居場所さえわかればを連れ戻すことなど容易だと思っていたのだが、その居場所に行ったにも関わらず彼女を連れ戻すことができなかった。
 こうして彼女とド・クレールを野放しにしている間にも、二人は私のことをあざ笑っているのだろうと思うと、悔しくて仕方がない。
 だがそうしていられるのも今のうちだけだ。この報いは必ずや受けさせてやる……。
 もう、まどろっこしいことなどしていられなかった。ありとあらゆる手を尽くしてを取り戻し、ド・クレールを始末してやる。そのための方法も一つだけにこだわる必要もない。その中のどれかにあいつが引っかかればいいのだ。
 ベルナールの報告を聞き終えた私は、憤然とした思いを抱えながら、部屋の中をぐるぐると歩き回った。
 まずはベルナールをオペラ座に送り込んで、情報収集ができる体制を整えよう。ド・クレールの弱味でもつかめたらしめたものだ。それを効果的に世間に広められれば、死んだ方がましだと思わせるような恥辱を与えられることもできる。自殺をさせるよりも私の手で決着をつけたいとは思うが、自ら地獄に飛び込もうというのであればそれもまた一興というものだ。
 だがあらゆる角度から思考した結果、ベルナールを定期会員として送り込むというのは、意外に難しいという結論がでてしまった。つまり定期会員の募集をしていない時期にむりやりある人物を押し込もうとすれば、目立つことこの上ないということだ。
 オペラ座の怪人推薦の定期会員など、怪しんでくれと言っているようなものだ。支配人を脅し、ベルナールを送り込むことができても、そのベルナールが支配人に探りを入れられてしまってはどうしようもない。
 しかしオペラ座に出入りしている者の中にはナーディルのように定期会員でもないのに関係者用の出入り口からも出入りしている奴もいる。こういうやりかたならあるいは、とも思ったが、ああいうのが黙認されているのは、ナーディルが外国人、それもヨーロッパの人間ではないからだということもあるだろう。妙な人物だが、フランス人ではないのだから自分たちには理解できないことをしてもおかしくはないということだ。そして妙ではあるが、もう長いことそうしていて、特に犯罪行為などはしていないから放置されているのだ。ベルナールではそうはいかない。
 となると、もっとも簡易かつ支配人に不自然に思われない方法は、正式な定期会員の中から財政事情の悪い奴を見つけ、そいつから定期会員としての権利を買い取るということだ。こうしたことは実際に行われていることなので、今更新たに一例が増えたところで誰も不自然に思わないだろう。その財政事情の悪い会員についても少し探れば目処はつきそうだしな。
 こうした『他人の不幸』のようなものをいかにも気の毒そうに噂をする人々には事欠かないのがオペラ座というところだ。以前にはさして関心がなかったので噂が聞こえても聞き流していたが、破産寸前だというどこそこの誰それの話も聞いたように思う。今晩は久々に観客の観察をしてみるか。すぐにでも候補者は出てくるはずだ。そこから先はベルナールが動くことになるだろうが――わざわざ怪人の名を出す必要などない。金が必要な相手にはただ金を渡せば済むことだ――あれは人当たりと愛想は良いので上手くやってくれるだろう。
 しかしベルナールがどうにかするのを待っているだけというのも芸がない。私は私でド・クレールを追いつめる方法を考えねば。
 まず、あいつが人気のない場所で一人になったら、即殺してやろうと思う。そのためには人気のない場所にあいつをおびき出さなければなるまい。
 オペラ座の中にもそういった場所はあるが、その手の場所は観客はそもそも近付かないので、意図的にあいつが一人になるようにしむけなければなるまい。
 私にとって好都合なのは、例の鏡がある楽屋なのだが……。ジェルソミーナの名を騙って誘いをかけてみようか。それとも堂々、の婚約者であるエリックと署名してみようか。あいつはどうしたら確実に食いついてくるだろうか。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 ド・クレールを地獄へ叩き落とす算段でも練っていないと絶望に飲み込まれそうになるので、私は一晩中作業をしていた。
