待ち合わせは十一時にモンソー公園入り口の元市門前で。
 さんからの指定通りの場所に、約束の時間より少し早く到着した。丸屋根の被さった円筒系の建物の前は、行き交う人々でずいぶんとにぎわっている。
  さんが来たらすぐに気付けるように、公園を背に立つ。目の前を横切るクールセル大通りはひっきりなしに馬車が通り過ぎていった。
 彼女からの返事が届いたのは、昨日の情報交換会の間だった。帰る前に昼食を食べるためにカフェに寄ったので、封を開けられたのはもう午後も遅い頃だったが。
 私の気持ちを正直に言えば、返信はこないのではないかと思っていたのだ。第三者からの伝聞ではなく、この私自身の目で彼女の変貌を目の当たりにしてしまっていたから。
 エリックとのことは、もう終わったのだと彼女自身は見なしたのだろうと。ならば、仲を取り持とうとしている私の行為はお節介以外のなにものでもなく、彼女にとってはわずらわしいだけのものだろうと。
 しかしさんの手紙は実に丁寧なもので、感謝の言葉を添えると共に、苦労をねぎらうものだった。エリックが荒れ狂っており、それを私とベルナールでなんとか宥めていることは伏せていたのだが、さすがにそれくらいのことは想像がついたようだ。
 だが肝心の家出をした理由や現状がどうなっているのかについては全く書き記されていなかった。手紙で書くには長すぎるし、直接会うのだからその時に話すと、手紙にはあった。
 さんがどんなことを語ってくれるのか、まるで想像もつかない。だけど一時期はあんなにエリックと仲睦まじくしていたのだ。できれば仲直りをしてもらいたいとは思っている。しかしエリックが同情の余地もないほどさんにひどいことをしていたのだとしたら、人間としてさんを逃がす方向に動かないといけないだろう。まったく、難しいところだ。
 そんなことを考えながら、馬車が車輪の音高く通り過ぎていくのを眺めるともなく眺めていると、通行人に見知った顔が混じっていることに気がついた。
 クリーム色に近い淡い色のドレスには、フリルもレースもたっぷりで、袖口や腰の切り替えし部分にあるピンクのリボンが映えている。真っ白の絹のパラソルの下にはヴェールのついた小さなヘッドドレスが形よく配置されていた。記憶にあるより肌が白く感じるのは、化粧をしているせいだろうか。
 さんだった。彼女も私に気がついたようで、まっすぐにこちらへ向かってくる。
「お久しぶりです」
 こんな形で会うのに、いったいどんな言葉をかけたらよいのだろうか。とりあえず無難なあいさつをすると、さんも黙礼をするように目を伏せ、
「ええ、カーンさん」
 と言った。
「てっきり馬車で来るのだと思っていました」
 さんは寂しげに微笑む。
「わたしがお世話になっているお屋敷は、ここからそう遠くありませんから、歩いてこられます」
「それでもこの辺りの住人なら公園の入り口まで馬車を出すものです。だから、そうじゃないかと」
「そうですね。でも、わたしは元々ここの住人ではありませんし、ずっといるつもりもありませんから、贅沢な癖はつけないようにしないと」
 いつものさんの歯切れのよい口調。しかし語気に明るさは少なかった。
「座れるところまで移動しませんか」
 なんとなく気まずくなり、その場しのぎで話の矛先を変える。さんが頷いたので、私が先導するような形で歩きだした。
 公園内の広い散歩道を道なりに歩く。少しすると子供の歓声が大きくなった。美しく刈り込まれた緑の芝生で少年たちが駆け回っている。女の子もいるが、こちらはすぐ傍で子守が見張っているせいか、あまり騒ぐ子はいないようだった。
 どちらにせよ言えることは、子供たちも彼らの子守や乳母たちも、良い身なりをしているということだった。さすがは高級住宅街が近いだけのことはある。
 芝生の近くにはベンチが並んでいた。しかしここでは賑やかな上に人目もあるのでもっと静かなところがいいかとさんに尋ねる。するとさんは賑やかなところの方が話し声が紛れるのでここでいいと言った。
 少し空間をあけてベンチに腰掛ける。
 さて、何から聞いたものか……。知りたいことはたくさんあるが、下手な尋ね方をして途中で話を切り上げられるのは困る。迷っていると、さんが静かな声で切り出してきた。
「エリックは、わたしが今どこにいるのか、知っていますか」
 パラソルの陰になっているからだけではない暗さが、その面にはあった。
「ええ、知っています」
「そう、ですか。そうですよね」
 さんは目を閉じた。膝の上に乗っている手が震えている。
