エリックが罠の変更をしている。
 その事実を聞かされた時の衝撃はこれ以上ないほど大きかった。彼との付き合いでたいていのことは驚きつつも受け入れるようになっていたけれど、さすがにこれは予想外だった。
 この人は、本気でわたしを閉じ込めるつもりなのだ。
 自分はここから逃げられないのだ。
 それが痛いほどよくわかった。
 いつかは終わるのだと心のどこかで思っていたけれど、その望みは完全に絶たれたようだ。
 このままではわたしは文字通り、二度と日の目を見ることがないまま、朽ち果ててしまうだろう。
 ぞくりと背筋が震える。
 嫌だ、怖い……。
 両手で両腕を抱くように胸の前で交差させる。エリックから逃れられる現在のところ唯一の場所――わたしの寝室――の中は適度に暖かい。なのに震えは止まらなかった。
 黒いものが身体の内側に急速に広まるイメージがわく。
 これが、絶望というものなのだろうか。
 衝撃のあまり泣くことすらできなかった。ただ無為に時間だけが過ぎ、気分のすぐれないまま一日を終えた。
 目が覚めてからも重苦しい気持ちが続いている。
 内容は覚えていないけれど、どうも悪夢を見たようだ。あごが痛い。きつく歯をかみ合わせていたみたい。それでも時間というものはどんな薬よりも勝る効能があるらしい。一晩寝たら少しは落ち着いた気がする。といっても、これが良いことなのかどうか……。
 エリックがそこまで強く望み、もうわたしにはどうすることもできないのだからと彼の言うとおりにすることが。
 でも、そうね。もう諦めるしかない。
 他にわたしに何ができるというのだ。
 考え方を変えてみれば、彼のところにいるというのは、そんなに悪いことではないだろう。
 この時代としては生活水準はずいぶん高いのだし、彼自身はわたしに暴力を振るったりはしない。今のところは、という注釈付きだけど。
 容姿と過去の経歴と表面的な性格はお世辞であっても褒められるところはあまりないけれど、ちゃんと優しいところもあるのだ。……今後もその優しさを発揮してくれるかどうかはわからないけれど。
 とにかく一人の男性にここまで想われるなんてきっと滅多にないことなのだろうから、女冥利に尽きると誇っていいことなのだ。
 だから、納得するしかないんだ。元に戻りたいなんて願うのは、わたしのわがままなのだ。これ以上エリックを困らせないことが、わたしにできる最上のことなんだ……。
 そう自分に言い聞かせてみたものの、彼と顔を合わせるのは気が重くて、わたしはなかなか部屋から出る踏ん切りがつかなかった。
 エリックが声をかけてきたら出ようと言い訳をして、着替えもしないままずっと寝台の上に腰掛ける。居間よりも薄暗い寝室でぼんやりとしていると、急速に足の力が萎えていくような気がする。でもこれだってきっと、気にするようなことではないのだろう。
 この時代の淑女なら移動は馬車、歩くのは華奢な絹靴で、というのがスタンダードなのだ。そんな人たちが足腰が強いとは思えない。きっとわたしと似たり寄ったりの感じだろう。いや、できるだけ動き回るように努めていたわたしより弱いのではないだろうか。
 エリックが望むのは、普通の生活。それもきっと本当は、この時代の普通の女性との生活なのだ。わたしが現代的な感覚をずっと引き摺っているようではいつまで経ってもそれは叶わない。
 わたしが折れるべきなのだ。あの人のために。
 大丈夫、きっと慣れる。この日の差さない家にも、エリックという男性にも、時空を跳んでしまったという事実にも、わたしは慣れたのだ。そこにさらに一つ二つが加わったところでたいした差はない。
 ないはずよ……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 エリックもわたしと同じく顔を合わせることができないと思ったのかもしれない。夕食時になっても出てくるように言われることはなかった。ほっとしつつも少し拍子抜けしてしまう。
 しかしこんな時でもお腹は空くもので、牛乳とコンフィチュールをつけたバゲットという、夕食というにはわびしいもので済ませた。暖かい食べ物が一つもないというのが余計わびしさを募らせているように感じる。
 だけどエリックもいないし、自分のために何かを作る気力はでてこなかった。
 翌日も同じようなものだった。時間の経過とともに、ゆっくりと諦観がわたしを支配してゆく。
 エリック、あなたはこれを狙っていたの?