 情報収集をし、新たな通路や仕掛けを考える。ド・クレールが足を運びそうなところに覗き用の小窓を増やしたいのだ。それに、可能であればド・クレールのボックスにも潜めるようにしたい。生憎あいつのボックスは私のボックスのように柱に接してはいないので難しいとは思うが……。しかし何らかの方法はあるはずだ。
 仕掛けの類は本当に全てやろうとするのであれば作業が終わるまで何ヶ月もかかるだろう。そうしている間にもこの件にはけりが付いていそうだが、構うものか。ド・クレールを追求するために私は全力を出そう。
 そうしている間にも時間は過ぎ、正午が近くなった。
 ナーディルがまた騒ぎだす前に一度帰宅する。
 ほどなくまた訪問を告げるベルが鳴ったので私はさっさと対岸へ渡った。
 入り口で待ち合わせでもしているのか、今日もナーディルとベルナールは連れだってきた。そして私がすでにいることに気がつくと、ナーディルは驚いた顔になる。
「珍しいな。呼ぶ前に出てきているなんて」
「騒がれると迷惑だからだ。そうでなければ誰がわざわざ出てくるものか」
 ナーディルはやれやれと軽く頭を振った。苦笑しているようだ。
「まあ、理由はなんでもいいけどね。こっちもあんまり大声を出すとのどが痛くなるからな」
「それで、今日はどんなことを教えてくださるのかな?」
 嫌みを十分効かせた声音で私は尋ねる。
「……うん」
 ナーディルは隣のベルナールに視線を送る。
 ベルナールは焦ったように「私ですか!?」とナーディルに囁いた。なんなんだ、一体。
「進展があったのか?」
「進展といえば進展だろうな……」
 ナーディルは言葉を濁す。
「ベルナール?」
 事情を知っていて、かつ私の命に逆らえないベルナールに水を向ける。ベルナールはびくびくしながらも観念したように口を開いた。
「あの、実は、お嬢様をお見かけしまして」
「……ほう」
 私は息を飲みそうになりながらも、努めて冷静な返事をした。内心では心臓が激しく波打っていたのだが。
 だが驚くほどのことではない。が一人で外出することもあるだろうとは予測していたことだし、この二人はそれぞれのやり方でやド・クレールとの接触を図ろうとしているのだ。その最中に彼女と鉢合わせすることも、ありえることだろう。
「それで、と話したのか?」
 私の問いにベルナールは頭を振る。
「私は荷物運搬者のふりをして、屋敷に近づいてみました。荷馬車でしたら、少し長めに路肩に止めていても不審がられませんから。私はまずアンリ・ド・クレール氏宛の荷物を屋敷に届けました。もちろん送り主の名前や住所はでたらめです。中身は簡単に足がつかないようにありふれた花かごにしました。花なら送り主のことが気になっても、本気で探し出そうとはしないでしょうからね」
 人の良さだけが取り柄だと思っていたが、ベルナールも他人を騙すのが上手くなったものだ。
「賢明だ」
 私は言葉少なに部下の行動を首肯する。
「荷物を届ける間に、屋敷の中の様子を少し探ることもできました。ちょっとした世間話なんかもしまして。まあそれは本題から外れますので、ご興味がおありでしたら改めてお話致します。荷物を届けたあとは馬車が不調になったふりをして、しばらく屋敷の様子を観察していました。私としましては、ド・クレール氏の懇意にしている仕立屋か理髪師が来れば幸運だというところだったのですが」
「ああ、なるほど」
 仕立屋と理髪師は、出入りの職人や商人の中でも特に顧客の私的な情報を持っているとされている者たちなのだ。
「その仕立屋か理髪師がどこの誰かがわかれば、私も客となって親しくなることができます。もちろん顧客の情報などそうそう言い触らすようでは一流の商売人とは言えないでしょうが、そのあたりについてはおいおいにと。まずは上客であると思わせることが肝心ですから。そして見張りをしだしてしばらくして、正門からカレーシュが出て来ました。乗っているのはロール嬢とお嬢様でした」
 ド・クレールの愛人と馬車に相乗りだと? どういうことだ。二人は一人の男を巡る恋敵ではないのか?
