「どういうことだ……?」
「あ、あのぅ……何か問題でも?」
 ベルナールに問い返すと顔が不安で曇る。
 私らしくもなく、言われたことを理解するのに時間がかかってしまった。
「アンリ・ド・クレール……?」
 なぜ、ここでその名前が出るのだ。わからない。まったくわからない。
「ベルナール、もっと詳しいところを聞かせてもらいたいものだな」
 腕を組み、私は一歩踏み出した。ベルナールはびくりと身震いしたが、その場から動かない。だが顔が見る間に青ざめていった。
「おい、エリック」
「うるさい」
 ナーディルが口を挟んできたのを一語で切り捨てた。今は大事な話をしようとしているのだ。本来ならば部外者が聞いて良い話ではない。だが、場所を変えている余裕はない。これまでのつき合いを考慮して『穏便に』済まそうとしているのだということがわからないのか?
 沈黙せよ。できなければ立ち去れ。
「詳しいところと申されましても、私は本当にちらりとお嬢様のお姿をお見かけしただけでして、これ以上のことは……」
 ベルナールの声は震えている。
 思わず舌打ちをしそうになる。だがこの男は私の命じた任務に従って動いていたのだ。そもそもベルナールにはド・クレールもイブリーも私にとって不利益になると思われる人物だとして調査を命じていた。つまりが関わることを伏せていたのだ。部下に私の恥を逐一漏らすのが不愉快だったこともあるが、そのようなことは言わずとも問題はないだろうと思っていたのだ。もしもこのことをベルナールに伝えていたら、イブリーの調査を中断して、の後をつけてくれただろうか。今更遅すぎる話だが。
 だがこれだけは念をいれて確認しておかなくてはいけない。
「お前が見かけたのは、本当にだったのか?」
 街灯がついているとはいえ、夜のことだ。見間違えたという可能性だってあるだろう。むしろそうであってほしいと、祈るような気持ちでいるほどだ。
 だがベルナールはしっかりと首を左右に振った。
「短い時間でしたが、はっきりと見ました。お嬢様に間違いございません」
 私の希望は、ほんのわずかの間に消し飛んでしまった。
「そうか」
 ベルナールは恐縮して畏まる。だがもう何も言葉をかける気になれない。
 私はつい数時間前まで、信じていた者に裏切られた怒りと悲哀を味わっていた。
 だが同じ相手にさらなる裏切りをされていたと知らされることになるとは、なんという屈辱だ。私を馬鹿にするにもほどがある!
 それにしてもがアンリ・ド・クレールと接触していた気配はなかったのだが、一体どうやって、いつの間に。
 もしや、彼女を閉じこめていた間も密かに連絡を取り合っていたのだろうか。そして醜悪な男の手を逃れた記念にレストランで浮かれ騒ごうと? 他の一緒にいたという男女もこの裏切りに関わっているのだろうか。
 いや、細かいことはいい。今はっきりしていることは彼女がアンリ・ド・クレールと一緒にいるということだ。
「……い。おい、エリック」
「やかましい」
 人が物思いに沈んでいるというのに、察することもできないのか。だがナーディルに何度も呼ばれ、意識が外に向かったのを契機に私は行動を開始した。
 ド・クレールの調査は中途半端なまま放置されていたが、それでも奴が別宅を持っていることやその場所は把握済みだった。
 あいつは貴族だ。そしては平民だ。ならば彼女がいるのは別宅の可能性が高い。貴族の女の愛人は外から通ってくるが、男の愛人は外に住まわせているものと相場が決まっているものだからだ。
「ベルナール、馬車を出せ」
「は、はい。どちらまで」
 私は答えなかった。
 貴族の別宅は、それが全く隠していないものであれば社交界に属する連中は多かれ少なかれ皆知っている。ド・クレールの調査でこれが早いうちにわかったのもそのせいだ。だからナーディルに伏せても意味はないといえる。
