午後九時過ぎ。
 ようやく夜の帳が降りてきたので行動を始めた。
 六月のパリは日が暮れるのが遅く、開けるのが早い。冬ならばもっと早く外へ出られるのにと、私は腹の中でぶつぶつ文句を言っていた。
 馬車を使わずにヴィリエ通りに向かう。
 辻馬車など雇って誰かの記憶に残ってはたまらない。そんなことをしなくても街灯の多い大通りを避けさえすれば、優しい闇夜が私を隠してくれるのだ。
 目的地までは馬車で十数分ほど。歩けば結構な距離となる。しかし貴族の脆弱な足と違い、若い頃にあてもない長旅を繰り返した私にとってはなんということもなかった。
 一歩一歩石畳を踏みしめる度に、アンリ・ド・クレールへの怒りが強くなる。
 私の大事なものを奪った憎むべき敵。
 私から逃げようと彼女に決意させた、忌々しいあいつ――。
 私はいったいどれだけの間、あのふざけた若造に侮られていたのだろう。どれだけの間、笑いものにされていた?
 だがそれも終わりだ。
 にもド・クレールにも目にもの見せてやる。


 ド・クレール邸が見えるところまで来ると、私は足を止めて正面玄関に目を向ける。
 玄関前を照らすガス灯こそついているが、昼間に比べれば格段に侵入しやすそうであった。
 玄関の前には前庭があり、そこへ向かうには頑丈で背の高い鉄柵でできた門をくぐらなくてはならなかった。
 しかし私はそこからもっと脇にある、使用人用の通用門へ向かう。こんな時刻だが夜遊びに慣れている貴族の屋敷だ。門番がいる可能性はあるだろう。敵陣へ忍び込むのに、わざわざ正面から攻めるなど馬鹿げたことだ。
 通用門には鍵がかかっていた。この屋敷の規模を考えれば一人一人に鍵を渡しているとも考え難い。防犯上、危険なことこの上ないからだ。誰か一人が邪心を抱いただけで深刻な被害を与えられかねない。
 おそらく門番か誰かが時刻によって鍵を開けたり閉めたりしているのだろう。日も暮れれば使用人には外出をする理由はないだろうからな。
 そっと周辺を見渡す。馬車も通行人も姿は少ない。しかし途切れることはなかった。
 ここはさほど広い通りではないが、近くに大きな通りがいくつかあるので、それなりに通りかかるものたちがいるのだ。真夜中を過ぎなくては人通りが途絶えることはなさそうだった。
 しかし、この程度のことで諦めるつもりは私にはない。要するに私が侵入者だと思われなければいいだけのことだ。
 私は堂々と通用門前に立つ。ポケットを探ると、余人には何に使うのかわからぬであろう小さなガラクタが手に触れた。
 私はその中からねじ曲がった細い針金のようなものを取り出した。それを少々しごいて、鍵穴に差し込む。
(1、2、3、4、5)
 時計の秒針が刻むのと同じくらいの早さで数を数える。五まで数え終わったとき、軽い手応えとともに開いた。ふん、他愛もない。ただの錠前など、私にとっては無施錠に等しいのだ。
 ド・クレール邸の庭に入り込む。前庭があるとはいえ、田舎の屋敷と違い、馬車が回り込めるだけのごく狭いものだ。隠れられるような幅のある木などはない。だが玄関前以外は明かりが届いていないので、そこを避けるようにして建物に接近する。
 ここは典型的な貴族の屋敷だ。中庭に続いているであろう壁の途切れた先から、かすかに馬のいななきがする。郊外の広い庭付き屋敷ならばともかく、このようなところにある貴族の邸宅は大抵の場合、中庭に馬車が保管され、厩もあるものなのだ。よほど大きな屋敷でない限りは建物に光が遮られ、太陽が高い位置にこない限り、昼間でも日陰になることも多いのだが。しかしつまり、夜ならば尚暗いところなのだ。
 私はしばし逡巡したが、中庭に向かうことにした。もしも誰かが私の行動に気づいていたとしても、私をこの屋敷の関係者だと思うくらいには無頓着なように振る舞っていたと思う。実際私にはどんな恐怖も不安もなかった。誰かが近づいてきたとしても、相手が気づくより先に私の方が気づく自信がある。足音や気配がするのだからな。それに私ほど暗闇に慣れた者などおるまい。
 とはいえ、厩の近くには馬丁や御者らの部屋があることもあるという。油断はしないに越したことはない。
 中庭が目に入る位置まで近づくと、私は足を止めた。暗闇の中のさらに暗いところにあるものを見るために目を凝らす。
(……くそ、やっぱりか)
 アンリ・ド・クレールは不在のようだ。六時頃に来て、またどこかへ行ったらしい。そんなことは簡単にわかる。馬車置き場には昼間用の馬車であるチルビュリーとカレーシュしかないからだ。あいつが乗ってきたクーペはない。暗くなるまでの三時間近くを潰してしまったのだから、こんなことも起きるのではないかと思っていたが。