 私の疑問が顔に出ていたのだろう。ベルナールは力の入らない笑みを浮かべた。
「ですので、私は慌てて後を追ったのです。私は労働者の格好をしていましたので、お嬢様は気がつかなかったでしょう。二人は宝石店、レースの店、帽子屋を回った後、カフェで一休みをしていました」
「そのカフェがリヴォリ通りにある店でね。この時期だから外に椅子とテーブルを出しているんだが、二人はその外の席を使っていたんだ。私は帰宅する途中でたまたま出くわしたんだが、驚いたよ」
 途中でナーディルが口を挟む。
「驚いたとは?」
「いや、だってそうだろ。ロール嬢はド・クレールの愛人で、さんもその一人になってしまったらしい――睨むなよ、エリック――のだから、当然仲は悪いんだと思っていたんだ。でも傍目から見た感じではそんな様子はなかったんだ」
「そうなのか?」
 私はベルナールに確認をとる。ベルナールは頷いた。
「ロール嬢の方がなにかと場を仕切っている様子ではありましたが、仲が悪そうな様子は全然ありませんでした。二人は似ているわけではないので、これは例えなのですが、姉が妹の世話をしているような、というのがぴったりかと」
「確かに、姉妹だと思えばまだ理解できるな」
 ナーディルは薄い笑い声をあげた。そして私に困ったような表情を向ける。
「彼女があんな派手な格好をしているのは初めてみたよ。若い娘なんだから、あれくらいなら特別派手ってことはないけど、とにかく今までが地味だったからな。髪の結い方もそうだけど、飾りもせいぜいシンプルな装飾の櫛が一つとか、そんなものだったし」
 何?
「髪にリボンを結んでいるお嬢様は、そういえば私も初めて見ました。あとはイヤリングなどの宝石も身につけていましたっけ。隣にいるのが、こういってはなんですが、あのロール嬢ですから、お嬢様の清楚さが引き立っておりましたよ」
 感慨深げにベルナールは言った。ナーディルもその通りだと同意する。
「ロール嬢が美人なのは否定しないが、とにかく派手だからな。あれだけごてごてしている女の隣に立てばオペラ座の女だって上品な淑女に見えるというものだろうが」
 それはを褒めているのか貶してるのかわからんな。しかし二人だけで盛り上がらないでくれ。当事者は私だろうが。
 いや、ここは子供じみた文句を言っている時ではない。肝心なのは、がロールの妹のような扱いを受けているということだ。
 ロールという女は高級娼婦と呼ばれる手合いだ。その妹分になったというのであれば――。
は客を取るようになったのか?」
 考えられる可能性は一つしかない。
 ナーディルとベルナールは黙り込んだ。
 高級娼婦というものはその生活に要する費用が桁はずれて高額なため、一人の男だけに囲われているものではないという。その中で特に最も多く金を出している男がその女に対する所有権を主張できるとはいうものの、通常の娼婦と違い、高級娼婦は女の側が客――つまりは男――を選ぶことができるのだ。むろん、そんなことができる女は一握りしかいない。どうせなるなら高級娼婦に……と思っていても、なれない娼婦の方が大多数だろう。だが、がその高級娼婦の知遇を得ていて、手管を教わることもできるようになっているとしたら……。
 私の知る範囲では、パリでアジア系の高級娼婦はいないはずだ。エキゾチックなものを好む男は増えているというし、物珍しさもあるので、成功する可能性も十分あるだろう。
 だが信じられない。
 あの子は享楽的な性格ではない。突飛な行動をとることはあるが、それはこの時代の人間ではないからで、その点を差し引けば彼女はどこにでもいそうな若くて朗らかな娘なのだ。ドレスや宝石などにもさして興味を引かれない、堅実さもあった。
