・注意!
話の中盤あたりに一部生々しいと感じられる表現があると思います。
特にレイティングはつけませんが、無理と思ったら引き返す勇気を発揮していただけると助かります。
つーか、書いてた自分がドン引きしたよ……。









 ド・クレールさんと愉快な仲間たちは、レストランが閉店になるまで騒ぎに騒いだ。ビールをジョッキで飲み干すように、というほど豪快ではないにしても、まだ飲むのかとこちらが呆れるほどワインの瓶が開けられた。わたしはといえば、もともとそれほどお酒は強くはないし、こんな場違いな所で失恋のやけ酒をする気など起こるはずもなかったので、おつきあい程度にグラスを空けて、あとは騒ぎの中心からは少し距離を置いて彼らのやりとりを眺めた。
 とはいえ彼らは議論はする、いきなり歌い出す、わめく、愚痴る、のろける、絡む。堂々とかなり激しくいちゃつきだすカップルまで出てきて、酔っぱらいというものは洋の東西を問わず、手に負えないものだと痛感した。
 騒がしいだけだったらまだ良かったのだが、ガス灯と人の放つ熱気で、部屋は蒸し風呂のよう。窓を開けても風がなかったので、効果はなかった。
 いつまで続くのかと、疲労と暑さでぼんやりする頭で考えていると、さっと店員が入ってきて、もうすぐ閉店時間だと告げる。ド・クレールさんたちはふらふらしながらも陽気に帰り支度を始めたので、ようやく解放されると、わたしもほっとしながら忘れ物などないかと辺りを見渡した。
 だが次の瞬間、自分は忘れるようなモノなどなにひとつ持っていないのだと思い出す。ハンカチーフすらないのだから……。
 こんなことは笑うようなものではないのだろうけれど、わたしもたいがい酔っぱらってしまったのだろう。馬鹿みたいなくすくす笑いが止まらなかった。……なのに無性に泣けてきた。早くホテルに戻って、一人で思い切り泣きたいと思った。
 ところが、帰れるのだと思っていたわたしの予想を裏切り、ド・クレールさんの家に行って飲み直そう、という話になってしまった。まだ飲むのかと呆れたが、こんなことは彼らにとっては珍しくもないらしい。それぞれが乗ってきた馬車で移動する。もちろんわたしはド・クレールさんと一緒だ。
 馬車に乗り込むといい気分で酔っぱらっている様子の彼が、膝を貸してと甘えたように言って、わたしの返事も待たずにスカートの上に転がってきた。びっくりしたのと、あまりの馴れ馴れしさに声にならない悲鳴をあげる。だが彼は勝手にスカートをたぐりよせて寝心地をよくすると、大きなあくびをして猫のように背を丸め、目を閉じてしまった。
 なんて自由さだろう。あまりの堂々ぶりに怒る気が起こらない。周りがどう思うかなんて考えないのだろうか。他人を不愉快にさせるとは思わないの?
