
「私を愛しているのか?」
 わたしはじっと彼を見つめて、それから首を振った。
「あなたが大事よ。嫌いになりたくない。だけど、もう……」
 その続きは、言えなかった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 時計の針が進む機械的な音だけが部屋に響く。
 沈黙が耳に痛い。
 呆けたように立ち尽くすわたしたちだったが、エリックの方が先に動いた。
 ぐるりとテーブルを回り、わたしの傍らに立って見下ろす。半ば俯いたその顔には暗い影が落ちている。反面は表情など浮かびようがない白い仮面で覆われ、もう半分は、能面を思わせるような無表情さだった。
「仕掛けの変更をしている」
「え?」
 唐突に言われて理解しきれず、わたしは聞き返した。
「スクリブ通りの入り口とオペラ座へ通じる道と、両方ともだ。まだ完成はしていないが、一部は終わっている。今まで仕掛けていたものはまだ撤去していないが、それを解除したところでもう無事に地上へ行けるものではない」
 どういうことだろう。何を言っているのだろう。
 仕掛けを変更した……?
 どうして、そこまで……?
 何のために?
 ……誰のために?
「お前はどこにも行けないんだ、
 そう言い切ると、彼は足早に去ってゆき、自分の部屋へと戻ってゆく。
 一人取り残されたわたしはただ呆然とそれを見送っていた。




なんか、色々とスミマセン。



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