 だが、これは私と――あの裏切り者! 血も涙もない女め!――の問題だ。無関係な者とはここでお別れをしなくては。
「夜分遅くに邪魔をして済まなかった。私はこれで失礼する」
 冷ややかに言い放ちながら玄関へ向かう。ベルナールがその後をびくびくしながらついてきた。だがすぐに私の針路を阻む陰が横から飛び出してくる。
「ナーディル、どいてくれないか?」
 青ざめながらも仁王立ちになって、ナーディルは玄関の前に立ちふさがった。
「どこへ行くつもりだ、エリック」
 苛立ったが、私はそっけない風を装って肩をすくめて見せた。
「帰るのさ。もう夜中になるからね」
「そんな単純な嘘にだまされるとでも思っているのか? アンリ・ド・クレールのところへ行くつもりなんだろう」
「ふん」
 私はせせら笑った。
 始めは怒りだった。を探して探して、しかし見つからないので弱気になってしまい、怒りは悲しみに変わっていった。だが今の私を支配するのは憤激だ。
 私はあの子が、ただ私の束縛と執念深い愛情と、醜い容貌を厭って逃げ出したのだとばかり思っていた。私に比べたら中年で下品だろうが、まだ人の顔をしているイブリーの方がましだろうから。がイブリーを愛しているとは思っていない。それは以前の彼女の様子からそうだと思いこんでいるだけではなく、ナーディルもそのことに否定的だったからだ。そして着々と集まりつつあるベルナールの報告からもそれが伺えた。
 一時的な避難場所としてイブリーは選ばれたにすぎない。だからこそ、さっさと彼女を連れ戻し、そのようなことをしても無駄だと諭してやりたかった。彼女の愛が永遠に私から去ったとしても、彼女自身を失うつもりはなかったのだ。
 だが、アンリ・ド・クレールは……!
 以前楽屋で見た姿を思い出す。
 あいつは若く、容貌は並よりは整っていた。そして貴族である。またド・クレール家は放蕩者を抱えているにもかかわらず財政的な問題もないという。性格は難があるとしか私には思えないが、女にとっては軽薄さも魅力的に映るのかもしれない。私にないものをすべて持っている。それがアンリ・ド・クレールだ。
 女の移り気を嘆く男の図というのは今に始まったことではないだろうが、この選択はひどすぎる。さんざん私の内面だとかを持てはやし、私に対する愛を告げたのも、所詮は口ばかりだということか。彼女の『移動先』を見れば、何を重視していたのか、実によくわかるではないか!
「エリック、君は今自分がどんな顔をしているか、わかっているのか?」
 私が黙ったまま答えないでいるので、痺れを切らせて半ば叫ぶようにナーディルは言った。
「さあね。そんなことはどうでもいいよ」
 特に顔の話などしたくもない。
「ならば鏡を持ってくるから、見てみるといい。これから殺人でもしでかしそうな顔をしているぞ」
 激しい感情が体中をうねり、熱を帯びてきているというのに、頭の芯の方はいやに冷静だった。私は静かな声で彼に言い聞かせる。
「私の前に鏡を持ってきたら、最初に冷たくなるのは君になるぞ、ナーディル」
 ごくり、と向かい合わせに立つ男は喉から音を出した。
「とにかく、落ち着くんだ」
「私は落ち着いている」
「どこがだ。いいかい、考えても見ろ、君はさんがアンリ・ド・クレールのところに行ったと思っているのだろうが、それがまず間違いだ!」
「ほう?」
 どんな戯言を言い出すのかと、私は口の端をあげた。
「ベルナールはさんとド・クレールと複数の男女が一緒だったところを目撃したんだ。なら彼女が家出した先はそのド・クレール以外の誰かのところかもしれないじゃないか」
「そんな事で動揺を誘っているつもりか? あいつはに興味を持っていた。これは私自身の耳で聞いたことさ」
「ただそれだけで他の可能性を否定するなんて、君にしてはずいぶん短絡的だ。」
「くだらん話をいつまでもするつもりはない。そこをどけ、ナーディル。強制的にどかせられたいのか?」