 しかしいくら心の中でお小言の内容をまとめても、それを実際に口にすることはないだろう、ということをすぐにわたしは自分に認めた。
 この人は強引だし、傍若無人だし、自分勝手だけれど、なぜかそれを許してしまわせる力があるのだ。同じ性格的要因はエリックにもあるのだけど、彼が陰ならド・クレールさんは陽だ。方向性が違うだけでこんなに印象が変わるものなのかと、人の多様性に感嘆する。
 その時、馬車がオペラ座の前を通過した。まだ照明はついていたが、時刻からすると公演は終わっているはず。それを裏付けるかのように通りに人影はまばらだった。
 ――エリックはどうしているだろう。
 家出をして丸一日が経った。さすがにもう気がついているだろう。わたしを探しているだろうか。それともいなくなってくれていっそせいせいするとでも思っているだろうか。
 オペラ座の屋上から、入り口から、窓から、暗い物陰から、彼がわたしを見ているのではないかという気がして、通り過ぎてからもわたしは頭を巡らせ、建物が見えなくなるまでずっと見つめ続けた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 馬車に揺られて十数分。ド・クレールさんの家に到着する。こんな時刻に酔っぱらっている友達を大勢連れて行くなんて、いくら夜更かしが基本の貴族でも平気なのだろうか。ご家族もいるだろうに、と馬車から降りながら尋ねると、彼はきょとんとした。それから笑顔になって、
「ああ、ここ、僕個人のものだから。家族が住んでいる家は別にあるよ」
「それって……つまりここは隠れ家ってこと?」
 家と言うから本当に家だと思っていたのに。騙し討ちされた気分になったわたしは思わず顔をしかめる。だがド・クレールさんは全く悪びれない。
「そう、全然隠れていない僕の隠れ家さ。ここに招待したことのある人は出入り自由。僕がいてもいなくても好きにくつろいでいっていいんだよ。つまり今後は君もってことだけど」
「……いくらなんでも、それは不用心じゃない?」
 当然の疑問を口にするも、ド・クレールさんは余裕のある笑みを浮かべ続ける。
「それなりにルールはあるよ。ま、その辺はあとでね。中に入ろう」
 ド・クレールさんは促す。気がつくと友人さんたちは家主である彼を置いて中に入ってしまったようだ。この分では出入り自由というのも口先だけのことではなさそうだ。
 彼は慣れた様子でまだ新しい建物の洒落た造りの正面入口を開ける。入ってすぐに目に入るのは大きな階段と天井から下がるシャンデリアだ。階段は白く、そこに厚い絨毯を敷いている。
 入口近くには男の人が二人、立っていた。一人はド・クレールさんと同じくらいの年の人で、もう一人は白髪交じりの髪をしていた。使用人だろう。どっちがどういう役職なのか、お屋敷にはこれまで無縁なのでわからないけれど。
 若い人は眠そうな目をしてぼんやりしていた。ド・クレールさんは年輩の人と二言三言話をすると、若い方の人にわたしを小サロンに案内するように命じた。
 あくびをかみ殺していた若い人はびくっとすると、ようやく目が覚めたようで、慌てつつも平静を装って畏まった。慇懃な様子で先導するのでついて行く。階段を上って右に曲がり、少し行くとどっとにぎやかな笑い声がした。そこが小サロンなのだろう。
 中はすでに二次会的な様相を呈していた。友人さんたちは店員ならぬメイドにワインだのチーズだのを持ってくるよう頼んでいる。男性使用人はともかく、メイドがメイドであるということは一目でわかった。まるっきり絵に描いたようなメイドスタイルだったのだから。黒い無地のドレスに白いエプロン。糊のきいた襟と袖口も白く、頭にはフリルのついたやはり白のキャップをつけている。自由に散歩ができた頃にも何かの用事で外に出てきたらしい女性使用人を見たことがあるが、お屋敷勤めはなんというか、華が違うと思った。
 ド・クレールさんの友人の恋人が、わたしに早くいらっしゃいよと手招きする。男性たちほどではないが、女性陣も相当飲んでいるのだ。彼女のバラ色の頬は火照って真っ赤だった。
 ありがとう、と礼を言いつつも、わたしは初めて入ったお屋敷というものが、入った理由はどうあれ物珍しかったので、さりげなく観察した。