 こうすればわたしがおとなしくなると思って?
 だとしたら正解だわ。不満を言える相手がいなければどうしようもないもの。
 その日の夕食には焼いた卵をつけた。目玉焼きが食べたかったわけじゃない。一番簡単な料理だったからそれにしただけだ。夜なのに朝食を食べているようで変な感じだったけれど、食後にホットショコラもつけたので、少しは気分が回復した。
 だけど一人で食べる食事は味気ない。
 彼の部屋の扉をノックしたら、出てきてくれるかしら。
 ……いいえ、やめておこう。楽しい気分になれるとは思えないもの。
 焦らなくてもこれから何度も彼と差し向かいで食事をすることになるのだから、もうしばらくは好きにさせてもらおう。
 さらに翌日。じっとしていることにも、自分を哀れむことにも嫌気がさしてきたので、少しでも身体を動かすことにした。
 わたしは大体週に一度、洗濯をするようにしている。現代の服をもみ洗いにするのとは違い、この時代のものを洗うのはかなりの重労働なので好きな作業ではないのだが、今ばかりはありがたいと思った。作業に集中していれば気が紛れるし、くたくたになるからぐっすり眠れる。昨夜もあまり良い夢は見られなかったのだ。
 浴槽にお湯を張る。昨夜はお風呂に入る気分にもならなかったので、残り湯はなかった。
 洗面台とお風呂場には、それぞれ蛇口がついている。ひねって使う形のコックが二つついていて、一方からは熱湯に近いお湯が、もう片方からは水が出るようになっている。これを自分の使いたい温度になるように調節するのだ。二十世紀生まれのわたしでもなじみのあるやり方である。
 お風呂に入る時よりも熱めの温度になるように調節し、お湯が溜まるのを待たずに洗濯物を次々と放り入れた。
 シュミーズ、ドロワーズ、コルセット、化粧着、枕カバー、シーツ、ハンカチ。いつも洗うものはこんな感じ。シュミーズとドロワーズは洗濯をしなかった日数分が溜まっているので、なかなか大変だ。
 洗面器にもお湯を溜めて、そこで石鹸を溶かす。パリの水は石灰分を含んでいるとかで、石鹸が溶けにくい上に泡だちも悪い。そして柔軟剤的なものはない。現代の洗濯機と洗剤とホームクリーニング剤がいかに素晴らしいものか、わたしは洗濯をするたびに思い知ることになるのだ。この重労働っぷりに比べたら、料理の手間など可愛いものだと思えるほど。結局あれは、あまり油脂を使わなければ、片付けも楽なわけだし。
 石鹸水を浴槽に入れると、ぬるくなるまで放置する。そのままこすってもいいのだろうけれど、つけおきしておけば無駄に力を込めなくても汚れが落ちるので、わたしはもっぱらこの方法を使っていた。
 お湯が冷めるのを待って、いよいよ作業を開始する。フランスでは洗濯は、台の上に広げて棍棒のようなものでガンガン叩き、さらに固いブラシでこするという、わたしからするとわざと布地を痛めているとしか思えないやりかたをする。
 さすがに抵抗があるのでわたしはエリックに頼んで、まな板大の板に等間隔に溝を掘ったもの……つまり洗濯板を作ってもらっていた。これなら棒で叩くよりはずっと衣類にやさしい。シーツのような大きいものは水分を含んで重くなるけれど、変色するほど使ってから洗うわけではないので、なんとか自分ひとりでもやっていけた。
 ドレスは自分では洗わない。というよりも、外に持っていって洗ってもらったこともない。誰が洗ったとしても、絹製品を水洗いをしたら縮んだりごわごわしたりするものなのだ。それに繊細なレースやフリルもついている。こういうものは、洗濯をしないことを前提で作られているらしい。着終わったあとは埃などを払ってから形を整えて陰干しするだけ。もしも洗濯するなら、駄目にするのを覚悟しなくてはならないのだそうだ。
 皮脂汚れがつかないように肌着を着て、食品などでできた染みなどはすぐに落とす。それでも汚れてしまった時には、お金持ちの人ならば捨てるか女性の使用人にあげるようなのだけれど、わたしにはあげられる相手はいないので、とにかく汚さないように気をつかっていた。
