暗い路地を足早に通り過ぎる。一歩進む毎に憤激がより大きくなっていくようだった。性悪な若造たちにいいようにあしらわれ、一人オペラ座へ引き返すこの惨めさときたら……!
 この私が!
 何人もの横暴な王や皇帝と渡り合い、今尚オペラ座の怪人として我が音楽の王国で恐れられている私が!
 どうしてこんなことになってしまったのだ。
 一体私はどこで躓いてしまったのだろう。
 金が惜しいのではない。五千フランでが戻ってくるのならば安いものだ。しかしあの女に五千フランを支払ったところで、本当に私の秘密を口外しないかについては怪しいものだと言わざるを得ない。
 とりあえず金は払う。そうでなければ今日中にを取り戻せそうにないからだ。だがあの二人を野放しにはしておくつもりはない。いずれ機会を窺って始末しなければ……。女を殺すことは気が進まないが、そうとも言っていられなくなった。
 行きの半分程度の時間で自宅に戻ると、私は寝室に作っておいた隠し金庫を開けた。そこには支配人から脅し取った金の余りを保管している。  ファントムとしての給与二万フランのうち半分はベルナールに渡しているため、私の取り分は残りの一万フラン。さらに計画性などとは無縁のため、使いたいときに使うようにしていた。
 そういうわけで金のある時とない時の差が激しいのだが、幸いここ数ヶ月は残金がある月が続いていたので、五千フランを捻出するのに困ることはなかった。
 金をポケットにつっこんで、再び玄関に向かう。その時ふいにあることに気がつき、私は足を止めた。きびすを返し、の部屋へ入った。
 クロゼットにかかっている白布のはぎ取りその辺に置くと、私は扉を開けた。付けっぱなしにしていた居間からの明かりがほんのりとしか届かず、色彩もなにもかも曖昧にしか見えない。しかし彼女のドレスをデザインしたのはすべて私なので、記憶を頼りに一着を選んだ。
 常の私ならば勝手に物色するなど絶対にしないのだが、場合が場合だ。下着から全て一式をトランクに詰め込み、今度こそ家を出る。途中でオペラ座の厩舎に寄って、手懐けておいた馬を引き出した。空が白み始める前に帰れるようにしたいということもあったが、もしもあいつらが警察などを呼んでいた場合に備えて、機動力を確保しておきたかったのだ。
 鞍をつけている余裕がないのでそのまま跨ると、カルディネ通りの手前まで駆けさせる。道を曲がる前に馬を降り、近くの街灯に手綱を結わえ付けた。馬泥棒に合わないことを願い、ド・クレール邸に近づく。
 屋敷は私が侵入した時と寸分違わぬ静けさに包まれているように見えた。警戒は解かないものの、このまま立っていても仕方がないので、また二階の窓から忍び込む。
 が使っている部屋に静かに入り込むと、居間を横切り、寝室に入った。
「エリック!」
 ベッドに腰掛けていたは私を見るなり立ちあがった。ロールはもうに絡みついてはいなかったが、すぐ隣に座っていた。歩きかけた彼女の腕を取り、引き戻す。
「まだ駄目よ。取引は終わっていないのだから」
 ロールは不敵な笑みを浮かべて立ち上がる。は不安げな顔で私を見つめた。
「お早いお戻りですこと、ムッシュウ。お約束のものは持ってきていただけて?」
 私は無言でポケットの中の紙片をばらまいた。
 ひらひらと舞い落ちる五枚の紙幣をロールは目で追う。枚数を数えていたのだろう。ややあって、を突き飛ばすように押しやってきた。
 はたたらを踏んで、戸惑ったようにロールと私を見比べる。それから心許なげながらも、私の方へ歩いてきた。
 近くに落ちてきた紙片を拾って、ロールは片目をつぶる。
「結構ですわ。あなた、結構お金持ちなのね。そういう方は好きよ」
 私はそのふやけて生白い顔を無言で睨みつけつつ、にトランクを押しつけた。
