〜修羅場が終わって約三十分後〜

 ブリキのゴミ箱を担いで私は地上へ向かっていた。
 目的地はオペラ座のゴミ集積所だ。紙類ならば暖炉やボイラーで燃やすこともあるが、それ以外のものはここに捨てにいっている。木は森の中に隠せというが、ゴミはゴミの中に隠すのが一番簡単な方法だ。オペラ座のような巨大な建物からはどんな廃棄物が出たっておかしくはない。地下にひっそりと暮らす住人が多少風変わりなものを出したとしても怪しまれることはないだろう。
 から苦言を受けて溜まりに溜まっていた生ゴミを処分し終え、足早に我が家へと向かう。頭に浮かぶのはもちろん、彼女のことだけだった。
 家出から戻ってきたのだ。そこには非常な満足があった。
 しかし完全に元通りになったわけではない。の愛は私からは失われたままだ。それに、私が彼女を閉じこめても必ず逃げ出してやる宣言もされてしまっている。先が思いやられた。
 私は頭を振って、ともすれば暗くなりがちな思考を追い払おうとした。
 まあいい。ひとまず帰って食事を作ってしまわねばなるまい。空腹を訴えていた彼女だったが、まずこの臭いをどうにかしてほしいと言われたので、先にゴミを捨てに行くことになったのだ。全部入りきらなかったので、食後にもう一度行く必要があるだろう。とにかく急がなければ。
(それにしても、いつのまにあんなに溜まってしまったのか。まったく気がつかなかった。自分にとってどうでもよいものとなってしまった事柄はこうも見過ごされてしまうものなのか……)
 などと考えながら階段を下りていると、ふと足が止まった。小さいが、人の話し声がする。下の方からだ。
(下……。ナーディルたちか?)
 そういえば、今は昼時だったのだ。つまり、恒例と化した情報交換会のために、彼らが来ているのだろう。熱心なことだ。しかしすっかり失念していた。
(もう集まる必要などないのだがな)
 ベルナールには指示しておきたいことが幾つかあるが、今すぐでなくていいし、ナーディルには用はない。したり顔で指図されるのにはうんざりしているくらいなのだ。
 しかし彼らに会わないで済ますにはいささか状況が悪かった。この先は一本道なので、回避ができないのだ。だが彼らの前に姿を現したら、ナーディルに捕まってああだこうだ言われるのは目に見えている。オペラ座から通じる道へ廻る手もあるが、あちらの通路は少々狭いので、ブリキのゴミ箱が邪魔になる。そうでなくても早く帰らねば、腹を空かせたが今度はどんなことをしでかすか、想像がつかないだけに恐ろしい。
 どうしようかと動きあぐねていると、私の名を呼ぶナーディルの声が通路に響きわたった。
(あいつめ……!)
 前は家の中にいた状態で聞いたので、私自身の耳にはそれほど大きく聞こえなかったが、こうして外にいる状態ならばあいつがどれだけ気遣いもなしに大声を出しているのかわかるというものだ。この通路はただでさえ音が反響しやすい。空気の流れに乗って地上まで届いているのではないだろうか。
(ああ、あいつは私が何か悪事を働くのではないかとやきもきしているからな。ここに住んでいることだって良く思ってはいない。私のために、ナーディルがわざわざ気をまわすはずもないのだ)
 そうでなくともあいつが大声を出すのは、私に対する牽制も含まれているはずなのだ。一日のうちの一定の時間を特定の場所で過ごすようにするというのは、私のような男には効果的な足かせとなる。それも私が活動する時間とは真逆の昼なのだからな……。正午頃に地下湖の対岸での面会時間を毎日作らなければいけないとなれば、休息時間を夜側に動かさなければなるまい。自分の体調など構っていられなかったので、実際にそうはならなかったものの、もっと長引いていたらいずれそうせざるを得なくなっていただろう。となると、さっさとを迎えに行ったのは正解だったとしか思えない。元々は私と彼女の問題なのだ。部外者が出しゃばっていいことではない。
「おーい、エリック!」
 またナーディルが叫んだ。ああくそ、仕方がない、あいつの口を塞ぐためにもさっさと行って追い払ってしまおう。を取り戻したということも言わねばならないのが癪だが、言わねば今後も通ってくるだろうからな。
 私は足音を忍ばせて階段を下りた。すぐにランプの頼りなげな灯りの中に所在なげにうろつく二人の男のシルエットが見えてくる。
 背格好からどちらがどちらかを見分け、気配を消して背後に近づいた。