 あまりお金のない人たちは、目立たないように飾りを付け足したり、縫い直してデザインを変えたりすることもあるらしい。自分でドレスを縫えるのはこの時代では当たり前に属することだけれど、それでもわたしにはできないことだ。素直にすごいと思ってしまう。わたしももっと精進しないと。
 洗い終わったら浴槽の中のお湯を捨て、綺麗なぬるま湯を注ぐ。ぬめりがなくなるまですすいでから、再び浴槽にぬるま湯を溜め、藍玉を溶かして青みをつける。こうすると白さがより際立つのだ。
 そしていよいよ最後の重労働。脱水作業をしなければ。
 枕カバー程度ならともかく、キャミソールやドロワーズのようなものでも、手で水を絞りきるのは難しい。シーツとなると、尚大変だ。しかしそれもエリックが二本のローラーの間をくぐらせる形の手動脱水機を作ってくれたので重宝している。本体自体がかなり重たいし、洗濯をするときにしか使わないから浴室の片隅にいつも置いているのだけど、綺麗な淡いピンク色のタイルが一面に敷き詰めてある浴室に、無骨なそれはいかにも場違いだったが。
 脱水が終わると、場所を変える。
 この頃になるとすっかりびしょぬれになっているので、着ているものを脱いで――たいていはシュミーズだ。たとえ木綿製であっても、ドレスなど着て洗濯する気にはなれない――ちゃんとした服装に着替える。
 そして鍵を持って部屋を出る。向かう先は居間の隣。乾燥室だ。
 ここだけはエリックの作った部屋の中で唯一電気照明が使われている。明かりは外からしかつけられないので、まずスイッチを入れた。
 鍵を開け、中に入る。きっとこの明かりも蛍光灯に比べれば明るくはないはずだけど、ランプやろうそくという炎の明かりに慣れてしまい、さらには陽光もここしばらく見ていないわたしにとっては、思わず目を閉じてしまうほどまぶしかった。
 ここの部屋の鍵は少々特殊な造りになっていて、鍵を開けても一定時間が経つと自然に鍵がかかってしまうようになっているらしい。詳しいことはよくわからないけれど、バネと釣鐘のからくりがノブの中に入っているのだそうだ。だから開けっ放しにしておかないと、わたしはどこにあるのかよく覚えていない内側にある小さなバネ仕掛けを作動させて、この下に続いている地下の貯蔵庫を通り抜けて戻らなくてはならなくなる。
 もっとも、扉を開け放しておかないと、全面が鏡張りという部屋の特性上、数分いるだけでもめまいがしてしまうので、閉めようなどとは思わないのだけれど。
 ここも元々は洗濯をするごとに鍵を借りにいっていたのだ。だけどある時エリックの方から不便だろうからと合い鍵を作ってくれた。
 本来ならばこの乾燥室は拷問部屋と呼ばれていた部屋だ。オペラ座から彼の家に侵入しようとした者は、この部屋で最期を迎えることになる。幸いといってはなんだけど、その罠が発動したことはこれまでないそうなので、気兼ねなく使っているけれど……。本当はこんなのんきな使用方法など想定されていなかったはずだ。煌びやかな鏡に映るのは、所帯じみた洗濯物のみ。それでも部屋の隅にある鉄の枝に人間がぶらさがっているよりはずっとましだとわたしは思う。
(あ……)
 洗濯物を広げてぱんぱんとしわを伸ばす手が止まる。
 わたしはついと上を見上げた。
(そうだった。この上には……)
 ごくりと思わず喉が鳴る。
(オペラ座へ通じる道があるんだった。一度しか使ったことがないから、気にもとめていなかった……)
 いいや、とわたしは頭を振る。
 そのことを思い出したからといって、なんになるというのだろう。
 外へ出て、それから? 
 家出をしたところで、明るい未来が待ち受けているということなどない。
 良くて貧乏暮らし、悪くて野垂れ死にだ。
 そうでなくてもエリックのことだもの、こっちだってすでに手を打っているはず。悪あがきするのはよそう。
(でも……本当にそうかしら?)
