前回と同じルートを通り、ド・クレールの私室前にたどり着く。
 耳をそばだてて様子を探るも話声などは聞こえなかった。物音の類もしない。
 そこから導き出せる単純な結論は、あいつは寝室にいる、というものだった。時刻も時刻なので不自然なことではないだろう。
 私は意を決してノブを回してみた。今度は鍵がかかっておらず、すんなりと扉が開く。
 まずは細く開けた隙間から室内を覗いてみた。誰もいない。
 さらに大きく開けるも、侵入者たる私を咎める声はあがらなかった。
 室内には複数の人間がいた気配が残っている。テーブルに置かれているワイングラスは二つ。片方には真っ赤な口紅がついていた。また結んだ跡のついたクラヴァットがソファにでろりと垂れている。
 男と女が一人ずつ。これ以上ないほどわかりやすい証拠がそろっていた。
 男はド・クレールで間違いあるまい。女の方は……は化粧らしい化粧をしないからロールだとは思うが、確信するには早いだろう。
 寝室に続く扉に向かい、再び耳をそばだてようとした。途端。
「あんたって本当に嫌な男だわ!」
 脳天に突き刺さるような怒鳴り声とともに髪を振り乱した女が飛び出てきた。女は私の存在に気がつくと足を止め、ぽかんと口を開ける。
 私の方はというと、とっさに下がったものの、姿を隠す余裕はなかった。面倒なことになったと心の中で舌打ちする。
「あんた、誰?」
 ぱちぱちと瞬きをすると、女はふんぞり返るように腕組みをする。もっともな質問だ、とは思うものの、一糸をまとわず見ず知らずの男の前に立っていて、羞恥する様子もないことに私は絶望した。女として、それはないだろうに……。
 あいつと一緒にいた女がロールであることに安堵し、私は手の中でパンジャブの縄を弄んだ。女を殺すことは私の信条に反する。しかし邪魔をされても困るのだ。軽く気道を締めてしばしの間だけ気絶してもらおう。しかし間近にいてはこの縄の効力を発揮することはできないので、もう少し後ろに下がらねばならなかった。
「どうしたんだい、ロール」
 奥から若い男の声がした。何事があって女の方が激怒しながら寝室を出ようとしていたのかは知る由もないが、ほんの先ほどまで喧嘩をしていたにしては嫌に暢気な口調だった。
「多分あなたの知り合いだと思うけど、死神みたいな男がきてるわ」
 振り返りつつ、ロールは答える。
「死神?」
 まるで危機感のない会話に、普段どれだけ人の出入りが多いかが垣間見える。だが今回はそれが災いしたな。
 ひょい、とドアとロールの間から、だらしなくシャツを肌蹴させた男が顔を出した。こいつまで素っ裸だったらどうしようかと懸念していたが――あまりにも間抜けな姿をされていては、こちらの士気にも関わるのだ――そうでなかったことに我知らず安堵の息をもらした。
「わお!」
 ド・クレールはひゅう、と口笛を鳴らし、喜色満面になる。
「本当だ。驚いたなぁ。死神ってものは黒いフードをかぶって大鎌を持っているものだと思っていたよ。テール・コートを着ているなんて、ずいぶん現代的だ」
 言いながらいそいそとシャツのボタンを留め、なんとか見られる格好になる。死神と思われたことは一度ならずあるが、こんなに喜ばれたのは初めてだ。相手が相手なだけあって、ひどい侮辱を受けた気分になる。 
「バカね、あれ、生きてる人間よ。あなたの知り合いじゃないの?」
 ようやく異変を実感したのか、薄気味悪そうにロールが眉を寄せた。
「いいや、初めて会うね。それに誰かが来たら知らせがくるはずだ。けど、何も聞いていないよ。となると招かれざる客ということになるけど、うちはそれなりに警備はしっかりしているはずだし……やっぱり本物?」
 ド・クレールは真顔でロールに答えたが、最後は面白そうに私に目を向ける。どこまで余裕を見せるつもりだ、と腹の中で反発した。
 ここは一つ、私がどういう者なのかを明かして、自分がしでかしたことの重大さを思い知らせてやらねばなるまい。相手は丸腰だ。反撃を受ける可能性は低い。あいつが大声を上げようとしても構うことはない。それより先に首を締める自信はある。
「私は人間だ。だがお前にとっての死神になることも確かだろう、アンリ・ド・クレールよ」
 ふっとド・クレールは身じろぐ。顔から笑みは消えていないが、頬は緊張を帯びて強ばっていた。
「僕を知っているのか。ということはただの不法侵入者ではないってことだね」
 無論だ、という意味を込めて私は目を眇める。
