公演終了後、舞台裏のバレリーナ共同控え室にわたくしは向かった。有力な後援者や定期会員たちと挨拶を交わし、ひとしきり話をする。こういった顔つなぎを行うのもわたくしの仕事のようなものだった。
「珍しい方がいらっしゃるのね」
 中へ入ってすぐ、一際大勢が集まっている一角があることに気づいた。その中心にいる人物を見て、思わず口に出してしまう。近くにいた群舞の母親が、自分が話しかけられたと思ったのか、訳知り顔で答えた。
「そうなんですのよ。ド・クレール氏はジェルソミーナ嬢がお気に入りでしたけど、やっぱり別れたんですわ。そう話していましたもの」
 そして声を潜めて囁いてくる。その響きには期待が混じっていた。
「きっと歌姫はしばらくこりごりだと思っていらっしゃるのね。だから滅多に来ないバレリーナ控え室にいらっしゃったんだわ」
 彼女の視線を追う。ド・クレール氏の隣にひっついて膝に乗りかからんばかり勢いで気を引いているのは彼女の娘だった。彼を囲むようにしているライバルたちがいなければ、実際に乗っていたところだろう。
 有力者の恋人に選ばれれば一気に道は開かれる。それが一時的なものであっても構わないのだ。別れるまでに引き出せるだけのものを引き出せばいいのだから。打算的なのはお互い様、こんなことはゲームのようなものなのだ。本気になったら負けだ。
「きっとそうなのでしょうね。そういえばこのところ、ジェルソミーナはあの方のボックス席に向かって笑いかけなくなったもの」
 母親は勢い込んで頷く。
「ええ、そうです。お気の毒なド・クレール様。でもあんな高慢ちきな鳥ガラ相手では安らぐことなんてないんでしょうから、次はもっと陽気で優しい娘を選べばいいと思いますわ」
 自分の娘を選べばいいのにと匂わせる。心の中ではどうかしら、と思ったものの、適当に話を合わせた。あの若者は高慢な女の方が好みだったと記憶している。なんといっても高慢で有名なロール嬢とは何度も切れたり寄りを戻したりを繰り返している間柄なのだから。けれどわざわざそれを指摘することもないだろう。
「わたくし、あの方に挨拶をしてきますので、これで失礼します」
 母親に目礼をしてその場を離れる。丁度その時、どっとした笑いがわきおこった。愉快そうに肩を揺らしていた氏の目がふいにこちらに向けられる。彼は無造作に立ち上がると、さっと歩み寄ってきた。
「やあ、お久しぶりです、マダム・ジリー」
 にこやかに手を差し出してきたので、わたくしも握手をするべく腕を伸ばした。
「ご無沙汰しておりました、ムッシュウ・ド・クレール。お元気そうでなによりです」
 それから彼はバレリーナたちの踊りの出来について二、三コメントした。彼は踊り子の身体ばかり見ている多くの男とは違い、きちんと見る目を持っている人だ。だからけっして嫌いではないのだが、それでも気に入りの娘ができたら実力をそっちのけにして上位の役つきにさせようとする。男性のさがというものかしらね。
 一通り挨拶が済むと、わたくしはその場を離れた。他にも言葉を交わさないといけない相手が大勢いる。顔には笑みを絶やさず、当たり障りがないだけの中身のない話をしていると、ふと聞きなれた言葉が耳に入ってきた。
 オペラ座の怪人が……。
 オペラ座の怪人って……。
 オペラ座の怪人は……。
 どうやら話題は『彼』についてのことになったようだ。ファントムの話は定期的に話題になる。どうやらド・クレール氏が最近の噂について踊り子たちに聞いているようだった。
 といってもこのところ目立った騒動をエリックは起こしていない。なぜなら彼はここ一ヶ月以上、こちらには来ていないようだからだ。子供のいたずらのような出来事を踊り子たちが話しているが、これはエリックの仕業だとはとても考えられないものだった。オペラ座の怪人が起こしたとされる事件の半分は、こういった類のものだ。
「それはさすがに馬鹿馬鹿しいなぁ。もっとちゃんと、オペラ座の怪人の仕業だってわかるような事件を知っている人はいないのかい?」