 この道はわたしの記憶によれば、仕掛けらしい仕掛けは特にないのだ。オペラ座からこちらへ来るには舞台裏から奈落へ移動するだけでいい。目立たない通路の奥にある出口――それとも一応エリックの家に入ることになるのだから、入り口かしら――を抜けるとここ、拷問部屋へと出ることができる。
 仕掛けがないのは奈落を経由するという都合上、道は入り組み、障害物も多数あるので、それが代わりになっているからだと聞いたことがある。確かにそんな感じはすると、通った時に思ったものだった。
 だからエリックがこの上にあるはずの出口を塞いでしまっていなければ、ここをよじ登りさえすればわたしは家から抜け出せるはず。あとは奈落を通り抜けて、楽屋裏に行けばいいんだわ。途中で裏方の人に見られても平気よ。うっかり迷い込こんでしまったふりをすればいいんだし。それから何食わぬ顔をして、関係者通用門から外に出る。簡単じゃない。
 けれどそこでさっきの疑問に戻るだけ。
 それからどうするの?
 家はない。お金はない。身よりもない。ない事尽くし。いっそ清々しいくらい。
 エリックの関係者を頼るのは、できればしたくない。彼らのことはわたしも好ましく思っているけれど、もともとエリックの作った人脈なのだ。それもあの警戒心の強い彼がつきあいを続けている相手だ、最終的にはエリックの味方にまわるだろう。彼らのところへ行っても、わたしは彼の元へ送り届けられることになるだけ。そうでなくても怒った彼がわたしが頼った相手をひどい目に合わせるかもしれない。彼らに迷惑をかけることだけはしてはいけない。これはわたしとエリックの問題なのだから。
 そうなると、最善の方法は日本公使館に駆け込むことしかなさそうだ。パリで一人で生きていけるなどとはとても思えないし。
 だけど、駄目よわたし。そんな期待をしては駄目。
 まずはここにある出口が塞がれていないかを確認しないと。
 でもいま実行するのはまずいわ。エリックは自分の部屋にいるはずだもの。たとえ出てこないにしても、わたしがここであまり長いことごそごそしていたら不審に思うだろう。彼がいない時にしないと……。それならば夜だ。彼は毎晩出かけてゆく。仕掛けを変更しに。わたしを逃がさないために……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 洗濯で疲れきっていたけれど、頭はひどく冴えていた。何もしていないのに、時折心臓が激しく脈打つ。
 エリックに隠れて、彼の気に障るとわかりきっていることをしようとしている罪悪感。
 それに万が一の時の切り札を手にすることができるかもしれないという期待感。
 気持ちを落ち着けるために、野菜をたっぷりと入れたスープを作る。材料をひたすら一口大に切り、煮込んでいるうちにいつもの夕食の時間になった。
 エリックは姿を現さなかった。
 この状況はいつまで続くのだろう。エリックも料理はできるのだから心配することはないのだろうけれど、でもあの人、もしかしたらこの三日間、全然食事をしていないんじゃないかしら。覚えている限り、食材は減っていないようだし、レンジも調理台も汚れていないのだ。彼は食事も睡眠も、ただ死なない程度に取れればそれでよいと考えている節があるから、絶食しっぱなしでもおかしくない。
 好きにさせよう、とは思っていたけれど……呼びにいった方がいいのかしらね。
 だけど、今度は別の意味で気まずくなりそうだし……。わたしは彼ほどポーカーフェイスは得意ではないのだ。わたしがそわそわしていると気づかれるのは、さすがに困るか。
 だけどいつ来てもいいように準備だけはしておこう。あの人だってすぐに食べられるようにしておけば、口にいれようという気になるかもしれないのだし。
 がらんとした食堂で一人で食事を済ませる。そして片づけをしてから寝室に戻った。