 おそらく知られたくないのだろうが、さして広くないパリでは隠しきれるものではない。彼女も覚悟はしていたのだろう、小さく息をもらすと唇をかみしめ、決然と顔をあげた。
 私は出来る限り優しく聞こえるように話す。
「エリックはあなたに帰ってきてもらいたいと思っています。あなたを変わらず愛しているし、あなたが家出をしたことでショックを受けています」
 さんは黙って聞いていた。
「でも誤解しないでもらいたい。私はあなたに無理強いをしようとしているわけではないんです。エリックとの間に何があったのか、私は知らない。エリックの言い分は聞いたけれど、さんの分はまだですからね。そしてあなたが今お幸せなら、そのままでいいんです。エリックは気の毒なことになるけど、男女のいざこざは、はっきりいってしまえばよくあることですからね。揺るがないでいられる例の方が少ないくらいでしょう」
 エリックが聞いたら余計なことを言うなと言われそうだが、さんに安心してもらわなければ聞ける話も聞けなくなるかもしれない。本心としては彼女にはエリックの元へ戻ってもらいたいと思う気持ちの方が勝っているのだが、それはまだ告げないことにした。
 さんは戸惑ったように目を瞬かせると、ドレスの胸元に手を当てる。
「これは……違います。全部借りたものやお下がりなんです。わたしのために誂えたものはないんです」
 言い訳じみた――というより言い訳なのだろう――物言いに、今度は私が戸惑った。
「そりゃあ、新しいドレスを用意するには時間がかかりますからね」
 さんは眉尻を下げる。なんだか泣きそうだった。
「そういうことではなくて……。あの、カーンさん、どこまでわたし……たちのことをご存じなんですか? わたしがお世話になっている屋敷に手紙が出せたんですから、住所はわかるんですよね。その、持ち主のことも……」
 何をどれくらい知っているのか、不安になっているようだ。ならばこちらから少しカードを見せてみよう。
「私が知っていることはそう多くありません。あなたが家出をした日かその次の日あたりに、アンリ・ド・クレール氏やその友人たちとレストランに行ったことと、高級娼婦として有名なロール嬢とカフェで休んでいたということくらいです。ちなみにレストランへ行ったところはベルナールが目撃してます。カフェは私が。あなたの居場所については、失礼ながら調査をさせていただきました。といっても、ロール嬢もアンリ・ド・クレール氏とつながりのある方なので、難しいことはなかったのですが」
「ああ、もう!」
 さんは顔を覆った。バランスを崩してパラソルが傾き、顔に日光が当たる。
 白粉でもつけているのかと思っていたその肌には、なにもついていなかった。青白い血管がうっすらと透けて見える。フランス人より肌の色が濃い彼女は以前にはそういうことはなかったように思うのだが……。エリックがさんを監禁状態にしていただろうことはほぼ確実だと思っていたが、その期間は私が思っているよりも長かったのかもしれない。外へ出て数日経っているはずなのに、まだ回復しきっていないのだから。
 さんは苦しげに顔を歪める。
「どちらもオペラ座からそう離れていない所だもの、知り合いに見られるかもしれないとは思っていたけれど、こんなに早いうちに数少ない知人のうちの二人に目撃されていただなんて。だけどそれをご存じでしたら、だいたいのことはもうおわかりになっているのだと思いますけど、他に何をお知りになりたいんです?」
「とんでもない。わからないことだらけですよ」
 私は大仰に驚いて見せた。実際に、よくわからないことばかりなのだから。
 さんは小首を傾げる。
「それなら……お知りになりたいことを質問してください。その方が私が家出してからのことを全部話すより早いと思うんです」
 私としては家出するに至った経緯を含めて聞きたいところだが、最初にそこを突いてもいいものだろうか。逡巡した末、後回しにすることにした。楽しい記憶ではないだろうから、まずは答え易そうなことから聞こう。
「ではまずアンリ・ド・クレール氏と出会った経緯を教えてください。どこで接点を持ったのか、そこからしてよくわからないんです」
 さんは一瞬きょとんとした表情を浮かべると、くすりと笑った。
 そして彼女はどこで出会い、どういう経緯で彼の別宅に連れて行かれたのかを話してくれた。