 と、ド・クレールの脇でロールが吐息混じりの声で「ああ」と言った。
「あなた、を囲っていたって男でしょう?」
 するとド・クレールも納得したようにロールを見やった。
「確かに、心当たりは今のところ、それしかないなぁ。で、そうなのかい。そうじゃないのかい?」
 ふてぶてしく口の端をあげて、あいつは私を詰問した。
「その通りだ。そして私のものを取り返しにきたのだ」
「じゃあ、道を間違えたんだね。見ての通り、ここにはいないよ」
 ド・クレールは肩をすくめる。
「向こう側の棟の、大階段を過ぎてから三つ目のドアさ。ああ、中庭側の方だよ。もっともこの時間だから寝てると思うけど。彼女って早寝だからね」
 しゃあしゃあと答える奴に、私は苛立ちを覚えた。
「なぜそれを教えるのだ? 私がそこへ向かっている間に逃げる算段でもつけるというのか?」
 だったら生憎だ。私がここを動くのは、こいつを始末してからのことなのだから。
 しかしやれやれというように、ド・クレールは頭を振った。
「ここは僕の家だ。その僕がどうして逃げなくちゃならないんだい。教えたのはその方が面白そうだからさ。僕の方になびいた女の子を追って僕に因縁つけてきた男は一人や二人ではないけど、真夜中に堂々と忍び込んできたのは初めてだもの。ねぇ、そうなんだろう?」
 興味津々とその目は輝き、白い歯を見せて笑っている。……駄目だ、この男は。恋愛問題のごたごたに関与しすぎているせいか、この時刻に見知らぬ男がいるということにまるで動じていない。しかし因縁つけに、とは下品な物言いだ。
「言い方は気に食わないが、その通りだ。だが道は間違えていない。まずはお前の方に礼をしてやろうと思ったのだ」
 私の言う『礼』が『ありがとう』の意味ではないことには気がついているはずなのに、奴はうろたえなかった。それは自分の領域内にいるという安心感からか、私が武器を持っていないように見えるからか。まあ、どちらでも構うまい。その慢心が自分自身の命を縮めることになったのだとすぐに気がつくだろう。
 私はそっと手の中の縄をいつでも投げられるように準備した。
 一触即発という雰囲気の中、ド・クレールの脇でロールが騒ぎだす。さっきまでの薄気味悪そうにしていた表情はかけらもない。愛人たる男がいるので気が大きくなっているのだろう。
「ちょっと、あたくしを放っておいて盛り上がってるなんてひどいんじゃない? そっちの男も! あたくしのこの妖艶な姿を見ておいて無視するなんて、目が悪いの?」
「顔も相当っぽいけどね」
 びしっとロールが私を指さし、ド・クレールが禁句を放った。
「アヒルみたいにがあがあ喚くな、女。お前などに用はない。こいつの巻き添えを食らいたくなかったらおとなしく引っ込んでいることだ」
「アヒルですって!?」
 ガーゴイル像もかくやの表情でロールは激高する。ぶふっとド・クレールは勢い良く吹き出した。
「リリ!」
「あーもう、ちょっと黙っててくれないか。僕たちは男同士の話をしてるんだから。ベッドに戻ってなよ。その格好でいたって、君が寒くなるだけだって」
 ド・クレールはにやにや笑いながらもさらに喚きたてようとしていたロールの頭をぐいと押しやり、ぴしゃりと言う。
「あたくしが侮辱されたのよ!? なのにあなたったら」
「言うこと聞かないと、今日買ったっていうイヤリングの代金は払わないよ」
 さらりとド・クレールは告げる。ロールは憎々しげに私と奴を交互に睨みつけるたが、口を閉ざした。怒りで顔を真っ赤にさせながら、女は牛のような尻をゆさゆささせて寝室の薄暗がりに消える。それを見送ったド・クレールの表情は、愛人を不快にさせたばかりだとは思えないほど清々しかった。
「ロールはその場にいる人間全部から賞賛を受けないと気が済まないんですよ。あなたが全然反応しないから、プライドが傷ついたんでしょう」
「くだらないプライドだ」
 一言で女の虚栄を切り捨てると、ド・クレールは軽く肩を揺すらせながら笑った。
「そうですね。で、えーと、何の話をしていたんだっけ。……そうそう、僕に礼をしたいんですってね。別に構わないけれど、その前にちょっと聞かせてくださいよ。僕はそれは一生懸命彼女の気を紛らわせようとしているのに、素っ気ない反応ばっかり。今日だって彼女のために足を棒にして駆け回ったのに、ときたらロールとばっかり一緒に行動するんですよ。まあ、ロールのコンパニュだからだけど。でも、僕の労力に対して、にっこり笑ってありがとうって言ってくれてもいいと思いませんか? 彼女って、あなたのところにいたときからああなの? そういえばあなたの名前は? そっちは知っているのに、こっちは知らないっていうのはフェアじゃないと思うんですよね」
