朝食兼昼食となった簡単な食事を終えると、気だるい沈黙がわたしたちの間を流れていった。居間で向かい合わせで座るも、こうして改まってしまうと何を話せばいいのかわからなくなってしまう。ド・クレールさんのところでの話などしてもエリックは不愉快になるだけだろうし……とだんだん居たたまれなくなり、わたしはこの場から逃げ出したくなってしまった。勢いに任せてエリックの寝室を襲った時とは大違いだ。

「あ、はい」
 ふいにエリックが呼びかけてくる。その声音は淡々としており、怒っている様子は窺えなかったけれど、色々と後ろめたいことがないわけではない身としては思わず構えてしまうのだった。
「食後の休息はもう十分だろう。始めようか」
 すっと立ち上がると、わたしの返事も待たずに彼は歩き出す。
「あ、待って」
 慌てて後を追うと、エリックはちらりとこちらを振り返ってきた。
 無言のまま部屋を横切り、向かうは例の拷問部屋。これからここを片づけなければならないのだ。
 エリックはポケットを探ると鍵を取り出して開ける。照明スイッチも入れたので、一気に明るくなった。 
「うわ……」
 思わず声がもれる。
 眩い光の中、目に入ったのは散乱した木箱や樽だ。わたしが出ていく時に崩した覚えはないのだが、これはバランスが悪くて勝手に崩れてしまったのだろうか。それともエリックが崩したのだろうか。
「これを片づけなくてはならないのね」
 積み上げてあったものが全部下に落ちていたので、上り下りをしなくて良い分だけ楽かもしれないが、一部は落下の衝撃で壊れてしまっている。どうしよう、これ。もともと特に使っていなかった空の木箱だと思っていたけど、いつか何かに使うつもりで取っておいたものなのだろうか。結構壊れているものもあるけれど、直さなければならないだろうか。しかし文字通り木っ端微塵になってしまった部分も一部あるようで、そういうのはさすがにどうしようもない気がする。
 エリックはむっつりとした表情で腕を組む。
「では始めるんだ。木箱や樽は居間に運べ。それから床を掃いて手が届く範囲まででいいから鏡を磨くように」
「元の場所に戻すのでなくて居間でいいの?」
 中身がないとはいえ、木箱というのはそれなりの重さがある。気遣ってくれているのだろうかと彼を見上げると、エリックは皮肉気に口元を歪めた。
「片づけるのが面倒だったのでずいぶんため込んでいたが、良い機会だから処分しようと思う。木箱も樽も解体すれば薪に使うことができるから、そうするつもりだ」
「あ……そうなの」
 別にわたしを気遣っての行動ではなかったようだ。少し肩透かしを食らったような気になったが、エリックはわたしのことをまだ許してくれたわけではないのだから、それも当然だろうと思った。落胆しなかったわけではない。けれど、落ち込む権利は今のわたしにはないだろう。
「わかった。じゃあ、始めます」
 わたしは袖を軽く引き上げると、早速仕事に取りかかろうとした。しかし肩をエリックにつかまれて引き留められる。
「エリック?」
「それから一つ、言っておく」
「……何?」
 思い詰めたような顔に押し殺したような声。思わず緊張してしまい、わたしの声も自然と囁くようなものになった。
「この上にある出口は、早晩のうちに塞ぐつもりだ。わかったな」
 わたしは反射的に上を見上げる。奈落からつながっている拷問部屋の出口。わたしが家出をした場所を。
 目印にしたガウンの帯はもうないので見分けなどつかないだろうがと視線をさ迷わせたのだが、意外にすぐに場所がわかってしまいなんとなく拍子抜けしてしまった。
(……指紋がいっぱいついてる)
 それを見た途端、ここから脱出するためにしたことを昨日のことのように思い出してしまった。
(出入り口を探すのに必死で拳で位置を調べまくったっけ。照明が暑くてひどく汗をかいて……。その汗ばんだ手であちこり触りまくったから、あんな風に手の跡がたくさん残ってしまったのね。特に出入り口のあたりは押し上げるために苦労したから、ガラスの曇りが目立ってるわ……。なんだかすごく恥ずかしい)
「逃げようとしても無駄だ。同じ手は二度と通用しない。余計な悪あがきなどせず大人しくしていることだ。いいな」
 ひたすら上を見上げていたので、そんな風に思ったのだろう。エリックはきつく言い含めるように告げてきたが、もちろんわたしは二度とあそこから逃げるつもりなどなかった。
