自ら言うつもりなどなかったが、告げてしまった。
あの目。
呆然と見開かれた彼女の目が頭から離れない。
私はもう、徹底的にから愛想をつかされただろう。
監禁状態にしただけではなく、罠を変更した。それは彼女に向けて造っているわけではない。あくまでも外から彼女をさらおうとする敵が来た場合に発動されることを狙って設置しているものだ。
だが、と寝台に力なく腰掛けながら私はうな垂れた。
の知らない罠があるということは、万が一彼女が玄関の鍵を突破するようなことがあった場合にも有効に機能するのだ。彼女の行動力は侮れない。鍵以外にも足止めになるものは必要だと薄々考えていた。
だから、言ってしまった。
がもう私を愛していないことがはっきりとわかってしまったから。
我に返った彼女に手ひどく罵られるかもしれないと恐怖した私は、逃げるように自室に戻った。静まり返った我が家の、さらに静かな小部屋は、魂を凍りつかせるほど寒く感じる。
これからどうなるのだろう。
先はまったく見えない。真っ暗だ。
それはこの地獄のような場所にある暗闇よりも暗い。
彼女を失いたくない。かつてあったはずの愛情を甦らせる手段がほしい。
しかしそのために何をすればよいのか、私にはわからない。
外へ出せばいいのか? いいや、駄目だ。
今のを外へ出したら、賭けてもいい、彼女はそのまま帰ってこなくなるだろう。
イブリーの所へ行きたいという理由ではなく、私と一緒にいたくないという理由でだ。
きっと私は、とてつもない間違いをしでかしてしまったのだろう。
元に戻りたい。
もう一度キスと抱擁と微笑みのある生活に帰りたい。
たった一日だけでも叶うのならば、それが終わった途端に死んでも、構わない。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
それから三日が過ぎた。
夜は相変わらず仕掛けの変更をするために外出をし、昼間はから断罪されるかもしれないと思うと憂鬱で、部屋から出ないようにしていた。
食事も喉を通りそうになかったので、取らなかった。もともと朝と昼は別々に取ることが珍しくなかったが、夕食だけは一緒だったのに。
だが昨夜の九時頃、水を飲みにキッチンへ行くと思わぬものに遭遇して、私は困惑した。
鍋に煮込み野菜のスープが残っていた。それは別にいい。一人分のスープを作るほうがむしろ難しいのだから、余分に作っておいて、余った分は温めなおせばいいのだ。
しかし白いナプキンをかけられたパン籠には切り分けられたバゲットが入っており、その隣にはバターの壷、使われていないスープ皿、それにカトラリーが一式そろえられていた。
は、私の分の夕食も用意してくれていたのだ。
こんなことになってもまだ共に食事をしようと思ってくれたとのだと思うと、目頭が熱くなった。もしかしたら、私が出てくるのをずっと待っていたのかもしれない。義務感からであろうとなんであろうと、彼女の気持ちがたまらなく崇高なものに思えた。
呼んでくれれば、とも思ったが、おそらく呼ばれたところで出て行かなかっただろう。彼女の笑顔がないとわかっているから、針の筵に座っているような心地になっていたこと請け合いだ。だがそれも私に科せられた罰だというのであれば、受け入れるのだった。やりなおせる第一歩になったかもしれないのだから。
そうだ。楽観的にすぎるだろうと頭の片隅で別の自分が戒めるが、それにすがるしか私にはできないのだ。
と話そう、と決意をした。
そうは言っても私は謝るつもりは毛頭ない。に難しいことを要求しているという自覚はあるが、彼女は強い。このまま今の環境に慣れてもらう。
しかし彼女にばかり不便を強いるつもりはない。私は私で以前ほどではなくてもよいから、穏やかな生活を送れるように最大限の努力をしよう。
お互い気分が落ち込んでいるからすぐではないにしても、時折は夜風にあたりに外出するくらいのことはするつもりだ。
まったき言葉の意味で元に戻るというのならば、それはやはり私たちが出会ったあの頃に戻らなければ嘘だろう。
彼女が一人で外へ出たのを黙認しなければ、こんなことにはならなかった。
