ナーディルの話をどうにかして平静を保って聞いていたものの、我が胸の内は逆巻く嵐で千々に乱れていた。
が日本へ行こうとしていることについてはまだ穏やかでいられた。予想の範囲内であるし、彼女が日本人であると――見た目はともかく法的に――確定することができない以上旅券を発行することができないとわかっているからだ。公使が実直な人間であり、たとえ賄賂など渡さずともそうなっていたとしても、安心感を買えたという意味では悪い投資ではなかった。
だが、彼女の現状は……。
高級娼婦のコンパニュだと?
それもその女にとっての最大のパトロンを破産させるための策略であるというのだから聞いて呆れる。
だがアンリ・ド・クレールはそれ以上だ。このことを知っていて許容しているというのだから。
「お前は私をかつごうとしているのか、ナーディル」
三文芝居以下の荒唐無稽さだ。聞き終わった私がそう尋ねたとしても無理はあるまい。
するとナーディルは不快そうに顔をしかめた。
「嘘をつくならもっとましな嘘をつくさ。だが事実だ。少なくとも、さんが話していたことを私は伝えた。君が彼女を女優に仕立てていないなら、さんも嘘はついていないだろう。そんな風な素振りは全くなかったからね」
私は目を伏せて彼にわびた。
「失礼。さすがに信じがたい内容だったのでね」
ナーディルは気を取り直して鷹揚に頷いた。
「許すよ。私だって他の人間から聞いていたらやはり信じられなかっただろうしな」
一触即発の雰囲気があっさり消えたせいだろう、ベルナールが暗がりの中でそっと緊張を解いたのが感じられた。
「職についた……か」
私はぼんやりと呟いた。
最近でこそなくなったが、彼女は仕事をしたいと何度か話していたことがある。彼女の生きていた時代ではそれが当たり前だったからだということだ。
怪しげなものとはいえ、仕事は仕事だ。自活の道を得たということで、ますます私の元へ帰ってくる可能性は少なくなったのではないだろうか。
私の呟きをどう受け取ったのか、ナーディルが慰める調子で話しかけてくる。
「拾われた経緯や仕事内容はともかく、さんの境遇を考えれば今の状況は信じられないくらい良いものだと思うよ。身寄りのいない女性が異国で一人で生きようとするだけでも大変だ。あっと言う間に転落して、貧民街で赤ん坊を産む羽目になったっておかしくない」
嫌なことを想像させるなと睨みつけるが、ナーディルは悲しげな顔になるだけだった。
「そうじゃないか? でも、そうはなっていない。少なくとも彼女は生活には困っていないよ」
「私はお前のように良い側面ばかりを見る気にはなれん。コンパニュとはいえ相手は高級娼婦だ。一緒にいるだけでは同類に見られるだろう。その女がすべてにおいてを守ってくれるとでも? 意地のために愛人を破産させようとする女だ、に目をつけた男がでてきたら、仲介料を取って貸しだしかねん。それに……」
「それに?」
途中でやめたのでナーディルが促してきた。
だが私はなんでもないとだけ言って口をつぐんだ。なんなんだ、とナーディルは気の抜けた顔になったが、言えるものか。
娼婦の中には自分を買っていく男への嫌悪感から同性に走ることもあるという。危険なのはド・クレールだけではないのでは、などと……。我ながら、虫酸が走るものを思い浮かべてしまったものだ。
私はその薄気味悪い考えを無理矢理頭の隅に追いやり、話を別の方向へ反らした。
「ところで、次にと会う約束ができたら、私もその場に立ち会わせてもらえるのだろうね」
ナーディルには苛々させられることも多いが、今のところは私とを仲直りさせようという方向で動いている。これを利用しない手はない。
「その約束がいつになるかはわからないが、できる限りそうなるように取りはかろう。こっちに連絡があってから約束の時間までに君に連絡がつければいいんだがね。それだけが問題さ。君がずっと家で大人しくしていてくれるなら、そんな心配もないんだけどね」
ナーディルは試すような目で私を見つめる。
と会う約束がついたという連絡をするために、すでに普通の家の玄関ベルと化したあれを使うということか。たしかに、いつその約束が取り付けられるかわからない以上はそのことを認めなければならない。