 皮肉気に口の端を歪めて、ド・クレール氏は笑う。オペラ座の怪人が自分の隠していた菓子を食べてしまったと興奮して語っていた少女はむっつりと顔をしかめた。
「ド・クレールさん、お戯れはほどほどで願いますよ」
 そこへ現れたのは支配人だった。彼は苦笑混じりで若者に握手を求める。
「やあ、支配人お久しぶり。別にふざけているわけじゃないよ」
「当劇場には幽霊などおりませんよ。もっとも、これだけ大きな施設ですから、ちょっとした不思議な出来事のようなものは起こりますがね。それだって見間違いとか勘違いとかですよ。もっともオペラ座の怪人の名前も最近ではすっかり有名になってしまって、本気で信じている者もいるようですが」
 支配人の言にド・クレール氏はいたずら小僧めいた笑みを浮かべる。
「でも五番ボックス席があるじゃないですか。あそこがムッシュウ・ファントムの席なんでしょう?」
 支配人は子供を諭す大人の目で彼を見つめた。
「ええ、そういうことにしてあります。そうしておけば話題にもなりますしね。私共の仕事というのは、話題を作ることがとにかく必要なのです。たわいのない噂話でも、途切れなければなかなかどうして、たいした威力を持ちますよ。要はオペラ座が人々に意識されることが大事なんです」
 さすがにオペラ座の怪人に悩まされるようになって久しい支配人は、この程度の揺さぶりには動じないものだ。もっとも、これくらいでなければオペラ座の支配人など務まらないだろうが。
「あくまでも噂、ということですか」
 ド・クレール氏はなげやりに肩をすくめる。
 支配人は儀礼的な微笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。興ざめさせてしまい申し訳ないと思いますが、定期会員の方は実体のない噂話よりも、もっと実質的なものをお望みかと思いまして、あえて本当のところを話させていただきました」
 若者はおもちゃを取上げられた子供のようにつまらなそうに口をつぐんだが、ややあってふっと息を吐いた。それと同時に気分を切り替えたようで、獲物を狙う猫のような目になる。
「それなら今度僕に五番ボックス席を使わせてください」
「……それは、さすがに困りますなぁ」
 支配人は一瞬、社交的表情を崩してしまう。一方ド・クレール氏は余裕たっぷりだった。
「もちろん料金は規定通り支払いますよ」
「いや、しかし……」
「怪人の存在が噂なら、あの席はただの空席ってことでしょう? それなら観客を入れたっていいわけだ。前から思っていましたが、あの席をずっと開けていては、損をするばかりじゃないですか。開けるならもっと安い席でもいいのでは?」
「確かにそうですが、それでは怪人の噂も安っぽくなってしまうと申しますか。始めたからには続けなければならないことも興業の世界にはございまして……」
 支配人は困惑しながらも踏みとどまっている。それはそうだろう、自分の席を勝手に他人に売ったりしたらオペラ座の怪人はそれはそれは怒るでしょうからね。
 でも支配人にはそうと口にすることはできない。たとえどれだけ噂が広がろうとも、彼が怪人の存在を認めることはできないのだ。
 支配人にできるのは怪人の噂があることを認めることまでだ。彼はエリックの存在を知らない。わたくしの時とは違って、エリックは支配人の前に姿を現していないのだ。おかげで彼はまだオペラ座の怪人が本物の幽霊なのか否かをはっきりと断定できないでいるらしい。
 わかってしまえばむしろ腹をくくることもできるのだが……とちょっとだけ支配人を気の毒に思いながら、わたくしは二人のやりとりを眺めていた。
「話題がほしいんですよね」
 ド・クレール氏が確認するように支配人に笑いかける。
「ええ……。あるに越したことはありませんね」
「お聞き及びかどうかわかりませんが、僕、またロールと寄りを戻したんですよ。五番ボックス席を使う日には彼女も連れて来ましょう。彼女も最近、ちょっと怪人に興味を持っているところなんです。ついでに、席料は十倍出してもいい。これならいい話題になるのでは?」