そして一人で外へ出ないようにし続けていたのであれば、彼女だってあれほど外へ出られないことで苦悩することなどなかっただろう。恋敵が現れることだって、なかったはずだ。
元に戻るのだ。ただ二人だけの生活をするのだ。それですべてが終わるはずだ。
決意をした次の日、考え事をしながら眠りに落ちたせいで中途半端に冴えた頭を振り払い、身支度を整えて居間へと出て行った。
はいるだろうか。
柄にもなく激しく動く心臓に落ち着けと言い聞かせながら、ゆっくりと見渡した。
私の姿を認めたアイシャが、一声鳴いて駆け寄ってくる。ソファに座っていたがちらりと振り返った。彼女と目が遭う。その顔にはどんな表情も浮かんでいなかった。
足元にまとわりつくアイシャの小さな頭をなでると、彼女は満足したように喉を鳴らした。今の私をこれほど好いてくれる存在はこのクリーム色の淑女だけなのだ……。
まだ遊び足りないと鳴くアイシャを振り払い、の座るソファの向かいに腰を下ろす。私が相手をしてくれないと悟ったらしいアイシャは不機嫌そうな鳴き声をあげると、尻尾をゆらして暗がりに消えてしまった。
その後姿を見送ってから、私はの方へ顔を動かす。
彼女の表情はどこか戸惑ったようなものに変わっていた。眉尻がやや下がり、膝の上に乗せている手はもじもじと何度も組み替えられる。落ち着かなげにほつれ毛をなでると、ほ、と小さく息をはいた。
「話をしてもいいかな」
口を開くと、はびくりと肩を震わせた。私から話しかけるのがそれほど思いがけなかったのか、ややあってから頷く。
「、お前は今の状況をとても不本意に感じているのだろうね」
慎重に様子を窺いつつ、彼女はこくりと首肯した。
「よく考えてほしいのだが、私たちは初心に戻る必要があると思うんだ」
「……初心?」
はよくわからないというようにわずかに首を傾けた。
「最初の頃、だよ。たしか私はこう言ったはずだ。私がここに住んでいることを他の人間には知られたくない。だからここに住むのならば衣食住の保障はするが、外出は一切禁じると。覚えているか?」
「記憶力がいいのね」
小さく微笑みを浮かべると、彼女は諦めたように頷いた。
「そうするべきだったのだ。お互いに。私はお前の外出を黙認するべきではなかった。お前も、私に黙って出かけるなどしなければよかったのだ」
「そうしていれば、どうなった?」
「今頃お前は外の世界に特別な思いなど持たなくなっていただろう」
強い口調で断言すると、彼女は弱弱しい微笑を浮かべて首を左右に振った。
「そうしていたら、私は今頃、もうここにはいなかったと思うわ」
「なぜ?」
どうしてそのように思うのかわからず、わたしは戸惑った。
は目を閉じる。悲しみに耐えているように眉間には深いしわが刻まれた。
「弱くなるから。弱ってしまうから」
囁くような小さな声で彼女は答えた。
「……弱くなる?」
意味がわからず、わたしは問い返す。は喉に手を当て、目を開けた。
「わたし、意識してこんなに小さな声を出しているわけじゃないわ。普通に話そうとしているけれど、これくらいしか出なくなっているのよ。ねえエリック、わたしが外に出なくなって何日経ったか数えている?」
「……半月、くらいか」
「ええ。その半月くらいの間で、こんなに声が出なくなってしまったのよ。自分でもびっくりするくらい。でもそれも当然よね。わたしはあなたみたいな特別な喉は持っていないもの。話し相手がいなければ、喉の力はあっという間に衰えてしまうんだわ」
あげていた手を下ろし、ひたりと私を見つめる。
「喉だけじゃない。今後は腕も足も、身体のどこもかしこも弱くなってしまうでしょうね。食欲だって、家の中にばかりいるのならなくなっていくでしょうし。顔色が悪くてすぐに気絶して、外に出られないから鬱屈がたまってヒステリーを起こすようになるんだわ。あらやだ、これってこの時代で誉めそやされている“女性らしい女性”そのものじゃない。あなたはわたしにそうなってほしかったのね。それならそうと、もっと早く言ってくれたら良かったのに。できれば最初のうちに」
