……うるさい。
 なんなんだ、ひどく頭に響く。
 疲れているんだ。休ませてくれ。
 やめろ……。なぜ邪魔をするんだ。
 いい加減にしてくれ。
 私には安息など与えられないということなのか?


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 頭を殴られている夢を見ていたようだった。
 重い瞼をあげると、自分の寝室の天井が目に入ってくる。
 私はどれくらい眠っていたのだろう。時間の感覚がすっかり麻痺してしまったようだ。
 少なくとも、体力が回復した感覚はない。むしろ横たわっているのに身体が重く感じられ、指先を動かすことすら億劫に思えた。
 瞼を閉じる。
 眠るには妙に頭が冴えているような感じがするが、目を開けている気力もない。ただ体調不良の獣が巣に籠もっているように、じっとしているようなものだった。
 と、どん、という衝撃音がした。
 思わずがばりと起きあがる。扉が強い力で叩かれているのだ。それは何度も続き、壊されるのではないのではないかとすら思えたほどだ。
 さすがに調子が悪い、などと言っているような状況ではなくなり、私は寝台を降りた。意識ははっきりしてきたものの、身体は連日の酷使状態もあってふらついてしまう。だがそれよりも信じられない思いで頭がいっぱいだった。
(まさか本当にが私を殺そうとしているというのか?)
 ノックなどという可愛いものではない。そもそもこの音の激しさからすると拳で叩いているのでもないだろう。扉がもしも生き物だったら、とっくに殴り殺されているのではないだろうかという勢いだった。
 なにで叩いているのかは知る由もないが、うかつに開けたら私も殴り倒されてしまいそうだ。激しい喧嘩をすることになるかもしれないとは思ったが、まさか女であると殴りあいをするかもしれないはめになるとは。とんだ誤算だった。
 私は扉に身を寄せて、向こうの気配を窺った。
 また扉が叩かれる。その衝撃で肌がぴりぴりとした。だがの声が聞こえるようなことはなく、彼女が一体どんな状態でいるのか、まるで想像がつかなかった。
 しばらく観察していると、連打の合間に休憩時間を取っているような間が空くことに気がついた。それで次の間を待って、こちらからも扉を叩いてみた。
 すると打撃音がやんだ。
「エリック? エリック! 起きてるのよね!?」
 扉一枚を隔ててが叫んできた。
 起きていなければ叩き返したりしないだろう。そんな判断もできないほど、はどうかしてしまったのだろうか。
 とりあえず起きている、という返事代わりにもう一度扉を叩いてやる。すると今度は手で叩いているような軽い音に変わった。
「ああ良かった。あんまり返事がないから倒れているのかと思ったのよ。起こしてごめんなさい。でもちょっと、お願いがあるの。出てきてくれないかしら」
 親の敵のように寝室の扉を力いっぱい殴りつけていたにしては、彼女の声は安堵に満ちている。
 どういうことなのだろう、これは。
 疑問は尽きないがこんな状況で寝ていられるわけもなく、私は寝室を出る決意をした。しかしあの声が演技であり、出ていった瞬間に攻撃を受けるやもしれぬことも考慮して対策を練る。まさかにパンジャブの縄を投げるわけにもいかない。うまく傷をつけぬよう、捕獲しなければ。
 私はしばし考えを巡らせ、手順を整えた。そして解錠しようとしたところで仮面をつけていないことに気づく。確か外さないまま寝てしまったということを思い出して寝台に戻ると、枕の下に紛れたそれを発見した。きちんと取り付け、ついでに乱れた鬘もなでつけてからようやく鍵を開けた。
 ノブをひねり、扉の陰になるように身を隠して思い切り引く。
 が襲いかかってきてもこれならば扉が盾になるし、彼女程度の身体能力ではすぐに次の手を打てるとも思えなかったからだ。が一歩でも私の寝室に踏み入ったら武器をもぎとり、腕をひねりあげるのだ。の暴れ方次第では筋を痛めたり肩が外れかねないが、そうならないようにできるに越したことはない。彼女が無傷でいられるかどうかは、彼女次第だ。
 しかし何も起こらなかった。
「エリック?」
 確認をするような、訝しげな声。はその場に立ったまま、動かない。
「入ってもいいの?」
 何なのだ? 私を打ちのめしたいのではないのか?