 ド・クレール氏は「また」というところに力を込める。本当にまたか、だ。
 それにしてもロール嬢まで怪人に興味を持っているとは驚きだ。彼女はオペラ座よりもイタリア座を好んでいるので、こちらには滅多に来ないのだ。
 しかし通う有名人士が多ければ多いほど劇場としての格も高くなるもの。支配人の脳裏にもそういう打算がよぎったのだろう、しばらく考える格好をして、改めて返答するので時間がほしいと告げた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 支配人は結局、「幽霊に問い合わせをしたが返答がなかった。返事がないのは問題がないことと見なした」という体裁でド・クレール氏に一日だけ席を売ることにしたということだ。新聞などへの前宣伝はなし。しかしその場に居合わせた人々の口から密かに話は広まっていった。
 問題の日は、劇場は大入りになった。しかし観客は舞台そっちのけで二階の五番ボックス席を見ていたのだから、もう笑うしかない。あの日の夜は奇特な趣味の観客がわざわざ十倍の席料を出して――支配人はしっかり取れるものは取ることにしたのだ――自分が見せ物になった、と翌日の新聞に書き立てられることになった。
 その数日後……。
「これは事実なのかね、マダム・ジリー」
 すっかりしわくちゃになった新聞を振りかざしたエリックがわたくしの教官室に現れた。憤激を抑えようとしているようだが、声が怒りに震えている。
「まあ、お久しぶりですムッシュウ。一体何のことですの? 広げてくださらないと、どの内容についてなのかわかりませんわ」
 ここ最近のことで彼をこれほど激怒される内容など、わたくしには一つしか思いつかない。しかし余計なことは言わない方が良さそうだと、わざととぼけた。
 エリックはこれだ、と言って例の件が乗っているページを広げる。
「ああ、これですか。ええ、本当にあったことですよ」
「……支配人め、なんてふざけた真似をするんだ。私のボックス席を勝手に売るなど! しかもこの二人にだと!?」
 エリックは新聞をぐしゃりと握りつぶす。
「ド・クレール氏とロール嬢をご存じなのですか?」
 わたくしは思わず尋ねてしまった。エリックと付き合うのであれば、余計な好奇心は厳禁、そうわかっていたはずなのに。しかし彼の口振りは、個人的にこの二人を知っているものにしか聞こえなかったのだ。
 やっぱりそうなのか……、という思いが頭をかすめた。
 エリックはそれには答えずに咎めるような口調でわたくしに言った。
「マダム、こんな大事なことをどうして知らせてくれなかった」
「無茶をおっしゃらないでください。わたくしは待つだけで、あなたを呼び出せる手段を持っていないのですから。それにあなたはこのところまったく姿を現さなかったですし、これでどうやってお伝えしろというのです」
 わたくしが彼に何か伝言をしたい時には手紙を書くしかないのだ。それをわたくしの部屋の化粧台の引き出しに入れておく。宛先としてFとだけ書いて。そうはいっても、エリックが来なければまったく意味がないことだけれど。
 わたくしは化粧台の引き出しを開けた。そして封がされたままの表書きにFとだけ書かれた封筒を差し出す。
「さすがにあなたの耳にいれておいた方がいいと思って、こうして伝言は残していましたよ」
 やるべきことはやっていたと、わたくしは彼に示す。エリックはむっつりと押黙った。それからしぶしぶと口を開く。
「失礼した、マダム。取り乱してしまったようだ」
「お気になさらず、ムッシュウ」
 わたくしは軽く頷いて受け流した。
「ところでムッシュウ、このことについて本当に知らなかったのですか?」
 さきほどから感じていた疑問を口にすると、エリックは小さく頷く。
「事務室の片隅に置かれていたこの新聞を見るまで知らなかった」
「珍しいですこと、あなたがオペラ座のことで見逃すことがあるなんて。それもこんな大きな話題を」
 なにしろ新聞沙汰になる前から噂になっていたことなのだ。それを知らなかったとなると……。