 それから……それから――ひたすら待った。エリックが出かけるのを。
 わたしは寝室の扉の前にしゃがみこみ、耳を押し当てて居間の音を聞き取る。昼間の重労働と緊張とでくたくたになっていたわたしは、何度もうつらうつらとしてしまったが、時計の針が十二時を回る頃にかすかな物音とともに気配がすっと消えたように感じて、扉を細く開けた。入れ替わるように玄関が閉まるあえかな響きが耳に届く。
 エリックは出かけたのだ。
 わたしはそっと部屋を出ると、再び拷問部屋へと歩き出した。
 明かりをつけて再び上を見上げる。照明を受けてまばゆく輝く鏡。それは洗濯物を無限に増やしながら地の果てまで続いているように見えた。
(どのあたりだったかしら……)
 出口のありかを探す。普段は口を閉じているので、場所がわからないのだ。一度だけ使ったことがあるが、ここからオペラ座へ行くのではなく、オペラ座からこちらへ来たので方向感覚が狂ってしまっていた。記憶は当てにならないだろう。
 だけど、少なくとも、扉がある鏡とその両隣は省いてもよさそうだ。家の構造から考えて、その方が自然だ。
 それから高さはどのくらいだろうか。ここは相当天井が高い。だけどエリックはここへ降りた時にはただ飛び降りただけだったから、それが可能なだけの高さの位置にあるということよね……。
(しらみつぶしにするしかないか。はしごを持ってこよう。重たいけれど)
 どっしりとした木製のはしごを苦労して運び入れると、それを立て掛けて登った。あちこち叩いたり引っかいてみたりして、どこかが動かないかを調べて回る。
 この部屋の鏡は大きな姿見くらいの鏡が何枚もつなぎ合わせてできている。わたしは特にその接合部分を中心に探って回った。鏡は綺麗につなぎあわせてあって、デコボコなどまったくないのだけれど、それでもつなぎめははっきりとわかるのだ。鏡のどこかに出口を潜ませるというのなら、つなぎ目に同化させるのが一番簡単な方法だろう。
 何の手ごたえも感じないので、少しずつはしごをずらしていって、また同じことをする。焦ってはしごから落ちたら大変だとは思ったけれど、できるだけ急いで調べていった。エリックは出かけたばかりだけど、それでもいつ戻ってくるかわからない。忘れ物を思い出したり、気が変わってしまったり、何か問題が起こって作業ができなくなる可能性だって、ないわけではないのだから。
 はしごの昇り降りと鏡を叩くことを繰り返して、どれほど時間が経っただろうか。まるで手ごたえがなくて、さすがにエリックはすでにここの出口をふさいでしまったのだろうと諦めかけたとき、拳で叩いた反響音が他とは少し違う部分があることに気がついた。
 腕を伸ばせる範囲で扇状に叩きまくっていたのだけど、一番伸ばした時に叩いた音がそれより下の部分よりも大きく音が響いたように感じた。
 もしやと思ってさらにはしごを登ってみる。もう段の数もギリギリだった。これ以上登ったら、バランスを崩して落下してしまうだろう。そうでなくても鏡の反射で目がくらみそうになっているのだ。目の前の鏡にはわたしの姿と背後の鏡によって反射された後ろ姿が映り、さらに反射したわたしの正面の姿が少し小さく映っている。さらにそれからもう少し小さいわたしの後ろ姿が……。それがゴマ粒くらいになるまで延々と繰り返しながら続いている。六角形という部屋の形のせいで、すぐ脇にもわたしの横顔が映る。どこを向いても、わたし、わたし、わたしだ。
 しかもわたしが前を見据えているせいで、前を向いている何十何百という数のわたしの顔もこちらを向いている。自分の視線にさらされて、背筋が凍りそう。はっきりいって、気持ちの良い光景ではなかった。
 吐きそうになるのをぐっとこらえながら、わたしは鏡に手をついて身体を支え、腕を振り上げた。
 叩く。
 音が違った。
(ここだわ!)