どう贔屓目に考えても嫌味が混じっているのだが、そこにはあえて触れないで話を進めることにした。
「言えば、従ってくれたのか」
「いいえ。安楽な生活のために、そこまで自分を殺すつもりにはなれないもの。ここから出て行くことにしていたと思う。エリック、わたしがここに居続けていたのは、ただあなたが好きだったからよ。最初は変わっているけど親切な人だと思うくらいだったけれど、あなたの知らなかった側面を知るたびにどんどん好きになっていった。こんなことになってしまった今でもそう。あなたを嫌いになれない。だけど今のままの状態がずっと続くのなら、わたしにはきっと耐えることはできないわ……」
私は彼女に不可能な難題を押し付けようとしているのだろうか。
の言葉は率直すぎるがゆえに私の心を揺らした。
しかし最大の不安を思い出し、その揺らぎを押し込める。
「そんなことはない、きっと耐えられる。そもそもお前は最初の三ヶ月の間、本当に一歩も外へ出なかったではないか。あの時できたのならばまたできるはずだ」
「一緒にしないでちょうだい。あの時とは違うのよ。エリック、ねえ、それなら聞くけれど、わたしはここにずっといて、一体何をすればいいの?」
「何とは……?」
「あなたは好きな時間に起きてくるわね。それが朝ならいいわ、でも昼や夕方を過ぎることだってあるわよね。その間、わたしは一人で何をしていればいいの? あなたと同じに合わせろって? あなたがどう過ごしたいのかもわからないのに? そしてあなたが気まぐれにわたしに構ってくれるまで、待っていろって、そういうことなの?」
きっと彼女は眉を上げた。
「前のほうがましだったわ。フランス人のあなたに変なフランス語だって思われないように一生懸命フランス語を勉強しなくちゃならなかったんだもの。他にも覚えなくちゃいけないことが色々あったんだもの」
徐々に声が大きくなる。この文句の集大成は彼女の喉に対して効果的な運動になったようだ。ならば時折こんな風に言い合いでもすれば、彼女の懸念も払拭されるだろう。
自虐的にそんなことを思いながら、私は力なく頭を振った。
「今更だろう。それともお前は、おかしなフランス語しかしゃべられない状態で外に放り出されていた方が良かったとでもいうのか。私はお前にここに住むよう強制はしなかった。選んだのはお前だ。忘れたのか」
「忘れてなんかないわ」
「飢えぬように食事をさせ、ドレスを用意し、お前一人の部屋も与えた。その恩を忘れたのか?」
「忘れてない。忘れたいわけじゃない!」
耳を塞ぐように両手を当て、彼女は絶叫する。違う、そうじゃないんだ。こんな風に追い詰めたいわけじゃない。
うな垂れた頭が、縮められた肩が、小刻みに震える。透明な滴が落ちたかと思うと、スカートに滲んで染みになった。
間違えた。失敗した。そんな言葉が頭の中を巡る。
私はただ彼女に思い出してほしかっただけなのだ。二人だけでも十分に楽しく過ごせていたことを。だが、売り言葉に買い言葉でどんどん話が逸れていってしまった。
すすり泣くを、悲しい思いで見つめる。
もう言葉をかける気力もなく、私はソファに背を沈めて嘆きの歌が紡がれるのをただ聞いているだけだった。
それからしばらくして、涙を拭ったが顔をあげた。目の周りは赤くなっており、いまだ潤んだ瞳と相まってひどく痛々しい。
「ごめんなさい。あんな話がしたかったわけじゃないの」
「いや、私も悪かった」
ばつが悪くて思わず顔を背けてしまう。彼女がこちらを見つめていることには気付いていたが、目を合わせることができなかった。
「エリック、聞きたいことがあるの」
「……何だ」
ぶっきらぼうだったかと顔をあげると、は胸を大きく上下させて思い切ったように訪ねてきた。
「あなたにとって、わたしはどんな存在なの? 本当のことを聞かせてほしいの」
何を言っているのかと思った。今の状態がどうであれ、は私にとって最愛の女であることに代わりはない。そう返すと、彼女は困ったように眉根を寄せて瞬きをした。
「本当に?」
「疑うのか?」
「あなただって疑っているくせに」
即答すると即効で返された。
