ド・クレール氏がいなくなり、一人取り残されたわたしは、まだ彼の真意が理解できずに呆然とその場に立ち尽くしていた。
(一体あの人、何者なんだろう……)
 わたしと話していて面白かったというが、夢も希望もなくなっていたわたしは半ば自棄になっていて、思い返すも恥ずかしいくらいひどい態度をしていたと思う。
 なのに、それが面白い……? さっぱりわからない。
 それにここの代金は払うって言っていたけれど、本気なのだろうか。見た感じ、お金持ちそうだからたいした負担ではないのかもしれないけれど、けして安い値段じゃないと思うのだが。この時代の相場は知らないけど、建物の感じからするとここは高級ホテルに分類されるだろうし。それなのに会ってすぐの女をそこに連れていく、なんて。まだここの宿泊代は自分が持つから、その代わり愉しませてくれと言われた方が理解は易しい。遊び人っぽくもあったものね、あの人。
(あ、でも最初は遊ぶつもりで声をかけてきたんだっけ……)
 でも、気が変わってこうなった、のよね。なんで変わったのだろうか。
 考えてもそれ以上推測できるものはなさそうだったので、わたしは小さく頭を振ると、なんとはなしに窓辺に寄った。
 カーテンはタッセルで左右をまとめられており、美しいドレープが床まで届いている。
 下を覗くと道路が見えた。部屋はカプシーヌ通りに面しているようで、生憎オペラ座は見えない。通りは、真夜中だというのにまだたくさんの馬車が行き交っていた。ごく近くに住んでいたのに、見知らぬ場所を見ているような感じがする。このあたりは本当に人通りの多いところなのだとようやく実感した気がした。
 ふと、通りを横切ってゆく紳士の頭が見えた。ド・クレールさんかもしれない。男の人の格好は似たり寄ったりだし、さすがに暗いので確信は持てないけれど、歩いている方角からホテルから出てきたような感じがしたのだ。
 思い出してみたら、わたしはあの人にお礼を言うどころか名乗ってすらいなかった。もしかしたらわたしの名前はメグちゃん経由ですでに知っていたかもしれないけれど、だからといって名乗らなくていいということにはなるまい。
 理由は本当にわからないけれど、過ごしやすいとはいえない季節に朝になるまで外にいなくて済んだのだ。手段はどうあれ、ここはお礼を言うべきだったのだろう。失礼なことをしてしまったものだ。
(明日、ちゃんと言わないと……)
 こうなってくると、明日の昼に来るとはっきり言ってもらえて良かったと思えた。宿泊費は持つから好きに行動しろと言われていたら、途方に暮れていただろう。どこの誰とも知らない人に面倒をかけたまま、お礼も言わずにパリから離れるなんて、あんまりだと思うのよね。エリックに面倒をかけたまま逃げたわたしが言うことではないだろうが。
(エリック……)
 一気に色々なことが起きたのですっかり意識の底に沈んでしまっていたが、思い出すとやっぱり泣いてしまいそうになった。
 彼はこの時間も、まだ作業をしているのだろうか。夜よりも暗い、地下の通路で。もういないわたしを守るための仕掛けを作るために。
 想像したらひどく切なくて胸が苦しくなった。自分で決めたこととはいえ、なんてひどいことをわたしはしてしまったのだろう。
 そんな彼が帰宅し、わたしがいないことに気がついたら……。
 わたしは彼の慟哭が、絶望による絶叫が聞こえるような気がして耳をふさぎ、窓辺から離れた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 まぶしくて、目が覚めた。
 寝台に横になったのは夜も更けてから。その後も身も心も疲れ果てていたのに寝付きは悪く、しっかり眠れた感じはしない。
 それでも朝が来て、陽射しが差し込んで――そして目が覚めたのだ。
 太陽を見たのは何日ぶりだろう。
 そして人工的ではない明かりに照らされる部屋で目覚めたなんて、何カ月ぶり?