 ナーディルがまた叫ぼうとしているのか、大きく口を開けかけた。私はその口を塞ぐために素早く腕を伸ばす。
「!」
 声は音にはならず、闇の中にただわずかな息を漏らすにとどめる。しかしナーディルの動揺は大きく、異変を察したベルナールがランプを掲げてきた。
「……先生!」
 ベルナールが押し殺した叫び声をあげた。
 私は構わず、ナーディルに忠告をする。
「借金取りみたいな真似はやめてくれないかね。怒鳴らずとも聞こえている」
 ナーディルはとっさに身をよじって不審人物を振り払おうともがいたが、私は反対の腕もつかんで動きを封じた。だがすぐに私と気づくや、抵抗するのをやめる。
「静かにできるか?」
 そっと囁くと頷いたので、ナーディルから離れた。
「物騒な真似はやめてくれないか」
 小さいが鋭い声で奴は言う。私は背後にその文句を聞きながら、階段の暗がりに置いたままのゴミ箱を回収しに行った。
 一体どこへ行っていたのだと言いかけていたナーディルは私が手にしているものを見て不愉快そうに口をつむぐ。だがすぐにまた文句が飛び出してきた。
「私たちが来るのはわかっていたのだから、そういう用事はもっと早くに済ませておくか、終わってからにすればいいのに」
「なぜ私がお前たちの行動に合わせねばならんのだ。押し掛けているのはそっちだろう」
 私はにべもなく答える。
 ナーディルはむっとしたように眉をしかめると、腰に手をあてた。
「それが協力している友人に対する態度かい。まったく君は、少しも反省するということをしないんだな。そんなんじゃあさんが戻ってきたところでまた嫌気がさして出ていきかねないぞ!」
「そうかもしれん」
 喜んで帰ってきたというわけではないからな。との様子を思い出して肯定すると、ナーディルは拍子抜けしたように小さく口を開ける。すぐに咳払いをして取り繕い、
「うん、まあ、あまり自棄にはなるなよ。なんだかんだいって彼女と君はそれなりの期間を良好に過ごしてきたのだから、誠意を持って話し合えば――悪い部分についてはお互いに謝るとかしてな――ちゃんと元の鞘に戻れるさ」
 と慰めのような言葉を並び立てる。私はそれに肩をすくめることで答えると、ナーディルはまた大げさな咳払いをした。
「ところで、昨日から今朝にかけての報告だが――」
「いらん」
「は?」
「もう必要はない」
 ナーディルは困惑したように眉を寄せ、どういうことだと尋ねてきた。
「そのままの意味だ。もう必要ない。だからお前たちは今後、こうして毎日ここに来る必要もない」
 簡潔に答えると、せっぱ詰まったような様子でベルナールが暗闇の中から数歩踏み出してきた。
「それは――お嬢様のことはもう諦められるということでしょうか?」
「なぜそうなる」
 私はむっとしてベルナールを睨みつけた。ベルナールはぎくりとして一歩後退する。
 どいつもこいつも……なぜ私一人では解決できると思わないだろう。ああ、その原因がこの顔に由来していることくらいわかっているさ。たとえ性格が最悪であろうとも、ド・クレールと私とでは勝負にならないとでも思っているのだろう。
 私は二人を睥睨しながら重々しく告げた。
は帰ってきた。だから必要ないのだ。わかったか」
 反応は顕著だった。二人は一斉にしゃべりだす。
「帰ってきたって、いつ!?」
「本当ですか、先生。仲直りされたんですね!」
「大きな声を出すな!」
 声量は抑えているが鋭さのある声で一喝すると、二人はぴたりと口をつむぐ。歓喜の表情を浮かべるベルナールと疑い深そうな顔のナーディルの視線が私に集中した。
 ナーディルはやや腰をかがめ、口元に手を当てて内緒話をするような姿勢になった。
「しかし私は昨日、日が落ちてから真夜中近くまでド・クレール邸を見張っていたが、誰も出入りしなかったぞ。ああ、使用人なんかは別だが。君が昼間に動くとも思えないし……。まさか、忍び込んで浚ったわけではないだろうな?」
 さて、どこまで本当のことを話すか。私は瞬時に判断を下し、淡々と答える。
「忍び込みはしたが、浚ったわけではない。お前たちの言った通り、確かにあの男は妙な奴だった。夜中に侵入してきた私を見て、死に神が来たと嬉しそうにしていた」
「そいつは本当に変わり者だ」
 ナーディルは呆れたように言った。それから続きを促すような目で私を見る。