(まあ、いい。ならばこちらは準備を進めるだけだ)
 ド・クレールとの部屋を探しておくのだ。そして潜みやすい方に隠れておき、あいつが帰ってきたら……。
 そして上手いことあいつを始末できたら、を浚ってでも連れ戻すのだ。彼女もまさか私がここまで早く動いているとは思うまい。さぞ、驚くだろうな。
 しかし問題点はないわけでもない。ここには大勢使用人がいるはずだ。主人であるド・クレールがおらず、時刻も時刻なので仕事が終わった者は寝に行っているかもしれないが、誰かに見つかる危険は庭の比ではない。それにあいつには複数の愛人がいるというから、そのうちの何人かもいるかもしれなかった。
 だが疑問もある。そもそもあいつはと出かけたのだろうか。別の女とかもしれないし、一人でかもしれない。ド・クレールがいなくて彼女が残っている可能性だってあるのだ。
 確定的な要因が何一つないまま、私は明かりのついていない部屋のバルコニーに近づき――部屋は食堂のようだった――装飾的な彫り物の施されている柱に手をかけた。大理石でできた柱のつなぎ目やちょっとしたでこぼこに指をかけ、よじ登る。まったく、こんなことをしなければいけないだなんて。私でなかったら大変な苦労をしていたに違いない。
 バルコニーの屋根の上にあがると、斜め上には二階の窓があった。明かりはついていない。しかし足場がないので、少々策を練らねば中へは入れぬようだ。
 私は窓枠を丹念に眺める。そしてポケットから愛用のパンジャブの縄を取り出し、窓枠の大きな装飾部分に引っかけた。数度引いてみて、強度を確かめる。
(やれやれ……)
 私はパンジャブの縄を片手に持ち、もう片手は石組のわずかな隙間にかけ、壁に張り付くようにしてじわじわと窓辺に近づいていった。窓のすぐそばまで来ると、ガラス越しに中をのぞき込み、そこが使われていない部屋であることを確認する。そして再びぐっと縄を持つ手に力を込め、足を踏ん張り、空中で体を<の形になるようにした。バランスをとりながら内側から掛け金を外す。これは薄い金属片を差し込み、跳ね上げるだけで済む。造作もないことだった。
 中へ入り込むと、白い布をかけられた家具たちが私を迎えてくれた。私はそれを一瞥すると、扉に近づく。耳を澄まし、廊下の気配を感じ取る。気配を消す達人でもいない限り、誰もいないはずだった。
 扉は内側から鍵がかかっていたが、部屋の中にいる私には何の問題もなかった。鍵を開けて廊下へ出る。
 厚い、手入れのされた絨毯が廊下の端から端まで延びていた。さて、どっちへ行こうか。
 貴族の屋敷ならば、ある程度誰がどの部屋を使うかは決まっているものだ。食堂などの家族が共同で使う部分を軸に、片翼には男の部屋が、もう片翼には女の部屋がある、という構図だ。どちらが男の建物かがわかれば、ド・クレールの部屋はすぐに特定できる。ここは奴の屋敷なのだから、一番立派な部屋を使っているだろうからな。
 私は廊下を歩き回って、片端から扉を開けていった。もちろん、中に誰かいないか気配を探ってからだが。
 そしていくつかの鍵のついている部屋を開けて中を確認し――もちろん鍵は勝手に開けた――とうとう四つ目にしてド・クレールの部屋らしきものを見つけることができた。
 広々とした居間と、寝室に続いているであろう扉がある。部屋には壁に染み込んでいるのであろう香水の匂いがかすかにした。念のため、隣室をのぞく。こちらは鍵がかかっていなかった。大きな寝台とワードローブがある。中を確認すると男物の服が収まっていた。その奥にはさらに扉だ。そこも開けると浴槽と洗面台があった。洗面台の上には櫛とブラシ、ポマードなどがある。
 明かりをつければ色々と収穫物が見つかるかもしれなかった。あいつを社会的にも抹殺できるような何かが。
 しかし誰かが見とがめるかもしれないので、引き出しの中を探りたい衝動を我慢して、ド・クレールの部屋を出る。鍵はまたかけておいた。開けっ放しにしておいて、不審がられても困るからな。屋敷に侵入した時に利用した誰も使っていない部屋だけは、鍵がかかっていないことに気づかれることはそうなかろうと、脱出経路を確保するのを兼ねて開けたままにしているが。
 誰かに遭遇する可能性の高い大階段前を通り抜け、反対側の建物へ行く。幸いなことに誰にも行き会わなかった。この時刻だ。家人に呼ばれない限り、この辺りに来る用事はないのだろう。
 あっちが男の棟だったのだから、女の棟はこちらだろう。気配を殺し、息を潜め、しかし行動は素早くする。
 だがこちら側はド・クレールの部屋探しとは逆に難渋した。
(どうしてどこもかしこも使っている部屋ばかりなのだ!)
