拷問部屋の前で、新たな、そして気がつきたくなかった視点を得てからどれだけ経っただろう。小さな物音に我に返ると、わたしは初めて見るもののように居間を眺めた。
 ランプ中心の灯りは部屋全体を明るくするには及ばず、窓がないせいで一層陰気臭く見える。特別おかしなものはないにも関わらず、その一点のせいで強い違和感があった。くつろぐためのソファーやテーブルが暖炉の近くに据えられており、部屋の片側には大きなオルガンが設置されている。傍らには楽譜を書いたり手紙を書いたりするための作業台もあり、さらには疲れた時にすぐに横になるための寝椅子もあった。それだけあってもまだ、ダンスができるくらいの空間が残っている。
 これだけ広いのに、居間は狭く感じた。圧迫感があるとでも言おうか。窓という外と内とをつなぐものがないだけで、これほどまでに違うとは。
 そして、この部屋の主に対する感情が変わると、見慣れたものがこうも別にものに見えるとは。
 薄暗い部屋の中、ちかりと小さな光りが二つ、こちらに向けられる。アイシャだ。物音は彼女が立てたもののようだ。
 アイシャは優雅な仕草で首を巡らせ、最愛の主人がいないことを確認すると、わたしなどには興味はないと言いたげに居間から出ていった。
 彼女に習って、わたしも居間から去る。ここでずっとぼんやりしていても仕方がない。エリックが戻ってきたら不審がられてしまうだろう。夢中で出口を探していたので、首の後ろでリボンでくくっただけの髪は乱れているし、化粧着の布ベルトはない。開いたそこからはパジャマが覗いているが、それも汗でしっとりしていた。化粧着のベルトは結果的には出口の目印として使うことになったけれど、拷問部屋を明るくするスイッチを入れるということは部屋に暖房を入れるに他ならない。化粧着など脱いでおげば良かった。今では汗が冷えて寒くなっている。早くお風呂に入ろう。そしてよく考えるのだ。これからのことを。
 残るか、留まるかを。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 翌朝、まとまらない頭のまま、わたしは居間でエリックを待った。夕べは結局よく眠れなかった。安らかな気持ちになるには、あまりにも混乱していた。
 だけどただ一つだけ、はっきりしていたことは、状況がこのまま変わらないのであれば、自分とエリックは破局するしかないということだ。他のことが何一つ予想がつかないとしても、これだけは確信を持って言えた。
 なぜなら、わたしはエリックに変わらぬ好意――愛情、と言えないところがとても残念だ――を持っているものの、それを塗りつぶしてしまいかねない勢いで彼のことを恐ろしいと考えるようになっていたからだ。
 あの拷問部屋のせいで。
 確かにあの部屋へのオペラ座側からの入口はカムフラージュがされている。あの場所は関係者以外は基本的には入らない所だし、行き来する人もそう多くはないという。うっかり入口と知らずによりかかっても簡単に転げ落ちたりはしないだろう。鏡は意外と重たいものだ。
 しかしスクリブ通りの入口に比べれば、何の対策もなされていないと感じるほど無防備なのだ。今この瞬間にでも、不運な人間が転がり落ちてきてしまうかもしれない。
 私は考えたことがなかったのだ。
 万が一そんなことが起きた時に、エリックはその人をどうするのかを。
 わたしが頼めば殺しはしないかもしれない。しかし長年の友人であるカーンさんですら家に招くことを拒み続けている彼が、家の中に入り込んできた人間を本当に助けてくれるのだろうか。
 わたしには何もしないと言いつつも、陰で始末するようなことはないだろうか。そして何もしないという彼を、わたしは本当に信用することができる? ……難しい。心のどこかで最悪のことが起きているのではないかと怯えながら、信じているようなふりをしなくてはならないのではないかと思う。
 彼の意思が全てを決定する世界。
 その世界の内側は、なんて苦しいのだろう。
 エリックの過去を思えば、彼がそうすることを責めることはできない。だけどわたしは聖女ではない。すべてを許し、認め、受け入れることなどできない。
 ――距離をおきたい。
 するりとそんな思いが浮かんだ。