「これ、何?」
「お前の着替えは入っている。居間で着替えてくるんだ。まさかそんな格好で外をうろつくわけにはいくまい」
「着替えなら、出てきた時に着ていたドレスが……あ」
 はクロゼットを見やった。そう、クロゼットにはアンリ・ド・クレールが入っている。あいつを出さねば着替えはできんが、せっかく鍵つき牢の如きものの中に入ってくれているのだ、わざわざ出してやる必要もなかろう。寝室に関係者が揃っているのはむしろ好都合だ。あいつとの間に何があったにしても、私は愛しい女を衆目の中で着替えさせるつもりはない。
「あら、着替えるのなら手伝ってあげるわ」
 ロールが歩きかける。
「その必要はない」
 私はの前に立ちはだかり、ロールに向かって地獄の底から響くような声で告げた。
「動くな。動けば二度と着飾ることもパーティに出かけることもできなくなるぞ」
「毛皮や宝石を買うこともね」
 クロゼットの中からくぐもった声がする。
「ロール、五千フランをもらったんだから、もう大人しくしていることだよ。僕はムッシュウと友情を深めたいんだから、邪魔するようなら君とはこれまでだ。朝になったら出ていってもらわなければならない」
「リリ、あたくしは何も……!」
「はい、以外の返事は聞かない」
 ド・クレールは畳みかける。ロールはクロゼットを忌々し気に睨みつけ、腕を組んで寝台にどかりと座った。
「ふん!」
 どうやら中で笑っているらしい、妙な声がクロゼットから響いてくる。
「ロールは大人しくなりましたか?」
「ふてくされているがな。ところでアンリ・ド・クレールよ、断っておくが、私はお前と友情を深める気はない」
 アヒルみたいにやかましい女を黙らせるその手腕には感心するが、図々しい知人などナーディル一人で十分だ。
「僕は諦めませんから」
 飄々と奴は答える。なんと面倒くさい男に関わってしまったものだろう。
「あの、エリック」
 ド・クレールとくだらないやりとりをしている間、所在なげにしていたが私の服の袖を摘んでちょいちょいと引っ張る。
、何をしているんだ。早く着替えてこい」
「でも……」
 はロールとクロゼット――の中にいるド・クレール――を心配そうに見やる。
「何もしない? 二人に手を出さないって、約束して。してくれないならわたしはこのまま帰る。別に恥ずかしくなんてないのよ、わたしの感覚では」
 知っているでしょう、とその目は告げていた。
 ああ、そうだった。彼女にとってナイトガウンでうろつくなど、たいしたことではないのだった。そのことを思いだし、私はげんなりとした。約束せねば彼女のことだ、本気で実行するのだろう。まだ夜とはいえ、そんな格好で外に出すわけにはいかぬ。
「くだらない心配をするな。お前が逃げ出したりしなければ、何もしない」
 この期に及んでそんなことはしないだろうとは思うものの、念のために釘をさしておく。は小さくため息をついて、トランクを抱え直した。
「逃げないわ。でももし、わたしが着替え終わるまでにこっちで不穏な感じがしたら……その時は、窓から飛び降ります」
……!」
 は堅い表情で寝室を出ていった。
 信用は地まで落ちているだろうとは思っていた。だがそれを受け止める覚悟はどうやらできていなかったようだ。私に光を見いださせてくれた優しい眼差しも言葉も、もう私に与えられることはないのだろう。私という『化け物』から『人間』を守るために、彼女は自らを犠牲にする方を選んだのだ。二階の窓なら落ちても死ぬことはないとは思うが、怪我をするのは確実だ。
 そこまでか。そこまでなのか、。確かに私は善良な人間だとはいえない。だがそれを言うならド・クレールもロールも同じだろう。なのにお前が取るのは奴らの方だというのか……!