 大階段に近い小さなサロンの他は、全部が女の部屋らしいのだ。部屋の広さには差があるものの、どこもかしこもいかにも女性的な装飾がされており、テーブルやチェストの上などには女が気まぐれに置いたらしい雑多な小物が散らばっている。
 そういった女の部屋を、一つ目と二つ目は衣装部屋だの浴室や寝室だのといった続きの間まで見て回ったが、三つ目で呆れ返ってしまい、それ以降は居間部分だけを観察しただけなのだが。だがそんな部屋が五つもあったのだ。まさかアンリ・ド・クレールには五人もの愛人がいるとでもいうのか!? そこまでの放蕩ができる者がまだパリにいたとは。それもあんな若造が。
 気づくと私は歯がみをしていた。
 強固な、しかし静謐な怒りはいまや油をかけられた炎のように燃え盛っている。
 ド・クレールが妬ましい。私のできなかったことを軽々とやってのけ、それが当然のような顔をしているのだから。
 そして怒りはにも向けられた。私があれほど一途に愛を捧げていたというのに、その私を捨ててあんな浮かれ男に走るとは。あいつの誠実さのない愛情が、どれほどのものだというのだ。自分を安売りしていることに気がつかないのか!? ああいう男は一時的にちやほやしてもすぐに他の女に走るのだぞ。そうしたら今度はおまえが捨てられるのだ!
 ……だが、それでも、わかっていたとしても、あいつの方がいいのだろうか。化け物の愛よりも、若くて金持ちでまともな顔をしているあいつの方が……。
 苛立ちと焦りと一抹の不安を抱えながら、アンリ・ド・クレールの部屋に戻る。五つある女の部屋の中からの部屋を特定するのは無理だと判断したのだ。
 ざっと見たところ、あれらの部屋には私が に買った覚えのあるものはなかった。どうやら彼女は着の身着のままで逃げたようなので、当然なのかもしれないが、
 しかしどの部屋を見ても、これが彼女が選んだものだとは思いたくないような俗悪なものばかりだったので、余計に判断がつきかねたのだ。は本当はこういうものが好みだったのだろうか。まさか私が来ることを見越してミスリードさせるつもりで選んだのか? いくらなんでも、そこまでは、と思いたい。
 他にも判断に迷った理由としては、どの部屋も一日二日では無理と思える程度には生活臭があったのだ。彼女はずいぶん前からここに出入りしていたのだろうか……。
 私はド・クレールの寝室の窓にあるたっぷりしたカーテンの中に入り込んだ。もしもあいつがをここへ呼んだら、すぐに仕留めてやるのだ。もしこなかったとしても、その時にはあいつの後をつければの部屋がどこか、わかるだろう。
 それにしても、あいつは女を五人も連れてどこへ行ったのだろうか。誰もいなかったのでそういうことだと思うのだが、女たちの方もよくあんな男につき合っていられるな。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 玄関を開けると、アイシャが駆け寄ってきて私の足にすり寄ってきた。しかし彼女に構う気は起きず、無視をする形で通り過ぎる。
 時計を見やると、もうじき五時半になろうとしていた。
(……徒労だったな。何をしに私はあそこまで行ったんだ)
 腹立ち紛れに乱暴にソファに座る。スプリングが軋み、押さえつけられた反動で跳ね返ろうとしていたが、苛々していた私はそれを無理矢理押さえ込んだ。
(まったくこの季節ときたら……。なんて夜が短いんだ!)