 そっと顔を出してみると、洗濯板を片手にしたが立っていた。肩が軽く上下しているのは、それを振り回していたからだろう。
「なんだってそんなものを持っているんだ」
「他に思い切り叩いても壊れそうにないものがなかったんだもの。最悪、扉を壊さないといけないと思ったし……」
 ばつが悪そうに彼女は洗濯板を抱えた。
 この様子では攻撃を仕掛けてくることはないだろう。しかし、本当に扉自体を壊すつもりだったのか……。確かに武器になりそうなものは軒並み使えないよう仕舞い込んだが、刃物や先の尖ったものが中心なのだった。洗濯板が武器になるのであれば、厚い本だって十分鈍器になる。……図書室を閉鎖するべきだろうか。
 いつまでも扉の後ろにいるのも格好がつかないので、前に出た。扉の枠を境に私たちは対峙する。それから被害の状況を確認した。
「ああ、扉がぼこぼこじゃないか」
 あれだけ叩かれたのだから当然だろうが、がいた側の扉はもののみごとに傷だらけになっている。洗濯板の角が当たったのだろう、かなりへこんでいるところが何カ所もあった。
「最初は普通にノックをしたのだけど、何度やっても返事がなかったの。だからもっと大きな音を出さないといけないと思って」
 以前の私なら、こういった彼女の突拍子もない行動に驚き呆れただろうが、怒りはしなかっただろう。しかし今の私はどんな些細なものであっても、彼女の反発を押さえなければならなければならなかった。によけいな希望を持たせてはならない。彼女を愛するが故に、そしてうかつに信用したばかりに、私は彼女に自由を許した。だがそれは失敗だったということを嫌というほど学んだのだ。
「それで、私の言いつけも守らず勝手に部屋の外へ出て、私の寝込みを襲おうとしたのはどういう訳だ?」
「こんな騒音を出して寝込みを襲えるわけがないでしょう。気づかれて逃げられて、それで終わりじゃない」
「揚げ足を取るな、理由を言え。その前に、その洗濯板を床に下ろすんだ」
 私は腕を組んで命令した。は一瞬洗濯板に目を落とすと、腰を屈めて床に置く。再び背を伸ばしたはきっと私を見つめ、不機嫌そうに眉をつりあげる。
「わたし、お腹が空いたの」
「……な?」
 思わず呆けた声が漏れてしまった。
「もう昼近くよ。あなたの言いつけを守らなかったのは悪いと思ったけれど、いつまで待っても呼ばれないし。背に腹は代えられなくなったから、怒られるの覚悟で部屋から出たわ。でもあなたはいなくなっていた」
  は拗ねたように言う。
 まあ、確かに夜中に叩き起こしてそれからなんやかんやあった後、食事も与えず部屋に追いやったのだ。腹が減るのは当然のことだろう。それはこちらの落ち度だと思う。思うが……こんなに扉をぼこぼこにしなければいけないようなことか、これは。
「仕方がないから自分で何か作って食べようと思ってキッチンにいったらひどいことになっていたし。エリック、あなた、ちゃんと食事はしていたの?」
「気が向いた時には」
 お前がいなくて気もそぞろで、食欲などなかったのだ。ただ気力と体力を維持するためだけに何かしらを口にしていた。それとて、まともな食事とはほど遠かったが。だが今はこんなことを面と向かって言うのが悔しかった。
「その気が向いた時というのは、一日に何回のことなの?」
「答える必要はない」
 責めるような口調で言われたことに苛だって、にべもなく答える。はぐっと唇をかんだ。
「そんなことを言うためにわざわざ私をたたき起こしたのか? まあ、食事を用意していなかったのは確かに悪かった。簡単なものになるがすぐに用意しよう」
 さっさとの脇を通りすぎると、彼女は追いすがってきた。
「それはわたしがやるからあなたは休んでいていいわ。起こしてしまって本当にごめんなさい。ただ、あまりにもキッチンの状況がひどかったから、あなたが食事をほとんどしていなくて倒れているんじゃないかと思ったの」
「……」
 さっきもそのようなことを言っていたが……しかし彼女は何を言っているのだ? 私の心配をしてこんな暴挙に及んだというのか?