 それはエリックが知ったら愕然とするであろう内容だった。まさかオペラ座の隣の建物にいただなんてな。それに、ド・クレールとは以前からの知り合いでもなんでもなかっただなんて。そりゃあ、接点が想像つくはずもない。最初からなかったんだから。
 しかしやはり、あの別宅にはロール嬢も住んでいるのか。そして私が目撃した女工娘もド・クレールの愛人の一人だったか。しかしロール嬢とはち合わせたのが運の尽き、というところか。追い出されてしまったのだという。ロール嬢は、自分がいる間は他の女は住まわせないようにしているのだそうだ。特に気に入らない相手には容赦はしないらしい。
 さんは彼女をこう評する。
「ロールさんと接していると、混乱してしまいます。すごく冷たい時と優しい時の落差が激しくて。あの人、笑顔で人の顔を踏みつけるようことを平気でするんです。でも優しい時は本当に優しいわ。甲斐甲斐しいというか……」
「あなたは気に入られたようですね」
「気に入られたというよりも、他の女よりましだと思われているだけじゃないかと思います。一目で外国人、それもアジア系だとわかりますから。そもそもわたしがこんな格好をしているのも、半分以上はド・クレールさんへの嫌がらせであって、わたしが着たきり雀でいるのを気の毒に思ったからじゃないと思いますし……」
「嫌がらせ?」
 そこで嫌がらせなどという単語が出てくることに奇妙さを覚えた。さんは苦笑する。
「すごくややこしいんですけど、アンリ・ド・クレール氏は不幸な目に遭って、できれば破滅したいんだそうです。そしてロールさんは大散財することでそれに協力してるんだそうです。破産は立派な不幸なことですから」
「……奇特な人ですな」
 としか返しようがない。暇を持て余した貴族が、不幸を人生に対するスパイスのようなものだと思っているということだろうか。だとしたら、なんと傲岸不遜な若者だろう。
「おかしな人でしょう。初めは耳を疑いました。不幸になりたいなんて軽々しく言うなんて、正直不愉快になりましたもの」
 さんは軽く顔をしかめる。それから苦いものでも噛んだような表情になった。
「でも、どうやら本気らしいです。わたしも詳しく聞くまではなにを馬鹿なことを言うんだろうと思っていたんですけど、あの人、これまで不幸らしい不幸、運が悪いというような事態に遭ったことがないんですって。それで『いつ自分の運が尽きるか』ゲームをやっていて、より刺激的に不幸を呼び込みそうなことに片っ端から手を出しているの」
「不幸ゲーム、ということですか?」
「ええそう。ふざけているでしょう? わたしを拾ったのだってそう。面倒くさそうなことに関わっていそうだって、ピンときたんですって」
「……ある意味、彼の目的が果たされるかもしれないという瀬戸際にきていると思うんですが。ド・クレール氏は気づいているか知りませんが」
「……やっぱり、そう思います?」
 言葉を濁すも、さんも私が言いたいことを察したようで、複雑な表情を浮かべた。
 エリックがド・クレールに対して怒り心頭に発していることは疑いようがないのだ。冷静なふりをしていても、私は誤魔化されない。あいつが地下でおとなしくしているわけがないんだ。最低でもベルナールに何かしら命じて、私には教えてくれない類の情報収集をしていたり、対ド・クレール用の仕掛けを作っているだろう。それにエリックは鍵のかかった屋敷や部屋にも、どのようにしてかするりと入り込むから、オペラ座から離れていれば絶対安心だともいえない。せいぜい、オペラ座にいるよりは安全、というくらいだろう。
 しかしド・クレールが不幸を待ち望んでいるとしても、エリックに手を貸させるわけにはいかない。さんだって、望まないだろう。
「エリックが本気を出したら、私にも何をしでかすか想像がつきません。だけどオペラ座に近づかなければエリックも簡単には手出しできない……はずです」
 断言できないのが歯がゆい。私はハンカチを取り出し、額に浮かんだ汗を拭った。
さん、ド・クレール氏にしばらくはオペラ座での観劇は控えるよう、忠告してもらえませんか?」
「それはすでにやってます。でも本気にとってもらえないの。逆に興味を持ったみたいで」
 さんは困り顔になった。
「そうだ、確認しておかないと。あなたはド・クレール氏に、といいますか、家出をして以降出会った人全てに、エリックのことを話しましたか?」
「嫉妬深い婚約者に監禁状態にされていたことは言いました。この血色の悪さは隠せるものでもないですからね。これでも、だいぶましになったんですけど……。でも他には名前も教えていません」
 さんは頬を押さえながら説明する。