 両手で顔を覆って天を仰ぐ。
 結局待っている間にド・クレールは帰ってこず、空が白み始めたため、撤退するはめになった。つまりは無駄足に終わったのだ。
(冬だったらまだ夜明けまで時間があったものを……!)
 季節すら私の邪魔をしているように思えて、私は声には出さずに悪態をつく。忌々しい。まさかは私の行動を制限するつもりで今の時期に出ていったのか? 物事のすべてが私にとって不利に働いている気がしてならない。
(ああ、くそ、くそ、くそっ……!)
 頭を掻き毟りながら衝動のままにソファの上を転がる。掻き毟りすぎて、鬘が外れた。そのうち仮面も飛んでいってしまう。
 色々な思いがわきあがり、混ざって胸を締め付けた。
 嗚咽が漏れる。上手く息ができなくなって、余計に苦しくなった。
 助けてほしい。誰か、助けてくれ。
 。……
 どうしてお前はいないんだ。どうして私をここまで苦しめるのだ。そうされるだけのことを、私はしたのか? わからない。私にはわからない。
 泣き、叫び、床を転がりながら私は七転八倒していた。
 だがベルの音が鳴り響き、私は我に返った。
 このベルはベルナールとスクリブ通りの入り口で直接会わねばならない用事がある時に、ベルナールが到着したことを告げる合図となるものだ。こんな風に使うのは異例だが、きっとこれからベルナールとナーディルが地下湖の対岸まで降りてくるのだろう。
 そのことをようやく認識して、わたしはのろのろと立ち上がった。彼らに会いたい気分ではないが、出ていかなければまたナーディルががたがたと騒ぐだろう。それにベルナールに命じていた用件の結果は知りたいところだった。
 私は床に落ちてぐしゃぐしゃになっていた鬘と、テーブルの下に転がっていた仮面を拾って寝室へ向かった。菓子や玩具をほしがって泣きわめく子供のようなことをしたなどとあの二人に悟られたくはない。顔を洗って身なりを整えなければ……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「……ック。おーい、エリック!」
「やかましい、いい加減にしろ」
 外で私の名を大声で連呼しているナーディルに、玄関扉を開けてすぐに制止をかける。まったく、迷惑な奴だ。
「誰かに聞かれたらどうるすんだ」
「そっちに行くと合図したのになかなか出てこないから、すねて閉じこもっているのか、どこかに出かけたのかと思ったんだよ。どこかに出かけたとしたら、ド・クレールの屋敷かもしれないし、それなら探して連れ戻さないといけないからな」
 ナーディルは昨日とは打って変わってきちんとした格好で腕を組みながら答えた。
「いてくれて良かったよ。しかしずいぶん憔悴しているようだな。食事と睡眠はちゃんと取っているのか? いざ話し合いというときにふらふらになっていたら困るだろう。気が滅入る気持ちはわからなくはないけどね」
 食事に睡眠か……。がいないと気づいてからというもの、どちらもろくに取っていない。しかしどちらも今は興味がなかった。人間、多少眠らず、ものを食べずとも簡単には死なぬものだしな。
 ナーディルの見当違いの気遣いを鬱陶しく思いながら、私は小舟をこいで対岸に渡る。
「余計な世話だ。それで? 私に行動をするなと行ったお前は、さぞかし有用な情報を手に入れてきたのだろうな?」
 ド・クレールを殺しに行こうとしていたことなどおくびにも出さず、私はナーディルを不機嫌に睨みつけた。 
「そうせっつくなよ、まだあれから一日しか立っていないんだぜ。とりあえず昨日帰ったあとすぐにさんに手紙を書いたよ。直接会って、彼女の話を聞きたいってね。なにしろ私は君の話しか知らないわけだから、彼女の言い分も聞かないことには公平な喧嘩の審判員にはなれないと思ったんだ」
 ナーディルは私を刺激しないようにするためか、努めて穏やかな表情で告げる。
「悠長なことだな。……で、返事は?」
「まだ来るわけがないだろう。速達だって届くのに数時間はかかるんだ。まあ、私は午前中に速達で出したから、早ければ昼過ぎには到着しただろうが……」
 それを彼女が受け取ったのか、受け取ったとしてもすぐに読んだのか、読んだあとに返事を書こうと思うかはまた別の問題というわけだ。
「手紙なんてのんきなことをやってが逃げたらどうするんだ。直接面会を申し込めば、とて逃げ切れぬと観念しただろう。逃走先を早々に見つけられたのなら、いいわけもできまい」