「そうじゃなくて、その、つまり、あなたはわたしにいてほしいの? それとも一緒にいてくれる女の人がいればそれでいいの? わたしは恋人なの? 愛人なの? 聞きたいのはつまり、そういうところなのよ」
「くだらないことを聞くんじゃない。お前は私が愛人扱いしていると感じていたのか?」
心外だ。監禁していることをなじられるよりも腹立たしい。
「わたしは感じていなかった。でもあなたがどんなつもりなのか、わたしにはわからないもの。だから聞いたの」
「だったらそれが真実だ。私はお前を愛している。……お前は私をもう愛していないようだがな」
自分で口にしたことで一層傷口が痛くなった。塩でも刷り込んだようだ。ああそうだ。もう彼女は私を愛していないのだ。なのに未だに恋人だと思っているなど、諦めの悪い男だと思われただろうか。
は何度か口を開け閉めしたあと、思い切ったように口を開いた。
「それなら……元に戻る気は、ある?」
「私はあるよ。お前はないようだが」
「お願いだから決め付けないで。そんな風に言うならこれ以上何も言いたくない」
泣きそうに顔を歪める彼女に、私は悪かった、と告げた。
「お前の話が終わるまで口を閉じている事にしよう。そうしたら余計なことは言わないで済むからね」
疑わしげな眼差しで下から見据えられたが、私は有言実行と口を堅く結んだ。
様子を窺っていたは、しばらくしてから話を再開する。
「わたしもできるなら、元に戻りたいと思ってる。だってこんなの、悔しすぎる。わたしはあなたが好きで、あなたはわたしが好きだったのに、余計な人がしゃしゃり出てきて滅茶苦茶にしたんだもの。……わたしが出歩いていたからとか、あなたが疑い深いとかいう話はしたくないから、言わないでね」
言いはしなかったが思っていたことを当てられたので、私は頬杖をする振りをして口元を隠した。
「だから、試してみたいことがあるの。それにはあなたの協力が必要で……」
窺うように言葉を止められたので、先を促すと彼女は小さく頷いた。
「しばらく別々に暮らしてみたいの。一週間くらいでいいわ」
それを聞いただけで一気に頭に血が昇った。
私自身にお前を逃がす協力をせよというのかと怒鳴ろうと思った。しかしに必死の眼差しで見つめられたので、なんとか押し留めることができた。しかし腹立たしくて仕方がなく、閉ざした口の中で思い切り歯軋りした。
「場所はあなたが決めていい。そこから出るなというのなら、従います。ただ、わたしはしばらくここにいない方がいいと思うの。あなたでもいいんだけど、ここはあなたの家なんだから、あなたが出て行くのはおかしいと思うし……」
わけがわからないながらも、を睨みつける。はびくりとしながらも引かない様子だった。
「頭を冷やす期間が必要だと思うの。あなたも私も。ねえ、たとえば普通の恋人同士だったら、お互いに腹が立ってもう別れるって思っても、しばらく会わないでいたら許そうと思うことってあるらしいじゃない。わたしにはあなた以前はいないから、聞いた話でしかないけど。あと夫婦だったら『実家に帰らせていただきます』とか」
そういう話は私も聞いたことがある。しかしには実家などない。強いて言えば、ここがそうだ。
「お願いよ。これが最後の機会だと思って。これが叶えられないのなら、わたしは、もう……」
限界なのだとその目は訴えていた。
私は口を閉ざしたまま、考えを巡らす。
筋は通っていなくもない。頭を冷やすというのは、私自身にも必要だ。それは認めよう。
しかし、それが偽りでないとどうして言える?
地上に出てしまえば、逃げる手段などいくらでも見つかるだろう。ここでの暮らしになれた彼女にとっては造作もないことのはずだ。
扉や窓に鍵をかけても、大声を出したり叩いたりして近隣の住民の関心を引いて出してもらうことだってできる。私が四六時中見張っていないのであれば、どんな手段でも使えるだろう。
彼女を助け出した者たちは、彼女に問うだろう。どうして閉じこめられていたんだと。
そして?
私は愛しい女を失うだけではなく、コキュとして笑われなければならないのか?
一度も己のものにしたことがない女なのに。
……ふざけるな!