 私は、この二人が騒がなければ今日のところは見逃してやろうと思っていたのだ。特にド・クレールが私に殺されることをも喜んで受け入れるような酔狂な人物であるとわかったせいで。私の憎い相手に復讐するのに、どうして喜ばせなければならぬのだ……。それに、やはり私はの目に入るところで殺人を犯したくはない。たとえ勘付かれても直にその行為を見られるのといないのとでは、心に与える衝撃は天と地ほどの差があるだろう。
 だがは、そうは考えなかった。
 屈辱に身体が震える。そしてその怒りはあの二人にも向かった。
 私のこの惨めな愛を見聞きした二人が一切口外できぬようにしてしまいたい。皮肉な話だ。があの二人を守ろうとした行為が、よけいに私を罪に駆り立てようとしているのだから。
 だが窓から飛び降りられてもたまらぬと、パンジャブの縄を繰ろうとする腕を押さえ込み、が来るのをひたすら待った。
 は急いだらしく、女としてはやけに早いと思われる程度の時間で戻ってきた。
「お待たせしました」
 寝室に飛び込むようにして入ってきた彼女は、ロールがさっきと同じ位置にいることを確認して安堵の色を浮かべる。
 ロールは軽く眉間にしわを寄せ、に問うた。
「そのドレス、どこで仕立てたの?」
「よく知らないんです。こういうものはエリックが全部頼んでいるので……」
 ロールは同じ質問を私にもしたが、私は肩をすくめて答えをかわした。
「結構いいわね」
 取り澄ました様子ではあるが、口元がやや引きつっている。が着ているのはすらりとしたラインのシンプルなドレスだ。バッスルを持っていくのが面倒だったので、それを必要としないものを選んだのだ。ドレスにボリュームがないので、髪を下ろしたままでもさしてちぐはぐな印象は受けない。むしろこのまま装飾のついたピンで軽くとめるだけでも十分だろうと思えた。
「でも流行のデザインじゃないわ」
 蔑んだようにロールは目を細める。
「流行を追ってたら、いくらお金があっても足りなくなるでしょう。自分に似合っているものの方が、ただ流行っているというだけのものよりもわたしは好きよ」
 はあっさりと受け流した。
 べたべたとにひっつき利用していたロールが急に掌を返した態度になったことを不可解に思ったが、そういえばこの女は自分が一番でなければ気が済まないのだということを思い出した。
 このドレスは形こそシンプルだが上等な素材しか使っていないし、の魅力を引き立てるようにデザインしてある。つまり今のはちょっとしたものであるので、半社交界の女として、ライバルになりかねない相手に対する反発が頭をもたげてきたのだろう。私は彼女を半社交界に出す気などないので、無駄な敵愾心だとしか思わないが。
 は私のやや後ろまで来ると、ロールとクロゼット――の中にいるド・クレール――をまっすぐに見つめた。
「夜中にお騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした。急なことですけど、わたしはこれで帰ります。短い間でしたがお世話になりました。特にド・クレールさんには。本当にありがとうございます」
 深々と頭を下げる。世話も何も、こいつらは出費した以上の代価をもらったのだ。頭を下げる必要などないだろうとを見下ろすと、姿勢を戻した彼女は私の言いたいことに気づいたのか、諭すように言った。
「お世話になったのは事実だもの。けじめはつけないと」
 けじめ、けじめか。ならばけじめもつけずに私の元から去っていったことについてはどうするつもりなのだ。そう責めたい気分でいっぱいだったが、いつまでもここでぐずぐずしているよりも、帰ってじっくり向き合う方が良いと判断し、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
 クロゼットから緊張感のない声が響く。
「どうせだったら顔を見てお礼を聞きたかったなぁ。というよりも、僕はもうこの中にいなくてもいいんじゃないか? 早く出してくれよ、ロール。それともまだ鍵はムッシュウが持っているんですか?」
「そうよ」
 とロールは素っ気無く返事をした。
「なら鍵を開けてください、ムッシュウ。彼女にお別れのキスをするくらい、構わないでしょう?」
 お別れのキスだと? 誰がそんなものを許可するものか。
「鍵はこのままもらっていく。予備がなければ扉を壊して脱出するがいい」