 思わず指を折って数える。わたしがエリックのところに来て以来だから、もう一年以上経っているのだ。
 すっかり忘れていた感覚に、わたしは戸惑った。世界というものはこんなに明るいものだっただろうか。
「……ん」
 わたしは窓から顔をそらして目を閉じ、まぶたを押さえた。
 目が痛い。
 すっかり弱い明かりに慣れてしまっていたので、久方ぶりの太陽が堪える。朝のさして強くない日差しでこうなのだ、これでいきなり日中に外出していたら眩しくて動くこともままならなくなっていたことだろう。
 まるで自分が地中に住まう動物になってしまったように思える。明るい場所に出られて嬉しいと感じている自分は確かにいるのに、どこかで日差しに怯えている自分もいる。場違いなところにいるような気がしてたまらないのだ。
(エリックもこんな感じなのかしら)
 ふと思い出すともう駄目だ。わたしの涙腺は壊れてしまったらしい。昨日あれほど泣いたというのに、まだ涙が出てくるのだから。
 だけど、今の涙は目が痛いせいだ。そう言い聞かせ、わたしはそっと指で拭った。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 どこに住んでいようと、女が朝にやることなど決まりきっている。人前に出られるように身支度を整えることだ。特に、知り合ったばかりの人とまた会うことになるとわかっているときには念を入れておかなくてはなるまい。
 が、戦いの準備をするような気持ちで備え付けの化粧台の前に座ったわたしは、思わず絶句することとなった。
 鏡に映る自分の、あまりにもひどい状態に嘆きの声すら出せなかったのだ。
 何度となく泣いたせいで目のあたりは腫れている。顔全体がむくんでいるようだし、それに肌が不健康そうに青白くなっていた。腫れやむくみはともかく、肌の色はここのところずっと太陽の光を浴びなかったせいだろう。だが色白になれて嬉しいなんて全然思えない。まるで幽霊だ。
(……ド・クレールさんが来るまでにまともな顔にできるかな)
 ここまでひどい顔をしているなんて思っていなかった。あの人もそうじゃないのだろうか。蛍光灯なんてこの時代にはまだないもの。黄色っぽいガス灯じゃ、肌の色味などちゃんとわかるまい。今日会ったら大はずれを引いたと思われたりして……。いや、勝手に興味を持って勝手に幻滅するのはあの人の問題だと思うけど、巻き込まれた身としてはそういうのは不愉快だ。
 と、勝手に対抗心を募らせたわたしは顔面マッサージをしたり、目を濡らした布で冷やしたりとなんとか人並みの容貌になる努力をして、まあまあ見られるものを取り戻した。
 それが済むとどっしりとした肘掛け椅子を引きずって窓際まで運んだ。夜とは違って朝は通行人も多い。窓を開けるとまだ暖まりきっていない風とともに、賑やかな喧噪が耳をくすぐってきた。
 だがまるでテレビか映画の画面を通じて見ているような妙な断絶感がある。本当のものには見えないのだ。長い間、地下に篭っていたから普通の感覚を忘れてしまったのだろうか。でも、これは現実のはずだ。フロントに鍵を預けて外出すれば、わたしはあの喧噪の一員になれるはずなのだ。
(といっても、ここって本気で元の家の近所だから、ふらふら外に出る訳にもいかないのよね)
 マダム・ジリー、ベルナールさん、カーンさんあたりに見つかったら、あっと言う間にエリックにその話は伝わるだろう。メグちゃんやクリスちゃん、イブリー氏あたりも危ない。わたしが家出したことを知らずにどこそこでわたしを見たという話をマダムやカーンさんあたりにされたら、そこから気づかれると思うし。
 それを考えるとここってあんまり家出の潜伏先としては良くないと思うのだ。なにしろオペラ座の隣なんだし。
 ド・クレールさんがわたしをここに連れてきた理由がたまたま一番近いホテルだったということなら、お願いしたら場所を変えてくれるだろうか。それとももう何日分かの宿泊代を払ってしまっただろうか。世話になっているのはこちらなのだからあまり注文をつけるのはどうかと思うけど、さすがにこの状態は……。すぐに帰国できるということになれば、こんなことで悩まずには済むのだが、本当に、これから先はどうなるのだろう。