 まさか、が私を気にかけるはずがない。一刻も早く逃れたいと思っているはずだ。……ああ、そうか。
「もし私が倒れていたらここから逃げ出すことなど簡単なことだからな。家捜しすればいずれ鍵は出てくる。獄卒が動けなければ邪魔もされない。そういうことなんだろう。だが生憎だったな。私はこのようにぴんぴんしている」
 はぴたりと足を止める。
「……なによ、それ。やっばり、そうだったの?」
「なにがそうなんだ?」
 意味がわからず問い返す。 は蒼白な顔になり、スカートを強く握りしめ立ち尽くした。
「わたしがあなたを殺すと思ったんだ。だから部屋だけじゃなくて物置とかにも開かないようにしたんでしょう。鋸だのなんだの、エリックの道具が色々置いてあるものね」
 それが事実だと確信したように彼女は言う。
 は馬鹿ではない。これだけ私がわかりやすい行動をしていれば、その意図に気づくだろう。だから私はよけいなことは言わずただ一言「そうだ」と答えた。
 は嗚咽をこらえるように息を吸った。
「ふざけないでよ。誰があなたに死んでほしいと思っているって? わたしはね、あなたを憎みたくないのよ。あなたが嫌いになれないのよ。……今でも好きなのよ。なのに、どうして殺さないといけないの。そんなに警戒しているのなら、わたしの部屋に外から鍵をかければよかったんだわ。ここはあなたの家だもの。そのあなたがどうして遠慮して他のところに鍵をかけてるの。逆じゃない!」
 泣き声混じりで、だが涙は出ないまま、激高したは身を振り絞るような声を出す。ここまで声を荒げた彼女を見るのは初めてで、しかも聞き捨てならないことを言ってきたものだから、私はかすかな喜びと大いなる不信と心が引き裂かれたように感じた。
「その事ならば私も考慮した。ただお前の部屋に鍵をかけるにしても後回しにしようと思っただけだ。どんなに鍵をかけても私の想像しないやりかたで逃げ出してしまいそうだったからな」
 そして実績があるだけに、私の不安は大げさなものではないと思っている。彼女は床に目を落した。
「わたし、最初はあなたに色々迷惑をかけてしまったこともあるから、おとなしく閉じこめられようと思ったのよ。でも気が変わったわ。あなたが鍵をかけていたから。それってつまり、家の中でまで警戒しているのだということだもの」
 目を上げて、挑戦的に彼女は私を見つめる。
「わたしは今後も閉じこめられようがなにをしようが、どんな手段を使ってでもあなたの包囲を突破してみようと思うの。そりゃあ、難しいことだと思うし、時には果てしなく落ち込むこともあるでしょう。でもめげないから。めげてなんてやらないから。だってこんなの、悔しいもの。ねえエリック、あなた、わたしがド・クレールさんのものになったんだって疑っているんでしょう?」
 その通りだった。だから彼女の口からそのことに関する言葉が出ただけで大変不快だった。口を開いたらどんな罵倒が飛び出てくるか自分でもわからなかったので、固く引き結んで頷くだけにとどめる。
「そんな事実はないわ。でも正直いって、ロールさんが戻ってこなかったらそういう展開になっていたんじゃないかと思う。仮定の話をしても意味はないでしょうけど、もし家出だけじゃなく、浮気するまでに至っていたなら、わたしはもうひどい罪悪感であなたの顔をまともに見ることもできなかったと思うわ。でも何もなかった。あなたに心配も迷惑もかけたことは本当に悪いと思うけれど、やっていないことに対してまでは罪悪感は抱けない」
「白々しい。その場しのぎをしても、確かめさえすればすぐに事実かどうかはわかるんだ」
 初めて男に抱かれた女は、その証に血が流れるという。