「それはちょっとひどいですよ」
 ド・クレールはわざとらしい泣き声をあげた。
「エリック、嫌がらせにしても子供っぽすぎるわ」
 も困ったように眉をひそめる。
「心の狭い男ねぇ。だから女に逃げられるんじゃないの?」
 アヒル女も口を出してきた。
「やかましい」
 それらをすべて一語で切り捨てると、の腕をつかんで歩きだす。
「ではさらばだ」
 最後にそれだけ言うと、を引きずるようにして寝室を出る。
「あっ、待ってエリック! ド・クレールさん、ロールさん、さようなら、本当にありがとう!」
 足を縺れさせながらもは必死でついてくる。侵入用の部屋まで早足で行ったので、私に合わせるために小走りになっていたは息を切らせていた。
 窓を開けると、東の空の端が黒から藍色へと色を変えつつある。わずかながら陽光の気配も感じられ、夜明けが近いと知った。急がなければ。
「エリック、待って。まさかその窓から出るの?」
 が驚愕に目を見開いている。
「そうだ。侵入者が玄関から出入りするはずもなかろう?」
「はしごとか、あるの?」
「ない。地上へはお前を負ぶってゆく」
「えっ……!」
 たじろいだはあとずさりをしようとしたが、私が腕をつかんでいたので下がることはできなかった。
「トランクはお前が持っていろ」
 中身は空だ。かさばるが、重くはない。
「でも!」
「口を閉じていろ。舌を噛むぞ」
 さっさとを背負うと、両腕を私の首に回すようにさせ、その手にトランクを持たせた。行きとは逆に帰りはパンジャブの縄をバルコニーの屋根のでっぱった飾りにひっかけ、慎重に進む。
「そんな細い紐で切れたりしたら……」
 すぐ後ろのが声を震わせた。ひどく緊張しているようで、大きく胸が上下している。背中に温かく柔らかい感触がしたが、堪能できる状況ではなかった。
「特殊な縄だ。私とお前の体重をかけた程度では切れはしない」
 気を散らせないよう意識を足場に集中させ、慎重に庭へ下りる。は地面に足をつけた途端、力が抜けたようにへたりこんだ。窓から飛び降りると啖呵を切ったにしては情けない姿だという嫌味を言いたかったが、あまりにも青い顔をしていたのでやめておいた。
 庭を突っ切り、使用人用通用門を開け、外の世界へ。
 つないでいた馬は無事だったが、鞍もない馬になど乗るのは怖いとがまた駄々をこねだしたので、有無を言わさず押し上げて、明け方近きパリを駆け抜けた。
 ものがはっきり見えるほど明るくなる前にオペラ座に到着し、馬を厩舎に返して地下の屋敷へ戻る。その間、の腕は一瞬たりとも離さなかった。だがもすでに逃げるのは諦めているようで、抵抗らしい抵抗はせず、大人しく私に従っている。
 玄関を通りすぎ、居間に着いてようやく、私は彼女の腕を離した。は初めて見るところのような目で居間を見渡す。
「自分の部屋に行っていろ。私が呼ぶまで出てきてはならん」
「エリック、待っ……」
「言うとおりにするんだ。私はもう二度とお前に出し抜かれたりはしない!」
 彼女には一言も弁解させず、部屋に押し込む。それから私は考えられる限りの場所の鍵の交換、あるいは取り付けをした。玄関はもちろん、拷問部屋は別のものに変える。彼女に預けておいた拷問部屋の鍵は彼女が逃げる際に拷問部屋の中に残されていたが、合い鍵を作られている可能性を考えればそのままにしておくことはできなかった。それにがいなくなったことにばかり意識が向いていたので何も手を打っていなかったが、奈落と拷問部屋とをつなぐ抜け道もどうにかしなくてはならなかった。私にとっては多少不便になるが、塗りつぶすことも考慮にいれておこう。
 それから私から逃れるために、あるいは憎しみのためにが攻撃してくるかもしれない場合に備えて、武器になりそうなものが入っている戸棚や物置も閉鎖した。両開きの扉は麻縄で固定し、ノブ式の扉は板で打ち付ける。手持ちの鍵や錠がなくなったので、きちんとした錠を取り付けるまでの一時的な処置だった。
 数時間経って、作業は終わる。ここまでやれば二度と逃げ出すことなどできないだろう。そうとも、私はもう彼女を放し飼いになどしない。ずっと籠の鳥でいい。愛も彼女も失うくらいならば、せめて片方だけでも残しておきたい。