「話にならない。そんな提案は非現実的だ」
「エリック」
「私を騙すつもりならば、もう少し頭を使うことだ。……お前は誰にも渡さない」
「エリック!」
話し合いはこれで終わりだ。
私は再び針の筵に座る。ほんの少しでもを失う危険を冒すよりは、その方がましだ。
「駄目なの。どうしても?」
だが彼女は嘆願を続ける。
「何度も言わせるな」
私はそれを跳ね返した。泣きそうな顔をしていたは本格的に泣き顔になった。
「……そう。わかった」
静かに立ち上がり、彼女はゆっくりと歩く。
涙が伝わり濡れた頬が、ランプの光に反射した。
感情が激しく上下したせいだろう、赤みのある頬に映えてとても美しい。
私の座るソファのすぐ隣に来ると、彼女は身をかがめた。何をするのかと思っていると、そっと目を閉じ、唇に唇を押し付けてくる。
――何日ぶりのキスだろう。
なぜキスをするのかと思う間もなく、私は彼女の柔らかさに酔いしれた。ただただ、心がに飢えていたのだと、自覚する。
顔を離したは相変わらず悲しげな表情だったので、わたしは彼女が芯から納得して私の言う事を聞く気になったのではないとわかった。だが、それでも構わない。彼女がここに残るのならば、
『ごめんなさい。……さようなら』
吐息交じりの言葉。優しい響き。だが、私には日本の言葉はわからない。
静かに立ち去り、彼女は自室に篭った。
だがそれでも構わない。彼女がここにいるのならば。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
その翌日、私は己の甘さをとことんまで呪うこととなった。
が消えた。いなくなったのだ。
そのことに気がついた時の心境は言葉では言い表せない。
事態を理解するまでに、少々時間がかかった。
まさか彼女にそれが可能だとは思わなかったからだ。
だが、ああ、たしかに我が家にはもう一つ出入り口があった。しかしそこはほぼ外から中へ入るためにしか使っていない。私自身も滅多に使用することがなくなっていた。そこは彼女がよく使っていたから。鍵も彼女に預けていたのだ。だから失念していた。
乾燥室。
そうとも、拷問部屋だ。大の男が全力で飛び上がっても届かないほど高いところにあるその出入り口まで、彼女は空の木箱を階段状に積んでいた。
梯子を使わなかったのは、重くて運べなかったか、あるいは……発覚を遅くするためか。
私がそのことに気がついたのは、夜になってからだった。夕食の時間になっても彼女が部屋から出てこなかったので、呼びに行ったのだ。だが何度呼んでも扉を叩いても、何の物音もしない。私に対する怒りから完全無視するつもりでいるのかと、無理やり押し入ることも考えたが、試しにノブを回してみると、それはすんなり回って、誰もいない部屋に私を通した。
部屋は綺麗すぎるほどきちんと整えられていた。寝台の布団は畳まれ、シーツも外され、マットレスがむき出しになっている。化粧台などの家具には白い布がかけられていた。その光景は、時折見る悪夢のようだった。
目が覚めて不安な思いにかられ、の部屋に行ってみたら、そこは無人だったという夢。
彼女の存在そのものが幻だったという最悪のパターン。
これもその夢なのか?
目を覚ましていると思っていたが、いつの間にか眠っていたのだろうかと、自問自答しながらぼんやりと辺りを見回す。ふと化粧台にかかっている布の一部が妙にひきつっていることに気がついた私は、ふらふらとそこへ近寄った。
布を押さえていたのは、小箱だった。見覚えのあるそれを手に取りふたを開けると、ビロードで内張りされた中央に、私が彼女へ贈った婚約指輪がはめ込まれていた。
悪夢の方がまだましだった。
夢の中では彼女は最初から存在していない。
だが現実の私は、つかの間だけという女を得て、そして……捨てられたのだ。
ようやくそこまで理解が及ぶと、私の中ではこれまで感じたことのないほどの怒りが吹き荒れた。
あの殊勝な態度は演技だったのか。
結局あれも世の凡百の女と同じだったのだ。
聖母の如く敬い、誰よりも愛したというのに、あれは簡単に私を見捨てたのだ。
別れの言葉も、謝罪すらなく。
きっと今頃、別の男のところにいるのだろう。
誰のところに?
決まっている、ジャン=オーギュスト・イブリーだ。
裏切りの者の売女め。
私から逃げられるなどと思うな……!
☆ ☆ ★ ☆ ☆
スクリブ通りにある入り口まで駆け上がり、辻馬車を止めた。
暗がりが私の容貌を隠してくれたので馬車はすんなり止まったが、客の風体に気がつくや、御者は気味悪そうに顔を背けた。だが他を当たれといわれる前に、私は財布の中身をすべてぶちまけると、御者はどこまで行くのかと訊ねた。
住所を告げ、急ぐように命令すると、鈍重な造りの辻馬車は軽装二輪馬車の如き速さで街路を駆け抜けた。ひどい揺れで舌を噛みそうなほどだったが、それが返って私の怒りを強めるようだった。
絶対にを連れ戻す。
そして拷問部屋の出入り口もふさいで今度こそ二度と出られないようにしてやるのだ。
泣こうが喚こうが知るものか。私を虚仮にした償いは必ずやさせてやる。
気がつくともうイブリーのパリでのアパルトマンの前まで来ていた。御者は本当に急ぎに急いだらしい。並みの速度でかかるであろう時間の半分しか経っていなかった。
私が戻ってくるまで待つように告げ、アパルトマンの扉を叩く。時間にしてみればさほどではなかっただろうが、気が急いていた私にとっては随分長い時間、待たされたように感じた。ようやく玄関口を開けたのは、がっしりとした体格と顔つきの門番女だった。
パリのアパルトマンはこういうところが面倒なのだ。門番を介さずには住人に会うことができない。
門番女は不機嫌な顔つきで私を上から下までじろじろと眺めると、一体何の用ですと無愛想に言った。
イブリーという男に用があると返すも、ムッシュウ・イブリーはこの時間はいつも外に食事にでていると答えた。東洋人の娘が訪ねてきたと思うが、それも一緒かと聞くと、そんな女は来ていないと返って来る。そして苛々と口角を下げ、そういうことですからと言い捨てると、門番女は音を立てて扉を閉めた。
はイブリーのところへ行ったのではないのか?