「よくもまあ、そうぺらぺらと口が回るものだ」
 思わず呆れて嫌みを言うと、
「口から先に産まれたんだろうって、よく言われます」
 ド・クレールはにこりと人懐こい笑みを浮かべた。
「ふむ」
 私も口の端を持ち上げてみせる。それから手首のスナップをきかせて縄を放った。一瞬後、私の手の中には暖炉のマントルピースに飾っていた置き時計が出現していた。ガス灯がついているとはいえ昼間よりは薄暗い。縄が空中を横切ったことにも、あいつは気がつかなかっただろう。
 ド・クレールはそれをまじまじと見つめる。それから首を動かして、季節柄火の気の全くない暖炉に視線を移した。
「時計が飛んできた……」
 呆然と呟く。私は間髪を入れずに畳みかけた。
「君は大変話し好きのようだが、私はそうではない。無駄なことに時間を費やすのは、もうやめにしないかね? もしもお前が私の言うことに従ってくれないのならば、君の命はそれだけ短くなることだろう。私は気長ではないのでね。さあ残り一分か、二分か……。どれだけ持つのだろうな」
 ガラスで覆われた盤面をくるりと撫でる。わざと優しい声で囁くように話すと、ド・クレールはようやくその顔から笑みの気配を完全に消した。
 それを見て私は自分の優位を確信する。口数の多いあいつのせいでペースを乱されてしまったが、これでようやく私の本領を発揮できる。
 再び縄を操作して時計を元の場所に戻しておいた。片手がふさがるのは、これから仕事を行うには少々邪魔になるからだ。
 ド・クレールは心持ち青ざめた顔で私を見つめた。 
が言ってました。自分の婚約者だった男はとても嫉妬深い人で、僕が関わったことを知ったらとても面倒なことになると。オペラ座に知人がいるので、その人を通じて自分のことを知られると困るから世間話であっても絶対に話さないでほしいということも。あと、僕もできるだけ近づかないほうがいいと」
 やはり彼女の忠告のせいでオペラ座にこなかったのか……。
 ド・クレールはそのまま淡々と話し続ける。経験上、死の恐怖に直面した人間は凍り付いたように黙り込むか、むやみやたらと口数が多くなるかのどちらかが多くなることを知っている。こいつは後者の方らしい。まあいいさ。最後に好きなだけ話をさせてやろう。言うことがなくなったら、終わりだ。こいつは憎いが、罵声を浴びせたり一方的に殴打するような無様な真似をするつもりは私にはない。せいぜい速やかに地上から切り離してやるつもりだった。
はあんまり夜更かしには強くないんですよね。でもおかしいと思いませんか? 僕がと会ったのはオペラ座の公演が終わったあとの楽屋前ですよ。あんなところにいる子がどうして社交のひとつもまともにこなせないのか、僕にはずいぶん不思議だったんだ。だって、彼女は結構可愛いからね。連れ歩くにはなかなかいい相手ですよ。でもどうやら、彼女の男は彼女を華やかな場所には連れていかなかったらしい。だから時々びっくりするほど世間知らずなんだ。……彼女が家出したくなる気持ちもわかるな」
 余計な世話だ。
 ド・クレールの顔からは表情が消え去り、ガラス玉のように感情の見えない目で訥々と続ける。
「で、彼女を迎えにあなたが現れた。それで思い出したんですけど、オペラ座にある噂……骸骨みたいに痩せている燕尾服を着た神出鬼没の男のことを。僕は話半分に聞いていて、信じてなんていないんだけど、オペラ座の女の子には本気で怖がっている子もいるんですよね」
 私の反応を伺うように、ド・クレールは一瞬言葉を切る。
「あなたはもしかして……ファントム? はあなたと一緒にオペラ座にいた、いや、住み着いていたんですか……?」
 半信半疑といった風だが、ド・クレールはそれでも怯えの色は見せなかった。定期会員であり、オペラ座の女から怪人の話を聞かされているのであれば、ファントムがただのいたずら幽霊などではないことは理解していることだろう。だが正体が割れたことへの危機感は私にはなかった。元々、状況次第で告げるつもりだったのだから。
 私はおざなりに拍手を送る。
「面白い推理だ」
「否定はしないんですね」
「せっかくだ。回答をやろう。その通りだとな。しかしそれが誰にも伝わらなければ、何も問題はない」