 ナーディルは顔をしかめて小さく振った。
「エリック、私は別にさんを逮捕しようとしているわけじゃないんだよ。後ろ暗いところがなければ、会って話をするくらいしてくれるだろう。だけどもし、会ってくれる気がないというのなら、それも一つの答えだ」
 複雑な表情で、哀れむように私を見る。
「君と君に関わる者すべてと関わりを断ちたいということだろうからね。こうなると話し合いなんてやっても、よりを戻すのは難しいだろう。彼女の方にその気がないということだからね」
 そんな気なんて、はとうになくなっているに違いない。ド・クレール邸の女たちの部屋が次々と頭をよぎっていった。
「他にもっとまともな情報はないのか?」
「だからまだ一日しか経っていないって言っているだろう。手紙を書いたあとは徹夜だったから少し眠ったし、そのあとは少々社交的訪問もしてみたが、やっぱり私が訪問できるところでは、直接彼を紹介してくれるような人は見つけられなかった。噂くらいしか得るものはなかったよ。やっぱりオペラ座で会う知人の方が有望だ。なんとか伝をもらってド・クレールにも近づいてみようかと思っているが」
「ベルナール、お前の方は?」
 さっきから黙って私たちのやりとりを聞いていたベルナールに水を向ける。
「私も似たようなものです。以前にざっと調べたこと以上のことは、まだ何も……」
 私はあからさまに落胆のため息をついて、ベルナールを見やる。睨んだつもりはないが、そう受け取ったらしく、肩がびくりと強ばった。
「では今日の集まりはこれで終わりだな。まったく、毎日会うなんて無意味だな。こんなことをまだ続けるつもりなのか?」
「そんなことはないさ。明日にはたぶん、さんの返事を聞かせてあげられると思うよ。もしかしたら家にはもう届いているかもしれないしね」
 無理矢理盛り上げようとするかのように、ナーディルは軽い調子で言う。
「なぐさめなど無用だ」 
「エリック……」
 ナーディルは眉を下げ、途方に暮れた。
「次に会うときには良い知らせを聞かせてくれることを願う」
 話はもう終わりだとばかりに、私はあごをしゃくった。
 ナーディルは仕方なさそうに肩をすくめる。
「まあ、さして進展はしていないからな。わかった。帰るよ。だけど本当に、しっかり食べて眠って、体力は養っておくんだぞ」
「……ああ」
 同意の返事でもしないと素直に帰ってくれないような気がしたので、その場しのぎの返事をする。
 ナーディルはじゃあなと片手をあげて帰っていった。ベルナールも一礼をしてその後に続く。
 二人の背中が見えなくなったあとも、私は対岸に残った。
 十分か十五分か。
 時計を持っていなかったので定かではないのだが、たっぷり時間を置いてから私は地上に向かう階段を上っていった。歩く速度もゆっくりしたもので、いつもの倍ほどの時間をかけて、スクリブ通りの入り口前に私は立った。
 柵の向こうは馬車が行き交い、賑やかなものである。その喧噪を遠くのものとして聞きながら、外からは見えない場所に身を隠していると、しばらくしてから小走りで駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「ベルナール」
 呼びかけると、ベルナールはほっとしたように肩をおろした。
「お待たせして申し訳ありません。カーンの旦那に、少々探りを入れられてしまいまして……。ちょっと話そうとカフェに誘われてしまったものですから……」
 まったく、ナーディルのやつめ。とことん私を信用していないのだな。
「それは構わん。しかし、あのことはあいつには言っていないだろうな?」
「もちろんでございます」
 ベルナールは強く頷く。
「それで公使の返答は?」
「結論から申し上げますと、先生のご懸念は無用のものであるということです」
「つまり?」
「お嬢様はまだ日本人として正式に認められておりませんので、日本公使館が彼女に旅券を発行することはできないと」
「……なるほど」
 そういうところまでは頭が回らなかったな。しかし考えてみれば当然のことか。
「あちらはまた大変なことになっているようで、午前中に訪問したものの、公使は不在だと言われてしまいまして。なんでも偉いさんが日本から来ているようなんですが、当の本人が長旅で体調を崩してしまったようで。無理を言って午後に面会時間を確保してもらって、なんとか公使本人と会うことはできたのですが……」