「そうはいかない。君を激情のままに野放しにしたらどういうことになるか……! ベルナール、ベルナール! ぼさっとしているんじゃない。君は君の主人が君に何を命じようとしているのか、ちゃんとわかっているか!? 彼は恋敵と逃げた婚約者を殺しかねない勢いでいるんだぞ!」
 ベルナールが後ろで息を飲む気配がした。
「逃げたって……。お嬢様がですか? そんな、先生は一言もそんなことは」
 呆然と呟く。ナーディルめ、このような形でバラすとは、なんたる奴だ。私の主人としての面目を丸つぶしにするつもりか。
「黙れ、ナーディル」
 だがナーディルは聞かない。ベルナールに向けてしゃべり続けている。
「だったら、アンリ・ド・クレールとジャン=オーギュスト・イブリーは何のために調べさせていると思っているんだ。二人とも、さんに興味のあるそぶりを見せていたからなんだぞ」
「それは……二人とも女遊びが好きだというのは知っていましたが。カーンさん、お嬢様は本当に、その、家出されたのですか?」
「エリックが今、私の家にいるという異常事態が事実を物語っていると思わないか? 彼は私のところへもさんが隠れていないか探しにきたんだ」
 それは違う。ナーディルのところへ来たのは門番を突破し、イブリーと直接会うためのいわば鍵として必要だったのだ。だがそれを口に出して訂正しては、に逃げられたことをベルナールに認めることになる。それはさすがに不愉快だった。もっとも、私が認めようと認めなかろうと、奴はすでにそれが事実だと察しているようだが。
 だが、今はそのことで言い合いをしている時間はない。
「これが最後だ、ナーディル」
 私は忙しいのだ。
「どけ」
「断る!」
 緊張からか声は裏返っていたが、ナーディルは間髪を入れずに答えた。やれやれ……。
 私は懐に手を入れた。パンジャブの縄を取り出す素振りを見せると、案の定奴は首をガードしにかかった。そこへ素早く足払いをかける。よろけたところを軽く押しやると、どうと倒れた。
 私はナーディルの身体を跨いで悠々と部屋の外へと出る。奴の使用人は何の邪魔もしなかった。賢い男だ。
 外には私の馬車が停めてあった。ベルナールが扉を開けるのを待たずに中へ乗り込む。不安げな表情をしているベルナールに行き先を告げると、奴は泣きそうは顔になってうな垂れた。
「先生、本当にお嬢様とお別れになられたのですか?」
 その話しはしたくない。ましてや部下に気遣われたり文句を言われるなどまっぴらだ。
「早く馬車を出せ」
「信じられませんよ! 一体どうしてそのようなことになったのですか? あんなに仲睦まじかったじゃあないですか。あんなに……天使のような方だったのに」
 その天使が逃げたのは、私が悪いとでも言いたいようだな。
「あれは天使ではない。ただの人間の女、イブの末裔の一人にすぎん」
 吐き捨てると、ベルナールは嗚咽を漏らした。
「早く馬車を出すんだ」
 夜とはいえ、リヴォリ通りはそれなりに人も馬車も通る。立ち往生して、通りすがりの奴らの見せ物になるのはごめんだ。
 ベルナールはようやくのろのろと歩き出す。が、すぐに立ち止まり、沈んだ声で問う。
「お嬢様とお嬢様と一緒にいる男を殺してしまわれるのですか?」
 私はベルナールの方を見なかった。
 この男には様々な用件を命じてきたことがあり、それが結果的に法に触れることになることも少なからずあった。だがそのことに対する不満――私に対するものでも、自分の葛藤についても――はほとんど聞いたことがなかった。そのベルナールがはっきりと殺すという単語を使ったことに少々驚く。私がそうさせたということもあるが、ベルナールが自分の意見を言うなど、滅多にないことだったのだ。
「いいや」
 私は軽く頭を振る。
「本当ですか?」
 念を押されたので、くどい、と切り捨てた。