 私は彼女に手を出してはいない。結婚の秘跡を授かるまでは、と我慢していたのだ。そしては私と出会う前に恋人がいたことはなかったという。淡泊なところもある娘でもあり、その話をしたのは私と彼女の仲が険悪になる前のこと。だからこのこと自体に嘘はない、と考えていた。
 はふいと視線を逸らした。
「どうぞ。嫌だっていっても、力尽くでこられたらどうせ抵抗しきれるはずがないもの。でもどうせなら、もっとロマンチックな雰囲気でやりたかったわ」
 それからまた私に目線を戻し、半分に眇める。
「でもそれで血が出ても、なんだかんだ言って信じないような気がするけれどね。それができるくらいなら、そもそも監禁するなんて無茶苦茶なこと、していなかったと思うし」
 諦めなのか、開き直りなのか、自棄になったのか。は口元に笑みすら浮かべ始めている。
「何を言っても何をしても疑われ続けるだけなら、結局わたしが疑われ損になるだけじゃない。でもそれはあなたの事情であって、わたしが一から十までそれにつきあう必要はないのよね。あなたの仕掛ける罠を突破するのは大変そうだけど、どうすれば突破できるか考えるのって、絶好の暇つぶしになりそうだわ。そして突破できたらゆっくり散歩して、また帰ってきてあなたに閉じ込められるの。そうよ、それでいいわ」
 わたしは唖然とした。彼女は一体全体、正気なんだろうか。
「戯れ言をいうな。罠を突破してまた戻ってくるって? どこの世界に閉じ込められるために戻ってくる囚人がいるんだ」
 そうだ、彼女は私の囚人なのだ。私以外誰の目にも触れさせない、ただ一人の大事な女だ。
「ここにいるわ」
 は胸を張る。
「もう二度とヘマはしない。仕掛けを突破するなど無理だ」
「そんなの、わからないじゃない。一応言っておくけど、逃げるにあたってわたしはあなたに危害を加えたりしないから。そういうのは本意じゃないもの。わたしはただ、時折外の空気を吸って気分転換したいだけなの。体力的にも、籠もりっぱなしはやっぱりよくないもの。あなたがその時間をくれないというなら、自分でもぎとるだけだわ」
「……そんなに外がいいのか?」
 まったく引く気のなさそうな様子に、私は暗鬱たる気分になった。一週間も地上で華やかな貴族の暮らしを味わってきたのだ。もう彼女はこの地下暮らしに耐えられなくなったのだろう。
 は少し考え込む素振りを見せてから頭を降った。
「ド・クレールさんたちのような暮らしがしたいという意味で聞いているのなら、そんなことはないと思ってるわ。ああいう派手なのって、わたしは苦手。たまになら悪くはないけど、なんだかすごく消耗してしまうんだもの。わたしはもっと落ち着いた生活が好きだわ」
 そして小首を傾げて苦笑する。
「エリックだって、気分転換をしに外に出ることだってあるじゃない。大体夜だけど。あなたですらそういう気分になるのに、わたしがならないわけがないわ。それで、あなたは好きな時にでかけられるのに、わたしは駄目なんてそんなのずるい」
「……ずるい」
「そう、ずるいわ。わたしだって気分転換はしたい」
「散歩か?」
「ええ」
 はしっかりと頷く。
「それで、またどこかの男に声をかけられることになるわけだな」
 イブリーは諦めたようだが、第二第三のイブリーが現れないという確証はない。
 は複雑そうにやや眉を寄せて、思い切ったように口を開く。
「あの、あのね、我ながら馬鹿な質問だと思うのだけど、真面目に聞いているから真面目に答えてほしいのだけど」
「なんだ?」
「あなたがそうやって、遮二無二わたしを閉じ込めようとするのは、あなたがわたしを好きで、誰にも取られたくなくてそうしている、のよね?」
「当然のことを聞くな」
「あ……うん」
 はこそばゆそうに頬を赤らめるが、気を取り直したように背筋を伸ばした。