 延命のための演説は終わったようなので、早速ド・クレールを始末しようとした。
 ド・クレールは一歩、こちらに踏み出す。
(命を狙われているとわかっているはずの相手に近づくとは……)
 何かの罠があるのかと、私は奴の一挙手一投足を見張る。
「あなたが本当にオペラ座の怪人……ファントムだというのなら、取引がしたい」
「取引だと?」
 馬鹿馬鹿しい、と私は吐き捨てる。が、ド・クレールは興奮したように小鼻を膨らませ、両腕を広げた。
「僕はあなたに良いプレゼントを贈れると思う。それと、あなたの正体を他言しないという担保も」
「その見返りに、なにがほしいというのだ?」
 聞くだけは聞いてやろうと、倣岸に言い放つ。おかしな方向に話が進んでいるようだが、ド・クレールなりの命乞いなのかと怪しんだのだ。
「簡単に言えば、仲間にしてほしいんです。オペラ座では思いもかけないようなスキャンダルが起きるでしょう。僕はそれを間近で、でも当人たちには気付かれずに眺めてみたい。表向きのやりとりなんて、生温い馴れ合いみたいなものだ。見られて困る相手に見られていないと思うからこそ、本性を出すってものでしょう。どんな醜態が繰り広げられているのか、想像するだけでわくわくするよ。を拾って本当に良かった。彼女自身もなかなか風変わりだけど、それ以上の相手につながったんだからね」
 唾が跳ぶ勢いでド・クレールはまくし立てる。目は熱狂に輝き、頬が紅潮していた。
「悪趣味なことだな」
 ロールがこいつを嫌な男だと叫んでいたが、今なら私にも納得も同意もできるところだった。するとド・クレールは悲しげな笑みを浮かべる。
「ああ、ムッシュウ。それだけ人生に退屈しているということですよ」
「そんなことは私の知ったことではない。それに、お前などを仲間にしたところで私には何の益もない。第一私はゴシップを眺めるためにオペラ座に出入りしているわけではない」
 きっぱりとはねつけると、奴は教師に叱られた悪童のようにふてくされた。
「そうですか。ならばこのままあなたの手にかかることにしましょう。オペラ座の怪人に殺されるというのも、なかなかドラマティックかもしれないし。さっき時計に不思議な動きをさせていたように、普通じゃない殺し方をすることができるんでしょう? どうぞ、そうしてください。パリ中の新聞や雑誌が不可思議な犯罪だと書き立ててくれるでしょう。それを僕の最後の火花とするのも素敵なことだ」
 ――口は閉じたままだったが。
(開いた口が塞がらないとはこのことだな……)
 殺されることを喜々として受け入れられてしまっては、私の面目は丸つぶれだ。かといって奴との取引を受け入れるわけにはいかない。話に聞いていた以上の変人ぶりに戸惑いを覚える。殺すべきか、生かして利用するべきか……。
 いや、生かすには面倒すぎる性格だ。ここはやはり殺すに限る。
 私が黙っていることをどう受け取ったのか、ド・クレールは拗ねたように顔を歪める。
「殺してはくれないのですか? ああ、それとも、プレゼントと担保の内容が気にかかるとか? 担保は、それを話して交渉決裂になった場合、こっちが話し損になるのでまだ言えませんが、プレゼントの方なら可能です。は出生証明書がなくて困っているんですよね。僕は今日……ああ、とっくに昨日でしたね、まあいいや、とにかく彼女の出生証明書を作れないかという相談を知人にしてきました。で、フランス国籍のもので良ければ作れるという確約をもらってきました」
「……何?」
 こちらが思わず反応してしまったことでド・クレールは気を良くし、微笑む。
「本来なら面倒な手続きが必要なのですが、僕が保証人になるという前提でなら、数日もあれば作れるということです。彼女はあなたとの結婚をするために、なんらかの身元を証明するものが必要だった。それで父親の出身国である日本の国籍を取得し、それを証明書とするつもりだった、と聞いていますが。でもフランス人として結婚したって、構わないと思いませんか? フランス人と結婚した女性は、どの道フランス国籍者となってしまうんですから。それともあくまで、日本人としてのでないといけなのですか?」
 国籍が作れる……。との正式な結婚が可能になる……。
 心がぐらりと揺れたのを感じた。
 だが敵の甘言に乗せられてはならない。たとえこの話が本当だとしても、こいつに借りを作るなどごめんだった。ああ、なんたることだ。私ともあろうものが、こんな若造に手玉に取られようとしているなどと……!