「なら、行き先はオペラ座でよろしいですね? お嬢様を訪問するにしても、あまりに非常識なお時間です」
 半分泣きながらそう告げる部下に、私は唖然とした。
 そこへどたどたと無様な足音をさせて、ナーディルが転がり出てきた。
「ああ、良かった、まだいた! おい、ベルナール、エリックの命令を聞いては駄目だぞ! 送るなら自宅に送れ。そうでなければ、私は本当に警察を呼ぶからな!!」
 辺りを憚らない大声に、私は奴を絞め殺さなかったことを心の底から後悔した。
「そのつもりです」
 ベルナールは弱々しい笑みを浮かべながらナーディルに頷いてみせた。
「よし」
 満足そうにナーディルは胸を張る。
 ……なんということだ。そろいもそろって私を悪者にしてを守ろうとするなんて。私はひどいやり方で婚約者に逃げられたのだぞ。被害者は私なんだ。
 ……これがの残したものなのか。悪女の如き振る舞いをしても、それまで愛想良くしていたものだから、こいつらはの肩を持つのだ。いや、単純に見た目の差なのかもしれない。虫も殺さぬ風な可愛らしい娘と度重なる罪を犯している化け物。どちらを庇うかといえば、誰でも前者に決まっている。
 だがこれは私との問題なのだ。余計なお節介は必要ない!
「さっさと馬車を出せ!」
 怒りが声に混じる。ベルナールはびくりと縮こまった。
「出すといい。しかし行き先はオペラ座だ」
「貴様が口を出すな!」
「それからベルナール、朝になるまでスクリブ通りの入り口前で待機しているんだ。エリックが外へ出ないようにな」
「ふざけたことを。そんなことで私の行動を封じたつもりか?」
「私はド・クレールの別宅の前に朝までいる。エリックの姿をちらとでも見かけたら近隣住人も起きてくるほどの大声で騒いでやるさ」
 私は内心で舌打ちした。
 ナーディルがどれだけ社交界に出入りしているのかはよく知らなかったのだが、ド・クレールの別宅を知っている程度には交流があったのか。忌々しい。
 だがこうなると今夜のところは何もしないでいるのが良さそうだ。ナーディルの決然とした態度に、頭に上がっていた血が一割ほど下がったように感じる。
 を、取り戻すのはすぐでなくてもいい。行き先の目処はついたのだ、この役に立たない男どもを出し抜くのが先決だ。
 それに、そうだ。アンリ・ド・クレールならば向こうから勝手にオペラ座にくるに違いない。あいつは定期会員だからな。
「ベルナール、馬車を。……家に戻る」
「は、はい」
 努めて声を和らげるとベルナールはほっとしたのか、緩んだ笑みを浮かべた。ナーディルもあからさまに表情が明るくなる。
「そうか。それならいい。エリック、私は朝になったらそっちへ行くよ。いつもの場所で会おう」
「私は会うつもりなどない」
「君になくても私は行く。少し冷静に話し合う必要があると思うんだ。そしてその話は他人には聞かれない方がいいだろう。エリック、君は誤解しているかもしれないが、私はけっして君の邪魔をしたいわけじゃない。恋人たちが行き違うことくらい、よくあることだ。その辺に掃いて捨てるほどある。だけど君たちはいろいろ事情が特殊だから、無駄にこじれてしまっただけだろうと思う。問題点を整理すれば解決できなくもないだろう。エリック、私は君が彼女や彼女の潜伏先の人間に対して手出しをしようとするのなら、なにが何でも妨害をするつもりだ。君の怒りは激しすぎるからね。だけど、もしも君たちが仲直りをする方向に進むというのなら、いくらでも協力しよう。私は君が愛する人と幸せになることまで邪魔したいわけじゃない」 
 早口で捲くし立てると、ナーディルは肩で息をした。
 馬鹿な男だ。なぜ関わったところでなんの得にもならない相手にこんなに一生懸命になるのだろう。得にならないどころか、私の存在があるせいで国外追放にすらなったというのに。
 ……本当に、馬鹿な男だ。
「馬車を出せ」