「あとは多少のやりとりがあって、は家に帰ってくることになったのさ。疑うのならばド・クレール邸に行ってみるがいい。もしも私がを浚ったというのならば、屋敷の様子に異変があるだろう。警察を呼ぼうと呼ぶまいと関係なくな」
「……おいおい、本当なのかい?」
 ナーディルは頭に手をあてる。担がれていると思っているのか、その目は懐疑的だった。
 私は皮肉気な笑みを口の片端に浮かべる。
「ここで言い争う気はない。それよりも自分の目で確かめた方が早くないかね。アンリ・ド・クレールという男は来る者は拒まず、去る者は追わない性質なのだろう。抵抗らしい抵抗など何もしなかったんだ。執着するほどの相手に巡り会っていないともいえるがな。だが、そんなことは私には関係ない」
「円満に解決したのでしたら、ようございました」
 静かに話を聞いていたベルナールが思わずといったように呟く。話がうますぎる、とナーディルは異を唱えた。
「多少の迷惑料は払ったさ。まったく何事もなかったわけではないよ。だがまあ、人間誰しも叩けば埃が出てくるものだからね、大事にしないで済むならそうする、それだけのことだ」
「そう……か」
 納得したように、ナーディルは顎に指を当ててうなずいた。
「そういうことだ。ではな。こっちは昼食がまだなんでね。も待たせている。長話をしている余裕はないんだ」
 私はナーディルたちから離れてさっさと歩きだした。ゴミ箱を小舟に乗せ、櫂を手に取る。
「あ、おいエリック!」
 慌てたようにナーディルが叫んだ。
「なんだ」
 嘘はつかぬが本当のことなど逐一話すつもりもなかった。いい感じに二人が――特にナーディルが――安心できるであろう情報を渡せたと思ったのだが、まだ足りぬのか。
 何を言われようと、が待っているという口実を盾に振り切ろうと思っていた私だったが、ナーディルの次の発言に踏み出しかけていた足が思わず止まる。
「おい、まさかと思うが……。さっきの話ぶりではド・クレールと直接会ったんだな。……正体がばれたのか?」
 その声には心底からの心配があふれていた、と思う。私はとっさに答えることができなかった。それでもなんともないという様子を保とうと、櫂を握る手に力を込める。
「気付かないでいられるかね。あいつは定期会員なんだ。オペラ座の女たちと親しくできる立場で、ゴシップも大好きときている。ファントムの話を聞いたことがないわけがない」
「なのに、手をださなかったのか。君が!?」
が殺すなと懇願したからだ。殺すなら帰らんとな。大事なのは彼女が帰ってくることではないかね?」
「それはそうだが……」
 驚いた表情のナーディルの顔が、ふいに泣きそうなものに変わる。
「そうか……。良かった。本当に良かった。いや、正体が知られたのは良いことではないが、一体どうなることかと本当に心配だったんだ。君も一応恋敵だった男を目の前にして不快だっただろうが、流血騒ぎを起こさず解決できたことは、さんもちゃんと評価してくれていると思うぞ」
 途中から本当に感極まって涙がでてきたようで、奴はハンカチを取り出すと目をぬぐった。暗闇で目立たなくしているが、どうもベルナールも似たり寄ったりの状況らしい。心配してくれる相手がいるというのは本来ならば喜ばしいことなのだろうが、この二人がこれほど驚き、また喜んでいるのは、私に協力してとの復縁を取り持つ、などとは言っていても、本当に彼女が帰ってくるとは思っていなかったから、だと勘ぐってしまうのは、やはり私が疑い深いからだろうか。
「もう行く。しばらく二人でじっくり話し合いたい。だから当分こないでくれ。ああ、ベルナールは別だ。いつもの仕事はこなすように」
 できるだけ命令口調にならないように言うと、ナーディルは顔をくしゃくしゃにしながらも笑みを浮かべて頷いた。
「そうしよう。エリック、彼女の家出中のことで君にとって不愉快なことや納得のいかないこともあるだろう。だけどしばらくはあまりきついことはいうなよ? 鷹揚に、優しく接してやれば彼女だって自分の悪かったことについて反省するだろう」
「そうするつもりだ」
 さっさと戻るために当たり障りのない返事をして、私は小舟に乗り込んだ。今度は引き留められず、男二人が見守る中、私は対岸に渡る。
 船を下り、ちらりと背後を振り返れば、まだぽつんとしたランプの灯りの中、ナーディルもベルナールもその場に残っていた。
(まさかと思うが、が顔を出すのを待っているのか?)