「塞いでしまったらあなたが少し不便になるように思うけれど……そうね、塞いでしまった方がいいかもしれない」
 そうすれば、少なくとも知らずにエリックの蟻地獄に引っかかる人が出てくることはないだろう。それはわたしにとって安心できる要素だった。彼はここをたまに近道として使っていたので、封鎖してしまうのなら大回りをしなくてはならなくなるだろうが、どうしようもなく不便であるのなら、新しい道を造ればいいのだし。
 そのときにも何かしらの罠とか装置とかをつけるのではないかと思うが、それはぜひとも明確な意志を持ってここに侵入しようとしている人だけを対象にするようにしてもらいたいものだ。うっかり迷い込んだ人が命に関わるような目に遭うのはさすがにひどすぎると思う。かといって侵入者相手なら、手荒なことをしていいというわけではないけれど……。うーむ、バランスが難しいところね。
「そんな殊勝なことを言うのは、私を油断させようとしてか? それならば無意味なことだぞ。私はもうお前相手であってでも油断などするつもりはないからな」
 エリックは警戒するように目を細めた。さすがにこの言い草にはかちんときたので、わたしはエリックを見上げて反論する。
「ここから逃げようなんて思ってないわよ。すっごく大変だったもの、頼まれたってまたやろうなんて思えないわ。わたしはただ、上にいっぱい付いている手の跡が気になっていただけよ。あんなにべたべた指紋がついてみっともないったら。でもわたしの身長じゃ届かないからどうしようかと思っていただけ。そういうわけでエリック、わたし、あれを拭き取りたいんだけど、梯子を使ってもいいかしら。ダメならあなた、やってくれない?」 
 エリックは呆気に取られたように小さく口を開けるも、ややあって深々とため息をついた。
「どうせならもう少し別のことを気にしてくれないかね、
 なんだか疲れたように彼は肩を落とした。

 大変だろうと予想していた拷問部屋の片づけは、実際にはさほど大変ではなく、順調に進んだ。
 わたしのやることなど、木箱を一つ一つ抱えて運ぶだけ。その距離だって十メートルもない。
 一方エリックはそんなわたしが運んだ木箱から釘を抜いてバラバラの板切れにするという作業をしていた。さすがに慣れている様子で手早いけれど、運ぶ速度と比べればどうしても時間がかかってしまう。だからわたしは五箱も運んでしまえば、エリックの作業が追いつくまでしばらく待たなければならなかった。
 そういうわけでわたしは黙ってエリックが作業する様子を眺めることにした。何か話した方が作業の単調さを紛らわせることができるのではないかと思ったが、邪魔をしてはいけないという気持ちと、エリックを不愉快にさせてしまうのではないかという恐れから、口が重くなってしまう。時折、まとまった板を燃料室に運んだりしたが、それ以外の時のわたしの目はただエリックを追っていた。
 板と板は釘でしっかりと固定されているようなのだが、エリックが釘抜きを差し込むとさして力を込めているように見えないのに、たいした抵抗もなく分解されていく。慣れとか、こつとかがあるのだろうが、その流れ作業のような手つきに、わたしは目を奪われた。
 そういえば、わたしはエリックが何か作業をしているところを見るのがとても好きだったのだ。器用な彼は何をするにしても様になる。動きには優美さの中にも鋭さがあって、見ていて飽きることはない。彼が行うのならタマネギの微塵切りだって一流のパフォーマンスに見えてしまうほど。
 それに、そう……エリックにはとても不思議なところがある。
 わたしは彼がまた一箱解体したところを見計らって腕に手を伸ばした。細かい木屑や埃で白っぽくなっていたので、ちょっと払った方がいいと思ったのだ。こういうときこそ汚れてもいいようなガウンでも着ておけばいいのに、昨晩着ていたらしきテイル・コートのまま作業をしているので余計に目立つ。ちなみに、どうして昨晩のものだとわかったのかというと、あちこちに皺が寄っているからだ。
 しかしわたしの手が彼の腕に届く前に、エリックは空いている手でこちらの手首をつかむ。
「なんだ……?」