 ナーディルから顔を背ける。ベルナールはようやく御者台に乗ると、ナーディルに会釈をしてからゆっくりと馬を進めさせた。
 背もたれに深々と身体を預ける。色々なことが一気に起きたので、うまく考えをまとめることができなかった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 家に帰ると私は我が家の有様にため息をついた。
 を探してあちこちの扉を開いたままにしていたので、普段以上に荒れた印象を受けたのだ。
 疲れていたが、目に見える範囲だけでもと思い、扉を閉めて回る。
 食堂、物置、拷問部屋……。
 拷問部屋の扉の隙間から鏡に私の白い仮面が写っていることに気がついた。それに、彼女が積み上げていった箱も目に入る。思わず叩きつけるように扉を閉めると、激しい物音が家中に響き渡った。その音が私の怒りを再び呼び起こす。
 ナーディルの説得に流された自分が滑稽でならない。なぜ、私はあいつのいうことを聞いてしまったのだろうか。
 が憎い。何度となく苦しみを味わったが、私にもっとも強いそれを味わわせたのが彼女だというのがまた皮肉だ。
 もちろん、アンリ・ド・クレールも憎い。殺しても飽き足らないほどだ。奴はどこまで私のことを知ったのだろう。私の安全と名誉のために、奴に速やかにこの世から立ち去ってもらわなければ。
 しかし……。名誉はともかく、安全は、どうだろうか。まだ考慮しなければならないことだろうか。私はつくづくと生きていることが嫌になってしまった。これまでどれほどの苦渋を舐めようとも、自分が殺されるよりは他人を殺して生きてきた。自殺は究極の罪だ。自殺者は正式に埋葬されることもなく、死後もその魂は地獄の業火で焼かれ続けるという。それが心のどこかでわだかまり、地獄への出発を延ばし延ばしにしてきたのだ。だがもしも私と彼女が同時に死ねば、私は彼女を道連れに地獄へ落ちることができるだろうか。天へ昇れぬよう、蛇の如く彼女に絡みつき絶対に離さないようにすれば……。
 暗い思いに頭の奥が痺れる。のろのろと足を動かし、義務的行為のように他の扉を閉めて回った。自室に図書室。それから……彼女の部屋。
 ノブに触れるには勇気がいった。部屋の様子を見ないようにしていたが、無駄だった。
 わずかな空気の流れからか、ほんのりとの部屋特有のラベンダーの香りが漂ってきたのだ。外へ出たこともあって、慣れていた嗅覚が復活したのだろう。
 気がつくと私は膝から崩れ落ちていた。扉に身体が当たり、小さくきしむ音をさせながら開かれてゆく。
 白い布で覆われた家具。綺麗に整えられた室内。
 人気のない空間。
 だが紛れもなくここにはがいたのだ!
 笑い合い、労わり合い、仲の良い家族のように、恋人のように、夫婦のように暮らしていたのだ!
……。……!」
 押さえようもないほどの涙が流れる。
 に会いたい。もう一度微笑みかけてほしい。
 彼女だけが私を愛してくれた。抱きしめてくれた。キスをしてくれた。私の境遇に心の底から同情してくれた。
 だがあの子はいなくなってしまった。しかし私へ対する態度がすべて嘘だったとは思わない、思いたくない。彼女は、束の間だろうと、間違いなく私を愛していたはずなんだ。
 なぜそれが失われてしまったのか?
 私が化け物だからか? 罪人だからか?
 だがこんな顔で生まれたのは私のせいじゃない。顔さえまともなら、罪人になることもなかったはずなんだ。
 ああそうだ、神よ。なぜあなたは私にこんな顔を与えたのだ。これが何かの報いだとでもいうのか? 私は生まれた時からこうだったのだ。生まれ出る前の赤子が、一体どんな罪を犯したというのだ。
 私がたくさんのdonを与えられているのは認めよう。しかしこんなものはいらなかった。一つもいらなかったんだ! 私は、ただ平凡な人生が欲しかったのだ!
 ああ。おまえを愛している。愛している。愛している!