 それが、派手な格好で宝石を身につけ、往来から見えるような席で一服だと? 話を聞いているだけでは同じ人物だとは思えない。誰かよく似た別人と見間違えているのではないだろか。
 だが、この二人がを見間違えるはずはない。
 私はずっとに騙されていたのだろうか。堅実で質素な、しかし一緒に住む醜い男の醜さなど気にしない鷹揚さを持っているふりをしていたのだろうか。
 それとも、複数の男に身を任せるなどという自棄としか思えない行為に走らせるほど、私は彼女を追いつめていたのだろうか……。
 ナーディルが動物をなだめるような、やけに優しい声を出す。
「あの、な、エリック。ロール嬢が一緒だったから声をかけるのは控えたんだが、さんに詳しい話を聞いた訳じゃない。だから客をとっていると決めつけるのは良くないと思うんだ」
「だがロールという女と仲良しになっていたんだろう? そういえば、から返事はきたのか?」
 ナーディルは少し言葉を詰まらせた。
「いや、まだだが……。しかし私が手紙を書いたのは昨日の午前中だ。私は速達にしたが、さんがすぐに手紙を受け取ったかどうかはわからないし、速達で返信するかどうかもわからない。だからまだ返事が届かないのはちっとも不自然なことじゃないさ」
 明るい調子でなんでもないことのようにナーディルは言う。しかし目は泳いでいるので、私がぶち切れないか、戦々恐々としているのだろう。
「いっそ、全部が明らかになった方が清々していいさ」
 私は破滅を間近にして開き直ったような、そんな清々しさで笑い飛ばした。ナーディルは私が強がりを言っているのだと思ったのか、気の毒そうな顔になった。

 その日の夜にはオペラ座で公演があった。
 ド・クレールを見かけたら自分を押さえる自信がなかったものの、憎い敵を気にしないではいられない。開演前には大階段付近から、開演後には私のボックスから、終演後には奴のご贔屓歌手ジェルソミーナの楽屋から奴が現れるのを待って監視していたのだが、あいつは現れなかった。に入れ知恵でもされているのだろうか。
 やり場のない怒りは、再び仕掛け作りをするための熱情に変わる。ド・クレールへの憎しみが、とかく私を駆り立てるのだ。
 夢中になって作業をしていると、瞬く間に時間が過ぎる。
 日が昇ってからは地下へ戻り、新たな仕掛けの設計図を作成していると、耳障りなベルが鳴った。
 もう正午なのかと思ったが、手を休めるのが惜しかったのでキリのいいところまで作業を進めた。ベルが鳴ってどれくらい経ったのか、三十分なのか一時間なのか、時間の感覚がおかしくなっていた私にはわからなくなっていたが――ナーディルは別に正午きっかりに来るわけではないのだ――少しどころではなく待たせてしまったのだろう。しかしナーディルは表で騒いでいる様子もなかった。
 軽く身支度を整えてから玄関を出ると、どうやら対岸にいるのはベルナールだけのようだった。どうりで静かなわけだ。
「ナーディルはどうした?」
 小舟を引き寄せながら、私は尋ねた。
「お嬢様と連絡がついたそうで、会いに行かれました。面会後にこちらに寄ってよろしければ、そうすると。その際はベルを鳴らして到着を知らせるそうです。もし明日にしてほしいのであれば、スクリブ通り側の出入り口近くにDMと書いたメモを風に飛ばないよう石かなにかで固定しておいてくださればそうすると……」
 DM? ああ『明日【demain】』を暗号のようにした文字か。それにしてもナーディルの伝言をベルナールが運んでくるとは、この二人はもしや私を飛び越して二人だけで情報交換をしているのではないか?
 ナーディルがそうしたがるのはまあいい。あいつは私の部下というわけではないからな。しかしベルナールは違う。ベルナールが知り得たことはまず私に報告されてしかるべきだろう。それを怠っているのではないか?