 そんなことを考えたりしながら、流れてゆく人や馬車の列を眺めていると、部屋の扉がノックされてわたしは我に返った。暖炉の上にある時計に目を向けると一時に近い。朝になってからそれほど経っていないような気がしていたけれど、何するでもなくぼんやりとしていたので時間の感覚がすっかり狂ってしまったようだ。
「やあ」
 扉を開けると昨晩同様、頭の天辺から靴の先までめかし込んでいるド・クレールさんがにこやかに立っていた。
「おはようございます、じゃなかった、こんにちは、ド・クレールさん」
「うん、こんにちは」
 口髭の下の唇は、綺麗な笑みを形作った。
 ド・クレールさんは昼間の正装といえるフロックコート姿だった。その下には柄物のベスト、アスコットタイという取り合わせ。そしてカフリンクスやタイピンはいかにもお金がかかっていますという感じのかなり派手なもの。なのに嫌味なくらい全体的に調和している。簡潔に言うととても似合っているのだ。こういうところにも性格が反映されているのだろう。エリックの衣服もお金はかかっているとわかるのだが、彼は品の良さを重視しているのだ。そしてそれが彼には合っているとわたしは思っている。
「よく眠れた?」
「ええ、それなりに」
「ま、まだ落ち着かないだろうしね」
 当然のような顔をしてずいずいと中に入ると、彼は窓際の椅子に目を留め、首だけ動かして振り返ってきた。
「もしかして退屈だった? もう少し早く来れば良かったかな」
「いいえ、大丈夫です。久しぶりに外の景色をゆっくり見られて、嬉しかったもの」
「そう」
 ああ、しまった。世間話をしていて肝心なことを言うのをまた忘れるところだった。
「あの、ド・クレールさん」
 わたしは名前を告げ、名乗りが遅くなったことを詫びた。それから昨日のお礼も。
 するとド・クレールさんは猫のように目を細めて笑った。
「君の名前は知ってたよ。でもいつ名乗ってくれるかなって、思ってた。僕ってよっぽど警戒されているのかとね」
「いえ、まあ、警戒はするでしょう? まさかあなた、パリ中の家出した女の子をホテルに放り込んで回るのが趣味だなんて言わないわよね」
「まさか、こんなことは僕だって初めてだよ!」
 ド・クレールさんは両手を広げて大げさに驚き顔をする。この人は結構オーバーアクションをするようだ。
「それからド・クレールさんなんて他人行儀だから、僕のことはアンリでいいよ、
「他人行儀って……わたしとあなたは他人でしょう」
 呼びたいのならわたしのことは呼び捨てでも構わないけれど、わたし自身はある程度以上親しくなった人でないと呼び捨てをするのに抵抗がある。なので困惑してそう返答すると、ド・クレールさんはすねたように顔をしかめた。
「冷たいなぁ。僕たち友達じゃないか」
「出会ってまだ一日も経ってないじゃないですか。あなたには感謝しているけど、それとこれとは別だわ」
 だいたいこの人、夕べの時点でわたしのことを《tu》って呼んでいるのよね。それでちょっと馴れ馴れしいなとは思っていた。ド・クレールさんは名前からして貴族だから庶民であるわたしをそう呼んだとしても不思議はないけれど、今の発言からすると違うのかしら。本気でもう親しくなった気でいるのだろうか。それはいくらなんでも気が早すぎると思うけれど。
「一日経っていなくて駄目なら、何日後ならいいんだい?」
「日数の問題じゃないと思うんだけど……」
 本気で不思議そうに問われたので、わたしは自分の見識が間違っているような気がしてきた。どうなんだろう。うーむ。
「もう、いいや。とにかく昼食に行こう。文句はないね、?」
 ずいと背を屈めてわたしを覗き込む。顔はしかめ面だが、目が笑っていた。
「ないわ」
 なんでも面白がって、子供みたいな人だ。