 高そうな陶器、立派な額縁に入った絵画、磨き込まれた家具に細かな装飾のされた内装。部屋は白と金色、アクセントに緑を用いたもので、趣味が良いのかどうかはよくわからないが、わたしは嫌いではないと思った。
 この部屋はエリックの家の居間より一回りくらい小さい。しかし入れ替わり立ち替わり出入りする使用人さんたちを含め、十人以上いるのに狭苦しさは感じないのだ。やっぱり窓があるせいかしら。
 しばらくしてからド・クレールさんもやってきて、騒ぎが再開される。わたしはというと、正直もう眠かったのだが、初めてのお宅で居眠りするわけにもゆかず、なんとか眠気を堪えようと必死だった。さっきの若い男性使用人の気持ちがよくわかるというものだ。
 一時間以上過ぎただろうか。友人とその連れの二人が帰ると言い出した。いい機会だと、わたしもド・クレールさんに暇を告げる。深夜なのでできれば送ってもらいたかったが、無理なら歩いてでも戻るつもりだった。一応ホテルは今のわたしの家なのだから。ところがド・クレールさんは、
「帰るって……。でもホテル、別のところに移りたいんじゃなかった? 考えたんだけど、ここにいるのが一番いいと思うんだ。チップが必要ないホテルといったら、相当場末のところしかないよ。そして僕はそういうホテルには行きたくない。でも僕んちだったらチップは必要ない。ね? ここならお互いの不満点を解消できる」
 口も上手ければ頭も回る人だ。だけどさすがに看過することはできない。
「最初からそれが狙いだったということ?」
「いいや。機会があれば連れていこうとは思っていたけど。ところでうちは気に入らないかい?」
 わたしが不信感全開で睨んでいることに気がついていないはずはないのに、彼はどこふく風と平気なものだ。口が上手くて頭が回って、ついでに図太い人だ、とわたしは思った。
「うちは僕の友達がふらっと来て泊まってくことがしょっちゅうだから使用人たちは慣れたものだし。なにが不満なんだか僕にはわからないんだけど?」
 だだっ子の対応に苦慮しているというようだった。我慢強く、わかりやすく説得しているような。
 この卑怯者。彼のホームでそんなことをされたりしたら、アウェイのわたしはまるで無理難題を要求しているワガママ女に見えるではないか。
 悔しさも混じってどう言い返そうかと考えていると、わっとした歓声があがった。最初の頃のハイテンションはさすがに維持できず、ぐだぐだとした雰囲気になってきていたのに。
「なんだ、結局来たのか」
 肩越しにド・クレールは振り返る。つられてわたしも彼の視線を追った。
 サロンの入口にはきらびやかな女の人がいて、ド・クレールさんの友人たちに囲まれていた。男の人たちとは頬へのキスを交わし、女の人たちとは包容を交わす。
 彼女は首にも手首にも耳にも豪華な宝石をつけ、頭では染めた鳥の羽が揺れていた。紫のドレスには銀糸の刺繍がふんだんに施されており、飾りのレースはこの上なく細やかだった。
 美人で背が高いが、横も結構ある。どっしりというか、たっぷりというか……。しかしこの時代は、スリムだと言われている体系の人も、現代目線で見れば普通体系、もしくはちょっと太め、くらいに見えるからなぁ。
 彼女は小首を傾げてド・クレールさんを見つめた。
「いけない? あたくしのお友達も来ているというので急いで身支度を整えたのに」
 その目の周りは黒く、唇は不自然なほど赤い。オペラ座の舞台関係者以外でここまで濃いメイクをしている人は初めてだった。こういう人が……いわゆるアレだろうか。
(高級娼婦……?)
 ぼんやりと眺めていると――ぼんやりしすぎて口が開いたままになっていた――彼女はわたしに視線を移す。
「そちらの方、初めて見るわね。紹介してくださるかしら、リリ」
 リリ、なんて女の人、いたっけ? と思っているとド・クレールさんがわたしのことをその人に紹介した。リリって、ド・クレールさんのことだったんだ。でもなんでリリ? アンリのリ、かしら。
、彼女はロール。僕の友達。今晩からまた寄宿することになってる。いつまでいるのかは不明。前回は二ヶ月で飽きてたけど」