「それはつまり、エリックはわたしになにかしらの魅力を感じてるってことでしょう? どこが魅力になっているのだか、わたしにはあんまりよくわからないのだけど……」 
「一体何が聞きたいんだ?」
「前提をはっきりさせたいのよ。だから答えて」
 彼女の意図がわからず、私は困惑した。だが質問の答えは明白だ。がきて、私は愛という感情を知った。穏やかさ、安らぎ、生きる喜び、そんなものを私は得られた。
 だから肯定の返事を送った。
「それなら、ねえエリック。そのわたしの魅力というものに引かれる人が他にも出てくるのはむしろ当然なんじゃないの?」
「な……?」
「わたしにはどこといって特別なところはないじゃない。あなたが何を言おうと、わたしの容姿はせいぜい十人並みよ。それもこっちの人たちに比べれば顔も身体もメリハリに乏しいし。すごい才能があるわけでもお金持ちでもない。まあ、ここにいる経緯は特殊だと思うけど、そんなの他の人は知らないだろうし。でも特別な人じゃなければ恋はできないわけじゃないでしょう? そうでなくてもこの国の人って、とりあえず気になったら声をかけてみようって感じの人が結構いるようだし。だからわたし程度でもナンパされたんだと思うわ。アジア系が珍しいということもあるでしょうけど。それで本題に入るんだけど、エリックは自分の恋人が他の誰にも関心を持たれないような『なんの魅力もない女』であっていいの?」
「……」
 開いた口がふさがらなかった。それは……魅力のあるなしでいうのなら、ある方がいいに決まっている……が。
「それはお前にとっても同じだろう。魅力のない男が恋人であるよりは、誰もがうらやむような相手がいいに決まっている」
「ド・クレールさんのような? ダメだわ、あの人、根本的に気が合わないんだもの。少し離れたところであの人がやることを眺める分には面白そうだとは思うんだけどね」
「お前、あいつに影響されていないか?」
 その思考、オペラ座で巻き起こされるスキャンダルをこっそり眺めたいと言っていたあいつと似たり寄ったりじゃないか。
 は乾いた笑い声をあげる。
「ああ、それはあるかも。ド・クレールさんにしろロールさんにしろ、強烈だもんね……」
 その気の抜けた表情に、私も疑いに凝り固まっている自分がひどく滑稽に思えてきた。
 の口調が、かもしだす雰囲気が、以前の彼女と同じに戻っているせいもある。
 彼女はもう私を愛していないといっていた。それが回復したなどと思えるほど楽観視をしてはいないが、ただ好意だけは――共に暮らしてきた者への情だけは、まだあるように思えてきた。
「魅力があるから声をかけられる、か。確かにな。その魅力は私だけが知っていればいいことだとは思うが、もし魅力のある者が目の前をよぎって行っても誰も何の反応をしないとしたら、それはそれで腹がたつな」
 その目は節穴かと思うだろう。
 そうでしょう、とは満足げに微笑む。
「だが、男が声をかけてくるのはどうしようもなくとも、それでお前が心を揺さぶられない保証はないし、お前が拒否しても浚っていく者がでてくるかもしれない」
 の答えは明白だった。
「あなたがわたしの心をしっかり捕らえているのなら、何を言われても揺さぶられることなんてないし、もし浚われたとしても、あなたなら見つけだしてくれるでしょう?」
「心を……捕らえる……?」
 しかしそれは、私にとっては身体を捕らえる以上に難しいことだった。女性にそこまで愛されることなど、私にできるわけがない
 は眼差しを和らげる。
「少なくとも、以前のわたしはちゃんと捕まっていたわ。でなければ婚約なんてしていないもの。エリック、わたしはあなたとやりなおしたい。でも、すべてあなたの言いなりになることはできない。閉じこめたいのならそうしていい。でもわたしは全力で抵抗するから。そしてちゃんとあなたのところに戻ってきて、あなたの心配が杞憂だって、何度でも思い知らせてあげるわ」