 昼食には階下にあるカフェ・ド・ラ・ペに行くのかと思っていたのだがそうではなく、ド・クレールさんの行きつけだというレストランに連れて行かれた。とはいっても元々オペラ座周辺がパリでも有数の繁華街だ。ド・クレールさんの行きつけというそこも馬車で五分程度しか離れていなかった。イタリアン大通りに面しており、わたしも散歩をしていた頃には何度か通りかかったことがある。入ったことは、もちろんなかったけれど。
 前面がガラスでできているそのレストランは明るく、たくさんの丸テーブルが並んでおり、時刻が時刻だったのでほぼ満席だった。
 給仕は男性しかいないようだ。彼らは一様に黒いテール・コートを着ている。お客もダーク系のフロックコートを着た男性が多い。なので明るい店内であるにも関わらず、色彩は地味だった。女性の少ない結婚式の披露宴会場があるとしたらこんな感じだろう。
 行きつけだというのは伊達ではないらしく、席まで案内される間もド・クレールさんは友人らしい人や顔見知りらしい給仕の人たちに挨拶を送っていた。友人の中にはわたしのことを聞いてくる人もいたけれど、ド・クレールさんはあとでね、と流して長居はしなかった。堂々とした振る舞いに、わたしはいつしか安堵感を覚えていた。
 この時代のレストランに入るのは初めてだったし、エリックの言う通り女性客は少ない。加えて一目でわかる東洋人顔なので、どうもあっちこっちから見られているような気がしてしかたがなかった。落ち着かない、なんてものではない。一人ではとても入れなかっただろう。
 料理を選び――料理名を見てもどういうものかわからないものが多々あったので、ド・クレールさんに手伝ってもらった――それらが運ばれてくるまでの間、どちらからともなくおしゃべりをしだした。わたしたちは会ったばかりなので、お互い知らないことばかりなのだ。
「確認しておきたいんだけど」
 テーブルに片肘をつき、心持ち顔を斜めに傾けてド・クレールさんは口を開いた。
「何ですか?」
「君、本当に帰国するつもりなのかい?」
「ええ。だって他に方法がないんですもの」
「方法? 生活する方法ってことならやりようはいくらでもあるよ」
「そう、ですか?」
 それが愛人業だというのならばお断りしたい。するにしたって最後の手段だ。
「そうだよ、だって――。まあ、いいか。うん、とにかく僕が聞きたかったのは、君がオペラ座の舞台にあがるんじゃないかって、僕の友達連中が言っていたんだけど、その辺ってどうなの?」
 ……は?
「舞台って、どうして? わたしは特別歌えるわけでも踊れるわけでもないわ。もしかして、わたしがマダム・ジリーの知り合いだからそんな風に思われているの?」
「そんなところ。君くらいの年の職員はいないはずだし、付属のバレエ学校の生徒なら、レッスン時間には練習室にいるものさ。なのに君って真っ昼間に関係者じゃないと入れないようなところで見かけるっていうし。かといって定期会員というわけでもなさそうだしね。なにしろ公演中には誰も見かけていないっていうから」
 確かにわたしはオペラ座のすぐ下に住むという住環境であるにも関わらず、バレエにしろオペラにしろ、公演を見たことはほとんどない。
 わたしが唖然としている間も、ド・クレールさんは話し続けていた。
「となると女優志望で、知人にオペラ座関係者がいるってことで口利きでもしてもらおうとしているんじゃないかって結論になっていたんだ。でも違うみたいだね」
「ええ、違うわ。わたしはあそこにただ世間話をしに寄っていただけなのよ。なのにそんな誤解をされていたなんてね。それにしてもあなたたち、わざわざオペラ座で、なんだってそんな話をしているのよ。オペラやバレエの話をしたらいいじゃない」
 呆れたことを隠さずに返すと、ド・クレールさんは苦笑した。みんな、新しい話題に飢えているんだよ、と言い訳をして。
「もちろんすべては憶測だから、否定する奴もいたさ。僕もそっちの一派だよ。なにしろオペラ座は二流三流の劇場じゃないのだから、舞台関係者に知人がいる程度で舞台にあがれるほど簡単じゃない。特に相手がマダム・ジリーならね。彼女の厳しさは有名だよ。仲良しの女の子にちょっと箔をつけてやりたいと思ったって、聞いてくれないんだから。ああ、料理が来たみたいだ」