 寄宿? 前回は? それに、友達? こんなに派手な美人でお金のかかりそうな人、本命でもない限り面倒みようとは思わないと思うのだけど。お金のある人って、やっぱりどこかぶっ飛んでいるところがあるということなのかしら。でもこの人に比べたら、わたしかかる費用なんてたいしたことはないだろうという気はする。あちらに必要なのが万札なら、わたしは小銭だ。
 わたしがあんまりぽかんとしていたせいだろう。ド・クレールさんの友人が我先に説明してくれた。その熱意たるや、自分こそがこの件について詳しいと思いこんでいるようだった。
 しかしこのことに対して噂の一つも知らないとは、一体君はどこのパリに住んでいたんだと呆れられた。それくらい、知っていて当然ということのようなのだが、友人知人がほとんどいない上に半月の間、外部からの情報を遮断されていたのだから、知らなくても仕方があるまい。ましてや自分とは縁のない人たちの話だもの。でもまあ、そんなことはこの人たちの前で言うことではないだろう。
 彼らの話はあっちこっち蛇行していたが、装飾的文言と遠回しな言い回しを排除してまとめるとこういうことになるようだ。
 このロールさんはド・クレールさんの愛人であるということ。ただしロールさんはド・クレールさん一人に縛られることなく他に気になる人ができるとふらりといなくなってしまうということだ。そしてその相手に飽きたり嫌いになったり、どうでもよくなったりするとふらりとここに戻ってくる。そしてド・クレールさんはいつでもそんなロールさんを快く迎え入れるという。
 こういう話だけを聞かされたらド・クレールさんが悪女に振り回されても愛を捧げ続ける純情青年と思われかねないが、現実はそんなドラマティックなものではなく、ド・クレールさんはド・クレールさんで、常時複数の女の人を抱えているそうだ。飽きたら別れるのも同じ。
 ロールさんの場合はこの屋敷を起点としてあっちへ行ったりこっちへ行ったりしているが、ド・クレールさんの場合はこっちに女性が出入りしてくるので、出入り自由の権利を授けたり奪ったりするということだ。具体的に言えば、出入り禁止を言い渡されると、そのことが不服だとしても入り込んだ時点で追い出されるのだ。なにしろ屋敷には常時男性使用人がいるので、力任せに出ることもできる。相手の言い分はまったく聞かない。というより聞く気がない。
 出入り禁止は性格の不一致とでもいうべきものが原因で起こることが大半であり、浮気によるものが原因になることはあまりないようで、この家に引き込まなければド・クレールさんはかなり寛容だということだ。だからこそおおっぴらに浮気をしているロールさんでも出入り禁止になっていない。むしろずっと顔を合わせないため、久々に会うととても楽しいので、長続きしているのではないかということだった。ロールさんはド・クレールさんと付き合い初めて十年近くになるという。
 ちなみに、ド・クレールさんの友人の同伴者の女性の中にも一時期ド・クレールさんの愛人をしていた人がいたが、彼女とは穏便に別れており、現在は気心のしれた友人として付き合っているのだということだ。
 どこまで自由な人なのかと思ったが、それが自分にとって自然であり当然であるとド・クレールさんが堂々とした態度でいるので、逆にフランス人でもこの時代の人間でもない自分の感覚の方がおかしいのかと思ったが、彼の友人が「彼はそのうち、別れた女の誰かから後ろから刺されるだろうよ」と言ったので、ド・クレールさんが人の恨みを買うようなことをしているということはわかっているようだった。でも彼らは諌めることはしないから、単純に無茶をするド・クレールさんの行為を面白がっているんじゃないかと思う。
 ところでド・クレールさんのところに泊まる人はもれなく彼と肉体関係がありそうな感じがするのだが――さすがに女性のみのようではあるが――ここに泊まればと言われたわたしは、やはりそういうことをしなければいけないのだろうか。
 怖くて確認したくなかったのだが、しないまま流されて、やはりそうでしたとなるのも嫌だったので、わたしはおそるおそる疑問を口にした。大勢の前で聞くのも気が進まなかったが、ド・クレールさんと二人きりだったら言いくるめられてしまうという確信もあったので、まだ茶化したり忠告してくれる人たちがいた方がいいと考え直して。