 私の不機嫌な指摘に、ベルナールは飛び上がりそうな勢いで否定してきた。この知らせは確かにナーディルから朝一番にベルナールの自宅へ届けられたものだが、自分が知ったことは私に伝えたものしか教えていないと。
 みじめなほど震えている男の姿に私は哀れみを覚えた。その話はこれきりにして、別の質問をする。
「面会場所はどこだ? それからまだ面会しているのかどうか、わかるか?」
「時間はわかります。十一時に待ち合わせだそうです。ですから昼の、こちらの情報交換会には間に合わないだろうということで。ですが場所は教えてもらえませんでした。先生が乗り込んで来ると困ると……」
 私は舌打ちをした。
「そしてその待ち合わせ場所は、念を入れて私が近づきたがらないような所なのだろうさ」
 公園のど真ん中のような、明るく開けたところとかな。もしかしたらド・クレールの屋敷かもしれない。いきなりの訪問でも忍び込んだものでもない、正式に招かれたのであれば、何も問題はないのだからな。
「先生、今からでも屋敷を探って、お嬢様がどこへ行かれたか探って参りましょうか?」
 ベルナールは情報漏洩の疑惑を払拭しようとしているのか、やけに力を入れて提案する。
 私はしばし逡巡すると時計を確認し、頭を振った。
「すでに十一時からは二時間以上過ぎている。探すにしても遅きに失しただろう。ナーディルは口うるさいお節介焼きで少々辟易しているところだが、お人好しだ。嘘はつくまい」
 私と違って、な。
 ベルナールははあ、と気の抜けた返事をする。
「いいさ、待とう。についてはそれからどうするか考えるさ。それよりもベルナール、ド・クレールのことだが」
 私は昨日考えた、ベルナールを定期会員にする方法を話した。
 うかつなことに、怒りに目がくらんでいた私は昨日の時点でベルナールに話すことを忘れていたのだ。
 ベルナールはすぐにやり方を飲み込んだらしく、相手の目星がついたらすぐに教えてほしいと言った。それについてはうまく行けば今晩のうちに絞り込むことができるだろう。
 それから私はベルナールが今朝までに調べ得たことを尋ねた。しかし一日でわかることなどさしてなかったという。昨日もまた少し屋敷を観察したがを見かけることはなく、そして夜にはアンリ・ド・クレールがロールを連れて某国大使の晩餐会に出席したということだ。まだド・クレールはそういう席にを連れてはいかないらしいことには安堵したが……。もし一度でもそんなことをしようものなら、は高級娼婦として正式に売りに出されたも同じだからだ。それともあれか。は社交界というものには縁がなかったから、一通り教育してからデビューさせようとしているのか。
 考えれば考えるほどむかむかしてしまい、私はいっそのこと地下貯蔵庫にこっそり蓄えている火薬をド・クレールの屋敷に仕掛けて全てを破壊してしまおうかとも思った。が本当は魔性の女であったとしても、その名が世間に広まる前なら、まだその名誉を守ってやれる。この方法が彼女にとっては不本意であろうとも、それはお互いさまだろう。私だってお前と別れるのは不本意だったのだからな。
 私と彼女と、あいつとその場のもの全てが粉々になる様を思い描いていると、暗闇にベルが鳴り響いた。
「……ナーディルか」
 ごく偶にしか使われることのなかったベルがこうも頻繁に鳴って良いものだろうかという当然の疑問を浮かべながらも待っていると、ややあってナーディルが姿を現した。
「やあ、ベルナール、君もまだいたのか。すまないエリック、遅くなった」
 ナーディルは早口で挨拶をすると、ランプを足下に置き、息を整えた。
「私の伝言を聞いたか? さんと話してきたよ」
「聞いた。それで?」
 短い返事で私は先を促した。余計な言葉を費やして時間を浪費するつもりはない。
「まず君と彼女が仲直りできるかについては、ちょっと難しいように思った。無理だとは言わないが、時間はかかりそうだとね」
 私は無言で眉を寄せた。
「家出したことを相当気にしていたからね。君に悪いことをしたって」
「悪いと思っているのなら、さっさと戻ってくればいいじゃないか」
 憮然として私は答える。ナーディルは顔をしかめた。
「それでは何も解決しないよ。一応、誤解は解けたとは思うが、だからと言って君が彼女を監禁状態にしたことには違いあるまい。それとも、君はまた彼女を自由に外へ出せるのか?」
 ぎりっと唇をかんだ。自由にさせた代償がほかの男の元へ走らせることならば、そんな自由を与えるつもりなどはない。
 ナーディルはしばし私を見つめていたが、ふうと息を吐くと、疲れたような表情になった。
「君にとっての朗報もあるよ。さんはアンリ・ド・クレールの愛人になったわけじゃないってことだ。正直、イブリーの方に走られるよりはましな状況だと思うぞ。まあ、これはこれでおかしなことにはなっていると思うが……」
 愛人ではない? それに、おかしな状況だと?
「話せばずいぶん長くなるんだ。あのな……」




いつもよりちょっと短いですが視点を変更した方がわかりやすいと思うのでここで切ります。

補足:カレーシュは折りたたみ幌付きの二人乗り馬車のことです。天気が良ければ幌を下ろしているので、乗っている人が丸見え状態になります。




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