 今なら、いいだろうか。私は咳払いをすると、改めてさんに向き合う。
「お答えしにくいこととは思いますが、聞かせてください。エリックは家出を決意させるほどのどんなことを、あなたにしたんですか?」
 さんはぼんやりした目で私を見つめると視線をそらした。その先には、緑の芝生とそこでくつろぐ人々の姿がある。
 かき消えそうな小さな声で、さんは語る。
「エリックはわたしに暴力をふるったことはなかったし、お酒を飲んで暴れることも、賭事をして家中のお金を持っていくことも、浮気をして何日も帰らない、なんてこともしませんでした。わたしがいけなかったんです。わたしは、ただちょっとした自由がほしかっただけで……。でもそれは思い上がりだとわかりました。ここではわたしが主張できる権利は、何一つないんです。優しい支配者にすがるか、泥水をすする覚悟で自分一人でやっていくか。後者に関しては、それしか道がないのならやってやる、と思ってましたけど、いざとなるとやっぱり怖じ気付いてしまって……。自分の甘さがほとほと嫌になってしまいます」
 それからまた私に視線を向けた。
「だからといって、エリックの気持ちを踏みにじった以上、戻ることはできません」
「ああ、いや、今は立場がどうとかいう話は置いておいてですね」
 私は手を振って彼女の意識を引き寄せた。どうやら家出中に今度のことは自分が悪い、という結論を引き出してしまったようだが、自分だけで完結してしまって、周りが見えていないように感じたのだ。
 まあ、彼女の様子からすると懸念していた暴力というのはなかったようだから、やはり原因は監禁のみということでよさそうだ。しかしおそらく彼女は世間一般の男と比較してエリックの良いところを挙げようとしたのだとは思うが、それは比べる意味はないだろう。泥酔している最中にどんな目に遭わされるかわかったものじゃないから酒はほどほどにしているだけだし、賭事をする場というのも、やはり大勢の人間がいるから彼は近づきたがらない。浮気に至っては、やれたらその方が驚きというものだ。
「つまり、家出の原因は監禁状態にされたから、という解釈でいいのですか?」
 確認をすると、さんは戸惑ったように瞳を揺らしたが、無言で頷いた。
「今までのような自由、つまり好きなときに散歩に出かけられるというものですが、そういうものをまた保証されたら、戻ってもいいと思いますか?」
「……戻っても、気まずくなって元通りに振る舞えないと思います」
 小さな声で彼女は答える。
「エリックの気持ちがどうとかは考えないで、さん自身の気持ちとして、戻りたいですか、二度と戻りたくないですか?」
 肝心なのはそこだ。なんだかんだ言っても帰りたいと思っているのならまだなんとかなる。
 さんはさんざん迷った末に頷いた。しかし苦しそうに顔を歪める。
「虫のいい願いだって、わかってるんです。こんなことになるまでは結局あの人のところが一番居心地が良かったから。でも今ではどうしてあそこにいられたのか、わからない。わたしのどこにそんな強さがあったのかしら」
さん、いいですか。あまり思い詰めないことです。そしてもう少し、私を信じて、頼ってほしいんです。私はエリックの友人だから彼の肩を持っていると思われているのかもしれませんが、彼があなたの自由を奪ったのは犯罪行為に等しいことです。あなたに迷惑さえかからないのであれば警察に通報していたところですよ」
「そんなこと、カーンさんはしませんよ」
 さんは小さな笑みを浮かべる。私は二の句を継げなくなった。口ばかり男だと思われているようだ。
 だが、
「カーンさんはエリックを売ったりしません」
 静かな口調で断言されて、顔に血が上ったのが感じられた。まさかここでこんな風に信頼されていることを示されるとは。嬉しいやら気恥ずかしいやらで、動揺が激しい。
 私はそれを誤魔化すために咳払いをした。
「つき合いだけはそれなりに長いですからね。しかしだからといって、あなたを蔑ろにしているわけじゃない。第一、今回の騒ぎの原因は、私が彼にイブリーのことを話したからではないかと、そう思っているんですが」
「え?」
 さんはきょとんとする。
 ああ、そうだ。こうして色々駆けずり回っているのも、元を正せばそのことを気にしているからだ。すれ違いが原因だが――私はイブリーのことを話していると思い込み、エリックはド・クレールのことを話していると思い込んでいたことだ――それは言い訳だろう。私さえあんな話をしなかったら、こんな風にはならなかったのではないだろうか。