 彼と別れたいわけではない。あの人を見捨てるなんて、想像するだけで心が引き千切られそうだ。いや、こんなことは言い訳だ。彼に見捨てられることこそをわたしは恐れているのだ。だけどエリックがわたしに執着していることもまた事実。それが暴走した愛情ゆえではなく、一度手にいれた愛を手放したくないだけだとしても。ただ側に誰かにいてほしいだけなのだとしても……。それがわたしでなくとも構わないのだとしても。
 ならばまだ破局を回避することはできるかもしれない。ここにいたままではもう、どんなささいな問題も解決できそうになかった。同じ屋根の下で暮らしていては、どれほど気を使っていたとしてもふいに顔を合わせただけで元の木阿弥に戻ってしまうだろう。
 時間がほしかった。
 しばらくエリックと別々に暮らしたら――夫婦喧嘩をした奥さんが実家に帰るみたいにだ――また新鮮な気持ちでエリックと向き合えるようになるかもしれない。またあの人を愛しい思えるようになるかもしれない。
 わたしはスカートをぎゅっと握りしめた。
 もうこの考えにすがるしかない。エリックに頼んでみよう。もう散歩がしたいとかいう問題ではないのだ。もしもこの願いを受け入れてもらえるのならば、用意される家――もしくは部屋――はどんなに辺鄙なところにあろうと、構わない。彼はきっとわたしが他の人間と接触することを嫌うだろうから、必然的にそういう場所を選ぶだろう。それでもいいのだ。
 ああ、かすかな物音がする。
 時計を見ると、正午に近い。
 エリックが起きてきたのだ。


 エリックもわたしと話をしたいと思っていたようだ。わたしたちは久しぶりに長い時間を共に過ごし、喉に傷みを覚えるほど会話をした。
 だけどそれは盛大に蛇行し、何一つ実を結びはしなかった。
 わたしの望みはすべて却下され、一筋の光明も見い出されないことを確認するだけで終わったのだ。
 希望が一つ一つ塗りつぶされ、残ったものは絶望だけ。
 もう駄目なのだ。
 終わったのだ。
 元には戻れないのだ。
 あとは墜ちるところまで落ちるか、傷が浅いうちに別々の道を歩くようにするしかない。
 エリックはわたしがここから出られないと思っているが、違う。最後の手段をわたしは持っている。それを使おうと思う。彼がそこを塞がないうちに。
 エリックはわたしを恨むだろう。裏切られたと思うだろう。だけどいつか愛が蘇るかもしれないと空しく希望を抱きながら二人で暮らし続けるよりも、こうした方がまだましだと思う。憎しみは時として強い力を人に与えるという。わたしを呪うことで愛を吹き消し、忌まわしい過去として葬り去ってくれればと思う。
 身勝手なのは理解している。許してほしいなどとは言わない。こんなことをして、彼が幸せになるなんて、少しも思っていない。
 それでも願うだけは許してほしい。
 どうか幸せになってください。
 わたしのことなど忘れて、あなたを心から愛せる人と巡り会ってほしい。
 わたしは一生あなたを傷つけた罪を抱えて生きる。どこへ行こうと、何をしようと。あなたの陰が消える日はきっとこない。
 さようなら、エリック。
 わたしは今夜、家を出る。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 この部屋に戻ることは二度とないだろうと、家出をする時間になるまで片づけをして過ごした。
 先にベッドから布団とシーツを外し、軽く叩いて埃を飛ばす。それから戸棚、クロゼット、化粧台を整理し、当面掃除はされないだろうと思って白い大きな布をかけた。長期間家を開けるときには埃よけのためにこうするのだとどこかで聞いたことがあったから。
 最後に床の掃除をし、部屋の片づけは終了。次にトイレと洗面台、浴室を磨いた。
 朝から頑張って、終わったのは夕方。
 わたしの部屋にはエリックから贈られた思い出の品々であふれていて、それを見るにつけ、幸せだった頃を思い出して涙が出てきた。わたしの持ち物は現代からこの時代へ来た時に着ていた衣服だけ。でもこれは置いていこう。持ち歩いたところで感傷の道具にしかならないものなのだから。