「このところ姿を見せていなかったのは、わたくしに用がなかったので部屋に寄らなかったわけではなく、オペラ座自体に足を運んでいなかったから、ですか?」
 エリックはこれには首を振る。
「少し前まではオペラ座には来ていた。だがあなたのところへ寄っている時間がなかったんだ。他にやらねばならないことが色々あったものでね。それから最近は……来ていなかった。色々あったものだから」
「お忙しかったのですね」
「まあな」
「ところで、はどうしています? 彼女もこのところ散歩の途中に寄ることがなくなってしまって。わたくしもメグも少し寂しいと思っていたのですよ」
「彼女は散歩の途中でたちの悪い男に声をかけられて、それから地上に行くのが嫌になってしまったのだそうだ。だが元気でやっている」
 急に話題を変えたにも関わらず、エリックは特に表情を変えることもなく応じた。
「元気ならいいわ。そうそう、娘が今度友人達とピクニックに行くそうなんです。良かったらも誘いたいと言っていたのですけど、どうかしら。伝えてくださる?」
「聞くだけは聞いてみよう。だが行くとは言わないだろうな。期待はしないでくれ」
「構いませんわ」
 それからエリックは怒鳴ってすまなかったともう一度言うと、隠し扉から姿を消した。わたくしはたっぷり時間をおいて彼がいなくなったことを確信すると、大きく息を吐く。
 まったく、心臓に悪い。
 わたくしにだってある程度は上流の社交界に伝手があるのだ。ド・クレール氏と支配人のやりとりのあと、わたくしは彼とその愛人たるロール嬢のことを少し調べてみた。といっても、五番ボックスから手を引かせるためではない。そういうことはエリックがするもので、彼がなにも言わないのなら、わたくしが文句を言う筋合いはないと思っている。もっともエリックはこの事件自体を当日が過ぎるまで知らなかったわけだけれど。
 ただわたくしは、五番ボックス席に座ろうなどと考えた無謀な人たちに野次馬的な興味を覚えただけなのだ。そしてその調査は難しいものではなかった。なにしろド・クレール氏もロール嬢もたびたび人々の話題になるような派手な行動をするので、誰かに話を振ればいくらでも入手できたのだから。
 それで……つい最近ロール嬢の”お友達”としてアジア系の娘がいたことを知った。そしてその娘の名がということも。同名の別人という可能性も考えられるだろうが、さきほどのエリックの態度で確信を持った。やはりあののことだったのだ。
 はロール嬢と同じ屋敷に住んでいたということだ。そしてその屋敷というのは、ド・クレール氏の私邸だということだ。エリックから見ればは名うての遊び人の屋敷で暮らしていたということになる。
 なぜそんなことになったのか。この問題が解決したのか、わたくしは知らない。話によればはもうロール嬢とは切れたようなのだが、この話をしてくれた人はと直接会ったわけではないので、のその後についてはわからないということだった。
 エリックに問いただす勇気なんてわたくしにはない。私的なことを根ほり葉ほり聞き出すような間柄ではないのだ。
 は今どうしているのかしら。
 ああ、彼女は元気だというエリックの言葉が真実であればいいのだけど。
 それにド・クレール氏とロール嬢も少し心配だ。エリックをあんなに怒らせてしまって……。報復をされるのではないだろうか。やっかいな相手を敵に回してしまったことを彼らは気づいているのだろうか……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 しかしわたくしの心配は杞憂だったようだ。あの日から二週間ほど経つが、エリックは特に変わった動きを見せなかった。そしてその間、わたくしはナーディル・カーン氏と会うことができ、エリックとが喧嘩をしたことや、そのことでのド・クレール氏とロール嬢の関わりを知った。ずいぶんな騒動があったようだが、とりあえずの決着はついたようなので安堵する。
 そして日曜日の今日、わたくしはブーローニュの森へ娘を連れて出かけた。社交的な要素の大きい競馬が行われるのだ。