 さんに辛い思いをさせ、幸運らしい幸運、運が良いという目に遭うことが普通の人間よりも少なかったであろうエリックから幸福を奪うことになってしまったことに対する罪悪感が私にはあるのだ……。
 彼女は小さく頭を振った。
「きっかけはそうだったかもしれませんが、カーンさんが言わなくても、何かの拍子で知られる可能性はあったわけですから、あまり気にしないでください。それよりもわたし、イブリー氏のことなんてすっかり忘れていたわ。あの人、どうしているんですか?」
 私が慰められてどうするのだという思いもあったが、忘れていたということをわざわざ蒸し返す必要もあるまい。忘れたというのがふりだとしても、それはつまり突くなということなのだろうから、取るべき態度は同じだ。
「あなたが外へ出なくなってしばらくはしつこく付きまとわれましたが、さすがに完全に避けられていることに気付いて諦めつつあるようです。まだ未練があるようなことは言っていますが、そのうち自然に消滅するでしょう。ただ私は彼にすっかり友人だと思われて、顔を合わせればなにかと話しかけられるのが困りものですが……。彼の話は長いんですよ。私と彼とは行動範囲が被っているところが多いようなんで、どうしたものかと」
 世間話をするような気楽そうな調子で私は言った。
「そうですか。じゃあ、もう心配しなくてもいいんですね」
「ええ」
 私は頷いた。
 イブリーは自分が顔を出せるもっとも上等なサロン――といってもランクで言えば中の上くらいだろうか――で張り合っている男がいることや、その男が日本に仕事で立ち寄った際に世話をしてくれた娘がどれだけ細やかな気性の持ち主だったかをイブリーに自慢したこと、それで対抗心を煽られたイブリーが、たまたま目についたさんに接近しようとしたことなどは、言う必要がない。商売で成功していて金には不自由していないのに、非常にしみったれて、さんのことも、正式に囲っている男から――さんは妾なのだと彼は思いこんでいたのだ――奪うでもなく譲り受けるでもなく、こっそり近づいてわずかな小遣いを与えるだけでお楽しみを頂戴しようとしていたのだから。彼女と付き合うために前の女と別れたと言っていたが、ベルナールの調査により、それは嘘だということが判明している。本当は、イブリーのけちぶりに女の方が愛想を尽かしたのだ。しかしやはり、こういうことも言う必要はないだろう。
 だがイブリーの問題がなし崩し的解決をしたとしても、ド・クレール問題はまだ決着がついていない。
 さんはエリックのことを嫌うところまではいっていないようだが、戻りたくてたまらない、というわけでもなさそうだ。戻りたい理由もエリックへの愛情からというよりも、環境が激変したことへの疲れからではないかと感じられた。そして彼女の懸念――気まずさから元のようには戻れないこと――は、私にも想像がつく。それはエリックも同じだろうと。
 さんが一度でもド・クレールのものになっていたとしたら、心中穏やかではいられないだろう。だがド・クレールのものになったのか、なんて聞けるものじゃない。
 さんは沈黙する形になってしまった私を窺うように、首を傾けた。それからしゃんと背筋を伸ばして前を向く。
「わたし、日本公使館に手紙を書いたんです。日本で仕事をしたいって」
 横顔からは決意が読みとれた。
「ド・クレールさんに付き添ってもらって訪ねた時には公使には会えませんでしたから。忙しい方のようですし、わたしの用件は必ず会って話さないといけないようなことでもありません。可能か不可能か、可能であるならどういった手続きが必要かを教えていただければいいんですもの。そして手続きをするにしても、公使でなければ受け付けれないというものでなければ、問題はないでしょう」
「あなたはエリックからだけでなく、パリからも逃げるつもりなんですか」
 それでは彼は弁明も謝罪もできなくなるではないか。エリックが自分のした行為にそれらが必要だと思っているかはわからないが。
 私の声に非難が混じったのを聞きとがめ、さんは顔を伏せた。
「会わせる顔がないんですもの。パリにいたままだと、いつあの人に会うかわからない。そうでなくても、わたしがお世話になった人が、エリックに狙われるかもしれないのに」
「渡日費用などはどうするんです? それもド・クレール氏が出すのですか?」
「最終的にはそういう形になってしまうでしょうね。ロールさんが嫌がらせのためにわたしにドレスをくれた、というのは言いましたけど、それが関係しているんです。わたし、ロールさんのコンパニュという形で彼女に雇われているんですよ」