門番女が嘘を言っているのか? あの門番女は私に対して好意的ではない。いや、私に対して好意的な門番女などいた試しはなく、あからさまな嘘をついて追い返そうとすることも度々だったから、この女もその類に違いない。
しかしこれ以上強く押すこともできなかった。私が正当性を主張し、中にいるであろう――もしかしたらイブリーと一緒に食事に行ったかも知れないが――を取り返そうにも、踏み入った時点で騒ぎになるのが目に見えていた。
警察を呼ばれたら面倒なことになる。
そこで煮えたぎる怒りをなんとか押し殺し、一度撤退することにした。
御者に別の住所を告げてまた馬車を走らせる。
着いたのは我がオペラ座からもそう遠くない、リヴォリ通りに面したアパルトマン。ナーディルの住居だ。
私は先ほどの二の舞にならないよう、御者にナーディルを呼ぶよう門番女に告げさせ、奴が出てくるのを待った。
数分経って、怪訝な顔で夜の通りに出てきたあいつは、わたしを認めて呆気にとられていた。
「一体どうしたんだ。こんな時間に。何かあったのか?」
間の抜けたような顔つきではあったが、無邪気に心配するような問いかけに、私はなんだか泣きそうになった。
「イブリーに会ったか?」
「今日、ということか? それなら会ったよ」
いつもどおりさ、とナーディルは答えた。
「いつ頃?」
「時間か? それなら午後の三時ごろだ」
「一人だったか?」
「この時間は大抵一人だよ。……おいどうしたんだ、エリック。死にそうな顔になっているぞ」
「私の死人顔は生まれつきだ!」
思わず怒鳴ると、ナーディルは首をすくめた。
好きでこのような顔に生まれたわけではない。これのせいでどれだけ辛い思いをしたことか。だって結局、この顔に嫌気がさしたから私の元を去ったに違いないのだ。
「落ち着け、エリック。本当に何があったんだ? 頼むから順に説明をしてくれ」
ナーディルは私の両肩に手を置いて強く揺さぶった。
そして自分の家に来るように言った。気付けの酒は出せないが、茶ならご馳走できると続けて。彼はイスラムの信徒なのだ。
じろじろと眺めてくる門番部屋の住人たちの視線を背に受けながら、ナーディルの部屋がある階まで上がってゆく。中には壮年のペルシア人らしい召使いが一人で留守番をしていた。ナーディルの故郷の屋敷では見なかった顔だ。こちらに来てから雇ったのだろうか。
ダリウスというその召使いに二人分の茶を用意させると、ナーディルはさて、と呟いてじっくり話を聞く体勢に入った。
だが一端ソファに座ったものの、私はそわそわと落ち着かなくなった。
もしかしたら、はここにいるかもしれないのだ。
イブリーのところへ直接行ってはすぐに見つかるから、目くらましにするつもりで。
あるいは、マダム・ジリーのところかもしれない。
ベルナールのところは……夫人と子ども達が私をひどく恐れているので、彼女が尋ねていっても追い返されるような気がする。
他には……日本公使館?
