会話をするのに不便だからと、私はナーディルとベルナールのいる向こう岸に渡った。
 船を岸につけ、岩壁のでっぱりにもやい綱を引っ掛ける。
 二人はその間、物思いに沈んでいたのか黙り込んでいた。わからないでもない。不可解なド・クレールの生活形式は妙な不安感を与えてくる。それはの家出にも関わっているのか? 奴はどこまでのことを知っているのだろう。
 しかし、
「ド・クレールが何人女を抱えていようが、私の知ったことではない。を返してくれればそれでいいさ」
 ナーディルとベルナールは私の呟きにはっと顔をあげた。
「あ、ああ。まあそうだな。さんのことと彼に愛人が多いことはとりあえず別の問題だ」
 ナーディルが気を取り直したように言った。
「しかし返してくれと言って返してくれるようなものではないだろう。君は具体的に何か考えがあるのか?」
 私は肩をすくめた。
「そんなもの……。だが彼女がド・クレールの屋敷にいるのであれば、そして奴がそこに入り浸っているのでなければ、一人で外出することもあるだろう」
「そこを浚う、というわけか。まったく……」
 ナーディルはため息をついて、軽く頭を左右に振った。
「いいか、エリック。私は君たちが適切な段階を経て再会し、今後のことを話し合うというのなら、一切邪魔をしないと誓おう。でも君がさんの意志を無視して誘拐したり、監禁するというのであれば私はさんの意志を尊重し、彼女を守るつもりだ。もちろん君にとっては最大の敵であろうアンリ・ド・クレール氏に手出しするのも許さない。君が非道な手を使うのであれば、警察に駆け込むことを辞さないことを先に言っておく」
 文句があるかと胸を反らして、ナーディルは腕組みをした。それで威嚇をしているつもりなのだろうか。私は彼の言を鼻で笑った。ナーディルはむっとした顔になる。私はそれを無視してベルナールに視線を向けた。ベルナールは一瞬身を強ばらせたが、いつもの命令を聞く体勢になった。
「ベルナール、今後はイブリーの調査をやめてド・クレール一人に絞れ」
「承知いたしました」
「奴の基本的な一日の行動がどのようなものを優先して洗い出すんだ。必要ならば友人になったふりでもして近づけ」
 ベルナールは考え込むように黙り込んだ。ややあってから口を開く。
「私はド・クレール氏とは少々年が離れていますので近づくには時間がかかるかと。時期外れですが、私をオペラ座の定期会員にすることは可能でしょうか。私がジェルソミーナ派になれば、比較的容易にド・クレール氏にたどり着くことができるかと思うのですが」
「用意しよう。支配人殿がすぐに動いてくださるかはわからんから、今日明日というわけにはいかないかもしれないが」
「これまで通り、指示がないかの確認は怠らないようにいたします」
 ベルナールは畏まる。そこへナーディルが横やりを入れてきた。
「人が見ている前で堂々と悪巧みをしないでくれないか。私は本当に本気なんだからな。ベルナール、君も君だ。エリックの言いなりになって善悪の判断もつかなくなったのか? 君が行動することによって、一人の女性が不幸になってしまいかねないんだぞ」
 ナーディルの断罪にベルナールは曖昧な笑みを浮かべる。私は心情を害したように顔をしかめて見せた。
「悪巧みとは心外だな。せっかく私が穏便に済ませようとしているのに。ド・クレールを調べさせるのは、あいつに私とが話し合いをしている間に邪魔されては困ると思ったまでのことだ。もしもあいつが話し合いの時に近くにいたら、私のことだ、うっかり殺してしまうかもしれないだろう? 遠ざけておくに限る。違うか?」
 ナーディルは眉間にしわを寄せて考え込む。
「その話し合いは、もちろんさんに何かを強要するようなものではないのだろうね?」
「もちろんだよ」
 力強く、私は頷いてみせる。ナーディルは懐疑的な目で私を見た。私は彼の視線を真っ向から受け止める。
「それならその話し合いのお膳立ては私がしよう」
「なぜお前が? よけいな干渉はやめてくれ。ド・クレールにもにも何もしないと言っているじゃないか」
「だけど頭に血が上るということもありえるだろう。ド・クレールなら遠ざけておくだけでも問題ないが、当事者であるさんを遠ざけたら話にならない。それに彼女が君と話し合いをしたがらないかもしれない。だけど、私としては一言もなしに家出したことについては、君に対して弁明するべきだと思うんだ。だから私も立ち会った上で冷静に話をしたほうがいいと、思うんだけどね」
 ナーディルはどうだろうかと問う。どうだろうかも何も、私が否と言ったらやはり何事かたくらんでいるのでこの案を受け入れられないのだろうと突っかかってきかねない。
 まったく、たくらみだって?