 だが、憎い。憎い。憎い!
 どちらの感情に従うべきか、もう私にはわからない。
 愛しているから手放すべきなのか。憎んでいるから取り戻すべきなのか――。私とまた暮らすことになるのは、にとっては不本意なはずなので、十分復讐になるだろう。
 涙が枯れ果てるまで、無様に床に伏せ、私は泣き続けた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 どれほどそうしていただろうか。
 眠ってはいない。だが時間の感覚に乏しく、ほんの数分しか経っていないのか何日も過ぎ去ってしまったのか、まるで見当がつかなかった。
 の部屋の前から立ち去ることができず、かといって中へ入ることもできず、気がつくと私は床に這いつくばっていた。絨毯は敷かれているものの、石造りの床から冷気が立ち上り、心だけでなく身体も冷やしてゆく。
 動きたくない。
 何もする気力がない。
 ここでこのまま倒れたままでいれば、そのうち飢え死にするだろうか。
 に会いたい。
 だが、会ってどうするというのだろう。
 不機嫌に歪む彼女の顔を目にするだけではないだろうか。
 はどこにいるのだろう。
 若い、金持ちの男と暖かい部屋でぬくぬくとしているのだろうか。
 彼女のことを思って死にそうになっている私のことなどもう気にもかけていないのだろうか。
 不快な過去の記憶だと、思い出すのも嫌になっているのだろうか。
 ……。
 伏せた目の隅に動くものがよぎった。反射的に目がそれを追いかける。クリーム色の繊細な四肢が私の目の前で止まった。
「アイシャ……」
 かすれた声で呼びかけると、アイシャは小首を傾げるような仕草をして、私を覗き込んできた。尻尾が優雅にしなり、ふんふんと鼻を鳴らす。彼女はいつもと変わらない。がいなくなったことにすら、気がついていないようだった。
(いや、アイシャはが好きではないようだったから、せいせいしているのかもしれないな)
 なぜだかおかしくなってきたが、それが声になることはなかった。ただ喉の奥がひきつるように動いただけ。
 ややあってアイシャは耳をぴくりと動かすと、玄関の方に視線を向けた。それで私もようやく気がついた。外から私を呼ぶ声がすることに。
 くぐもっていて聞こえにくいが、間違いなく私を呼んでいる。ナーディルの声だ。
 朝になったら私のところへ来るというあいつの一方的な約束を思い出し、私はのろりと起きあがった。約束を果たそうとしているのではない。この愛の思い出が詰った場所から逃げ出したかったのだ。
「おはよう、エリック」
 昨夜と同じ格好のままのナーディルがランプを掲げて向こう岸に立っていた。その隣にいるのは……。
「ベルナール?」
 なぜベルナールまでいるのだろう。
「どうせ彼も巻き込まれるのだろうから、一緒に話をした方が早いと思って連れてきたよ。同じ説明を二度する手間が省けるだろう?」
「……ふん」
 ベルナールも昨夜と同じ格好だった。本当に一晩中スクリブ通りの入り口前に立っていたのだろうか。
 ランプを壁のでっぱりに置き、ナーディルは腕を組んだ。
「しかし助かったよ。罠がまだあそこの踊り場以外変わっていなくて。自分で待ち合わせ場所の指定をしていてなんだが、すっかり忘れていたんだ。気が動転していて」
「ああ……」
 そういえばそうだった。私もそんなことまで気が回らず、こいつがここにいるのが半ば当然のように感じていた。
「どれかが完成していたら無事では済まなかっただろう。よく引き返さなかったな。どこまで物好きなんだ」
 素直な感想を伝えると、ナーディルは鼻の頭にしわを寄せる。
「仕方がないじゃないか。場所を変えるにしたって、君へ伝言する方法がなかったのだから。今日はさすがに、いつものように食料やなんかを取りにくるとも思えなかったしね」
 食料、で思い出した。
「何時だ?」
「時計を見ていないのか? そろそろ八時を過ぎるだろう。そういえば朝食は済んだのか?」
「……いいや」
 何かを食べる気になれるはずはない。
「食事をする間、待っていてもいいが」
 私は頭を振った。