 休みなく動いていたせいで、一段落ついたと思うとどっと疲れが押し寄せてきた。しばし横になって休みたい。しかしソファで寝てはいけない。呼ぶまで出てくるなとは言ったが、彼女がその言いつけを守るわけがない。さっきも一度、彼女の部屋に目を向けたら、慌てて閉めるところに出くわしたのだ。そんな がソファで寝ている私に気づいたら……。無防備な獲物を襲う手段などいくらでもあるだろう。いっそのこと、彼女の部屋の鍵を外から施錠し、閉じこめることができるようにしてしまおうか。
 だが疲労が頂点に達したので、その作業をするにしても後回しにすることにし、私はのろのろと自室へ戻った。それから鍵をかける。こうしておけばもどうすることもできないだろう。それにしても、疲れた……。
 私は倒れるように寝台に横たわると目を閉じる。意識がなくなるまで時間はかからなかった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 部屋に押し込められたわたしは、まず手探りでランプを探した。なにしろ真っ暗なので明かりをつけなければ歩くこともままならないのだ。
 記憶を頼りにナイトテーブルを探し、その戸棚からマッチを取り出す。エリックはわたしがいない間にこの部屋の整理などはしなかったらしい、マッチはわたしの記憶にある場所にそのままあった。
 ランプはナイトテーブルの上。マッチを擦ってすぐに火がつけられるような状態かを確認する。家出する前にこれの手入れもしていったのだけど、やはりその時のままのようだった。だけど油はあまり入っていない。ガラスの覆いがある蝋燭もあるけれど、エリックから外室許可が出るまで持つだろうか。
 マッチが燃え尽きてしまったので、新しく擦ってランプに火を灯す。そしてため息をついて寝台に腰掛けた。
 一週間ぶりのわたしの部屋。また戻ってこられるとは思わなかった。
 それにしても改めて思うが、ここはなんて暗いのだろう。少しの間だけど窓のある部屋で生活していたから、余計にその暗さが身に染みた。このいざこざが起きる前には散歩をするために普通に外出していて、それでも十分だと思っていたけれど、こうして一日の大半を日光の気配がないところで過ごすというのは、ずいぶんと気が滅入ることだ。
 ふと室内を見渡し、わたしは立ち上がった。埃避けの白い布を家具にかけていたのだが、クロゼットからはそれがはぎ取られ、無造作に床で丸まっている。よく見るとクロゼットの閉じられた扉から、スカートらしい布が一部はみ出ていた。
 きっとエリックが着替えを探した時にやったのだろうと思い至る。何もすることがなかったので、白布を丁寧に畳んで寝台に置いた。それからクロゼットを開けてみると、エリックは適当に手を突っ込んだらしく結構ぐちゃぐちゃになっていた。これも整理すると、わたしは寝台に戻った。
(何しているんだろう、わたし……)
 再びため息をついて、膝を抱えた。
 ことの起こりはエリックの見当はずれの嫉妬だとわたしは思っているけれど、その頸木から逃れるために起こした行動の代償は大きかった。
 エリックがオペラ座の怪人だということを他の人に知られてしまったし、五千フランなんて大金を出させてしまった。
 これに関してはもう弁解の余地がない。わたしが悪いのだ。あの二人……ド・クレールさんとロールさんは本当に沈黙を守ってくれるのだろうか。ド・クレールさんがエリックに懐いてしまったのはすごく驚いたし、あの言葉が本心だとしたら、ド・クレールさんについては安心できるのかもしれない。スキャンダルをこっそり覗き見たいという目的は賛同できないにしてもだ。
(けど、あの人、酔っぱらうと口が軽くなるのよね。ロールさんも同じだけど)
 貴族と高級娼婦という立場柄、あの二人はよくパーティに招待されるのだ。それに参加するのも仕事のようなものなので、行くな、なんて言えないし、そもそもそれを伝える術もない。わたしは当分、ここから出してもらえそうにないのだもの。
 かといって、エリックが二人を始末するのを容認するわけにもいかない。性格に難があるとは思うものの、わたしが二人に助けられたことには変わりない。ド・クレールさんは食事と住むところの提供をしてくれたし、ロールさんは着るものをはじめ、ド・クレールさんがわたしに課そうとした制約を排除してくれたのだから。
 だからわたしにも分かるほど殺気を発していたエリックからあの二人を守れたのはいいにしても……あの二人のどちらかの口からオペラ座の怪人の正体がばれてしまったらと考えると、頭が痛んだ。そんなことになったらさすがに保身に徹している支配人も通報するだろう。なにしろあの人が警察に助けを求めないのは、オペラ座の怪人が人間じゃないなにか――幽霊とか悪魔とか――だと思っているからなのだから。