 警戒感も露わに、彼は目を眇めた。わたしがまたエリックを襲おうとしたと思われたのだろうか。いや、特にわたしはエリックのことを攻撃しようとしたことはないのだけど、洗濯板でエリックの部屋の扉をボコボコにしてしまったので、エリックのこともそのままぶちのめそうとしたと思われていても仕方がないだろう。今更だが、あれはちょっとやりすぎた。
「あの、埃を……」
「……ああ」
 エリックは自分の袖口に目を落とすと、わたしの手首を離して自分で汚れをはたき落とした。 
「エリックって、細い割に力があるのよね。わたしのことを背負って二階から降りたりもしたし、今だってすごく簡単そうに釘抜きしているし。前から不思議に思っていたの、どこからそんな力が出てくるのかって」
 体格は細いというよりもガリガリだ。身長差はずいぶんあるのに、もしかしたらエリックとわたしの体重差はあまりないのではないかとすら思える。女としてはちょっと複雑だが、もしもそうならわたしにだってエリックがやれるような力仕事ができてもおかしくはないはずだ。しかし生憎彼ほど重いものを持てた試しはない。
 エリックは何を言うのかと思ったら、と呟くとうっすらと笑みを浮かべた。
「ああ、それは私にとっても長年の疑問なのだよ。殊更鍛えているわけではないのに、ずいぶんとよく動くからな。だが自分を解剖して調べるわけにもいかない。だからその謎は解けることはないだろう」
 そうか、エリック自身も疑問に思っていたのか。ところでわたしのこの手をどうしよう。埃を払おうとしたのはただの口実で、本当はエリックに触れてみたくなっただけなのだ。
 わたしは思い切って確認してみる。
「腕に触ってもいい?」
 エリックは一瞬目を見開いて固まった。しかしむっつりと頷き、了承してくれる。
 わたしはそっと手を伸ばしてみる。力を込めたらエリックが不安がるような気がしたので、掌を置くような感じにした。滑らかな黒絹の袖、その下にあるシャツの擦れる感覚。そしてその下にあるエリックの腕。それは本当に細くて固く、まるで木の枝に触っているような感じだった。何度か腕を組んだりしたことはあるので初めて触れたわけではない。だけど触れる度にいつも思うのだ。文字通りのこの細腕で、エリックは一人で人生を切り開いてきたのだと。それはどれだけ大変なことだったのだろうかと――。
 エリックはふいと顔を背けて呟く。
「触り心地のいいものではないだろう。気が済んだのなら離してくれ」
 彼の手が感情を抑えるように握りしめられる。
「ごめんなさい。ありがとう」
 わたしは手を離してエリックを見上げた。
 エリックは他人に接触されることを嫌う。それだけではなく接触できるくらい近い距離にいられることも好まない。今までのわたしはすいぶんと特別扱いされていたのだ。当たり前のように彼の近くにいたせいで、こんな基本的なことも忘れかけていた。しかし腕を触らせてくれたのだから、わたしたちの間の精神的距離は悲観するほど広がっていないのだろう、と思いたい。
 そのままエリックの顔を眺める。彼をまともに見つめるのも久しぶりだった。肌は年齢のせいもあるだろうがくすみがちで、あまり寝ていなかったのか目の下には隈ができていた。顔の右半分を覆う白い仮面。その下に隠されている崩れた皮膚。でもこれがエリックなのだ。一週間の地上生活で立派な人達というものに何人も会ったけれど、そのせいでエリックの容貌に嫌悪するようなことにはなっていないらしい。そのことに気づいて安堵した。
 わたしの視線に何か言いたげにしていたエリックは、そろりと手を持ち上げた。
「私も触っていいか?」
「え? えっと……」
 思わず言い淀むと、エリックは嫌ならいいと目を反らした。
「違うの、嫌なんじゃなくて、ちょっと驚いて……。あの、どうぞ」
 言ってわたしは腕を差し出した。エリックがわたしの二の腕付近に掌を近づけていたのでそうしたのだが、我ながら間の抜けた行動だったと次の瞬間気が付いた。
 エリックは少しためらったが、わたしがしたのと同様、ただ掌を乗せるようにした。ただそれだけなのに、彼の手が触れたと思った瞬間、背筋がぞくりとした。
 ただ触れただけだ。なのに、どうしてこんな……。素肌が出ている手そのものを触られた時よりも動悸が激しい。
 顔が熱い。真っ赤になっているのではないだろうか。
 しかしエリックが指を広げて二の腕全体をつかみ、何かを確かめるかのように軽く力を入れて揉んできたので、わたしは我に返る。
、お前少し」
「言わないで」