 ここからは、ドレス一式を除いて何も持っていかないつもりだ。さすがに裸で往来をうろつくわけにもいかないから、家を出るときに着るだけのものを持ってゆくことだけは勘弁してほしい。その着るものも、一番地味でお金のかかっていないものを選んでいる。それでも売れば当座をしのげるだけのお金にはなるだろうという考えが浮かんで、自分の浅ましさに嫌気がさした。
 そして、ぐずぐずと引き伸ばしていたこと――首から鎖を外す。
 ランプの明かりの中でも、磨き抜かれたダイヤモンドは清浄な輝きを放ち、すぐ隣に配置されている真珠はその輝きを受けてまろやかに光っていた。
 わたしはそれを飽くことなく見つめていたが、居間の掛け時計が時を告げる音にのろりと頭を上げ、そっと小箱に指輪を戻した。
 これでわたしたちの婚約は解消される。なんてあっけないのだろう。
 エリックは昼の間、どこへも出かけていないようだった。きっと今夜も罠を変更する作業をするために外出することだろう。
 本当は心のどこかで思っていた。エリックがふいにわたしに部屋に入ってきて、一体何をしているのかと問いつめてくれるのではないかと。家出をするほど思い詰めているわたしを、哀れんでくれるのではないかと。
 虫のいい願いだ。彼はわたしに無断で部屋に入ってくる人ではないのだ。そうでなくても、わたしは彼に気づかれないように静かに作業していたのだから、彼が気づいてくれないと傷つくなんて勝手すぎる。
 作業の締めとして、昨日着ていたシュミーズやパジャマ、ベッドから外したシーツなどを軽く畳んで脱衣籠に入れておく。これらを洗濯している余裕はないので、処分はエリックにしてもらうつもりだ。彼が洗濯をするとは思えないので、捨てられることになるだろうが。
 さあ、これで準備は終わった。あとはエリックが出かけるのを待つだけ。無為の時間ができたかと思うとこれまで堪えていたものを押し殺すことができなくなって、あとからあとから尽きることなく涙が溢れてきた。声を堪えるためにハンカチで口をふさぐ。息が苦しい。心が苦しい。
 お願いエリック、気がついて。
 いいえ、どうか気がつかないで。

 気がついて。
 気がつかないで。

 気がついて……!


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 涙でぐしゃぐしゃのままだったが、時間が来たので拷問部屋に向かった。鍵を開け、上を見上げる。
 目印はそのままだった。
 それを確認すると、部屋を出て、地下の貯蔵庫へと向かう。これはキッチンの隣にある食料庫とは少し用途が違い、小麦粉や砂糖やワインなど、保存が利くものをたくさん保管するために使う場所だ。大きな袋や箱、樽などで運び込まれ、そのまま置かれる。使う時には使いやすい大きさの容器に入れ替えられ、食料庫に運ばれるのだ。
 そして貯蔵庫には中身が空になった入れ物もずいぶんたくさん残っている。
 エリックが片づけ好きでなくて良かったとちょっとだけ感謝してしまう。はしごを使ったらすぐにわたしが拷問部屋から逃げたとわかってしまうということもあるが、それ以上に問題だったのは、はしごでは出口に手は届いても外に出るには無理なので、別の足場が必要だったのだ。それというのも、はしごの一番高い段に足を置いても、ようやく胸のところに届くかどうかというもので、ただでさえ動きにくいドレスを着て、自分の身体を持ち上げるにはちょっと……いや、かなり大変なことだと気づいていたからだ。
 何度となく往復して箱を積み上げてゆく。最後には箱が足りなくなったので樽もつかった。
 それから物置で発見した鉄かなにかでできているらしい棒――エリックが何かを作った時の余り材料だと思う――を出口が閉まらないようにするためのつっかい棒とし、準備は完了した。
 箱の階段を降りて、部屋を出る。
 スイッチを切ると、鏡の部屋は暗闇と同化した。
 名残が惜しくて居間を眺める。だけど長いは無用だ。わたしはここから決別するのだと決めたのだから。
「さようなら」
 小さく呟く。
 さようなら、エリック。
 さようなら、アイシャ。
 さようなら、彼の作った安住の地……。
 頭を振るって踵を返す。内側から扉を閉めると自動的に鍵がかかる音がかすかに聞こえた。
 真っ暗だけど、上からひんやりとした空気が流れ込んでくるので、閉じこめられたと恐れることはなかった。
 壁に手を当ててゆっくり歩く。