 捕まるか、捕まる前に逃げるか。逃げられたとしても行く当てがあるわけではないのだろうし、先のことを考えるとひどく気が滅入った。
 それからしばらくして、ランプが油切れで消えかけたので蝋燭にに炎を移し、エリックから呼ばれるのを待った。部屋の外からは作業をしているらしい音が断続的に聞こえてくる。何をしているのかはわからないが、きっと楽しいことではないだろう。だがいつまで待てばいいのだろうか。朝食を食べ損ねたので、お腹がすいてたまらない。せめて水でも飲んでしのごうと、洗面所に向かった。
 顔を洗っていないことも思い出して、お湯と水の蛇口をそれぞれひねり、温度を調節する。だがなんとなく熱気が感じられないので洗面器にたまった水に指を入れてみた。ただの水だった。不思議に思ってお湯の蛇口から流れる水流に指をさっと通らせてみる。
「あれ?」
 本来ならば火傷をしてもおかしくないほど熱いはずなのに、出てくるのは水だったのだ。
 しばらく待っても全然温かくならないので、これはボイラーが動いていないのではないかと憶測をたてる。エリックはこのことに気づいているのだろうか。
 しかしこれでは水も飲めない。ここの水は地下湖の水を汲み上げて、簡易濾過装置でゴミなどを取り除いたものなのだそうだ。だから煮沸しないままの水を飲むと、お腹を壊してしまうこともある。だから飲用水としては、ヤカンでわかしたお湯を冷ましたものか、お湯の蛇口から出るお湯を冷ましたものを使っているのだ。お湯の蛇口はボイラーで熱しているものの、沸騰するまではいかないので、これは代用的なものなのだけど。
 どうしようかと考えて、お腹を壊す覚悟で水を飲むくらいならエリックに説教された方がましだと結論づけ、わたしはそっと扉を開けて様子窺った。
 エリックはキッチンで何かをやっているようだった。さらに身を乗り出したところで、エリックが居間にやってくる。目が合うと、彼は激しい目つきでわたしを睨み付けた。怖くなって、反射的に扉を閉める。そのままわたしは、床に座り込んだ。
 完全に取り付く島がない。
 以前のような関係に戻るのは無理だろうとは思っていたけれど……それどころではないようだ。
 冗談半分、自嘲混じりで、わたしは彼の囲われ者だ、などと考えたことはあるけれど、今後は冗談でなくそうなるのではないだろうか。
 完全に、彼の所有物となるのだ。わたしの意志など、彼はもう意に介さないだろう。
 立ち上がる気力がなくなり、その体勢のまま時間ばかりが過ぎていった。気づくと外から音は途切れていた。
 いつのまに蝋燭も尽きていたのか、部屋の中は真っ暗だった。相変わらずお腹はへっているし、真っ暗な上に静かなので、泣きたくなるほど心細くなる。まだ日中なのか、新しい夜がきたのかもわからない。
 またエリックに凄まれるかと思うと気力が萎えてしまうけれど、もう一人でここにいることに耐えられなくなり、わたしは部屋を出た。
 居間には誰もいなかった。足音を忍ばせてキッチンへ向かう。
(エリックはどこだろう)
 見つからなければそれに越したことはない、などと思いつつ食堂を通り過ぎた途端、なんだかよくわからない匂いが鼻をついた。
(何の臭いだろう……?)
 あまり良い匂いではない。こもった、すえた臭いというか……下水道があふれたときの臭いにも似ている。
 周囲に目を向けると、その原因を見つけた。基本的に食料はキッチンの隣になる食料庫に置いてあるのだが、よく使うものや日持ちのあまりしない食品はキッチンに置いてあるのだ。それらがひどい状態になっている。キャベツは葉の表面が茶色く変色して萎びているし、アプリコットはカビだらけで表面がぶよぶよしていた。このアプリコットは、わたしが家出をする二、三日前に買ったものだと思う。エリックが自分で食べるために生の果物を買うことは滅多にないから。
 他にも空の牛乳瓶が中身も洗わず転がっていたりしていた。これが特にひどい。なんて懐かしくも嫌なあの臭いなのだろう。小学生くらいの時に一度はかぐのではないかと思うが――牛乳をふいてそのままにした時の雑巾の臭いを発しているのだ。
(なんでこんなものをそのままにしているのよ!)