 あるに決まっているだろう。話し合いが決裂したら、即座に彼女を抱えてここに戻ってくるつもりなのだ。だからベルナールならともかく、ナーディルにいられては困る。しかし立ち会いがベルナールだけというのも、こいつはきっと認めないだろう。
 私はナーディルが取り越し苦労をしていると考えているという風に冷ややかな笑みを浮かべてみせる。
「好きにしたまえ。見られて困るようなことは何もない」
 突き放したように言うと、ナーディルは困惑したようにたじろいだ。
「そこまで自信があるのなら……。ベルナール、どうやらアンリ・ド・クレール氏にはやはり話し合いの席には立ち会わないでいてもらった方が良さそうだ。彼がいては無駄に話がこじれてしまいかねないからな。しっかり調査して、当日にはそんなことがあると気づかないようにしたまえよ」
「は、はあ」
 手のひらを返したように激励されて、ベルナールは戸惑いつつもぺこりと頭を下げた。
 ナーディルは人指し指をピンと伸ばし、リズムを取るようにくるくる回しだす。
「よし、ならさんを連れてくるのは私に任せてくれ。エリック、気を揉むだろうが、君は静観しているんだ。下手に追いつめて逃げ出されたら、見つけるのが難しくなるかもしれないし」
「気に入らないな。なぜお前がああしろこうしろと命令するんだ。にどう会うかは私が決めることだ」
 私が反発すると、ナーディルは唇を引き結んで首を振った。
「会うって、どうやって会うんだ? 貴族所有の屋敷に正面切って行くつもりか。目立つだろうし、門前払いを食らう可能性が大きいぞ。さんが君を売るような真似はしないと信じたい。だけど今回の件で私が知っているのは君の話だけだ。さんが今、君のことをどう思っているのか、わからない。……つまり君がオペラ座の怪人であることをド・クレールが知らない保証はないんだ。君やベルナールがド・クレールの別宅に近づくのは避けた方がいい。わかるな、エリック」
 こうすることがのためであり、私のためであると言いたいらしい。私はふん、とそっぽを向く。ナーディルが小さくため息をついた。
「さて、と。とりあえず今のところできる打ち合わせは終わったと思うが……。エリック、他になにかあるか?」
「ないよ」
 もう好きにしろ、と投げやりに私は答える。
「ベルナール、君は?」
「え? ああ、一つだけございます。ド・クレール氏の複数の愛人についても調査した方がよろしいのでしょうか。取引材料になるようなことがでてくるのではないかと思うのですが」
「うーん……。彼の女性関係そのものには深入りしたくないんだよなぁ。今回の件とは直接関係はないだろうし」
 ナーディルはぼやいた。私は少し考え、
「探るならジェルソミーナがいいだろう。近づきやすいからな。それに奴が複数の女を抱えているのなら、他の女たちに対する不満がないとも思えん。うまく行けばジェルソミーナだけではなく、他の女たちのゴシップも集められるだろう。しかしメインはあくまでもド・クレールだ」
「承知いたしました。では報告などはどういたしましょうか。いつもでしたら……」
「ああ、そうだな」
 いつもならある程度情報がまとまってから報告してもらっていた。しかし今回は話の流れとして、ナーディルにもしないわけにもいかないだろう。
「こういうことの報告はエリックと直接会ってするのか?」
 ナーディルはベルナールに問う。
「はい。文書だけでは伝えきれない、細かなものもあったりしますので……」
「なら私もそうするか。できれば毎日、昼頃に集まって報告するというのはどうだろう」
「毎日だって? そうそう進展があればいいがな」
 私は混ぜ返した。毎日など面倒だ。それにこれは、私に対する牽制も含まれているに違いない。くそ、ナーディルめ……。
「ないならなくてもいいだろう。ないということがわかるんだから。君の家に郵便物が届くならなにもこんな面倒なことをしなくても済むんだが、できないんだから仕方がないだろう」