 そしてはっと気づく。がこの扉の向こうで待機しているのではないかということに。
 きっとナーディルたちはこっちに降りてくるときに例のベルを押したに違いないのだ。運悪く入れ違っていたようで、ゴミ捨て場に行っていた私には聞こえなかったが、家の中にいるには聞こえているはず。おまけにナーディルが私の名を呼んで騒ぎまくった。――逃げる気満々の彼女はすぐ外に自分を保護してくれそうな相手がいることに気づいたことだろう。私が出入りする一瞬の隙に助けを求める声をあげれば、ナーディルは彼女の味方になるに違いない。
(今からでも別の入り口に行くか?)
 大回りになるが、拷問部屋に通じる道をゆけばがナーディルに助けを求める機会を封じることはできる。しかしもう鍵を開けて中へ入るだけという時になって引き返すのは不自然だ。だが……。
(一瞬のことだしな)
 たとえ彼女が大声をあげたところで、船がない以上ナーディルがすぐこちらへ来ることはできない。ならば本当はまだ仲直りをしたと言い切れる状況になっていないと知られたところで、あいつには結局どうすることもできないのだから、騒ぎたければ騒がせておけばいいのだ。
 それでもいきなり彼女が飛び出してこないよう、細心の注意を払って開錠した。扉を開けるとすぐに廊下を見渡す。はいないようだった、とほっとしたのもつかの間、彼女が扉から死角になるあたりに何をするでもなく立っていることに気がつく。
 私と目が合うと、彼女はその場から動かずにお帰りなさいと言った。
 ただ頷くことで返事とした私は、がどう反応するのか、ほんのわずかな動きも見逃さないようにした。
「カーンさんたちが来ているのね」
 静かに、ただの雑談をしているような口調で彼女は言った。
「そうだ。だがお前には関係がないことだ」
 私は中に入ると素早くごみ箱も引き入れたが、さすがにこの無骨な円筒形をしたブリキの家庭用品は、嵩張ってしまって扉をすりぬけるように引き入れることができないのだった。少しの間だが、ほぼ扉がが全開になってしまった。
 彼女が走り出しても押さえられるように警戒はしていたが、しかし彼女はただ身体の向きをわずかに変えて、外に――ナーディルたちがいる方向に向けて一礼しただけだった。
 しっかりと鍵をかけると私はの腕をとった。
「なぜだ?」
「なぜって、何が?」
 痛そうに顔をしかめたので、強くつかみすぎたかと私は手の力を少し緩めた。
「あれほど逃げ出してやると大口を叩いていたではないか。絶好の機会だったはずだ。お前が騒げばあの二人はお前を助けようと動いただろう」
 なのに彼女がとった行動は、私のその場限りの言い逃れを肯定するようなこと、ナーディルたちを安心させるようなものだったのだ。さっさとドアを閉めたので、あの二人に見えたかどうかは定かではないが……。
 は困惑したように眉を寄せる。
「わたし、今朝帰ってきたばかりだわ。今すぐ逃げ出す必要なんてないじゃない。それにあの二人を頼るのは違うと思うの。だってわたしたちの問題でしょう?」
 ……何だって? 今朝帰ってきたばかりだから今は逃げない? なら明日以降に行動を開始するということか? それとも退屈したら、ということか?
(ああ、そういえば暇つぶしにはもってこい、とか言っていたな。まさか本当にそれだけのために逃げようというのか?)
 訳がわからずにとっさに反応できないでいると、エリック痛いわ、と言って彼女はやんわりと私の手をほどいた。
「ゴミ箱、持っていくね」
 そう言うとはブリキの入れ物を抱えてさっさと奥へと行ってしまった。
(女の考えることはわからない)
 取り残された私はただ呆然と突っ立つのだった。




えー、彼女の反応は下手に出てるとかじゃなく、今のエリックはまだ刺激してはいけないと思っているだけです…



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