 どこまでも真っ直ぐな目で、彼女は言った。
「思い……知らされるのか」
 私は顔を覆った。
「そうよ、そしていつか、疑って悪かったって、言わせてみせるから」
 はいたずらめかして舌を出した。
「私とやり直したいって?」
「ええ。すぐにでなくてもいいわ。あなたもそういう気分になってくれたら嬉しい」
「私をまだ……愛しているのか?」
「あなたが好きよ。でも愛しているといえるものではないものになってしまったの。だってあなたのしたことはとても理不尽だったもの。だからそういうことをしたあなたのことはあまり良く思ってはいないわ。でも、多少のことは時間が解決してくれるでしょうし、一度や二度喧嘩しても、仲直りすることはできると思うの」
 自分に言い聞かせるように、ゆっくりとは言葉をつむぐ。
「そうか……」
 ひたすらにせっぱ詰まっていた感情がふいにゆるむ。にいいように操られているのかもしれないという疑いがまだ残っているものの、気分は悪くなかった。
「少し、考えさせてくれ。考えても監禁を続けるという結論を出すかもしれないが」
「いいわ。そしたらわたしは自分が言ったことを実行に移すだけだから」
 にっこりと笑うと、は背伸びをした。
「ああ、言いたいこと全部言ったらすっきりしちゃった。さてと、いい加減本気でお腹が減ったから、何か作ろうっと。エリック、できれば生ゴミを処分してもらえると助かるんだけど。満杯だし、臭いが結構ひどいのよ」
「ん……? ああ……」
 そんなにひどかったのか。細かいことにまで気を回している余裕などなかったから気づかなかった。
「それからお湯がでないの。ボイラーの火が消えちゃってて」
「……わかった。点けておく」
 いつしか自分たちが以前のようなやりとりをしていることに気がつく。あえてそうしているのかもしれないが、この感じはやはり心地良かった。
 結局、今回の件が大きくなってしまったのは、私が意固地すぎたことにも一因があったのだろう。その結果として私は彼女の愛と幾ばくかの金を失い、部外者に正体を知られてしまった。
 だが愛はいつか――それほど遠くないうちに――戻るだろうし、正体を知られたこともどうにかして繕えるだろう。そんな気がした。
、食事がすんだら、お前は拷問部屋の片づけをするんだ」
「え、ああ、うん。……あそこ、なにもしなかったの?」
 はばつの悪そうな顔になる。
「そんな余裕などなかったんだ。それに散らかしたのはお前なのだから、自分で片づけるんだ。私は見張っている。また逃げぬようにな」
 そう口にはしたものの、もう私は が逃げ出すのではないかとは本気で心配はしていなかった。
「はい……」
 はがっくりと肩を落とす。
「後のことについては、おいおい決めよう」
「わかったわ」
 これで話は終わった。
 それからキッチンに向かって歩き出す。生ゴミを捨て、ボイラーに火をつけるというひどく所帯じみたことをするために。彼女に刃物を持たせるのはまだためらわれるので、料理も私がすることになるのだろう。
 もくっつくようにすぐ後ろをついてきた。
 私の指先が彼女の腕をかする。
 そっと腕をたどって手首に触れると、は私の手を握ってきた。私もそれをしっかりと握りしめる。
 温かい。
 ああ、やっと彼女が帰ってきたのだ。




なんか煮え切らない感じですが、修羅場編はこれで一応完結です。
婚約までしていたのに、三歩進んで四歩下がったみたいだ……。
まあ、おいおいちゃんと仲直りしていくと思いますので、これに懲りずに読んでいただけると嬉しいです。



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