 箱の階段にぶつかったので、それを崩さないように、そしてわたし自身が落下しないように慎重に上っていった。
 あっけないほど簡単に出口に到着する。ドレスの膨らみが出口にひっかかってちょっと手間取ってしまったが、誰にも見られることなく出ることができた。
 彼の仕掛けを余人に知られては困るので、目印にしていた布ベルトは拷問部屋に投げ捨て、つっかい棒の方はそのまま持っていくことにした。どこか離れたところに捨てておけば、怪しまれることはないだろう。奈落には必要なものなのかどうかわからない、ゴミのようなものがそこここにあったりするのだ。
 ドレスを整え、わたしは歩きだした。
 今日は何日だっただろうか。新聞を読むこともなくなっていたので、もう日付も定かではなくなっていた。
 それに今日は公演はある日なのだろうか。家を出るときに時計を見ていたので、今が真夜中の一時近いことはわかっている。もし公演があるのなら、まだ関係者は残っているはずだ。公演そのものは終わっていても、居残って歌手やバレリーナと遊んでいる定期会員などもいるだろう。そういう人たちに混じって出てゆけば、怪しまれることはないはず。
 だけど、出てどこへ行こうか。
 わたしには選択肢がほとんどない。少なからずまともに生きていける場所があるとしたら日本だけだと薄々感じていた。
 わたしは自分の着ているドレスを見下ろした。絹製の飾りのあまりない水色が基調のドレスだった。これを売れば日本へ行く船の切符を買うことができるだろうか。わたしとエリックが結婚するためにでっちあっげた縁者を探す手配をしてくれた公使さんは、こんな結果に終わったわたしにでも助け手を伸べてくれるだろうか。
 わからない。だけどやってみるしかない。
 わたしは重苦しい気分のまま、奈落を歩く。途中で裏方の人たちとすれ違ったが、みな怪訝そうな顔をして通り過ぎただけだった。多分泣きすぎてひどい顔になっているからだろう。面倒そうな女だと思われているに違いない。
 奈落から舞台裏に回り、楽屋の並ぶ一角へ行く。人通りは少ないものの、ざわめく気配の余韻のようなものがあった。今日は――日付は変わったが、寝るまでは「今日」が継続していると思っている――オペラ公演があったと、ここに来るまでの間に小耳に挟んだ。外へ出るのは容易だろう。
 そのまえにどこかの楽屋を借りて、顔を洗わないと。目が真っ赤に腫れているだろうが、できるだけ身なりを整えておきたい。
 個人の楽屋に侵入して騒ぎを起こしたくないので、人目がないことを確認して中に入り込んだ。普段人の出入りのない楽屋がある場所は知っているが、そこはエリックの隠し扉があるので近付くわけにはいかなかった。彼はこことは違うところで作業中だろうとはわかっていたけれど、もしも彼が気を変えていたらと思うと、うかつなことはできないのだ。同じ理由でマダム・ジリーの部屋にもいけない。こんな時間にわたしが訪れたら変に思われるだろうし、彼女に諭されるのも、巻き込んでしまうこともしたくはないのだ。
 入り込んだ楽屋のガス灯のスイッチをひねる。ガス灯はランプよりも明るかった。その明かりに照らされるわたしの姿が大きな鏡に映る。その顔はひどいものだった。
 だが生憎なことに水差しの中身は空っぽ。その他大勢用の楽屋は個別に水道がついていないようだ。水道のあるところまで汲みに行かなくてはならない。
 とりあえず先にぼさぼさになっていた髪を直すことにした。そなえつけの――忘れ物かもしれない――ブラシで髪をとかし、ピンでとめた。
 鏡の前であちこちを点検し、あとは顔を洗うだけとなったので、水差しをかかえて楽屋を出た。
 あまりエリックの領内で長居をするものではないと思う。早く行ってこないと。
 水道のあるところへてくてく歩きながら、わたしは今夜のことを考えた。
 外で一晩過ごしても凍死はしないだろうが、現代の日本と違って女が一人でうろうろしても大丈夫なほど、パリの治安が安全なものだとはあまり思えない。できれば明るくなってから行動したいものだが、手持ちのお金はないのでどんな安宿にも泊まれない。明るくなるまでオペラ座で時間を潰すのは、エリックに見つかってしまうかもしれないし……。さすがにこの時代だもの、二四時間営業のコンビニやファミレスなどはないだろう。どうしたものか。