私と離れるのに、日本へ行くことほど確実なことはないな。
少し頭に冷静さが戻ってくると、私はどんどん不安になっていった。早く彼女を見つけなければ。
「ナーディル、ここには来ていないか?」
「さんが? どうしてそんなことを聞くんだ?」
「来ているのかと聞いたのだから、来たか来ていないかだけを答えればいいんだ」
苛々しながら答えると、ナーディルは渋面になって、
「君は彼女に何をしたんだ」
と責めだした。
「お前には関係がない」
「こんな風に巻き込まれている以上、関係がないなんてことはないと思うんだがね。……喧嘩して家出でもされたのか?」
私はぐっと答えに詰まった。
「図星らしいな。……まったく。ここに彼女は来ていない。疑うなら好きなだけ探すといい。そして気が済んだら何があったのか私にもわかるように説明するんだ。いいね、エリック」
こうまで言い切る以上、ここにはいないのだろう。だが私は私自身を納得させるためにくまなく彼の家を探して回った。もとより、さして広くはない部屋で、十分もかからなかったが。はいなかった。
落胆しつつカーン家の居間に戻ると、眉間にしわを刻んだままのナーディルが足を組みながら私の行動を見守っていた。ひどい疲れを覚えて身体を投げ出すように腰を下ろす。
「それで?」
彼は話すよう促した。
女に振られた話など、誰がしたいものか。
しかしイブリーをおびき出すにはナーディルの協力が不可欠だ。
門番女もナーディル相手に嘘はつくまい。外国人だが、私よりはましな顔立ちをしている。それにイブリーには友人だと認識されているようだから、金持ちの住人の気分を害するようなことはしないだろう。とにかく、取り次いでもらいさえすればいいのだ。
「がいなくなった」
そのようだね、とナーディルは口を挟んだ。
「イブリーのところへ行ったのだと思う。だが門番女は知らないと言った」
「そうなるまでの過程こそ聞かせてもらいたいものだが、さんはいつ頃家出したんだ?」
「わからない。気がついたらいなかった」
「君が気がつかないなんてことがあるのか?」
心底驚いたようにナーディルは目を丸くする。私は苦々しい思いで吐き捨てた。
「私がいない時間を狙って出ていったとしか思えないんだ。その場にいなかった私にどうやって気付けというんだ」
多分いなくなったのは昨夜のうちだろうというと、ナーディルは難しい顔になった。
「それで、さんがいなくなったのはイブリーのせいだって?」
「他に考えられない」
「そうかな、君が何かしたんだろう」
「私は婚約者の権利を実行しただけだ」
もう破棄されてしまったけれど。婚約指輪を返還するというのは、そういう意味があるのだ。
「……監禁することは婚約者の権利とは言わないんだよ、エリック」
私は顔を背けた。仕掛けの変更を見つかったのはやはりまずかった。何か勘付かれたとは思っていたが、その通りだった。
「とにかくだ、さんがいなくなったのが昨夜だというのなら、イブリーのところへは行っていないと私は思うよ。さっきも言ったけれど、私は今日の午後にイブリーに会っている。もしもあいつのところに行っていたら、間違いなく私に対して勝利報告をしていたことだろう。でも、何もなかった」
ナーディルは肩をすくめた。
「本当か?」
私が問うと、ナーディルはやれやれとため息をついた。
「なら、イブリーのところに行ってみろよ。……と、もう行ったのか。それでイブリーは何て言ったんだ?」
「外出中だと門番女に追い返された」
「それで私のところへ来たのか」
納得したとナーディルは頷く。忌々しい奴だ。
「だとしてもこれからまた尋ねるのはあまり良い策とは言えないな。万が一イブリーのところにさんが行っているとしても、そんなことが玄関先であったと知ったら、さんには君が来たんだとすぐにわかるだろうし」
すぐにでもナーディルを引っ立てて馬車に押し込むつもりだった私は、乗り気のしていない奴の態度にだんだん腹が立ってきた。
「そんなことを言っている場合か。ならば尚の事急がなければ、私の手から逃れるためにあのアパルトマンを引き払うかもしれないだろう!?」
「彼女が君にひどい目に逢わされて逃げ出したのだとしたら、私はさんのことを追いかけようとは思わないね。そこのところはどうなんだい、エリック」
説明をしろとその目は言っていた。
「……邪魔をした!」
踵を返して立ち去ろうとすると、ナーディルが慌てて立ち上がった。
「せっかちなことをするんじゃないよ。そんなに頭に血が昇ったまま、何をしようというんだ」
「放っておいてくれ、お前には関係ない」
「関係はある。君のその形相、イブリーを縊り殺しそうな勢いだ。君が悪事を働かないよう見張るのは私の使命だということを、忘れてもらっては困る」
「私の邪魔をするのならば、お前であろうと許さない」