 抜けるような青空、初夏のような日差し、さわやかな風。とても気持ちの良い一日になりそうだった。だが本当に気持ちの良い日になるかどうかは、数時間後のレースの結果次第だろう。
 昼前にロンシャンの競馬場に着くと、そこはもう場所取りをする人が集まっていた。早めに着いたのが幸いして、わたくしも決勝点が見える柵からほど近い前側に場所に陣取ることができた。
 普段は賭事はしないけれど、こういう日だけは特別。負けても懐が痛まないだけの金額を賭けるのだ。負けてもお祭りのようなものだから、構わない。勝ったらそうね、夕食を張り込んでみましょうか。
 娘に目を向けると、周囲の興奮に当てられたようで、すでに頬を真っ赤にして目を輝かせている。あまりはしゃぐと明日のレッスンに差支えがするのだけど、と一瞬思ったが、わたくしは思い直した。こんな日に野暮はよしましょう。
 そのうち見知った顔もちらほらと見られるようになり、その度にわたくしは挨拶を送った。聞くともなしに耳に入ってくる会話はさすがに馬一色だ。誰もが自分が馬券を買った馬を熱心に誉めそやし、ライバル馬をこき下ろす。
 今日のレースの人気馬はエトワルフィラントとアルスヴィズの二頭のようだった。
 アルスヴィズは前回のレースで優勝、それ以前にも優秀な成績を残している安定性を買われている。
 一方エトワルフィラントはレースに参加するようになって日は浅いが、血統は良く、騎手が当世一流と言われているデュボワが務めることになっている。そして馬主は高級娼婦のロール嬢だ。馬主自体はレースの勝敗には関係はないが、盛り上がりに一役買っていることは間違いない。ド・クレール氏が彼女に買い与えたのだ。
 と、ふいに女の怒鳴り声が聞こえた。一瞬喧噪が止まるほどのその声に、わたくしも思わず目を向けてしまう。
「何かしら」
 遠目にも派手派手しい衣装を身にまとった女性が男に食って掛かっているようだった。見覚えのあるその女は、
「あの人、エトワルフィラントの馬主よね、ママ」
「ええ……」
 わたくしは頷いた。
 周囲の誰もがわなわなと肩をふるわせるロール嬢を見ている。彼女はランドーから降りずに立っていたので、ここからでもよく見えるのだ。
 ただ、さすがに何を話しているのかまでは聞こえない。さっきの大声は本当に何事かあっての叫びなのだろう。
 ロール嬢を目にしたことで忘れかけていた不安が蘇る。彼女がエリックと関わりを持っているからだろう。目をこらしてよく見れば、ロール嬢のスカートの陰にド・クレール氏の姿も見える。こちらの方は普段と変わらないようだ。ロール嬢の大声に少し辟易しているくらいで。
 しばらくすると、馬券屋が大声でエトワルフィラントの出走取り消しを叫び出す。
 この馬に賭けていた人も賭けていなかった人もどういうことかと馬券屋に詰め寄った。わたくしも知りたかったが、人波に押されて思うように近づけなかった。馬車に戻って群集を避けながら、事情を知ったらしい顔見知りに声をかけて何が起きたのかを教えてもらう。
「騎手が腹痛ですって!?」
「そのようですよ、マダム・ジリー。エトワルフィラントに乗る予定だったデュボワが、先ほどから急な腹痛を訴えて小部屋からでてこないのだそうです」
 定期会員の紳士はにこやかな顔で取りまとめた内容を教えてくれる。
「呆れた。何か悪いものでも食べたのかしら。体調管理を失敗するなんて、一流の騎手のすることではないわ」
 咎めるような口調でメグが言う。
「まったくだよ、メグちゃん。しかしこうなってはレースはもはやアルスヴィズが勝ったも同然だろう。今からでは代わりの騎手なんて見つからないだろうからね。もし見つかったとしても、それはデュボワにはまるで及ばない奴だろうから」
 予測するまでもないが、彼はきっと、アルスヴィズに賭けていたのだろう。ライバル馬の退場を諸手をあげて喜んでいた。さて、わたくしはどうしようかしら。


 それから、レースは波乱の幕引きとなった。