 これって、バレリーナのパトロンが、実力が足りない子であるにも関わらず、お金で階級を買おうとする、というもののパトロン側の話、よね。マダムはこの手の話に本当にうんざりしているようなのだけど、ド・クレールさんのこの悪びれない様子ならわたしが思っている以上にこの手の話は頻発しているのだろう。わたしには愚痴など話す人ではないのだけど、マダムって本当に大変なんだなぁ。
 そんなことを考えている間にも料理が並べられた。温かな湯気が立ち上がり、美味しそうな匂いが漂ってくる。
「どうしたんだい。食べないの?」
「あ、いえ……。いただきます」
 わたしは慌ててナイフとフォークを取った。前菜はゆでた野菜になんだか複雑な味のソースがかかっているものだった。その次に運ばれてきた主菜は子羊で、やはりこれにも手の込んでいそうなソースがかかっている。だけどこんな立派なレストランの料理よりも本気を出したエリックの料理の方がおいしい……なんて考えてはいけない。彼のことを思うだけで条件反射で泣けてしまうのだから。席を立って、地下へとつながる通路を駆け抜け、あの暗い家に戻ってしまいたくなる。
 でもそんなことは許されないことだ。わたしはあの人を捨てて逃げたのだから。それに、このことをド・クレールさんに聞いてもらう資格だってわたしにはない。この人には関係のないことなのだから。
 しばしの間熱心にパクついていたド・クレールさんだったが、やがて話題を蒸し返してきた。
「ねえ、やっぱり君って舞台志望じゃないんだね」
「ええ、そうよ。あなたのお友だちにもそう伝えておいてね」
「そうする。でもどうせなら君の口から言わないかい? その方が僕が嘘をついているんじゃないっていう証明にもなるし」
「ただの世間話にそこまでムキになることもないじゃない。それに、わたしの……婚約者だった人はマダム・ジリーとも知り合いだもの。彼女の口からわたしがあなたと知り合ったことが知られると、きっと、まずいことになると思うの。言ったと思うけど、彼はすごく嫉妬深いのよ」
「僕が決闘でも申し込まれるかもって?」
 へらっとド・クレールさんは笑った。普通の反応はこんなものなのだろう。わたしだってエリックのことを知らなければ、大げさなことを言っているだけだと思うに違いない。でもエリックはオペラ座の怪人なのだ。決闘どころか、彼の姿を目にする前に殺されてしまうかもしれない。
 そのことに思い当たり、一気に寒気が走った。どうしたら口止めできるかしら。でもエリックの正体を教えるわけにはいかない。たとえ彼の元から去ったとしても、彼を売るような真似はしたくない。
 わたしは声を抑えて、深刻な話をしているのだという表情を作った。
「もっと悪いことになるかもしれないのよ。とにかく、オペラ座には行きたくないの。あなたもわたしのことはどうか話さないで。お願い」
 これで思いとどまってくれるといいけれど、と祈るような思いでいると、意外にも彼はあっさりとオペラ座には行かないと言った。
「今晩友人たちと食事の約束していてね。皆、その話をしていた時にいた奴ばかりなんだ。全員揃っているわけじゃないけど……証人としては十分だろう。ねえ 、まさか今晩誰かと夕食を一緒にする約束なんてしていないよね?」
「もちろんしていないわ。そんな余裕はないもの」
「じゃあ、決まりだ。君も連れてゆくよ。それでいいね」
「……まったく、あなたって人は」
 悪い人ではないと思うが、ド・クレールさんはエリックとは違う意味で強引な人だ。だがエリックと決定的に違うのは、その強引さを相手にするりと飲み込ませてしまうところだろう。少なくとも、わたしにとってはそうだった。
 食事を済ませゆっくりコーヒーを飲んでからようやく、レストランを出る。支払いをするときにド・クレールさんがチップを置いていったことに気がついてふいに思い出した。そういえばフランスではそうすることが普通なのだった。これまでチップが必要になりそうな店にはほとんど入ったことがなかったのですっかり忘れていた。そうだ、それに、ホテルの部屋から出る前にド・クレールさんがポケットから何かを取り出してベッド脇のテーブルに置いていたっけ。何しているんだろうと思ったけど、先に行っててと言われたのでそうしてしまったが、たぶんあれもチップだったのだろう。