止め立てされて腹の底から怒りがわきおこる。悪魔だ。悪魔がいる。私の声の中に。私の中に。
ナーディルは息を飲んだ。
「……さんはなんと言って君に別れを告げたんだ?」
「そんなものはない。置手紙も何もなかった。ただ婚約指輪だけを返された」
思い出して再び怒りが満ちる。その当たりにいる連中をうっかり絞め殺してしまわないよう、力を込めて拳を握った。
ナーディルは哀れむような顔になる。だが同情されるなどまっぴらだ。
「……私にはさんがイブリーのところへ走ったとは思えないな。だが自分の目で確かめたことではないし、あの御仁が意外に芸達者で、普段どおりに振舞っていただけかもしれない」
ナーディルは頬杖をついたまま、小指で頬をかく。
口を挟む気も起こらなくて、私は奴が話したいまま話させた。
「もっと詳しそうな人物に聞こう。君のところの優秀な使用人兼スパイにね」
「ベルナールか」
そうだ。あいつにはイブリーの動向を探らせていたのだった。
私はダリウスに命じて辻馬車の御者にベルナールを迎えに行くよう伝えた。ベルナールは自分の馬車を持っているのだから、その後の御者の役目はあいつにやらせる。だから辻馬車にはもう用はない。それが終わったら帰っていいと付け加えた。
一時間近くの間、ひたすらベルナールが来るのを待っていた。
無為な時間、宥めすかされ、怒りの炎が治まりつつあった私は、ぽろぽろとこれまでのことを話してしまった。
聞きながら頭を掻き毟ったりため息をついたりと忙しいナーディルだったが、すべて聞き終わるとぐったりとソファにもたれかかった。
「誤解されるような行動をしたさんにも非はあると思うが、君も君で狭量すぎる。まったく、この程度の問題が、よくもここまでこじれたものだ」
うるさい。
ようやくベルナールが到着したので、すぐさまナーディルの部屋に通した。玄関先にダリウスを待たせていたので、門番に悩まされるようなことはない。
時間は十時を過ぎていた。
こんな時間に呼び出すこと――しかもナーディルの家にだ――など稀なことだったので、慌てていたのだろう、髪はくしゃくしゃで、ベストのボタンは掛け違えていた。
「これは先生、お待たせして申しわけありません。一体何の御用でしょうか?」
それでもいつもの愛想笑いが顔に張り付いている。
「お前は今日もイブリーの偵察をしたか?」
「はい。その報告をお聞きしたいのでしょうか?」
「聞きたいのは一つだけだ。あいつはと接触したか?」
「お嬢さまとですか? いいえ」
意外なことを聞かれたというように、ベルナールは目を丸くする。
こいつまでそう答えるとは……。やはりはイブリーのところへは行っていないのか。
「では、お前はの姿を見かけていないのだな」
ベルナールも知らないとなると、やはり日本公使館か? だがあそこへ怒鳴り込みに行くわけには……。先にマダム・ジリーに確認をしよう。女同士という気楽さから、彼女のところへ転がり込んでいるかもしれない。しかし今から彼女のところを尋ねるわけにはいかないだろう。
すべてが不首尾に終わり、私はどっと疲れを感じた。だがここでへこたれるわけにはいかない。
私がなけなしの気力を振り絞っていると、ベルナールはおずおずと私を見上げた。
「あの、お嬢さまのお姿ならばお見かけしております。ですが、私はイブリー氏の調査を優先するよう命令を受けておりましたので……そのまま見送ってしまったのですが。追った方がよろしかったのでしょうか?」
「何だと!」
思いがけなく光明を見出し、私は勢いを取り戻した。
「どこで見たんだ?」
ナーディルが驚いた様子で訊ねる。ベルナールは身を縮こまらせ、額に汗を浮かべてぶるぶると震えだした。
「あ、あの……」
「早く言うんだ」
急かすとベルナールは顔を真っ青にさせる。
「イブリー氏には行きつけのレストランがありまして、私も調査のために彼が中に入ってから少し遅れて入りました。その時に向かいのレストランに入るお嬢さまを、その、お見かけしまして……」
レストラン? 食事時ならば何か食べようと思っても不思議ではないが、しかしはカフェにもレストランにも入らないようにしていたはず。……家がなくなったのならばそんなことも言っていられないだろうが。しかし、レストランか。まさか同伴者がいるんじゃないだろうな。
「一人だったか?」
気になったので問うと、消え入りそうな小さな声で、ベルナールはいいえと答える。
「では、誰かと一緒だったんだな。お前の知っている奴か?」
マダム・ジリーならばまだ許せるが。
「ええと、その、複数の男女が一緒でして、私が知っているのはその中の一人だけで、その……アンリ・ド・クレール氏です」
エリック視点の切のいいところまで書いたら随分長くなった……。
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