 私の抗議を意に介さず、ナーディルは答えた。
「他にはなにかないか? ないみたいだな。では明日、正午頃にここで会おう」
 そして勝手に話を締める。まったく好き勝手にする奴だ。
 ナーディルはやれやれと首を回した。
「しかし疲れたよ。徹夜の上に急遽監視作業まで加わったからな。帰ってちょっと寝ることにしよう。どのみち今なら社交界人士も寝てる時間だ」
「はあ、左様ですね」
 ベルナールも自分の頬を押さえる。格好は紳士だが、無精ひげが延びて少々胡散臭い容貌になっているのだ。
「エリック、ひとまず私たちは帰るが、絶対に先走るなよ。君も少し睡眠をとって休んでおくんだ。オペラ座の監視をするなとまでは言わないが、もし最中にド・クレールを見つけても我慢するんだぞ。何かことを起こしたら、さんが戻ってくる可能性が低くなるだけなんだからな。わかったか?」
「くどい」
 いい加減ナーディルの独善的行為にいらいらしてきた私は言下に吐き捨てる。ナーディルは同情のにじみ出るような半笑いになった。
「じゃあ、また明日」
「それでは先生、失礼いたします」
 ちょっとしたやりとりをしたあと、二人は地上に戻ることになった。私はしばし彼らを見送り、声は聞こえるが姿は見えない辺りで、ふと気がついたように呼び止める。
「ベルナール、待て」
「先生?」
「どうした、何かあったのか?」
 上から男二人の声が降ってくる。
「ベルナール、お前は朝までずっとスクリブ通りの前にいたのだな?」
「は、はい。その通りで……」
「ならば今朝はまだ食料品を買っていないということだな」
「あ、はい。そうです、申し訳ございません!」
 慌てたような声がしたかと思うと、ドタドタとやかましい足音が続く。すぐに息を切らせたベルナールが到着した。
「申し訳ございません。すぐに市場へ行って参ります」
「おいエリック、ベルナールを叱るなよ。私がそうしろと言ったんだから」
 ナーディルも足音をさせ、戻りかける。
「わかっている。悪いのはナーディルであって、ベルナールではない。だがパンが切れているんだ。そして私は空腹だ。買ってきてもらわねば飢え死にしてしまう」
 寛容さと少々の隙を声に滲ませる。隙などそうそう見せるものではないので上手くいくか賭けだったが、階段の上からナーディルが苦笑している気配が伝わってきた。足音がぴたりと止まる。
「そういうわけで、帰る前にひと仕事を頼みたい。とりいそぎ、パンと牛乳と、そうだな……ベーコンを買ってきてくれ」
「はい、承知いたしました」
「それと、長丁場になるかもしれないから、日持ちのする食料を多めに買い込んでくれ。これは一端帰宅してからでいい」
「はい」
「で、買うものは……。そうだな、チーズと卵、ああ、じゃがいもも切らしていたからそれもだ。それから……」
「じゃあエリック、ベルナール、私は先に行くよ」
 ひょいと顔をのぞかせたナーディルに私は軽く頷くと、彼は片手をあげて再び階段を上っていった。
「豆とタマネギ、薫製ニシンと鮭、干しリンゴももらおうか、それから……」
 でたらめに思いつく限りの食材を並べ立てる。これほどの種類を頼んだことなど今までにないことだったので、ベルナールはだんだん訝しげな顔になった。
「先生、あの……」
 私は部下の声を睨みつけることで封じた。階段の上を伺う。ナーディルの持っていたランプの明かりも見えなかった。もう大丈夫だろう。
「ベルナール、仕事を命じる」
 囁くような声量ながらも、ベルナールにははっきり聞こえるように調節して話しかける。ベルナールははっとしたような表情になった。大量の食料品の注文は、ナーディルを遠ざけるための演技だとわかったのだろう。
「急ぎ日本公使館へ行くんだ。そしてもしもが来た場合、旅券を発行しないよう頼み込め。その、お前の無精ひげも効果的だな。家出したを一晩中探したが見つからず、藁をもすがる思いで駆け込んだようにしてみろ。私は……まだ探していることにするんだ」