「あれ? やあ、どうしたんだい」
 すぐ近くで声がしたので、驚いて足を止めた。若い男の人の声だったのでわたしの知人ではないとすぐに思い当たった。
 紛らわしい。
 うっかり返事をしようものなら、向かいから自分に向かって挨拶をしてきた人に自分の覚えていない知人だと勘違いして挨拶しかえしたものの、やはりその人は知人ではなく自分の後ろにいた人に向かって挨拶していた、というよくありそうな恥ずかしいシチュエーションを演じるところだった。
 わたしは何事もなかったかのように歩きだしたが声の主――聞こえた方向からして後ろにいるみたいだ――が小走りで近づいてきたかと思うと、ぽんと肩を叩いてくる。
「無視しないでくれよ。ひどいな」
「……え?」
 びっくりした。思わず声が裏返ってしまう。
 しかし振り返った視界に入るその声の主に覚えはなかった。そもそもわたしのパリでの人間関係はとても小さく、知人といえる人の数は両手の指の数よりも少ないのだ。
 わたしはまじまじとその人を眺めた。髪は、光が当たっているところは金色に見える茶色で、青みがかった茶色の目をしている。顔の造りは好みはあるにしても、まあ整っているといえるだろう。鼻の下にはよく手入れがされている口髭があった。わたしは髭ってあまり好きではないのだけど、この時代の男性は生やしている人の方が多いので、マイナス点にはならないだろう。
 着ているものはこの時間にオペラ座にいるのだから当然燕尾服。手には銀の持ち手がついたステッキを持っている。どこか人を喰ったような表情を常に浮かべているが、品の良さを損なうほどではない。
「どうしたんだい、その顔は」
 男の人は目を見開いた。
「あ、あの。すみませんが、どなたですか?」
 ひどい顔を見られた恥ずかしさより、全然知らない人に知人のように振る舞われることに困惑する。
「ああ、失礼」
 男の人は肩から手を外すと笑みを浮かべた。それは社交的な礼儀として他人を不愉快にはさせない、作ったものだとわかる微笑みだった。多少気障っぽいとは感じたが、嫌味な感じはしない。
「僕はアンリ・ド・クレール。君と話をするのは初めてだよ。でも君のことを話で聞いたことがあるんだ。マダム・ジリーが世話をしているお嬢さんなんだってね。すぐにわかったよ。東洋人の女性がこんなところにいるなんて滅多にないから。ああ、そうだ。マダムはもう帰ってしまったので教官室に行っても無駄足だよと伝えようとしたんだ。でも驚かせてしまったようだね。すまない」
「そうでしたか。お気遣いありがとうございます」
 とっさにわたしは頭を下げた。と、水差しが目に入って赤面する。みっともないところを見られてしまったものだ。それにしてもわたしがマダム・ジリーの知り合いだということがこんな全く面識もない人も知っているなんて……。やっぱり目立つんだ、わたし。
「それならマダムの部屋には寄らないことにします。それじゃあ……」
 そそくさとわたしはその場から離れようとした。しかしド・クレール氏はわたしの前に回り込み、顎をつかんで上を向かせた。
「ちょっと待ってくれよ。なにか君にとって大変なことが起きたんだろう? マダムはさっき帰ったばかりだ。すぐに行けば寝る前に話ができるだろう。僕の馬車で送ってあげるから、一緒においで」
 革の手袋越しに伝わる指の感触は、繊細さは少ないものの、有無を言わさない力強さがあった。
 思わず首肯してしまいそうになったわたしは慌てて頭を振る。マダムのところへ行くわけには行かないのだ。
「ご親切に、ありがとうございます。だけどさすがに真夜中ですから……。改めて出直すことにします」
 マダムのところへ行くつもりはなかったけれど、そんなことは言わなければこの人にはわからないだろう。
 わたしは言いながら失礼にならない程度に力を入れて、ド・クレール氏の手を顎から外した。
「気にすることはないと思うけれど。僕たちみたいな人種にとっては、これからが夕食時なんだから。そうそう、君、夕食はもう食べたのかい?」
「え、ええ」
 わたしは頷いた。本当は嘘だったのだが。
 食事などしている精神状態ではなかったので、昼に簡単なものを口にして以来、水も飲んでいない。
「そう。じゃあ、これからどうするんだい?」