「必要ない。それで、お前は本当に一晩中ド・クレールの別宅前にいたのか?」
 があいつのものになったとでも私に報告するつもりだろうか。
 ……想像しただけで吐き気がしてくる。アンリ・ド・クレールのような男に貞操観念など理解できるはずもない。手に入れた女は当然のように自分のものにしてしまうに違いない。私が大切に大切にしていたものをよくも……! 結婚するその日までは清らかでいるはずだったのに。
 ナーディルが困惑した面もちで腕をぶらんと下げた。
「ああ、行った。それで君にちょっと確認したいことがあるんだが……」
「何だ?」
「ド・クレールの別宅はカルディネ通りにあるものの他にも、もしかしたらまだあるのか?」
 意味が分からない。私は聞き返した。
「いいや。私もそこしか知らんが。ベルナール?」
 調査したベルナールなら知っているのかもしれないと、私は水を向ける。
 ベルナールは湖の縁まで近づいてきた。暗がりにいたのでわからなかったのだが、ランプの明かりで無精髭が延びていることに気がついた。
「私の調査では、アンリ・ド・クレール氏の別宅はモンソー公園の近くにあるカルディネ通りにしかないというものです。ヴィリエ通りから曲がって少し行ったところです」
「と、いうことはすでにベルナールには確認済みだったんだけどね。もしかしたら君が何か情報を持っているんじゃないかと思ったんだが……」
 ナーディルは顎を撫でた。
「はっきりしないな。そのカルディネ通りにはが現れなかったということなのか?」
 思わせぶりな話はやめてもらいたい。私は今、会話を楽しむ余裕など少しも持ち合わせていないのだ。
「あー……」
 ナーディルは歯切れ悪く呻く。
「とりあえず、話は最後まで聞いてほしいんだ、エリック。五分でいい。腹が立つかもしれないが、我慢してくれ。できるか?」
「さっさと話せ。でなければその保証はない」
 ナーディルはやれやれ、と首を振った。
「私は一晩中カルディネ通りの屋敷の前にいたんだ。あそこがアンリ・ド・クレールの別宅、平たく言うと彼の愛人が住んでいるところだと聞いていたからね。ところでエリック、普通財産に余裕のある男が気に入りの女に家を用意するときには、一人の女に対して一つの家を与えるものだろう?」
「何が言いたいのかよくわからないが、複数の愛人を同じ屋敷に住まわせるなどしたら女同士で喧嘩になるだろう。もう一人か二人目の愛人がその屋敷の使用人だというのなら話は別だろうがな」
 第一、複数の女を愛人にしたら金がかかってしかたがないだろう。そんなものは王侯でなければ難しいことだ。今日、そこまで剛毅な男は激減している。
 ナーディルは頷いた。
「と、私も思う。私があそこを直接観察したのは昨夜の夜半から今朝にかけての数時間だけだから、確実なことは言えないのだが、あそこは普通の愛人の家という意味での別宅とはなんだか違うような感じだったんだ」
「どういう意味だ?」
「うーん。私もうまく説明できないんのだけどね。あそこは人の出入りがちょっと多いみたいなんだ。まあ、昨夜彼は友人たちとレストランへ行ったみたいだから、その後に彼らを連れて別宅に行くというのはありえることだろう」
「来たのか?」
「ああ、私が到着してから一時間くらいした頃にな」
「そこに……」
 はいたのだろうか。聞けなかったが、ナーディルは察したようだ。
さんもいたよ。なんだか疲れた様子だった」
 やはり、あいつと一緒にいたのか。
 心臓が飛び跳ねそうになり、私は拳を握ってそれを抑える。
「その前に、こんなことがあったよ。私が到着して屋敷の入り口を観察し始めてから一五分ほど経った頃かな。馬車が一台入ってきたんだ。暗かったけど、中に誰がいるのかなんとかわかったよ。高級娼婦のロール嬢だ」
「奴の愛人だろう?」
「そう。それからさらに数分してから、今度は馬車が出ていった。ロール嬢じゃないよ、別の馬車だったから。外装が目立つから覚えていたんだが、あれな歌姫のジェルソミーナだな」
「……あいつはジェルソミーナのシンパだからな」
 愛人同士がかち合わせたということか?