 そうなると、どうしよう。わたしにはチップすら払うことができないのだけど、ホテルに泊まっている以上は何かを頼むにしてもそれって避けられないはずよね。チップ代を貸してくださいって、ド・クレールさんに頼む? ……ううむ。なんというか、恥ずかしい、情けないって感じ。どこかチップ不要のホテルに移れないかしら。オペラ座から離れていれば尚助かるのだけど。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 そして久々に向かった日本公使館だったが、予想通りというか、意外にも、というか、公使に会うことはできなかった。なんでもヨーロッパの警察制度の調査のために警察の偉い人――大警視というらしい――が随員とともに渡仏したのだが、長旅で身体を壊してしまい、寝込んでしまったそうなのだ。公使はその人のお見舞いに行って不在だと、職員の日本人男性に申し訳なさそうに謝られた。
 もっともその人の頭はド・クレールさんに向かって下げられていたので、謝る対象はわたしではないようだったけれど。
 急な訪問をしたのはこちらなので別に不在であることは気にしないが、この様子ではわたしが一人でここに来ていたらどんな対応をされていたのかと思うと、気が滅入る。いや、変に僻むのはよそう。この時代はまだ女性が男性よりも劣った存在だと思われているのだ。現代でもそういった考えはまだ完全にぬぐい去られていないのだもの、職員の対応が悪い、なんて憤慨して済む話じゃない。こんなことはこれからいくらだって起こるはずだ。だから、いちいち傷ついていたら身がもたない。慣れなくては。そしてなんとかこの時代と折り合いをつけて、生きなければ――。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 なんの実りもなく公使館を離れると、わたしは再びホテルに送り届けられた。ド・クレールさんは夜会服に着替えるので一度帰ると言っていなくなった。
 一人になると気疲れをしたのか、どっと疲労感が襲ってきた。窓際の椅子に腰掛けて、ぼんやりと外を眺める。
 肘掛け椅子の位置はそのままだったけれど、外出している間、部屋の掃除はされたようだ。ベッドが皺一つなく整っているのでそれと気づいた。そういえば、とベッド脇のテーブルを見やるが、何も置かれてはいない。チップを置いていったとしても持っていっただろうから、何もなくて当然なのだろうけど。
 ホテルに戻る途中、宿泊場所を変えたいのだと、できるだけ丁寧にド・クレールさんに頼んでみた。このホテルにわたしを放り込んだのは、やっぱりオペラ座のすぐ近くにあったかららしい。あの時のわたしの様子では馬車に乗せるのは無理だと判断して、歩いて行けるここを選んだのだと。だから宿泊場所を変えることは特に構わないということだけど、今日は予定があるので別のところを選んでいる暇はなく、明日以降に、という話になった。
 予定というのは、わたしも行くことになった彼の友人との食事のことだろう。出会ってからまだ一日過ぎてない人とその友達に会うなんて気が重たすぎて行きたくないけれど。だけど色々お世話になっている以上、断るのは気が引けた。どうやらド・クレールさんのちょっとした言い分の証明もしなければいけないようだし――。
(でもきっと、その食事会に来る人たちはみんな立派な人たちばかりなんだろうなぁ――ド・クレールさんの友達なんだから、性格はどうか知らないけど――。わたしのドレス、昨日から着っ放しだから、なんとなくくたびれた感じになっているし、それに襟が詰まっているので夜向きではないのよね。でもこれしか着るものはないから、このまま行くしかないか。ああ、なんでこんなことになったのだろう……)
 憂鬱な気分に陥りながら、わたしは通りを眺めた。