「コンパニュですって!?」
 何をどうすればそんなことになるのか。意外すぎて思わず声が大きくなった。
 コンパニュといったら、上流婦人のちょっとした身の回りの世話や話し相手として雇われる女性のことだ。ただしメイドではない。コンパニュは階級としては上位中産階級以上に属しているのだ。父親や夫が亡くなるなどして生活に困った女性が、親類や身内の伝手をたどって他家に客分のような形で世話になるのである。彼女たちのような出自の女性は生活に困窮しても、労働者階級の女たちのように外へ出て働くことは許されない。ただし数少ない例外があり、その中の一つにコンパニュがある。話し相手という仕事は、報酬に対する大義名分のようなものだ。
 私の驚きにさんは顔を赤らめる。
「本当はロールさんは侍女がほしかったのだそうですけど、わたし、侍女としてはまるで役に立たなくて……。あの人が着ているようなドレスの手入れの仕方も知らないし、飾りを付け足すこともできません。帽子を作ったり、髪を結ったりも。なので仕方ないからコンパニュにするって」
「侍女とコンパニュならコンパニュの方が格上ですよ。何もできないから下働きに、というならわかりますが、どうしてコンパニュなんです?」
 たしか彼女はフランスに来る前は故郷でフランス人商人の家で使用人をしていたと聞いているが。侍女ならば高級品の扱いにも精通していなければならないので、その経験がなければ侍女を務めるのは無理にしてもだ。
 さんは眉尻を下げ、情けなさそうな顔になった。
「だから、それがド・クレールさんへの嫌がらせになるんです。これはド・クレールさんが言っていたんですけど、ロールさんは自分のために破産した男性はそれだけ彼女のことを愛していたのだと考えているんですって。でもド・クレールさんは全然そんな気配がないから意地になっているのだそうです。つき合いが長いからその間に何度かド・クレールさんも経済的に厳しい時もあったけど、そういう時には必ず色々な形でお金が入ってくるから、ロールさんもトドメがさせないでいるのだそうなの」
 すごい話だ。半ば呆れつつ、私はそう思った。
「色々な形で、とは?」
「だから色々です。競馬で万馬券が当たったとか、株とか投資が大当たりしたとか、出資していた鉱山からダイヤモンドが出たとか」
 そういえば、賭で何度か大当たりをとっていたという話は聞いていた。しかし他にもあるのか。男なら一度ならず憧れる夢だろうが、一度ではなく何度も起きているとなると、確かにただ事ではない。
「あの人は長男じゃないからあまり多くはないけど地所を持ってて、あんまり派手に散財する愛人がいないときはそれだけで十分やっていけるのだそうよ。それに、お金に困っていないときには賭事でもなんでも、失敗することはあるそうなの。奇跡的な運の良さはあくまでも、ここでこういうことが起きないと破滅するという時にだけ発揮されるみたい。その問題がお金のことであっても、それ以外のことでもね」
「その危機的状況に陥ったときに何もしなければ、お望み通り破滅するんじゃないかな」
 ごく一般的であろう感想を述べると、 さんはげんなりとした顔になった。
「そういう、消極的な姿勢は嫌いなんですって。せっかく運が悪くなりかけているのにそれに対抗しないでいるなんて、つまらないからって」
「ああ、そう……」
 ふう、とため息をつくと、さんもがっかりと項垂れた。
「それで、今度はロールさんの言い分なんだけど、わたしをメイドとして雇わないのは、ただのメイドだとド・クレールさんの使用人になってしまうからなのだそうよ。侍女は仕える女主人に属するから、給料はド・クレールさんが払うにしても、それ以外のことは口出しできないものらしいの。侍女には女主人の着たドレスや小物をもらえるという役得があるんです。それを仕立て直して着るのもよし、売り払うもよしで。愛人候補としてのわたしは買い物禁止令がでているからリボンひとつ買えないけど、侍女として雇ってしまえば、愛人候補でもなくなるし、ロールさんが飽きたという名目でどんどん着てもいないドレスをわたしに渡せるというわけ。でもわたしは侍女をやるにはあまりにも無能だから、コンパニュにしたというわけなの」
 さんは後ろめたそうにスカートをいじる。