そして、そのいつ取り付けられるかわからない約束がされるのを待って、私に地下で無為に時を過ごしていろというのだ。
私は頑固な昔馴染みに改めて問うた。
「普通、恋人に家出されたらその相手を捜しにいったりするとか、何かしら行動を起こすものではないのか。なのにお前は何もするなと言っていることに等しいことを私に要求している。私は世の多くの男と同じように恋人を自分の手で取り戻したいだけだ。なぜその邪魔をするんだ」
「その取り戻す手段が、君の場合は穏やかになりそうにないからだよ。さんと会って確信したけれど、彼女は少々君のことを怖がっているようだ。安心を与えてあげないといけないよ」
そうして彼女を安心させている間に他の男の毒牙にかかってしまったらどう責任を取るつもりだ。の話を信じるのなら、今はまだかろうじて清い身でいるのだろう。しかしこの先のことまで保証されているわけではない。いつ何時襲われてもおかしくないような状況ではないか。
ああ、。私があのド・クレール邸に忍び込んだ日にお前を連れ帰っていたら……。
ナーディルに告げたら協力を打ち切られると思うので黙っているつもりだが、彼の話からすると、あの時は屋敷内にいた可能性が高いと思えたのだ。
私が雑多な品々に溢れていた女の部屋すべてに誰かが住んでいるのだと思ったのは、散らかっていたからだ。使用人のいる屋敷なら、使っていない部屋をごちゃごちゃのままにしておくことはないだろう。ロールがのサイズに合うドレスやらを探してそのままにさせたからああだったのだ。それに彼女は結構な綺麗好きで、あんなに部屋を散らかしたまま出かけたり眠ったりはしないと思いこんでいたからだ。
しかし――。
改めて、落ち着いて考えてみよう。
ド・クレールの屋敷からはクーペが消えていた。そしてド・クレールの部屋は寝室まで入ってみたが誰もいなかった。
ということはド・クレールが出かけたのは確実と言って良い。それから女の部屋で最も広い部屋はロールが使っているということだが、ここと隣の部屋は衣裳部屋まで観察したのだ。しかしその二部屋にも誰もいなかった。であれば、ロールも一緒にでかけていたのだろう。ああ、思い出せば二つ目の部屋の浴室は湿気のかけらもなく綺麗なものだった。だが浴室は毎日使うとは言えない部屋なのでその小さな印に気がつかなかったのだ。
あとの部屋は、濃密な女の痕跡が続くことにうんざりしてしまって、入ってすぐの居間部分しか見なかった。だが入らなかった残りの部屋のどれかの奥で、が安らかに眠っていたのではないだろうか。
片づけができないとメイドにぼやかれたというのは、夜になったのに片づけられないからそのようなことをされたのでは? そうは言っても、今となっては確かめる術はないが。
気を取り直し、私の暴走を懸念しているナーディルに後悔の化身の如く唇を噛み締め、やるせなくうな垂れて見せた。
「が私の元に戻ってきてくれるのならば、何でもしよう。何にだって耐えよう」
ナーディルは力付けるように私の肩を叩く。
「君のその様子を彼女が知ったら、きっと心を動かしてくれると思うよ」
「だと、いいがな」
後悔はしている。しかしそれはを連れ戻す機会をみすみす逃した自分の間抜けさに対してだった。
そしていつもより遅く始まった情報交換会はお開きになった。一度地上へ出てナーディルをやり過ごしたベルナールに新たな命令を出す。
はしばらくはド・クレール邸から動かないだろう。だからナーディルの話に出てきた強運の数々――賭や投資など――に不正がないかを調べさせるのだ。大勢の女と関係したなど、ド・クレールのような男にはダメージにもならない。だがはっきりと不法行為をしていたのであれば……。
くくっと私は闇の中で笑った。
ド・クレールよ。お前は不幸を望んでいるのだろう。
ならば私は全力でそれに協力してやろう。
そう腹の中で呟くと、次の手を打つべく、私は家へ戻っていった。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