 ド・クレール氏はステッキを右手から左手に弄ぶように持ち替える。
「……帰ります」
 そうとでも言わないと、この人は納得すまい。そして帰るといえばいい加減解放してくれるだろう。わたしはこんなところで時間を潰している余裕はないのだ。
「そう。なら、送るよ」
 わたしは呆気にとられてしまった。なぜ、そういうことになるのだろう。わたしはまたナンパされているのだろうか。
「初対面の方にそんなことをしていただく理由はありません。結構です」
「理由が必要なら、泣いている女の子を放っておくのは紳士がすることじゃないから、っていうのはどう?」
 さらりと軽やかにド・クレール氏は返した。
 なんて打たれ強い上に押しが強いのだろう。そういえばイブリー氏もそうだった。エリックとは全然違うので反発心しか起きなかったけれど、こういう人の方が本当は多いのかもしれない、と今になって気がついた。
 なんといっても、ここはフランス。愛の国とも呼ばれる国だ。そこの男性だものね。
 半ば感心しつつも、どうやって引き上げてもらおうかと考えを巡らす。オペラ座の中で騒ぎを起こすのはさすがにまずい。
 と、ド・クレール氏は意味深な笑みを浮かべる。
「当てて見せようか。君、家出したんじゃないか? 恋人と喧嘩をしたんだろう。違う?」
 これも恋愛経験値のなせる洞察力ということだろうか。となると下手な駆け引きでどうにかしようなんてしない方がいいかもしれない。なんというか、そうとう手慣れている感じがする。イブリー氏にはがっついているという印象しかなかったけれど、この人はそうね、来るもの拒まず去るもの追わずってところかしら。相当女の人にもてそうな感じはする。
 とにかくそこまで読まれているのなら、わたしがマダム・ジリーのところへ行くというのも嘘だと見破っているかもしれない。ならここは正直になろう。
「その通りです。わたしの婚約者はとても嫉妬深くて独占欲が強くて、あなたみたいに全然面識のない女性に平気で声をかけるような男性が大嫌いなの。わたしが散歩をしている時にそういう男性に声をかけられたことを知って、わたしのことを閉じこめたくらいよ。そうすれば二度とそんなことは起こらないから」
 できるだけ何も感じていないというようにわたしは語った。ド・クレール氏は一瞬ひるんだ様子だったが、すぐにまた微笑を浮かべる。
「それで頭にきて逃げ出したんだね」
「いいえ。彼は自分に向けられる愛情を信じることができないの。それを知っているから、ショックではあったけど、わたしはそれを受け入れたの。だけどどんどん行動がエスカレートしてきて、ついていけなくなってしまった。だから逃げ出してきたのよ。あの人が恋の狂気に陥る前に」
 ド・クレール氏は軽く眉を寄せて指を唇に当てた。
「ちょっと確認をしておきたいんだけど、君はどこの国の人? 僕の友達がメグ・ジリーに聞いたことには日本人だということらしいけど」
「ええ、わたしは日本人よ」
 情報の発信源はメグちゃんだったのか。まあ、あの子はわたしがオペラ座に出入りしている理由を知らないので、しょうがないか。
「日本の女性は従順で貞淑、忍耐強く、夫に生涯尽くすものなんだろう。婚約していたなら夫婦も同然じゃないか。なのに逃げたのかい。がっかりだな」
 言い方にかちんときて、わたしは睨めつけた。
「それってとってもステレオタイプだと思うの。でも、まあ残念でしたね。がっかりな日本の女とこれ以上話をしていても時間の無駄でしょう。そういうわけですからわたしはこれで。二度とお目にかからないことを祈っていますわ」
 精一杯の嫌味をぶつけて、すれ違おうとする。だけど、ああ、なんて既視感。ド・クレール氏は腕を掴んできたのだった。
「気を悪くしたのなら謝るよ」
「放してください。足を踏まれたいの?」
 ド・クレール氏は面白そうに眉をあげた。
「もしかして、そうやってナンパしてきた奴を撃退した?」
「御明察ね。それでも放さないというなら、蹴っ飛ばしますけど?」
 きつく言い放つとド・クレール氏は手を離して、腹を抱えて笑った。
「確かに、僕の思い込みみたいだ。でも僕は日本人の女性には会ったことがないんだからしかたがないじゃないか。今度からは君みたいな子もいるのだということを肝に命じておこう。ところでまだ怒っている? 無知に対して寛大に接しようという気は君にはない?」