 わたくしの賭けた馬は三着になり、賭けた十数フランは泡と消えてしまった。しかしがっかりしている余裕はなかった。
 それというのもレースが終了した途端、ロール嬢が地団太を踏んで大声でわめきだしたからだ。
 エトワルフィラントが走れなくなってしまったので、仕方なく彼女はアルスヴィズに賭けたようなのだ。ライバルと言われていた馬に賭けなければならないとは、エトワルフィラントの馬主としては屈辱であろう。それでも賭けに勝っていればまだましだったろうに、アルスヴィズはまさかの五着。また保険として賭けた馬も首位争いに加わることなく敗退し、結果、彼女は大きく負けたということだ。
 自分が賭けた馬が負けた時に馬や騎手の文句を言うのはよくあることだが、彼女の場合は違った。
 ロール嬢は、オペラ座の怪人をさっきから罵っていたのだ。
 彼女はオペラ座の怪人が自分に恥をかかせようとしてエトワルフィラントが走れなくなるようにしたのだとか、アルスヴィズにも細工をして遅くなるようにしたのだとかいうことを両手を降りあげてわめいている。ド・クレール氏は耳に指をつっこんで笑っていた。
 彼女の状況を思えばショックなのはわかる。わかるがしかし……。
「さすがにあれは見苦しいわね」
 わたくしが呟くとメグも呆れたように言った。
「本当。それになんだってオペラ座の怪人がわざわざロンシャンまで出張してレースの邪魔をしなくちゃならないのよ。そりゃあ、オペラ座の怪人はあの人たちのやったことには腹を立てているでしょうから、今のあの人の様子を見たら喜ぶかもしれないけど」
 新聞沙汰にまでなったのだ。ここにいる多くの人が例の件を知っている。彼女を遠巻きに眺める人々の顔に浮かぶのは、失笑が多い。彼女同様アルスヴィズに賭けたらしい人々も、さすがにこれには同意できないようだ。
 この中で何人がこれを怪人のボックス席を使った呪いだと思っているのかは知らないが、これでまたオペラ座とその怪人の話が当面話題になるだろう。面倒なことだ。
 それにしても……騎手の腹痛は本当に偶然なのかしら。それとも本当にエリックの仕業? 五番ボックス席を使ったというだけが理由なら、ここまでの報復は大げさのように思える。
 だけど、ロール嬢がしたのはそれだけではない。の世話代と称してエリックから相当額をふんだくったようなのだ。あのエリック相手にそんな大胆なことしたなんて、とその不敵さに驚いたものだが、そういえばその金額とはどのくらいなのだろう。エリックがロール嬢に渡した額と、今日負けた額、どちらが大きいのかしら。
 少し待ってみよう。きっと誰かから話は聞けるはず。だってこんな騒ぎを放っておくなんてパリっ子がすることではないのだもの。
 ああ、たとえこれがエリックの仕業でないとしても、あの人は少しは溜飲を下げたでしょうね。
 晴天の下だというのに、彼の哄笑が聞こえるような気が、した。





騎手の腹痛はしっかりエリックの仕業です。腹下しかなにかを飲み水にでも混ぜたんだと…。
騎手にとっては完全にとばっちりなのですが、ここのエリックはたとえ嫌いな相手の所有物であっても動物に害を与えることはしたくないと考えているので…。
この腹痛は出すもの出したら直る程度のものですが、それでもきついよな…。(あ、だから作中に出てきた『小部屋』って、トイレのことね。マダム相手に話をしてたので、ぼかしてたということにしてください)

ちなみにロールはオペラ座の怪人の風貌を口にして罵っていたけど、オペラ座の怪人を信じている人はこの世ならざる存在なのだから化け物じみた風貌で当たり前だろうと考え、信じていない人はオペラ座の怪人なんて存在しないんだから、賭けに大負けした女がヒステリー起こしてわめいている、という認識でいます。


ついでに、ラストでアンリが笑ってますが、アンリも賭けには負けています。賭けには負けたけど、エリックが自分達に対して行動を起こしたのが楽しかったようです。


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