 答えたのはロールさんだった。
「ここで寝泊まりするようになったら、間違いなくそうなってよ。あたくしは慣れたものだから、今更どうでもいいことだけど、嫌ならやめておくほうがよくてよ」
「ロール、勝手に決めつけないでおくれよ。僕は彼女にはまだキスだってしていないんだから。紳士的ななものさ。ようやっと運命の人に巡り会えたかもしれないって思ってるのに、邪魔しないでくれよ」
「あなたは呼吸をするように嘘をつくんだから。そんなできそこないのロマンス小説みたいなことを真顔で言うなんて、どこまで恥知らずなの?」
「それは君もだろう、ロール。男なしでは一日も過ごせない体をしているくせに。椿姫でも月に五日は休むのに、君はそれすらしたくないんだからね」
「そういうのが好きだって男もいるのよ。まったくあんたたち男ときたら。表向きは紳士のふりをしているけど、服を脱いだら変態ばっかりなんだから。あたくしはこんな商売をしているけれどまっとうな女なのよ。我慢してつきあってやっているけど、実際たまったもんじゃないわ」
「男に変態が多いなら、女に多いのは気狂いだろ。君のアレ好きも度が過ぎてるし。半年前に別れた女は潮時だから別れようと言っただけでガーゴイルもかくやな表情になったりしたし。手にしていたカップの中身だけじゃなくて、カップまで投げつけてきたり。当たったら危ないじゃないか。まあ、君には花瓶を投げつけられてしっかり当たったけどさ。あれは痛かった」
「あのまま二度と目覚めなければ良かったのよ。そうしたら可愛いあたくしのリリちゃんのことをずうっと思い出に残せたのに」
 かなり生々しい話と嫌味、当て擦りのやりとりにはさすがに引く思いだった。しかし話をしている二人は普通の世間話をしているだけといった風だ。長いつき合いがあるからこそできることでもあるのだろうけれど、正直やばいところに来ちゃったなと思った。わたしとは世界が違いすぎる。
 だがわたしにもしロールさんくらい余裕があったら、家出をしなくても済んだのではないだろうか。どうしたらそうなれるだろう。
 それから話はロールさんがここにいなかった間、どこで何をしていたかというものに移った。
 その内容は割愛するが、どこまで本当なのだろうかと疑問に思うようなものだった。この人としては嘘はついていないのではないかと思うけれど、色々フィルターがかかりっまくっていて、実際にはまったく違うのではないか、と密かに思った。
 とにかく、今回の出奔は彼女としてはさして満足するものではなかったらしい。くさくさした気持ちを抱えたまま、昔なじみのド・クレールさんのところでしばらく過ごそうと足を延ばすと、なんとここで過ごす度に自分が使っていた部屋がジェルソミーナに占領されているではないか。
 その部屋はド・クレールさんの部屋を除いて最も立派な寝室だった。自分がここを使うのはいつものことであると、ジェルソミーナに部屋を移るよう『お願い』したが、彼女はぷりぷり怒って自分のことを口汚くののしり、失礼にも片づけもせずに出ていってしまった、ということだ。
 仕方がないので、メイドに部屋を片づけさせていたところ、ド・クレールさんたちが到着。ド・クレールさんが部屋に寄ったので挨拶をしたが、そこで言い合いになってしまった。こっちにはこなくていいよと言われて、最初は腹が立ったのでそうするつもりだったが、自分は礼儀知らずではないと思い直し、友達に会うためにきちんと身支度を整えてこうして来たのだと語った。
 その話を聞いたド・クレールさんの友人たちは彼女を励ましたり慰めたり、力づけたりしつつも茶化したり軽口を叩いたりしていたが、彼らはこの話をどこまで本気に受け取ったのかは甚だ疑問だった。
 そして彼らのノリについていけないわたしは、貝のように口を閉じたまま、とりあえず場の雰囲気を読んで頷いたりしたりして、とにかく話は聞いています、というポーズをとるので精一杯だった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 日付が変わってすでに三時間。さすがに眠気を堪えるのはこれ以上無理だという頃、ド・クレールさんの友人たちが一斉に帰ることになった。深夜ではあるが、各々馬車があるので泊まっていったりはしないらしい。