 わたしは捕まれていた腕をさすった。イブリー氏ほど力を込められていなかったので、たいした痛みはなかった。
 わたしは両手で水差しを抱え直すと、気まずい思いで口を開いた。
「ついカッとなってしまったの。言い過ぎたわ。ごめんなさい」
「いいよ。僕も悪かった」
 するりと受け流して、気負いのない笑みを浮かべる。本当に、色々慣れているのね、この人。
「ところでこれから先はどうするんだい。どこか行く当てはあるの?」
「……日本に帰るわ。明日、公使館に行くつもりよ」
 これできっと会話は終わるだろう。ナンパだとしても故郷に帰ろうとする者をそうそう引き留めたところで益はないもの。なにしろ通りすがりの相手なんだから。
「ふぅん。約束はしているの?」
「え?」
「だから、訪問の約束。まさかいきなり訪ねようとしているのかい?」
「……」
 考えてみればそうだ。気心の知れた友人の家を訪ねるのとはわけが違う。公使も忙しい方だろうし、前もって行くことを知らせておかなければ会うこともできないかもしれない。
「急だったから、そこまで考えていなかった」
 ぽろりと呟きが漏れる。
「まあ、家出っていうのはたいがいそんなものさ」
「あなたも家出をしたことがあるの?」
「ご想像にお任せするよ」
 ド・クレール氏は片目をつぶった。なんというか、憎めない人だ。
「そういえばどうしてわたしが家出をしてきたとわかったの?」
 女が泣く理由は他にもたくさんあるはずだが。
 しかしド・クレール氏はひょいと肩をすくめ、なんでもないことのように答えた。
「劇場の女の子たちはよく家出をするから。怒りながらか、怯えながらか、泣きながらか。なんにせよ、何度も見ていればさすがに見当がつくよ」
 そんなに家出率が高い業界なのか。ちょっと憂鬱な気分になってしまった。
「で、急な家出をすることになったお嬢さん。当座はどこに泊まるつもりだい? 送ってゆくよ。君と話していて楽しかったからね」
 ド・クレール氏は背を屈めてわたしの目を覗き込んできた。
 わたしはちょっとだけ笑う。
「どうもありがとう。実はさっきまで世界が終わったように思えていたの。でもそんなんじゃ、なにをやってもうまくいきっこないわね。あなたのお陰で少し浮上してきたみたい」
 うん、と軽くド・クレール氏は頷いた。
「明日、公使館に行って面会の約束を取り付けてくるわ。当座の生活場所も確保しなくちゃいけないし、やることがいっぱいあるもの。落ち込むのはそういうものが全部終わってからにするわ。それじゃあ、本当にどうもありがとう、ド・クレールさん」
 ぺこりと頭を下げ、わたしは踵を返した。この人の脇を通りすぎようとしたらまた止められそうな気がしたので、別の水場に行くことにした。
「ちょ……待ってくれよ。そんなんでどうするんだ。今夜寝るところはあるのかい?」
「ないわ。でもあと数時間もすれば明るくなるもの、大丈夫よ」
「馬鹿言うんじゃないよ。襲われたいのか?」
「そうなりそうになったら全力で逃げるわ。さようなら、ド・クレールさん。夜更かしは慣れているのでしょうけど、もうお帰りになってゆっくりお休みになって」
「ああ、もう。君って子は!」
 彼は頭をかきむしると、はっとしたように顔をこわばらせ、すぐに髪を整えた。
 それからわたしの手首を掴み、ぐいぐいと歩く。歩幅が合わない上にどこに連れて行かれるのかわからず、抵抗したが、男性の力には敵わなかった。引き摺られるようにわたしは歩かされる。
「放して!」
「お断りだね」
「どこに行く気なんです?」
「僕の隠れ家、と言いたいところだけど、どうせ君は嫌だというんだろう?」
「当たり前です!」
 ちょっとでも良い人だと思ったわたしが馬鹿だった。この人もなんだかんだ言ってナンパが目的だったんだ。
「だから代わりに、託児所にでも放り込んでやる。朝になるまでそこにいるんだ」
「はあ?」


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 広々とした玄関ホール、重厚な家具、煌びやかなシャンデリア……。