「つまり一人ではド・クレールさんを破産させるのが難しいから、わたしに相棒になれということなんです。でもそのことを報告したときのド・クレールさんの反応もどうかと思うんですけどね。さすがに驚いたようだったけど、すぐに面白がって。そうきたか、まあお手並み拝見するよとかいいながら、契約書に自分もサインしたのよ!?」
 ロール嬢がド・クレールと結婚しているならコンパニュとしての雇用契約はあくまでもロール嬢とさんの間の問題なのだが、そこにド・クレールがサインしたということは、コンパニュとしてのさんにかかった費用は自分が持つということを宣言したに等しい。愛人とどんな約束をしようと、それが口頭だけのことならば、いざというときに知らぬ振りもできるというのに。
「それで、わたしは正式にロールさんのコンパニュになったんです。渡日費用も、そのお給料から出せると思います。とりあえずコンパニュなら自分に釣り合うような格好をしてもらわないと困ると、ロールさんに仕立て屋を呼ばれました。新しいドレスができるまでは、有り合わせのものでやることになったので、こんな格好をしているんですけど」
 言いながら、さんはスカートをつまみ上げる。
「これ、以前ド・クレールさんと付き合っていた人が残していったものなんです。ド・クレールさんと別れた後だと部屋に残したものをそれを買った本人が処分できなくなるじゃないですか。本人が処分していないものは、家政婦でも勝手に売り払ったりしてはいけないことになっているんです。これもド・クレールさんの財産ですし、ロールさんみたいに戻ってくる人もいますから。新しく部屋の主になった人が邪魔だから捨てたり売ったりするまではそのままなのだそうです。ド・クレールさんの屋敷にはそういう恋人用の部屋がいくつかあって、どこもそういった過去の遺物でいっぱいなの。ロールさんたら、自分の部屋以外の部屋をみんなひっかき回して、わたしのサイズに合いそうなコルセットやドレスや装飾品を探し回ったのよ。おかげで部屋中ぐちゃぐちゃになったわ。なのに、どこまで探したかわからなくなるから、終わるまで片づけるなって、家政婦に命じたものだから、掃除ができなくて困るって、カロリーヌに文句を言われてしまったわ。あ、カロリーヌはお掃除を主に担当しているメイドなんですど、コンパニュにも身の回りの世話をする人が必要だからって、つけられた人なの」
 話だけ聞いていると、なかなか楽しそうなのだが、渦中にいてはそうでもないのだろう。
 しかし妙な経緯からとはいえ、仕事までするようになったのでは、エリックのところへ戻ってくれる可能性は低いと考えざるをえない。日本に帰られたら、私も追いかけるのは無理だ。
 それからまた少し話をしたが、色良い返事を得ることはできなかった。この会談もロール嬢が起床して身支度を整えるまでには戻ってくるという条件で許可をされたのだということで、さんは帰らなければならなくなったからだ。
 最後に時間が合えばまた会ってくれるという約束だけは引き出せたが、これ以上は私が何を言っても彼女の心は動くまい。
 あとはエリックの出方次第だろう。彼を一緒に連れていくことは伏せて、あまり人のいない場所になんとかさんを呼び出して話し合いをでもさせてみようか。このまま放っておいて何とかなるとはとても思えない。
 ああ、解決までまだまだかかりそうだ。だが少しずつでも前進するようにしないと。
 私はエリックにこの話を教えるべく、ベンチを立った。




かなり詰め込んでしまいましたが、つまり彼女側はこうなっていたよという話です。
彼女視点で書いたら二話分くらいになりそうだったので、会話形式にしました。
でも長い。そしてエリックの出番がない。

二人が待ち合わせしていた円筒形の建物は、パリに出入りするための門だったところの跡地です。その昔、パリは塀でぐるりと囲まれていたのだそうで。関税の徴収もされていたんだそうな。
現在も残っていて、事務所兼トイレになっているようです。この時代にどのような使われ方をしていたのかはわからないのですが、すでにトイレだったらちょっとヤだな(笑)

コンパニュはconpagnon【コンパニョン】の女性形compagneのことです。想像つくと思いますが、英語で言うところのcompanionと同じです。イベント会場などでにっこり笑いながら立っている綺麗なお姉さんのことではありません…。

家政婦というのは当時の女性使用人の統括的な立場の人です。女性使用人としては一番偉かったのです。



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