 というよりも、彼の屋敷で好きなときに泊まれる「友達」というのは、どうやら女性限定で、それも彼と関係を持った人のみのようだ。ド・クレールさんがどういう人なのか、ちょっとわかってきたが、とにかく友達という言葉がこれだけ軽々しく聞こえるように話す人を他に知らない、とだけ言っておこう。
 ということで残るのはロールさんだけのはずだった。わたしはもう瞼がくっつきそうなほど眠たかったが、ド・クレールさんはやはりここに泊まっていけばいいのに、と馬車を出してくれる気配はない。
 家出をした二日後に、出会ったばかりの男とどうこうなる気はない。それも天井知らずの遊び人だ。ホテル代や食事代を出してくれたことは感謝するが、人となりを知るにつれて深入りしてはいけないと、わたしの小市民レーダーが警告するのだ。警告に抵抗するには疲れすぎていたが、ここで安易に流されてはどこへ流れ着くかわかったものではない。一寸先は闇だ。ド・クレールさんはエリックとは違う意味でなにをするかわからない人物なのだ。距離を置くに限る。
 わたしが決意を込めて辞去を告げると、この頑固者とド・クレールさんは顔をしかめる。
 わたしたちのやりとりを黙って見ていたロールさんは、イヤリングをいじりながら、それほど関心のなさそうな口調で、
「泊まっていけばいいじゃない。リリのことなら気にしないで。あたくしが手出しをさせないから」
「え……。でも」
 これも助け舟なのかと思いつつもどう返してよいのか迷っている間に、やはりド・クレールさんが口を挟んできた。
「別に何もしないって言っているのに……。昨日だって僕は大人しく帰ったじゃないか。力尽くでいくのは好みじゃないんだよ。そんなことしたって、結果は目に見えているんだから。落ちる気はないって必死で抵抗している相手に進んで差し出させるようにし向けるから面白いんじゃないか」
 わたしは開いた口がふさがらなかった。だが。
「ここはあなたのことをひっぱたいてもいい場面なんじゃないかと思うんだけど、そこまではっきり言ってもらえると逆に安心するというか……。それともそれが狙いなの?」
「いいのよ、ひっぱたいて。本当に勝手な人なんだから」
 ロールさんはにこやかに頷いた。ド・クレールさんは苦笑する。
「二人ともひどいな。そんな風にいじめるなら泣いちゃうよ」
「嘘泣きでしょう」
 ロールさんはにべもない。ド・クレールさんはすねたように唇をとがらせた。なんだかこの人、ロールさんの前ではずいぶん子供っぽい仕草をするな。
「いいよ。どうせ僕は悪党だよ。そういうことにしておくよ。それから二人とも、僕がいるのは不快みたいだから、本当に帰るよ。まったくなんて健康的な生活が続くんだろうね」
「もう三時過ぎてるじゃない。どこが健康的なのよ」
 突っ込んでくださいと言わんばかりの発言に、思わず突っ込んでしまう。しまった。やられた。この手の発言はエリックは素で言っているのがほとんどなんだけど、ド・クレールさんはわざと言っているっぽいのでなんだか悔しくなってくる。
 ド・クレールさんはくすくすと笑った。
「ま、そういうことだから。詳しい話はあとで。まあ、ロールが君に悪知恵をつけるかもしれないから先にこれだけは教えておくね」
 背をかがめて、彼はわたしの目をのぞき込んだ。
「僕は君に一切無理強いはしない。それに、ここにいる間は自分の家だと思って自由にしていいんだ。用事があったら誰か呼んでいいつけるといいよ。ただし、買い物だけは別だ」
「買い物?」
「そう。ドレスとか下着とかレースとか宝石とか。いるだろ? 僕は僕の大事な友達の支払もしている。ロールとかね。でも君は僕の友達にはまだなる気はないっていうから、そこまではやらない」
「あなたに買い物の支払をさせるようなことがあったら、わたしはあなたのものってこと?」
「そう。簡単だろ?」
 ド・クレールさんはにっこりする。わたしは眉をひそめた。
「食事代とかはどうなるの?」