 真夜中過ぎでも人の行き交う姿がちらほらあるのは、ここにいる人たちはみな毎晩のように社交や観劇をするような生活スタイルをしているからなのだろう。
(それにしても……なんで……わたしはここにいるのかしら)
 電光石火の早業で連れてこられたので、まだ事態がよく飲み込めないでいる。
 オペラ座の外に連れだされると、ド・クレール氏のものらしい馬車が近づいてきた。どこに浚われるのかと恐怖にかられ、無我夢中で抵抗していたが、彼は御者にしばらく待っているよう告げると、そのまま通りへ出た。そして……彼はオーベール通りを挟んでオペラ座の隣に立っている建物の中へ入ったのだ。
 ここはグラン・トテル。地上階にはカフェが、二階以上がホテルになっている。
 わたしが唖然としている間に、ド・クレール氏はカウンターでなにやら話しをしていたかと思うと、ここのスタッフらしい男性を伴って戻ってきた。
 ちなみにド・クレール氏は話をしている間はわたしの手首を離していたのだが、展開についていくのに精一杯で逃げている余裕がなかったのだ。それに周りの人の目もあったし。
「君の部屋を四階に取ったよ。急だからそこより下の階は空いていなかったんだ。ちょっと階段が大変だけど、我慢してくれ。じゃ、行こうか」
「なんでこんなこと……。頼んでません」
 また手首を掴まれる。しまった、さっさと逃げていれば良かった。
「こっちだって、頼まれた覚えはないよ。だけど僕がそうしたいと思ったんだ」
「わたし、あなたの愛人になる気はありませんよ」
 負けるものかと睨みつけるも、ド・クレール氏はふんと鼻を鳴らした。
「いつ僕がそんなことを言った?」
 わたしは思わず赤くなる。自意識過剰だったのかしら……。
「なら、どうして……」
 気恥ずかしいのを誤魔化すように問い詰めると、
「面白いと思ったから」
「はぁ?」
 ド・クレール氏はにやりと笑うと陽気な鼻歌を歌い始めた。これ以上わたしの質問に答える気はないらしい。
 目的の部屋に到着すると、ドアを開けてわたしたちが中に入るのを待っていたスタッフの人が部屋の案内をしてくれた。
 寝室と居間に分かれており、備え付けの洗面台と洋服ダンス、ソファとテーブルなどがある。二間あるとはいえ、さして広くはない。いや、それもわたしの基準がエリックの家なのだから当然だろう。ホテルなんだから、最低限必要なものがあればそれで十分なのだ。
 スタッフが出てゆくと、おもむろにド・クレール氏は口ひげをひねる。
「さて、と。君の忠告通り、僕はもう帰って寝るよ」
 本当にこの人はわたしをどうこうする気はないのだろうか。だけどこんなことをして何の得があるというのだろう。
「恐い目だね。そう警戒しなくてもいいよ。本当に、僕は帰るんだから、君はここでゆっくりすればいい」
「わけがわからないわ。一体、あなたはわたしをどうしたいの?」
「別に、どうも」
「嘘くさい」
 あはは、と彼は声をあげて笑った。
「遊ぶつもりで近付いたことは認めるよ。でも気が変わった。ここの宿泊費なんかは僕が負担する。見返りは必要ない」
「なんで……」
「気兼ねするようなら、僕がもう一度ここを訪れるまで逃げないでいることだよ。君は恩知らずではないだろう?」
「……いつ来るの?」
 なにかの罠かと思い、わたしは恐る恐る尋ねる。わたしはからかわれているのだろうか。それともこの人、本気なんだろうか。
「夕方、と言いたいが、日本公使館には昼間のうちに行っておいたほうがいいだろう。だから昼頃に来るよ。そして一緒に昼食を食べよう」
 わたしは混乱した。ド・クレール氏の真意がわからない。
「誤魔化さないで本当の理由を教えて。聞かせてくれたらわたしだって覚悟を……」
「言ったじゃないか」
 最後まで言い終わる前にド・クレール氏は遮る。
「面白そうだからだって」
 にっこり、と彼は笑った。




グラン・トテル(英語読みではグランド・ホテル)は実際にオペラ座の隣にあるホテルです。建設されたのはオペラ座より少し前だというからすごい話だ。
現在は改装し、名前もインターコンチネンタル・パリ・ル・グランとなっています。日本語公式ウェブサイトもあるので、気になる方は検索してみると面白いかも。




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