 圧力をかけることができればそれに越したことはないが、あいにく他国の役人までどうこうできる力はない。脅すにしてもその材料もないのだ。
「必要なら賄賂も渡せ。いくらかかっても構わん」
 公使殿の懐具合によってはてきめんに効果があるだろう。
 ベルナールは承知したと頷いた。
「ではすぐに……。ああ、その前にパンと牛乳とベーコンでしたね。パンはいつものバゲットでよろしゅうございますか? 急いで買って参ります」
「いらぬ。さっさと公使館へ行け」
「でも空腹なのでは……?」 
「いいや」
「へ?」
「パンもまだ残っている」
 食欲があまりない日が続いたので、だいぶ堅くなってしまっただろうがな。
「そこから演技でございましたか……」
 虚脱したようにベルナールは肩を落とした。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 利用できるものはすべて利用する。
 ナーディルは私に良心的な行動を強いてきているが、そう見せかけることであいつから情報を引き出すことができるというのなら、あいつの望み通りに進んでいると思わせることくらいどうということもない。
 必要なのは一刻も早くを取り戻すことだ。そのためならばなりふりなど構っていられない。
 私に少々の精神的余裕があったのならば、ナーディルに牙を抜かれている演技をしている自分自身とそれに踊らされているあいつの滑稽さを笑うこともできたのだろうが、それすらも今の私にはどうでも良いことだった。
 ベルナールを立ち去らせてから家に戻ると、私はくすぶる気持ちを抱えたまま着替えをする。昼間の正装たるフロック・コートだ。できることならド・クレールの別宅に忍び込んでを取り戻したいところだが、日中に大勢の使用人がいるであろう場所で目立つことをするほど、私は冷静さを失ってはいない。
 いつ帰ることができるかわからなかったので、アイシャの水皿にたっぷりと水を入れておいた。彼女はなかなかの狩り上手なので、私が食事の用意を忘れても自分で調達してくれるのだが、水だけはどうしようもないからだ。
 すべての用意が調ったので、家を出る。暗い階段を上ると、夏間近の太陽が憂鬱なほどさんさんと輝いている。ああ、こんな日に彼女とピクニックにでかけたこともあったのだ……。あの日の幸福さに比べて、今の私の惨めさといったら……。
 私は帽子を斜めに被って仮面を隠すようにすると、思い切って日の下を歩きだした。すぐに客のいない辻馬車が来たので止める。御者は私の姿に薄気味悪そうな顔をしたが、先に十フランをチップだと言って渡した。とたんに相好を崩してどこまで行くのかと聞いてくる。私はド・クレールの屋敷がある通りの手前を告げ、細かいことはそこへ着いてから教えると付け加えた。
 貧相な馬車の薄暗い空間の中でしばし揺られてると、ヴィリエ通りの途中で止まった。すぐ先には曲がり角があり、カルディネ通りに続いている。
「到着しましたよ、旦那」
 御者台から男が振り返ってくる。
「カルディネ通りに向かってくれ。できるだけゆっくり進むんだ」
「へえ」
 多くを聞かずに御者は馬車を進めだした。おおかた最後に特別料金でもふっかけてくるつもりだろう。しかしは私の馬車を知っているので、堂々と乗り付けるわけにもいかないのだ。
 この辺りは近年のパリの整備、拡大とともに開発されたところなので、建物は総じて新しい。そして富裕層が多かった。立ち並ぶ建物はどれも容積こそ大きいが、それぞれの趣味を反映させた俗悪さに満ちている。
 がいるという屋敷は、その中でも典型的な貴族趣味によって飾られているものだった。表側に見える窓のどこかに彼女の姿が見えないかと目をこらすが、何も見えなかった。
 ナーディルの話では彼女は明け方近くまで起きていたらしい。ならばまだ眠っていてもおかしくはないだろう。だが、何か、何か彼女の痕跡が見えないだろうか。どの部屋にいる? こちらからは見えないところか?