「いらないよ。屋敷の維持費は全部僕が出しているんだから。ああ、でも、ここにいる間は僕の知らない奴を勝手に入れないこと。親兄弟でもダメだ」
「……そうなると……わたしにとっては特に不利じゃないと思うわ。でもあなたとしてはわたしがある程度の間、抵抗した方が面白いのでしょうね」
「できるだけ長く楽しませてもらえればいいと思ってるよ。だからといって、僕が不利だとも思わないけどね」
 はあ、とわたしは大きく息を吐いた。こんな風に流されるのはよくない。でも一スーも持っていないわたしにはそもそも選択肢がほとんどないのだ。ここで意地を張って出ていっても、得るものはなにもない。というか、強情張ってホテルに帰っても、次の日からは支払いはしてくれないような感じだし。ホテル代は屋敷の維持費とは違うものね。
 どうせもうエリックのところへ帰れなどしないのだ。だったら、この変わり者の金持ちの暇つぶしにつき合ったほうがましだろう。帰国する前に気力と体力を使い果たしたら、元も子もないもの。
 とりあえず着るものはあるし、これだけ大きな屋敷なのだから自分で洗濯することだってできるだろう。レースや宝石なんて今のわたしにとっては最も不要なものだ。
 とにかく公使と連絡をとって、日本へ帰る算段をつけよう。出費として一番大きそうな切符は、着ているドレスを売ればいい。この時代の船での旅なんて清潔さは期待できなさそうだから、綺麗なドレスなんて必要ない。余ったお金で安い古着を買えばいいんだ。
 わたしは腹をくくった。
「わかりました。そのゲーム、参加します」
「ゲームに参加ときたか。ま、その気になってくれて嬉しいよ」
 満足そうにド・クレールさんは頷く。
「じゃ、僕は帰るから。ロール、新人さんに良かったら屋敷の中を案内してくれたまえ。どこの寝室を使うのか決めないと」
 長いつき合いのある愛人の前で新しく愛人にしようとしている女の世話を頼むというのもすごい光景だ。多少なりとも彼らのやりとりを見ていなければ、ロールさんがド・クレールさんに飛びかかっていくのではないかと思うところだ。
 ロールさんは扇を仰ぎながら鷹揚に頷く。
「よくってよ。さんとおっしゃったわね。あたくしは礼儀正しい方が大好きなの。あなたはジェルソミーナのような馬鹿な高慢ちきではないでしょうね」
「えっと……。礼儀は大事だと思っています」
 ジェルソミーナというのはオペラ座所属の歌姫であることは知っていたが、本人に会ったことはないので、彼女が話すジェルソミーナ像が正しいかどうかわからない。その人もド・クレールさんの愛人なら今後会う可能性があるし、下手なことをいって彼女たちの喧嘩に巻き込まれるのは困る。そう思って当たり障りのない答えを返した。
「でしょうね。嬉しいわ。あたくしたち、きっと仲良くなれてよ」
 ド・クレールさんと同じ、どこまで本気なのかわからない調子で言い、艶然と微笑む。
 う、ううむ。この手の人とのつき合いがないせいで、リップサービスをされているとしか思えない。それに、仲良くって……。彼女と仲良くなったらほかの女の人たちに敵視されるんじゃ、ないかなぁ。……やっぱりこれから昼メロばりの女の戦いに巻き込まれるのだろうか。
「よ、よろしくおねがいします」
 だからといって真実を問いただして彼女のご機嫌を損ねることもあるまい。とにかく、ここはアウェイなのだ。まずは、
(長いものに巻かれて様子を見よう……)
 そんな姑息なことを考えながら、わたしはロールさんに礼をした。





フランスの小説を読んでいると、たまに登場人物の愛称として、名前の一音を繰り返す形のものが出てきます。英米小説では(自分の読んだことのある範囲内では)見たことがないので、こういうのはフランス的なものかなと思いました。
例に出すと、エミール・ゾラの「ナナ」の主人公のナナはアンナの愛称。他にもアメリーがリリになったりジョルジュがジジになったりしていた。愛称なのか本名なのかわかんないけど、ガガというのもいたな。ちょっと変わったところでは、デルフィーヌがデデーヌとかフィフィーヌになったりとか(これは「ペール・ゴリオ」)。
というわけで、作中でアンリがリリと呼ばれたのはカノジョが推測したようにアンリの愛称のつもりです。




前へ  目次  次へ