 達成感で顔が熱くなる。だけど場所がわかっただけでは意味がない。開けられるかどうか、確認しなければいけなかった。
 しかし鏡にはどこにも取っ掛かりになりそうなものは見当たらない。
 以前にここを通った時には、エリックが前を歩いていたのでどのようにして開けたのか、見ていなかったのだ。それに、まさか逆流するような形でここを通ってみようとするなんて、思ってもいなかったし。それにしても、向こう側からしか開けられないような仕様になっていたらどうしようかしら。
 エリックの道具が物置に色々あるので、どうしても開けられないようであれば金槌でも持ってきて割ってしまおうか、とも考えたけれど、破壊行為はさすがにためらわれたので、それは最後の最後、ここの出口が開けられず、エリックとの関係に希望が見出せなくなり、死んでもいいからここから出ようと決心した時に行おうと決めた。
 苦闘すること数十分ほどか。どうやらわたしの予想した通り、出口は向こう側から押し上げるようにして開けるということがわかった。
 蝶番が向こうについているようで、出口の上の部分――そこも接合部分にカモフラージュされていた――を力を込めて押すと、下側がわずかに浮き上がった。
 気を緩めてしまったらすぐに閉じてしまいそうなその隙間に、わたしはさっと片手を滑り込ませる。重く狭く、固い鏡のヘリで指が切れるかと思ったが、なんとか上手くいった。
 もう片方の手も差し込んで、ゆっくりと出口を押し上げる。光の見えない暗い通路から冷たい空気が顔をなでながら流れ込んできた。
(開いた……!)
 湿っぽくてかび臭い空気だったけれど、わたしには希望の象徴のように感じたので、胸いっぱいにそれを吸い込む。そうしたら気が緩んでしまい、涙がこぼれた。
 頬を伝う雫をぬぐい、わたしは化粧着がはだけないようにするための布ベルトを解いた。片手で鏡が閉まらないように抑えていたのでまとめにくい。しかしなんとか畳み終えるとそれを通路のはじに置き、端を少しだけ垂らして鏡に噛ませるようにした。
 ゆっくりと鏡を下ろすと、わずかにベルトが見える。こうしておけば次に開けるときにここに出口があるとすぐにわかるだろう。
 こんな手を加えてしまってはエリックにばれてしまう可能性もあるのだけど、彼自身あまり使わない場所であるということもあるので、気がつかないことに賭けてみることにした。
 それに、そう、彼がここも塞ぐつもりでいるのなら、遅かれ早かれ使えなくなってしまうのだもの、だったら悩んでも無駄なことだ。
 わたしは色々とやり遂げたことに満足し、また疲労から大きく息を吐いた。
 ゆっくりとはしごを降りると、しっかりした床の感覚に思わずよろめき、しゃがみこむ。
 夢中になってやっていたけれど、思っていたより高いところに登らなくてはならなくなったし、鏡の反射でくらくらするしで、怖かったのだ。
 できれば二度とやりたくないけれど、それは今後次第だ。そしてその時にははしごをつかうのはやめよう。なにしろはしごでは出口まで手は届くけれど開いた通路によじ登るにはいささか長さが足りないのだ。だから何か別のもの、そう、貯蔵庫に空き木箱が結構あるから、それを積み重ねてみよう。その方が安定しそうだし。
 とにかく、今日は疲れたわ……。
 緊張と部屋の暖かさで――なにしろ、部屋のスイッチを入れるということは暖房を入れるに等しいのだ。ある程度の温度調整はできるので、低音になるようにしたけれど、元々拷問用に設定されている温度なので、低音にしても初夏くらいの暖かさになってしまうのである――汗だくだ。お風呂に入ってさっぱりしてから寝よう。そして今後のことを考えるのだ。
 面白いことに、すべてエリックの思うようにさせようという諦めから発した思いは、汗とともに流れてしまったかのように、すっぱりと消えてしまっていた。
 わたしは諦めない。
 こんな状態でいてはちっとも幸せではない。
 それはエリックだって同様だろう。今の彼が幸福だなんて思えない。
 わたしを閉じ込めることは、納得はしたくはないが理解できないことではない。
 彼は不安なのだ。だから自分の手の内に置いておきたいのだ。
 だけどそれで不安が解消されたとしても、幸せになれるわけではない。
 それとこれとはまた別のことだ。
 それがわかったからといって、どうすれば解決するか、わからないけれど。
 そこまで考えて、わたしはふるふると頭を振った。
(本当にわたし、今日は疲れきってしまったみたいね。お風呂の中で眠ってしまわないように注意しないと)
 はしごをずるずると引っ張るようにして元の位置まで運び、再び大きくため息をついた。拷問部屋のスイッチを切る。明かりが消えたのを確認して、扉を閉めようとした。
 そこでふと、気がつく。
(どうして出口には鍵がついていなかったのかしら)
 エリックはこの家をどこよりも安全な場所にしたかったはずだ。
 なのに、出口はただ鏡を蝶番でとめただけ。わたしは今回、内側から無理やり開けたのでとても大変だったけれど、向こう側からならそれほど力を込めなくても簡単に開けられるはずだ。
 それはもちろん、この拷問部屋に入り込んでしまったら出てくることは難しい。侵入者ならば鍵の解除スイッチがあることすら見つけられないだろうから――とても小さい上に見つけにくいところにあるのだ――ここから出ることは不可能だとは思うけれど。
 だけど絶対は、ない。
 エリックがいくつもの罠を仕掛けているのだって、裏を返せば万が一のことを考慮しているからだろう。そう考えれば拷問部屋だって、絶対に内側から開けられないと言い切れるものではない。
 だったら、拷問部屋に至る出口にも、なんらかの仕掛けを施していてしかるべきではないだろうか?