「そのようなことをして、お前に何の利がある」
 絞り出すように言うと、ド・クレールは苦笑する。
「おわかりになっていないようですね。今になっては彼女よりあなたの方が僕の興味を引いているんです。この件、僕にとってはどっちに話が転がっても構わないんですよ。殺されようと、生かされようと。だからあとは、あなたが決めるだけです」
 余裕のある態度を見せつけられ、ますます腹立たしくなる。何なんだ、こいつは。
 と、ド・クレールが背にして立っていた寝室の扉がゆっくりと開く。
「まったく、あんたたちときたら、いつまでごちゃごちゃと話してるのよ」
 ロールはだるそうに目を半眼にして壁に手をついていた。さすがに今度は全裸ではなく、薄い青のドレッシング・ガウンを着ている。
 女は芝居がかったため息をつくと、私とド・クレールを睨みつけ、その脇を通り過ぎていった。
「どこ行くんだい?」
 ド・クレールが問う。
を呼んでくるのよ。それで大体解決するでしょ。放っておかれたから眠ろうとしたのに、うるさくて眠れないんだもの、手がかかるったらないわ」
 ひらりと片手を振ってロールは廊下へ向かった。
「待て! そんなことを言って、人を呼びにいくつもりではないのか!?」
 制止をかけると、ロールはいきり立つ。
「だったら、あんたも一緒にくればいいじゃないの!」
「そりゃそうだ。ここじゃないとできない話でもないからね」
 納得、というようにド・クレールは頷く。
 そして三人揃っての部屋に行くことになった。なぜ、こんなことになってしまったのだろう……。


 先に立って中へ入ったロールがガス灯をつける。見覚えのある部屋は、私が以前入りこんだ時よりも片づいていた。雑多な品で飾りたてられていたが幾つかは撤去されており、その選択ぶりからの気配、もしくは雰囲気とでもいうものを感じられた。
 遠慮する様子もなく寝室のドアを勢い良くあけ、ロールが入ってゆく。ふと、は眠っているのだから、寝間着姿であろうということに思い当たった。ロールのあの感じではきちんとした着替えをしている時間など与えてもらえまい。無防備な姿をド・クレールにも見せなければならないのか、と思うと再び腹立たしさが込み上げてきた。
(やはり、さっさと殺しておくべきだったか)
 二人がおかしな真似をしないように、彼らのすぐ後ろを歩くようにしていた私は、部屋の出入り口に一番近い場所を陣取っていた。腕組みをしながらド・クレールを観察する。奴は気楽そうに、ズボンのポケットに片手を入れて立っていた。
 その様子を見て私はすぐに思い直す。きっとこいつは、の寝間着姿など見たところでなんとも思うまい、と。きっと、それ以上のものをすでに見ているのだから……。
 それを想像するだけで腸が煮えくり返そうだった。それに一時であろうと、こんな男にすべてを委ねたというのは軽蔑するに値する。だが、私の評価など彼女には関係ないことなのだろう。そもそも私は、ただを取り返せればいいと思ってここへきたのではなかったか? 彼女の愛までは元には戻らないのだと、わかっていたのではなかったか……。
 ごそごそと寝室から物音がする。囁きあう声は細部までは聞き取れないものの、ロールがを急かしているようであった。
 二つの足音が居間へ向かう。姿を現したはまだはっきりと目が覚めていないようで、ガス灯の明かりにまぶしげに目を細めた。やはり寝間着姿で、髪は下ろしている。ロールに手を引かれている様は競りにかけられる子羊のようだった
 久々に目にする彼女の姿に、切なくも愛しい思いが溢れてきた。ああ、こんなことになっても、やはり私は彼女を愛しているのか……。
 と、彼女の目が私に向けられる。それは見る間に大きくなり、こぼれ落ちんばかりになった。
「エリック!?」
 は叫んだ。
「そうか、あなたはエリックというのか」
 ド・クレールは振り返って頷く。
 は私とド・クレールを混乱したように見やった。
「どうしてエリックがいるの? それもこんな時間に」
「それはね」
 説明しようとしたド・クレールを遮り、私が簡潔にまとめて伝えた。この口数の多い男に任せたら時間がいくらあっても足りなくなるし、どんな風に話を歪められるかわかったものではないからだ。
 私が話し終わると、ド・クレールは興ざめしたように「おおむねその通りだよ」と付け加える。
 おろおろとしていただったが、話を聞いている間に落ち着きを取り戻したようで、それが終わる頃にはもう取り乱してはいなかった。
 はきっぱりと私にむかって言う。
「まさか本気で殺すつもりなの? 殺人なんて、駄目よ。お願い、やめて!」
「こいつの命がそんなに大事か」