 ナーディルはハンカチで額の汗をふきながらぼやく。
「次から次へとやっかいごとが起きる国だな」
 私とが訪問した時には、要人暗殺の報が届いててんやわんやになっていたが。
「ですがそのおかげで、お嬢様の身元探しの進行状況がつかめたわけですが、これまで二度、日本から連絡が届いていたのだそうです」
「ほう?」
 だがこちらには何の連絡もなかったが。
「とは申しましても、情報に決定打がなくて絞り込めないというものだそうでして。どうも、お嬢様の父親ではないかと思われる人物が複数いるそうなんですよ。もちろん彼らは船が流されてしまったわけですから、直接話を聞くわけにもいかないわけですが。無事にどこかの国にたどり着いているのならともかく、そのまま海の藻屑になってしまった者もずいぶんといたでしょうし」
 の架空の父の名と父親の出生地を、日本によくあるような語をあやふやに告げたのだが、該当者なしではなく、該当者が多かったとはな。嘘からでた誠というやつか。しかし、その該当者はすべてとは関係ない。彼女はこの時代の生まれではないのだから。
「確定にはまだ時間がかかるのだそうです。ですがどうも、日本ではフランスでいうところの出生証明にあたるものの取りこぼしがたくさんあるようでして、下手するとさらに候補者が増える可能性もありますし、まあ、色々と問題があるのだと」
「それも、日本の政変が起きたせいか?」
「はあ、そのようで」
「……どうしようもないな」
「左様でございますね」
 ベルナールは呆れる私に力なく笑った。
「ですがおそらく先生に置かれましては、お嬢様の出生証明書が入手できればよろしいのかと存じまして、公使にはとにかくお嬢様が日本人として認められるのかどうかだけをできるだけ早く確認していただきたいと申し上げておきました。その際に千フランを渡しまして。最初は受け取れないと言われましたが、これまでの経費と今後の調査費用その他として使ってくださいと申し上げましたら、それならば、と」
「そうか」
 何事も建前というのは大事だからな。
「とりあえず、足止めはできたか」
 旅券がなければ国外にはいけない。もちろんド・クレールが金や権力にものをいわせなければの話だが。あいつの動向は今後も調査し続けなければならないな。その前に、ベルナールをオペラ座の定期会員として送り込まなければ。
(あいつが貴族でなければなぁ……)
 明け方まで遊び、昼間に寝られては手出ししにくいことこのうえない。昼間では侵入するにも逃げるにも苦労してしまう。オペラ座にあいつが来たときに仕留めることはできるが、私の縄張りと知っているはここに来るとも思えぬ。に逃げられては意味もないから、どうしたってもう一度ド・クレール邸に行く必要があった。
(覚えていろよ……!)
 同じ失敗は二度繰り返さない。今度あそこへ行った時こそ、すべての決着がつくときだ。




:彼女の父の候補者が多かった訳:
これは彼女が「父の名は田吾作(仮)、友人に権兵衛(仮)という人がいたそうです。生まれたのは山……なんとかというところだって言っていました。あ、海が近いそうですよ」
みたいな感じで公使に言ったからです。田吾作や権兵衛が当時の男性の名前として一般的かどうかは別として、まあこんな風にぼかしていたと。
『山』が付く地名なんて市町村単位でもよくあるだろうし、海が近いところなんて、職業漁師だったら当たり前だし。情報になってない情報を渡されて、向こう(日本で調査する人)は困っただろうなぁ。

補足:ちょっと紛らわしい
本文中の「足を踏ん張り、空中で体を<の形になるようにした」
の「<」はひらがなの「く」ではなく、不等号(<とか>とか≧とか≦のあれ)です。
最初、「くの字になるように」と書こうとしたのですが、エリック視点なので日本のひらがなを例えに使うのはちょっとおかしいかなと思いまして。
あと、屋敷の形の表現も、上から見ると「コの字」とか「凹みたいな格好」などと表現できるのですが、カタカナに漢字だしと、同じ理由で省いたらなんだかよくわからないことになってしまった…。

それにしても今回のエリックは四次元ポケットでももってそうな具合ですね。




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