 いや、その前に、その屋敷は誰に与えられたものなのだ?
 ふとした疑問が起こった。ベルナールもそこまで調べていない。
「それからド・クレール本人と友人たちが来る。しばらく騒いでいて、明け方前に何人か帰った。ド・クレール本人もね」
「帰った?」
 普通、愛人のいる別宅に行ったら、朝までいるものだろう?
「どこへ行ったのか、確かめたのか」
「まあね。さんの行動を見張った方がいいかとも思ったけど、ここで見失ったとしてもド・クレールを観察していればまた見つかると思ったから。彼は自宅へ戻ったんだよ」
 それは、普通の行動なのだろうか。たまたま、そうだったということではないのか?
「……それで?」
「ド・クレールが家に入ったのを確認してから戻ったんだけど、六時頃かな。すっかり明るくなっていたんだけど、今度は徒歩で女がやってきて、正面玄関から堂々と中へ入っていったんだ」
「使用人ではなく?」
「なら使用人用の門を使うだろうよ。見た感じ、どこかの女工っぽい地味な格好をした娘だったけど、勝手知ったる、という様子だった」
「……それも奴の愛人なのか?」
「さあ、そこまでは。私がド・クレールが帰るのを追いかけていた間に何人出入りしていたのかはわからないけれど、とりあえず窓辺に寄ったとかなんとかで、ここに来るまでにまだあそこにいると確認できたのが、さんと女工娘、ロール嬢だな。なあ、エリック。普通、誰か特定の愛人を囲っている家に、こんなに何人も女が出入りするものなのか? ド・クレール本人がいようといなかろうとお構いなしだ。そもそも三人が、いや、ジェルソミーナも含めれば四人か。四人の女性は全員ド・クレールの愛人なのか? ロール嬢は有名だが、ジェルソミーナにそんな話はないはずだし、さんだって、どこで彼と接触したのかさっぱりわからない」
「オペラ座だろう。他にあるか?」
 奴は定期会員だし、彼女はそこへ散歩がてらに寄ることが時折あったのだから。しかしもしも彼女がド・クレールの愛人になっているのならばロールという女とは恋敵ということになるではないか。その二人が男がいない状況で一緒にいる? 変だろう。
「それにしたって、オペラ座は君が牛耳っているところじゃないか。その君が気づかなかったんだろう?」
「……悪かったな」
 私は声を押し殺す。
「拗ねるなよ。別に嫌味を言った訳じゃないさ。とにかく、そんなわけで私はあの屋敷がどういうものなのか、ド・クレールがどんな人間なのか、さっぱりわからなくなったというわけさ」
 お手上げ、というように、ナーディルは肩をすくめた。
 確かに、がド・クレールの愛人になったのなら、あいつはと朝まですごそうとするだろう。だがほかの女がいる状態の別宅にを連れてゆき、なおかつそこに彼女を残して自分は帰る?
 さっぱり意味がわからない。奴は何がしたいのだ?

 だが、わからなければ調べれば良い――。
 それで奴の真意が判明せずとも構わん。
 私はを取り戻したいだけだ。そしてド・クレールには私からを奪った償いをさせてやる。





don(ドン)は英語で言うところのgiftのことです。
giftには「神様から与えられた特別な才能」というような意味があります。キリスト教的な考え方ですね。
音楽とか建築とかの能力、それに美声など、エリックは抜きん出た才能を持っているけれど、まともな容姿だけは与えられなかった。でも一番欲しかったのはそれだけだ、とここのエリックは言っているのだと思ってください(汗)

しかし今回のエリック、やばい方向に考えが行っちゃったなぁ……。




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