 会いたかったでも、会いたくなかったでも、どのようなものでもいいからまずは私に対する反応がほしかった。しかし彼女の口から一番に飛び出てきたのがド・クレールを殺すなということなのだから、私の声は自然と低くなった。
 は眉をつり上げて声を荒げる。
「何言ってるの。相手が誰だろうと止めるに決まってるでしょう! ド・クレールさんに限ったことじゃないわよ」
 それからつかつかと歩み寄ってきて、私の前に立った。真っ直ぐに私を見上げるアーモンド形の目は泣き出しそうになっている。
「正体を知られてしまったのは、わたしのせいでもあるわ。それは本当に悪いことをしてしまったと思ってる。でもお願い。殺すのはやめて。そんなことをしなくても、あなたが作り上げたものはそう簡単に突破できないはずでしょう? あの人がなにを言い触らしたところで、本気にされなければそれ以上話が広がるものじゃないわ」
 ド・クレールはやれやれ、というように両手を上げる。背を向ける形になっていたは、そのおどけた動作には気が付かなかった。が振り替えると、もうド・クレールは手を下ろしていた。
「誰にも言わないでくれる?」
「さあ、どうしよう」
 ド・クレールは曖昧な返事をした。
、このような男を信じて全てを失う気は私にはない。たとえ噂話であっても、本気にする者が現れないとも限らん。お前は私を終の住処から追いだすつもりなのか? 逃げ出しただけで飽き足らず、死にすら勝る恥辱を与えなければ気がすまないとでもいうのか!?」
「そんなつもりは……」
「つもりがあろうとなかろうと、お前がしたのはそういうことだ!」
 一喝すると、は息を飲んだ。
「……あなたがオペラ座を追われたら、わたしも一緒に行くから。どこまでも付いていくから……。だからお願い。ド・クレールさんを殺さないで。この人のためじゃない。あなたにこれ以上罪を重ねないでほしいの」
 真っ青になりながらも、気丈に私を見上げている。目には涙が溢れているが、泣くまいと堪えているようだった。
「それは、私の元へ戻るということか?」
 問うとは表情を曇らせた。
「ド・クレールさんを殺さないと約束してくれるのなら」
「それでは解決にならない。あの男を信用するなど私にはできぬ」
「だから、担保を受け取ってくれればそれで終わるじゃないですか。信用なんて必要ありませんよ。僕だって、あなたのことを信じてなんかいない。ただお互いに弱点を預け合って、抜け駆けしないようにしましょうと提案しているんですが」
 横からド・クレールが口を挟んだ。
「第一、この秘密は誰にもいわないからこそ価値がでるというものです。それに僕を仲間にしてほしいとは言いましたが、僕も色々と忙しいのでしょっちゅうお邪魔することは無理でしょう。ほんのたまに、僕を秘密の共有者にしてくれるだけでいい。悪い取引ではないと思うのですが」
 答えたのはだった。
「その担保だというあなたの秘密を今教えてもらえないかしら。だってあなたはすでにわたしたちが一番知られたくないと思うことを知っているのだもの。その担保が実際にはたいしたものでないというのなら、取引材料にならなくても仕方がないわ。もちろん、わたしはエリックに人を殺してほしくはないから、たいしたことがないとしても、あなたをかばうつもりでいるけれど」
 ド・クレールは顔をしかめた。
「心外だな。これが世間に知られたら、ド・クレール家なんてあっという間に潰れてしまうよ。少なくとも、兄さんの一人は監獄行きだろうし、父も母も面目を失って国外に逃げ出さないといけなくなるね。僕だってそうさ。直接的に僕が何もしていなくても、居辛くなるもの」
 は目を丸くする。
「そ、そんな一家離散するような秘密なの?」
「そりゃあそうだよ。エリックさんの秘密との対価にするにはこれくらいじゃないと釣り合わないじゃないか」
「で、その内容というのは?」
 取引を飲むかどうかはともかくとして、聞いておいて損はないだろうと私は尋ねた。事実であればベルナールもいずれ同じ情報に行き着くはずだ。
 ド・クレールは知られれば破滅だということを、それは楽しげに話した。
 詐欺紛いの方法による土地の収奪、株の内部者取引、それと当然のように付け加えられたのは、ド・クレール夫妻の火遊びの数々だ。自分自身のことは何一つ言わず、こいつは家族を私に売ったも同然のことをしてのけたのだった。
「言っておくけれど、僕は不正に関与したことは本当に一度もないんです。だって、そんなことをする必要はなかったんですから。せいぜい、女たちを食い荒らして恨みを買っているくらいだけど、僕は独身なので個人の問題の範疇です」
 しゃあしゃあとド・クレールはぬかした。は呆れた顔をしていたが、ド・クレールと長いつきあいがあるはずのロールすらも同じだった。そしてきっと、私も似たり寄ったりの表情をしているのだろう。