いつもより早い時間にオペラ座へ赴く。時刻は八時前。常ならば外界は闇に沈み、その間を引き裂くような照明がオペラ座を照らしていただろう。だが夏に近いこの時期はまだ外はだいぶ明るい。昼の太陽よりも闇と光のコントラストの方が着飾った女をより魅惑的に見せるというが、となればこの時期の女たちは着飾る熱意が薄れるものなのだろうか。
まだ開演までだいぶ時間があるため関係者以外人影もまばらな我が王国内を、そんな埒もないことを考えながらゆっくりと巡回した。
今日の目的は三つ。ベルナールを送り込むのに必要な、金に困っている定期会員を見つけること。そしてド・クレールに関する噂話を集めること。そしてもしも奴が現れたら見張り、可能であれば抹殺すること。
の話が真実なら、あいつはにまだ手を出さず、ただ保護しただけだといえよう。しかし私には信じられない。そんな奇特な遊び人がどこの世界にいるというのだ。もっともは私と違って真顔で嘘を言えるような娘ではないので、彼女の顔を立てて半信半疑くらいにはできるだろうが。
しかしこの先もド・クレールがを放っておくとも思えない。好ましからざる芽は早々に摘んでおくに限る。それに――ロールに雇われている形とはいえ、大本の金を出しているのはド・クレールだ。そいつがいなくなればロールとてを雇い続けるわけにもいかなくなるだろう。今度こそ行くあても金もなくなった彼女は、『居心地が良かった』私のところへ戻ってこようと思わないだろうか。
ああ、もちろん、彼女が懇願すれば私は優しく迎え入れてやるつもりだ。だが家出をしたのだから、罰は受けてもらわねばならない。なに、罰といってもちょっとしたものだ。私は多くは望まない。
二度と一人で地上へはでないこと。それだけだ。
たいした罰でもないだろう。私は愛するものにはできる限り寛容な男でいたいのだ。だから私が一緒ならば時折出かけることをしてやってもいい。私とて恋人と散歩をしたいと思うことはあるのだ。
ド・クレールが立ち寄りそうな場所や関わりを持っていそうな者のいそうな所を重点的に回る。刻々と観客も集まってきており、切れ切れに聞こえる声の渦は次第に大きくなっていった。
混ざりあう雑多な話声の中から目的とするものを聞き分けるのはなかなか骨の折れる作業だった。
だが終演になるまでに、なんとか目当ての人物を見つけることができた。息子がアメリカで事業を始めたものの上手くいかず、その借金の精算でおそらく土地の大部分を手放すことになるだろうという初老の貴族だった。名を覚えておき、関係者が帰るのを待って名簿から住所を割り出す。あとはベルナールの手腕に任せるだけだ。
ド・クレールは社交界のあちこちに顔を出しているようで、それなりに噂話を収穫することはできたが、すでに知っていることばかりで目新しいものはなかった。
のことも少し聞いた。ロールの新しい友人らしいということで噂されていた。しかしド・クレールとロールの何度目かの復縁の方が取り沙汰されていたので、のことはさして注目されていないようだったのが救いだった。
そしてアンリ・ド・クレール本人はオペラ座には来なかった。が家出をしてからは一度も訪れていないはずだが、彼女の差し金だろうか。それとも元々、頻繁に来ていたわけではないのか? 私があの男をはっきりと認識したのは彼女がいなくなってからなので、どの程度の頻度で訪れていたのかはっきりしないのだ。
がいなくなって五日が経つ。早急にどうにかしたいところだが、今夜できることはこれ以上なさそうだった。
家に戻り一息つこうとブランデーを生のまま煽った。
ソファに身体をもたせかけると、強烈な眠気が襲ってくる。私にとっては珍しいことだったが、ろくに睡眠らしいものは取っておらず、眠ったかと思えば悪夢にうなされ飛び起きていたのだから、疲労がたまっていたのだろう。
瞼が重くなり、指先の感覚が鈍る。
眠りたくはない、寝ている余裕などない。そう思うものの、鉛のように重い身体は言うことをきいてくれなかった。
しばらく抵抗していたものの、体力がなければを連れ戻すことはできないと、しばしの休息を我が身に許した。