 時間にしてわずかな間に屋敷を通り過ぎてしまった。近隣にあの屋敷を観察することのできる場所はないかと視線を巡らすも、両隣も個人所有の屋敷のようであり、庭の手入れ具合から空き屋でないことがわかる。敷地を接しているので、通り抜けるふりをしながら監視することもできない。向かいも似たようなものだった。
(庭に忍び込むか? ……いいや、危険すぎる)
 今は庭にも玄関付近にも人影はないものの、いつ誰が出てくるかわからない。やはり、夜を待って行動した方がいいのか。
 だが、夜まで待っているうちにド・クレールが来てをどこかへ連れ出すかもしれない。ロールとかいう女や他の愛人も出入りしているようだが、猟食家の考えることなど私に理解できるはずもない。
 そうこうしている間もカルディネ通りを通り抜けてしまう。御者はこの先どう進めばいいのかと困惑顔で振り返ってきた。
「もう一度カルディネ通りに戻れ」
「……ここで馬車を反転させることはできませんぜ。一本先の通りを回ってぐるりとしていいんでしたら」
「構わん」
 それなりに人通りも馬車の行き来もあるところでそんなことをしたら目立つこと請け合いだ。
 だが御者はそれだけでは足りないと、目をいやらしく細めて続ける。
「それで、旦那さん。あたしゃ何周すればいいんですかね?」
 訳ありだというのはわかっているというように、ベタつく猫なで声で尋ねてくる。いくら儲けられそうか、ここではっきりさせたいのだろう。
「私がいいというまでだ。ここからは時間料金で雇おう。料金は倍払う。それから……」
 舌なめずりせんばかりの男を、私はねめつける。
「終わるまで愚痴や文句を一切言わなかったら、褒美として五十フランつける」
「ご……!? え、ああ、それはそれは……へへ。承知しました旦那様。ただ、ひとつだけ、あの〜」
「なんだ?」
 男は手綱を握っていなければ揉み手をしていただろう。生きるために金が必要なのは誰でも同じだとはいえ、へりくだりつつもこちらを見下している様子がありありと伝わってくる。苛立ちをどうにかやりすごしながら私は傲岸に対応した。
「今日中に終わりますかね?」
「遅くても日が暮れるまでだ」
 暗くなれば動きやすくなるからな。馬車など必要なくなる。
「……昼飯なんかはどうすれば?」
 知るか、と言いたいところだが、世間一般の男は私よりもずっと食事の回数も量も多いものだということを思い出した。
 私はため息をつく。
「三〇分までなら待つ」
 御者は悲痛な顔になった。
「三〇分ってそんな……。全然足りませんや。それに旦那様もどこぞのレストランにでも行かれるのでは? でしたら最低でも一時間は」
「私は食事をする気はない。不服があるのならば別の馬車を雇うまでだ」
「ちょ……。ああ、もう。わかりやしたよ! やります。やらせていただきます!」
 頭をがしがしかきむしりながら御者は御者台にしっかり座りなおした。だが、高額の報酬と引き替えの条件がよほど気に入らないらしく、口の中でぶつぶつと文句を言っていた。
 私は天井をステッキの頭で叩き、注意を喚起する。なんですか、と御者は振り返った。
「先に言っておく。私はとても耳がいい」
 そしてさっきの御者の文句を一言も漏らさず繰り返した。聞き取られていたとは思わなかったのだろう、御者の顔から血が引いてゆく。
「二度目はない。気をつけたまえ」
 御者は声もなく、ただ青い顔でこくこくと頷いた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 無意味なことをしていると我ながら思う。こんな風にド・クレールの別宅周りをぐるぐる回遊するだけなど、時間の無駄でしかない。だが私は一分一秒でも早くを取り戻したかった。他に方法など思いつかないのだ。
 通りから屋敷までは前庭を挟んでおり、しかも昼間であるのでガラスが鏡のように外の景色を反射してしまう。そのため、窓辺に誰かがいてもよほど近づいてくれない限り、それが誰なのかは判別がつかない。