 午前中よりも格式の高そうな馬車が増えたような気がする。貴族やお金持ちの人は社交だなんだで夜遅くに寝るから、起きてくるのも昼過ぎだというからそのせいだろうか。
 やがて日が暮れてゆき、ド・クレールさんが再び訪れ、友人たちと待ち合わせているというレストランに連れて行かれる。昼に行ったところとは別だったけれど、やはりイタリアン大通りに面したお店だった。
 いくつものレストランやカフェが軒を連ねているこの辺りでは、ささやかなものから贅沢を凝らしたものまで、様々な装いの男女の姿があちらこちらに見える。現在のお店が電飾などでライトアップするように、建物や看板をガス灯で照らしている店舗が幾つも並んでいるため、周囲は意外なほど明るかった。
 今度のレストランは個室もあるというお店で、わたしたちは二階に通された。すでに到着していたド・クレールさんの友人たちが彼が部屋に足を踏み入れるや親しげに挨拶をしてくる。女の人たちも何人かいて、彼女たちはみんな、彼にキスをしていた。おお、さすがはフランスだ。
 彼らは闖入者であるわたしに最初はいぶかしげな表情をしたが、すぐに社交的な笑みを向けてきた。ド・クレールさんが噂でわたしのことを知っていたのだから、その彼の友人である彼らも察した、のだと思う。
 集まったのはド・クレールさんを入れて男性が五人、女性はわたしも含めて五人だ。自己紹介をしてもらった内容と彼らの会話の端々から推察するに、男性陣は全員貴族やお金持ちで、女性の方にはそういった人は一人もいないことがわかった。ド・クレールさんの友人の恋人だというのが二人、あとの二人は女優と歌手の卵らしい。どういう集まりかはこれでなんとなくわかった。そしてわたしの格好も、この中にあってはさして問題にもされないということも。
 とても賑やかな食事会だった。沈黙は罪だとでも思っているかのように、彼らはとにかく騒いでいた。わたしはとても同じようには振る舞えなかったけれど。
 だけどド・クレールさんがわたしをここに連れてきたのは、単に自分の言い分の証明をしてほしかったからだというわけではなかった。いや、確かに証明は必要だったのだけど、それは予想外にフザケタものだったのだ。真相を知ったときには当人に無断でするなと声を大にして言いたくなった。
 彼らはわたしが舞台にあがるのかどうかを賭にしていたのだ。
 参加していたのは男性陣だけで、全員がド・クレールさんと同じく「あがらない」方に賭けていたわけではないそうだけど。そして賭けに勝った方と負けた方がいるため、自分達が証言者となるのだと賑々しくも馬鹿馬鹿しく終了宣言がなされた。
 それだけではいざ知らず、負けた方がひどく悔しがり――酔っぱらっていたので大げさに騒いでいるのだとは思ったが――もうひと勝負しようと言い出した。
 その題材はまたしてもわたしである。
 ド・クレールさんがわたしとの出会いと今日のできごとを身振り手振り交えて――時には誇張も入れながら――面白おかしい話にしたことから思いついたのだろう。一週間以内にわたしがド・クレールさんをアンリと呼ぶか否か、というものだった。
 なぜ初対面のわたしを巻き込むのだ、などと傍若無人な彼らに言っても聞いてはくれないだろう。財産も地位も若さもそれなりの容貌もすべてある彼らには怖いものなどないのだ。彼らの頭の中では世界が自分を中心に回っているに違いない。
 この賭けにド・クレールさんは一週間以内にアンリと呼ぶ方を選んだ。
 それなら絶対に呼ばないようにしようとわたしが決心したところでわたしは悪くない、と思う。





ようやくエリック視点と同じ時間まで進んだ……。しかし長かったな。

補足:大警視は現在でいうところの警視総監です。この時来たのは川路利良という人。1879年4月に随員7名とフランスに到着。が、体調を壊してしまい、療養したものの良くならずに8月に帰国。その後さらに悪化してお亡くなりになったそうだ。…当時の旅って、大変なんだなぁ。





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