「そ、そこまですごいことを教えてもらったのなら……ねぇ」
 は私の顔色を伺う。殺すな、ということなのだろう。確かに情報としては上等のものだ。これを上手く利用すればどれほどの利益を引き出せるか。しかし。
「お前が沈黙を守っていようと、部外者がよけいなことをもらすかもしれん」
 ぎろりとロールを見やる。ロールは呆れ顔を引き締め、ふふんと小馬鹿にした笑みを浮かべた。
「あら、あたくしを黙らせるなんて簡単よ。ねぇリリ、あたくし、競争馬がほしいわ。レースで一等を取れるような立派なものをよ」
「やめときなよ、ロール。君、賭事の才能なんてないんだから。でも賭事下手な馬主の持ち馬だからってレースに弱いとは限らないか。いいよ、馬だね。探しておく」
「ああ、愛していてよ、リリ!」
 ロールはド・クレールに抱きつくと、遠慮なくキスの嵐を降らせた。私は恋人同士がキスをしている場面を見ると、我が身には起こり得ぬことと思い、目を背けて辛さをやり過ごしていたが――むろんこれはと出会う前の話だ――ド・クレールとロールがキスをしていても、少しもうらやましいとは思わない。逆にド・クレールはこの女のどこがよくて愛人にしているのか、さっぱり理解できないのだった。
 キスを終えたロールは、本人に言わせれば妖艶であると答えるだろう笑みを浮かべ、に近づく。そしてその手を取って語りかけた。
「短い間だったけれど、楽しかったわ。またあなたのいいひとが嫌になったらいつでもあたくしのところへいらっしゃいね」
「ロールさん……」
 女の声は慈愛に溢れていた。の声が感動に震える。ロールはますます笑みを深くした。
「じゃあ、違約金の話をしましょうか」
「……え?」
「違約金だと?」
 聞き咎めると、ロールは満面の笑みを浮かべながらに抱きついた。いや、抱きついたというよりも、絡みついたようなものだった。そして女二人は一瞬にして恐喝者と人質の関係へと変貌する。
「ムッシュウ、あたくし、彼女と別れるのはとても辛いんですの。だって彼女はあたくしが知っている女のなかでは一番素朴で正直で可愛らしい人なんですもの。だけど恋人のところに戻るというのなら、祝福しなくてはね。でも、それはそれですわ。彼女とは半年間の雇用契約を結んでいますの。でもこのままではこれが一方的に破棄されてしまうことになりますわね。それに彼女にはコンパニュとしての体面を施すためにずいぶんと散財してしまいましたの。ドレスなどはまだできあがっていませんけれど、今更キャンセルはできませんし……。諸々一切の費用をまとめて払っていただけません? そうすればあたくしたち、清々しくお別れできると思いますの」
 少しも悪びれず金を要求する様は、堂に入ったものだった。それと同時にこの女の本性をはっきりと悟る。
「支払いはド・クレールがするのだろう」
 牽制してみたものの、予想通り効果は発揮しなかった。
「ええ、もちろん。そのお金の返却先はリリですわ。でも彼なら傷心のあたくしのために、そのお金をくれると思いますの。それで宝石かレースを買えば、しばらくはがいなくなった慰めになりますわ」
 あくまでと別れるのが寂しいという口実で、金を毟り取ろうとするつもりのようだ。今度は私ととド・クレールが呆れた顔になる番だった。
「で、具体的にどれくらいふっかけようとしてるんだい?」
 いち早く回復したド・クレールがそう尋ねると。
「そうね……。五千フラン、というところでいかが?」
 当然のような顔でロールは答えた。
「ご……!? ロールさん、わたし、そんなに使ってないです!」
 がロールの丸太のような腕の中で抗議の声をあげる。
「あら、だって違約金も含まれているんですもの」
「だからって……!」
 ド・クレールは女二人のやりとりを余所に、私に話しかける。
「ムッシュウ、五千フラン、お持ちですか?」
「ここにはない」
「僕が立て替えておきましょうか」
「お前に借りを作る気はない」
 突発的にオペラ座を出たのだ。財布など持ってきているものか。それにそんな大金をこんな女に渡す気もない。しかしこの金は体裁はともかくとして実質口止め料なのだ。拒否するにはあの女を殺さねばならないが、しゃくなことにあの女はにへばりついているのでパンジャブの縄では絞め殺すに不向きな状態にいる。この女のことだ、私から了解の返事を得るまで彼女から離れないだろう。なんということだ。
 ロールは恩着せがましく微笑む。
「一度帰宅されても結構よ。大丈夫、人を呼ぶなんてことはしませんわ。そんなことをしたらあなたにもにも嫌われてしまいますもの。ね、ムッシュウ。あたくし、あなたのこともお友達だと思ってるんですのよ」
 迷惑この上ないことだった。