腿にかかる重みに意識が戻る。目だけを動かして見下ろすと、アイシャが足の間で眠っていた。彼女を起こさないようにゆっくりと身体を起こす。
どれくらい眠っていたのか、柱時計に目を向けると三時間分の針が進んでいる。外は白んでいるだろうが、まだ多くの者が寝ている時間だった。
ひどく喉が乾いていることに気がつき、水を飲もうと立ち上がる。動いた拍子にアイシャが身じろいだが、小さな鳴き声――人間ならば寝言のような声――を発してまた眠りに落ちたようだった。
ゆっくり立ち上がったつもりだったが、背を伸ばした途端ぐらりと目眩がした。とっさにソファの背もたれに手を伸ばして身体を支える。眠さに負けて体勢も考えずに眠りこけてしまったので、首筋に痛みを感じた。口の中はねばついて不快。それに胃のあたりにひどい空隙のようなものを感じた。
よろめきながらキッチンに向かうと、蛇口から直接水を飲む。だるさは消えないものの、口中の不快感は薄らいだ。
胃が水に満たされたことで、己が空腹であることに気がつく。そういえば、最後に食事をしたのはいつだっただろうか。がいなくなってからというもの、口にしたのは、気を紛らわせるための酒やチーズくらいのものだったように思う。
とはいえ空腹を自覚しても、一向に食欲はわかなかった。だがやド・クレールへの恨み辛みだけでいつまでも動き続けることはできない。特にド・クレールと対峙することになった時に腹が減っていて力が出ないなどという様をさらすわけにはいかなかった。
仕方なく適当なものでも口にしようと、食料置き場を見に行く。パンはすっかり硬くなっており、一部にはかびが生えている。残っていた牛乳もすっかり腐っていて嫌な臭いを発していた。
とても食せるものではないのでそれらを捨てる。上に行けばパンも牛乳も届いているだろうが、取りに行く気力がなかった。仕方がないのでジャガイモをゆでてバターをつけて食べることにする。塩漬けのベーコンなどもあったが、多量の油は受け付けそうになかった。
結局じゃがいもと何も入れないコーヒーだけの食事を終わらせる。こんなものでも食べ終わ終わる頃にはゆっくりと体温が上昇していき、だるさも徐々になくなっていった。もうしばらく休めば行動を再開できるだろう。
その日の情報交換会で、昨晩ド・クレールはロールと共にイタリア座へ行っていたということがわかった。の関与があったのかは不明。
恒例と化したナーディルが帰ったあとに行うベルナールの報告は、公使からの手紙が届いたという知らせがきたというものだった。彼女の手紙の内容はナーディルの話の通りで、その対応については私が予想した通りだった。
つまり、まだ日本人として認められていない彼女に、旅券は出せないというものだ。そして身元を明らかにできるものもないということであれば、移民者や旅行者としての扱いも無理であるというものだった。
彼女のところにももうこの知らせは届いているだろう。望みがついえたと知って、何を思っただろうか……。
そして夜はオペラ座へ。
公演の間はド・クレールが来ないか見張り、終演後、人がいなくなるのを待って仕掛け作りをする。簡易の覗き窓を増やすだけでも二日はかかる。堅い壁を削るのは時間と根気が必要だった。
この日もド・クレールは訪れず、さらに裏方が酒を飲みだしていつまでもぐずぐずと居残ったため、ろくに作業をすることができなかった。
帰宅後はソファに寄りかかるだけの休息をとり、いつもの情報交換会へ。
この日の収穫はほとんどなかった。
そしてまた夜になり、昨夜と似たり寄ったりの行動を繰り返す。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
――こんなことをして一体何になるんだ?
終幕後、関係者がはけるのを闇の中で息を殺して待つ間、ふいに私の中で何かが切れた。
馬鹿馬鹿しい。いくら覗き窓を増やそうと、やつを葬る仕掛けを練ろうと、それがを取り戻す、どんな役に立つというんだ。
私が欲しいものは彼女だけ、ド・クレールの命など二の次だ。
私がすべきなのは、巣穴の中で獲物がかかるのを待つことではなく、私のものだったものを取り返しに行くことではないか?