 そこまで来る通路だって、入り組んでいるとはいえ、ここで働いている人にとっては慣れたものなのだろうし、カーンさんのように率先して探し回る人だっているのだし……。これではまるで……。
 はっと顔をあげると薄暗い鏡の部屋の奥に、顔色を失った娘が映っていた。
 自分の目なのに、それが恐ろしくて、とっさに扉を閉める。
 暑さのせいとは違う汗が背中を伝った。
(拷問部屋は、蟻地獄と同じなんだ。入るのは簡単。だけど出ることはできない。そして確実に殺すことによって安全を保っているんだ……。そうでなければ、どうして出口に鍵がついていないの? ううん、鍵でなくてもいい、とにかく簡単に開けられないようにしてさえあればいいんだから。もしも彼自身の身の安全を考えるなら、そうした方がよほど都合がいいはずだわ。出口の裏は通路の壁の一部と同化させているんだもの、誰かがこの近くに来たところで、押しても引いてもなにも起こらなければ、行き止まりだと思ってそこで引き返すと思わない? 彼はそうしていない。むしろ、好奇心から行動する者が簡単に転げ落ちてしまうような形にしている。そしてその好奇心の対価は、侵入者自身の命なのだ……)
 なんてことに気がついてしまったのだろう。
 じり、と鍵を握り締めながら後じさる。
 さっきまであれほど暑かったはずなのに、今のわたしは寒さで震えていた。
(わたしはなんてところでのん気に洗濯物なんて干していたんだろう……)
 実際に使われたことがあるかないかは関係がない。わたしは今はっきりと、彼の持つ異常性を理解したと思った。
 わたしはこれまで、彼が神経質なまでにこの家に至るまでの道のりに仕掛けを施していることを仕方がないことだと思っていた。
 散歩へ行き来するときも、いちいち解除しなければならなくて、それが面倒だと思うことも多々あったが、他人に一切邪魔をされずに穏やかな暮らしをしたいと願っていたのだから、居候であるわたしもそれに協力するのは当然のことだと思っていた。
 セールスお断り、のちょっと激しいバージョンだと思えばそれほどおかしなことでもない。拷問部屋もそれと同じようなものだと思っていた。
 だけど、違うのだ。拷問部屋は、もっと悪意に満ちた代物だ。
(わたし……どうしよう……)
 思いもかけない発見によって、わたしの心は揺さぶられた。
 エリックをこれほど恐ろしいと感じたことはなかった。一刻も早くここから離れたい衝動にかられる。
(どうしてこんなことになっちゃったんだろう……)
 しゃがみこみ、耳を押さえて激しく頭を振る。嫌なこと、怖いことを吹っ切ってしまえるように。
 ただ、普通の生活がしたかっただけだ。それだけはわたしもエリックと同じだった。恋人と、時には波風が立っても最後には仲直りをして……。穏やかに、誰にも邪魔をされず、過ごしたかっただけだ。
 だけど、このままでは無理だ。イブリー氏のことが解決したところで、わたしがエリックに怯えていては、元に戻るなんてできっこない。
 目の前が真っ暗になる。
 激しい動悸に息が苦しくなった。
(気づかなければ良かった……)
 思っても、もう遅い。






カノジョ、一人でパニクり中。




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