 そして私は何度目かのため息をついた。この屋敷の男と女の悪質さは私などを凌駕していると思わざるをえない。
「わかった。金を払おう。しかし手持ちはないから後日郵送する」
「いけませんわ。こういうことはちゃんとお互い会ってきちんとしませんと」
「見知らぬ他人を易々と信じられると思うのか?」
「疑い深い方ね。の言うとおりだわ」
 わざとらしく傷ついたように眉を下げるも、ロールはすぐに気を取り直した。
「では誰も呼ばないという保証があればいいのね」
「そんなことができるのか?」
 無理だろう、という嘲りを込めて私は鼻で笑う。ロールはぴくりと眉をあげたが、すぐに澄ました顔になった。を抱えたまま、引きずるように寝室に向かう。そして中から「こちらにいらして、リリ」と呼びかけた。
「何、ロール?」
 片手でド・クレールの手を引き、寝室の奥に連れ込んだ。何が起きるのかと私もついて行く。
 ロールは大きなクロゼットの前に立ち、にっこりとしていた。
「リリ、この中に入ってくださらない? そうしたらあたくしが鍵を閉めてエリックさんにお渡しするの。となると、ね、わかるでしょう? あなたはエリックさんがお金を持ってきてくださるまで出られないから、誰にも助けを呼ぶことはできない。あたくしも、こんな格好で人前には出られないから着替えををしなければならないけれど、ちゃんとしたドレスに着替えるまでは一時間はかかってしまいますもの、警察なんかをすぐには呼ぶのは無理ね」
 貴族の屋敷にあるクロゼットというものは、たっぷりの布地を使ったドレスを収納できるように内部もずいぶん広く造られている。男一人くらい閉じこめることは容易い。また盗難を防止するために外から鍵がかけられるようになっているのだが、部屋の鍵とは違って、内部に人がいることなど想定してないので、その鍵を内側から解除するのは難しいだろう。造りも頑丈そうなので、扉をぶち破ることもできるかどうか。
「ド・クレール、なぜお前はこの女とつきあうのだ?」
 私はとうとう疑問を口にしてしまった。いくら女に飢えていても、こんな悪知恵ばかり働く金食い虫など、私ならば叩き出すが。
「慣れれば快感になってきますよ」
 当然のように言うと暗いな、と呟いてド・クレールはクロゼットに潜り込んだ。ロールは鍵をガチャリと閉める。そしてから一瞬も離れることなく、ナイトテーブルに鍵を置いた。うかつに近づいてをもぎ取られることを懸念しているのだろう。
「すぐに戻っていらっしゃるのでしたら、一時間は待ちますわ。それ以上となりますと、あたくしも保証できませんの。なにしろ、もうじき夜明けになりますし……」
 言いながらロールは窓を見やった。カーテンに覆われているものの、時刻からすれば確かに夜明けまでは遠くない。
 私は舌打ちをすると、鍵を取った。
「エリック……あの、ごめんなさい。謝って済むことではないけど、本当にごめんなさい……!」
 必死の形相でが私を見上げる。だが私は彼女の目を見ることができなかった。
 は理解しているのだろうか。競争馬と五千フランで私に売り飛ばされたも同じことになっているのだと。ド・クレールもロールも、彼女にとって良かれと思っていることをしているわけではない。ただ自分たちが欲するものを得ようとしているだけだ。そして私が嫉妬と怒りに駆られて彼女をひどく打ち据えようと、彼女に対してはきっと形ばかりの同情しかしないだろう。二人とも利己的な人間だ。それは私にも覚えのあるものだった。
 そして私自身はというと、それでも構わないという思いに傾いている。なぜならの心はもう私にはないからだ。彼女は私を見ても一度も嬉しそうな顔をしなかった。確かに私の元に戻るとは言ったが、それは人間としての道徳的使命感や同情からの発言にすぎない。それに加えてこの借財が彼女を一層がんじ搦めにすることになった。むなしい。だが、収穫がなにもないよりはましだ。
「すぐに戻る」
 ロールに言い放つと、私は足早に部屋を去った。





エリックは直に女性と接したことがあまりないので(面と向かって話をした機会も少なそうだ)、女性に対して知らないが故の理想を抱いている部分がある、と思っています。神聖化している、というか。免疫も耐性も少なそうだし。
なのでオペラ座の楽屋なんかを観察していて、コーラスやバレリーナのぶっちゃけ女子トークを聞いて、「女ってこんなものなのか? いや、こういう職種の女だからああに違いない」と悲しくなりつつ気を取り直すの繰り返しをしているような感じでいます。

そして、おそらく次で完結すると思います。



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