 間髪入れずにその先の発言を封じると、エリックはかすかに眉を寄せた。
 互いに腹の内を探るように見つめ合う。
 先に口を開いたのはわたしの方だった。
「……自分でもわかってるから、改めて言われるとすごくへこむから……言わないで」
 こんな風に言っては認めたも同然なのだが、恥を忍んで告げたことでエリックは色々悟ったようだった。何も言わなかったがわたしの全身を検分するように上から下まで眺めてくる。その視線の意味は明白だった。
 そう……。気づきたくはなかったが、気づいていた。
 わたしは、太ったのだ。
(でも無理はないのよ。だってずっと閉じこめられていてろくに歩くこともしてなかったんだもの。それでも気分が塞いでいたからあまり食欲はなくてあまり食べてなかったからまだ良かったけど……)
 清々しい外気と明るい日光は塞いだ気分とは関係なしにわたしの食欲を元に戻してしまったのだ。しかもお世話になった先は貴族のお屋敷だ。外出といえばほぼ馬車なので運動量に関しては全然増えなかった上に出される料理は凝ったものが多かった。その分カロリーも高そうなものだったし、食事の時間以外でもなんだかんだと菓子が運ばれてくる。食べるのも食べないのも自由なのだが、目の前にあるのでついつい摘んでしまって、ふと気が付いたらコルセットがきつくなっていたのだ。実は今着ているドレスの袖もちょっとぱつぱつになりかかっているように思う。袖が膨らんでいるデザインのものなら誤魔化せただろうが、これはぴったりした形をしているので嫌でも実感してしまう。
「変わるにしたって、こういう変わり方はしたくなかった……」
 心からの嘆きが口から漏れ出た。
 エリックにも気づかれてしまったのだ、今日から本腰を入れてダイエットをしないと。ああ、でもその必要はあまりないだろうか。食生活は元に戻るのだから……。あとは意識的に運動するしかないだろう。当分外へは行けないだろうから、部屋で腹筋するとか。
 家出をしたのは、結果的に悪いことばかりではなかったと思っている。エリックと向き合う気力がすこしは戻ってきたし、改めて彼のどこが好きだったかを思い出すことができた。だがこの余分な脂肪だけはいただけない。
 せめてどうしてお菓子を食べるのとやめなかったのかと己を責めていると、エリックはふにふにとまたわたしの腕を握ってきた。なんだかその動きがくすぐったく、わたしは身をよじる。
「そこまでひどいものでもないだろう。気にしないことだ」
 本気なのか慰めなのかわからないが、ひどくまじめな顔つきで言いながらやはりふにふにふにふにと……。
(あれ? もしかしてエリックって、ぽっちゃり体型が好きだったりするの?)
 よく考えてみれば、彼がわたしを好きなのはわたしが彼の好みに一致していたからというわけではないはずだ。わたしが彼を好きになったので容貌や体型など気にしなくなったように、彼も好みのタイプであるかどうかは別として、わたしのことを愛してくれるようになったのだと思っている。
 だが彼の本来の好みがもしぽっちゃり好きであったなら……。
(わたし、ダイエットしない方がいいのかな)
 しかし自分としては今の体重のままでいるのは受け入れがたい。
 家出前とは別の、女としてある意味で切実な問題に直面し、わたしは頭を抱えたい思いに駆られるのだった。






運動しなくて筋肉落ちる→カロリー高いものをよく食べる、の流れで太らないわけはないと思った。(家出を伴うような喧嘩の後にしてはそこを問題にしている時じゃないような気もするけど)
といっても本人が現代日本人感覚で太ったと思っているだけで、おそらくこの時代的な感覚からすればもっと太った方がよくないか?と思われているような気がする。ドレスのボリュームがあるので、あんまり細いとドレスに着られているように見えるんじゃないかと…。「100年前のパリの夜」(マール社)という当時の女優さんたちがいっぱい載ってる本を見ても、当時の美人は皆むっちりだなと思いましたし。
あ、といっても、パッと見でカノジョがドレスに着られているという印象は持たれません。その辺はエリックがそう見えないように視覚補正したデザインにしているということで…(←何でもエリック任せかいって感じですが/汗)



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