もう何日、の顔を見ていないのだろう。もう何日、その声を聞いていない?
に会いたい。会いたい、会いたい!
嫌われたっていい。ののしられようと知るものか。どうせすでに見切りをつけられているのだ。私が反省の体を示そうと、彼女が私などの元に帰ってきてくれるわけがない。何をどうしようと、再び地下の我が家に戻ってきた彼女は――私を愛していないだろう。
だったら、力尽くで奪い返して何が悪いのだ。これが一番手っとり早い。
ああ、もう、なにもかもうんざりだ。ナーディルやベルナールからのことを聞くしかないことにも、いつ彼女が他の男のものになったかとびくびくするのも、ナーディルの大人しくしていろという忠告に従ったふりをしていることにもだ!
結局そうしたところで何を得られたんだ。ただ時間が過ぎていくばかりじゃないか。
一度その考えにとりつかれると、己の行動がひどく滑稽なものに感じられた。誰かに聞かれる危険も省みず、腹立ち紛れに壁を力一杯殴り付け、足早にその場を去る。
オペラ座を飛び出すと涼やかな風が頬をなでた。しかしその風も私の激情を鎮めることはできない。馬車など拾わず、大股で通りを歩く。時折酔漢らしき通行人に仮面のことでごちゃごちゃと声をかけられたが、一顧だにせず通り過ぎた。
ほどなくしてド・クレール邸に到着する。前回同様あっさりと庭まで入り込み、建物に近づいた。
ド・クレールの部屋があるあたりに目を向けると明かりがついている。まだ起きているようだ。
(さて、どうしようか……)
を連れ帰るのは当然にしても、ド・クレールに何もしないままでいるというのも癪だ。報復はしなければ気が済まない。そしてどうせ報復するのならば、二度訪問をするという手間をかけるよりも、今日のうちに片づけてしまいたい。
問題は、を確保するのとどちらを先に済ませるか、だ。
女一人、猿ぐつわをかませて縛り上げれば抵抗はできないだろう。普通の女ならば、の話だが。
しかしはこちらの思いもよらない行動をとることがあるので、それだけで十分であるとは言い切れない。確保した後に下手に時間をおいたら脱出されてしまうかもしれないのだ。我が家から逃げ出したように。
それにもしも万が一、彼女を確保することに手間取り、ド・クレールが異変を察知してきたら……。いや、それよりももし、今がド・クレールと一緒にいたら……。
ぎりりと私は唇を噛んだ。
の部屋がどこか、まだ確定していない。それよりも先にド・クレールの寝室へ行こう。先に始末してしまえば邪魔をされる心配はなくなる。そしてそこにがいれば、探す手間も省けるというものだ。
ああ、。。
お前の目の前でアンリ・ド・クレールが死ぬかもしれない。
だがお前は、私が殺人者であることを、それも、弾みで殺してしまったというような生易しいものではないことを、自分が死なないために相手を殺してきたことを知っている。
その衝動は長い間潜んでいたが、けっして消えたわけではないのだ。
目覚めさせたのはお前だ。
アンリ・ド・クレールを殺すのは、私であり、お前なのだ。
バルコニーの柱をよじ登り、屋根の上に立った。進入経路は前回と同じである。懐からパンジャブの縄を取り出し、窓枠にひっかける。
鍵を開け、なんなく屋内に入り込み、縄をしまおうとした。
その前にしばし縄を見つめる。次にこれが引っかかるのはあの男の首だろう。
それを思うと喜びにも似た感情があふれだす。
屋敷の召使いたちは、変わり果てた主人の姿に驚くだろう。しかしそれは私が去ったあとに起こること。私には関係のないことだった。
そして私は内ポケットに縄をしまうと、ド・クレールの寝室へ向かった。
エリックが切れた。
そして協力しているのにうざがられ、文句言われているナーディルが哀れだ…。
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