 わたしは腐敗しているところになるべくさわらないよう、腐った食べ物をつかんで、ゴミ箱に入れようとした。だがそっちも中は満杯で、もう何も入れられそうにない。
 わたしはゴミ箱のふたを閉めると、臭気まみれのキッチンを改めて観察した。
 流しには洗い物がそのまま残されている。カップだのグラスだのがほとんど。皿はほんの少しだった。水につけおいていたりしないので、こっちからも臭いが発生しているようだった。レンジの上にある鍋も、使ったまま放置されている。そして床にも調理台にも細かいゴミが散らばっていた。
 エリックは片づけ上手の綺麗好き、というほどではないけれど、ここまでひどく散らかしたことはない。しかしこんな状態のキッチンでちゃんと食事が作れたのだろうか。
(むしろ、適当にしていたからこんな惨状になった……? というよりも、あまり食べなかったから、こんなに色々腐っているんじゃ)
 どうにかしたいけれど、外に出られないのではこのゴミを捨てにいくこともできない。わたしは今ほど切実にビニール袋がほしいと思ったことはなかった。せめてそっちに移すことができたら、臭いは多少ましになっただろうに。このままでは服にも染み着きそうだ。
 せめて洗い物だけでもやろう腕まくりをしかけ、当初の目的を思い出し、わたしはボイラー室に行ってみた。案の定火は消えており、燃料を入れるところには冷えきった灰が残っているだけ。薪などはあったので、故障などではなく手入れをするのを怠っただけのようだ。
(この惨状って、わたしが家出をしたせいなのかしら)
 そうなのだろうとは思うけれど、ここまで無茶苦茶になるとは、正直思っていなかった。
 レンジはともかく、ボイラーはわたしの手には負えないので、なにもせずにキッチンに戻った。薪を入れて燃やせばいいだけではないはずなのだ、あれは。
 できるだけ鼻で呼吸をしないようにして、洗い物をする。六月とはいえ、水は冷たい。地下湖の水なので、温度は一年を通してほぼ変わらないのだ。夏ならば気持ちいいのだけど、この時期は少しお湯を足さないとちょっとつらい。
 洗い物を終えてから調理台の上を片づけ、生ゴミさえなくなれば元通りになるというキッチンでわたしは腕組みをする。何か作りたいけれど、こんな臭いの中で料理をしても味見をする気にもならない。パンと牛乳だけでもあれば、それを持って居間に避難するのだが、どっちもなかった。
(しょうがない、覚悟を決めよう)
 エリックも昨夜はほとんど寝ていないはずだ。ということは、食事もしていないはず。もしかしたら食事よりも睡眠を優先させたのかもしれないけど、そうだとしてもそれはそれ。確かめるくらいはしてもいいだろう。
 わたしはエリックの寝室に向かい、扉をノックした。
「エリック。……あの、エリック。起きてる?」
 返事はないようだ。扉に耳を当てるも、なにも聞こえない。
「寝ているの? 起きているけど返事をしないとかだったら、今はやめてほしいんだけど……。キッチンのことでお願いがあるの。……ねえ、本当に寝てるの?」
 言いながら何度もノックをする。寝ていてもこれでは起きてしまうのではないかと思ったが、わたしに対して怒りが収まらないエリックが無視しているという可能性も捨てられないので、ノックを続けた。
「エリック……?」
 寝ているのだろうか、無視しているのだろうか、それとも……まさか倒れているとか? キッチンの様子からすると、まともに食事をしていない可能性が高いし。
「エリックごめんなさい、開けるからね」
 そっとノブを回して中に入ろうとした。だが、ノブは回らない。
「あれ……」
 鍵がかかっている。
 鍵? 鍵って……。どうして?
(だって、今までそんなことしたことがないじゃない。ここはエリックの家で、誰も侵入できないよう、罠を張り巡らせているでしょう。少し前にはエリック以外の住人まで出入りできないよう、もっとガードを固めことまでして。だけどその代わり、各部屋に取り付けられた鍵はほとんど使われたことがないんだったわよね。――拷問部屋以外。だって、家の中は安全なんだもの)
 わたしはエリックの部屋の扉を見つめた。
(ねえ、エリック。こうして鍵をかけたってことは、つまりあなたにとってわたしは見張っていなければならないというだけではなく、信用もできないものになったということ? わたしは……あなたの敵だと思われているの?)




もう一回続きます!



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