 それでも時折、窓に女の姿が見えることがあった。その度に体型や髪の色からではないことがわかっただけで、何度も失望した。
 昼が過ぎ、夕方になる。
 その間ド・クレール邸に出入りする者を数人見かけたが、出入りの商人や郵便配達夫、それに仕立屋らしい職人ばかりで、ド・クレール本人やその取り巻き連中は一度も見かけなかった。もっとも、ずっと見張っているわけではないので、私が屋敷の前を通り過ぎてからまたそこへ行くまでの間に訪れていたのであれば、どうしようもないが。
 無益なことに延々と時を費やし続けて、とうとう六時を過ぎてしまった。
 まだ十分明るいが、そろそろ社交界人士が本格的に活動を始め出す時間である。
 もう何周したのかわからず、何時間も馬車に揺らされ続けてきたので感覚が麻痺してきた。だが二台前を走っていた上等の箱馬車が右に曲がり、ド・クレールの屋敷に悠然と向かったため、私は思わず身を乗り出した。
 目を凝らし馬車の中に優雅な身なりをした若い男がいることを確認する。……覚えているぞ。間違いない、こいつが、を……。
 平坦な時間を過ごす間に収まりかけていた激情がにわかに燃え上がる。
 すぐさま飛び出して馬車を襲い、あいつをくびり殺してやりたい。を取り戻すのが先であり、復讐はその後じっくりとしてやろうと思ったが、気が変わった。今夜のうちにあいつを殺してやる。
 だが、ああ、残念だ。六月の昼は長く、もう数時間しないと完全に日は落ちない。さすがに人目があるのでこのままのこのことド・クレール邸に忍び込むわけにもいかないのだ。
 私は御者に役目はもう終わったことを告げ、その場から離れるよう命じた。一度家に戻り、着替えてこよう。闇夜にとけ込むテイル・コートに。シャツの白さも覆い隠すマントをまとって。
(アンリ・ド・クレール、今夜がおまえの最後の夜だ)
 オスマン通りで馬車を降り、オペラ座まで歩いて行くことにした。御者には約束した通りの対価を払ったので、男はほくほく顔で去っていった。御者を生業にしている者にとっては破格の臨時収入だっただろう。辻馬車屋に限らず労働者階級には酒好きが多い。あの男もこの後どこかで思い切り憂さ晴らしをすることだろう。
 今夜、ド・クレール邸で事件が起こる。あの御者はその犯人を知る重要人物というわけだ。何時間も屋敷の周辺をぐるぐる回るよう命じた仮面の男など怪しいにも程があるからな。あの御者が事件を知ったら関連性を思いついてもおかしくはない。酒の力で私のことを忘れてくれれば良いのだが、そう都合良くいくものではないだろう。とはいえ御者は私自身を目撃しているものの、私がオペラ座の怪人とも呼ばれる者であり、オペラ座の下に住んでいるということは、まさか想像できないだろう。そして私がどこの誰なのかも知らなければ、たとえ警察に通報されたとしても探すことはできない。オスマン大通りで馬車を降りたのもそのためだ。私とオペラ座が直接結びつく情報は少なければ少ないほど良い。
 問題なのは、がド・クレールやあいつのくだらん友人連中に暴露していないかということだが……。
 たとえそうなったとしても、私は人間などに裁かれる気はない。警察に捕まるくらいなら、自ら地獄へ飛び込んでやる。
 もちろん、彼女も連れて。
 まだ明るい、パリの夕刻。華やかりしオペラ座。その地下へと続く暗い道を、私は一人降りていった。





具体的に作中時間で何月何日からこの修羅場編が始まったのかを考えていなかったら、自分でも訳がわからなくなってきたので整理してみた。
とりあえず1話目は春先だと想定していたので4月上旬ということにして経過日数を足していったらいつの間にか6月になってました。
結構長丁場だったんだなぁ。



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